母里友信 単語

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「母里友信」(もり・ともの1556? ~ 1615?)とは、

「背が高くガッチリした体、剛強で強く、が濃い、勇猛さは人をしのぐ」

と史書に記され、

な「武士」とはなんたるかを生き様で現した剛の者である。

※通称は「母里太兵衛」で、黒田節で逸話をられる際にはこちらが用いられる。

徳川家康徳川秀忠うっかりにより、一時期「毛利兵衛」と名のった(名のらされた)時期がある。

概要

戦国時代の播磨の人で小寺政職旗下の黒田職隆の与曽我一信の子に生まれ、由来は不明ながら黒田職隆の子・黒田孝高黒田官兵衛黒田如水)に仕える際に方の姓で出雲尼子氏に繋がる「里(もり)」を名のった。

初陣を飾った印南野の合戦以降、黒田先手大将栗山利安と共に務めて数々の武功を上げて巻け知らずを誇り、織田信長に叛旗を翻した荒木村重により君・黒田孝高が捕らえられた際は、留守中連著起請文に署名してかわらぬ忠を誓う等、武士として武勇・忠義の両面での様な人物として、黒田孝高豊臣秀吉賤ヶ岳の七本槍に倣って自らの臣の中より選び出した24人「黒田二十四騎」に名を挙げられ、且つその中でも選りすぐりの八人「黒田八騎」にも選ばれる等厚遇され、黒田孝高に従って中国地方四国地方を転戦して九州征伐にて一番を挙げた事から、黒田孝高の豊前中津時に6000石を拝領した。

朝鮮の役にて参加して33もの首級を上げ、関ヶ原の戦いでは義(母里友信の大友宗麟大友義統大友を打ち破る活躍を見せ、戦後黒田長政が豊前中津から筑前に加増された際には、18000石という大名級の知行を拝領した。

※母里友信が挙げた首級76は黒田中の最高記録

性格は、実直で、胆で、一度言った事は言いり続ける頑固なところがあるが、黒田長政に対して裏表のい諫言をするといった放磊落なタイプな武将であったところから、武勇においては双璧とされながらも何かと君・黒田長政の気に障る事を仕出かしていた後藤基次と異なり、君・黒田長政に嫌われる事なく厚遇されたと言われている。

※その他「母里友信」の詳細についてはWikipediaの該当記事exit参照の事。

日本号と黒田節

朝鮮の役の休戦中の頃、京都伏見に滞在していた福島正則の元へ黒田長政の使者として母里友信が使わされる事となった。

として知られた福島正則の相手に同じくで知られた母里友信を選んでおきながらも不安を覚えた黒田長政は、母里友信に対して禁を言い渡した上で送り出したのだったが、案の定、福島正則から宴をっていた。

として知られる母里友信が来訪したとあって福島正則は役も気にせずにを勧めたが、君からの言いつけを守らんとする母里友信がこれを固辞し続けたところ、

飲み干せたならば好きな褒美をとらす

と言って見たり、果てには、に弱い黒田武士抜けばかりの役立たずと酔っ払いにしても空気読めない発言に、自分はおろか中の者まで馬鹿にされたと怒り心頭した母里友信は、直径一尺にも及ぶ朱塗りの盃に注がれたを続けて三杯も飲み干し、その褒美として、正親町天皇から足利義輝織田信長そして豊臣秀吉と渡って福島正則が拝領したレアアイテム日本号」と無双の名を所望した。

全に酔っ払っていた福島正則だったが禁裏に所蔵されていた事もあるレアアイテムとあって出し渋ったところ、母里友信は、

武士に二言は

との言葉にぐうの音も出なくなった福島正則は、諦めて日本号を母里友信に渡したのだった。

母里友信は、日本号を担いで黒田歌の「筑前今様」を吟じながらゆうゆうと帰っていったと言われており、この逸話が後に「黒田節」として謡われる事になった。

※このエピソードにより、「日本号」には「み取り」の別名がついてしまったのだった。

※この物語はフィクションです

黒田節」以外に知られる母里友信のエピソードとして、豊臣政権下で大坂に人質として送られていた黒田孝高黒田長政の妻を護衛していた母里友信は、関ヶ原の戦い勃発に際して人質を確保せんと黒田屋敷を取り囲んだ石田三成の軍勢を前にして、盟友・栗山利安と共に、のうちに屋敷の裏手にを掘って君の妻二人を俵につめて運び出し、大坂湾に浮かぶ黒田へと急ぎ、警備の兵にあふれていた大坂湾でいたずらに時を重ねていたところに、ガラシャ大好きなヤンデレ武将細川忠興の妻・玉子が人質になる事を拒んで臣に自らをつかせて死した際に屋敷に放った火による火事に警備の兵が気をとられるという幸運も重なって事に君の妻達を救い出したというものがある。

しかし、前記の通りこの頃の母里友信は黒田孝高と共に九州で戦っており、一番記録も残る事から、このエピソードフィクションとされている。

日本一高い山

母里友信はとても強情で意地っりで一度言った事は曲げない頑固者だったらしく、江戸までの参勤交代の際に、供の者が富士山下一の高さと褒めたところ、意地っりな母里友信は、

福智山の方が高い

と、自分の所領であるの後背にそびえる山の方が高いと言い出し始めた。

の裏ですぐ近くから見れる福智山と、遠距離から眺めた富士山では地形効果と距離を計算にいれなければ確かに裏手の山の方が高くみえてしまったのだろうと思われるのだが、果てには

どちらが高いか首をかけよう

と母里友信が言い始めた為、一度言った事は絶対に曲げない事を知っている中の者達は、呆れ半分に福智山が高いと折れたらしく、死ぬまで母里友信は富士山よりも高いといい続けたらしい。

※それにしては「信長の野望」での政治は高くないか?鬼小島弥太郎クラスでも良くね?

毛利太兵衛

江戸城の普請に黒田から母里友信(母里太兵衛)が参加した。

その際に徳川家康は、間違えて母里太兵衛の名を「毛利兵衛」と文書に記してしまい、これをに受けた徳川秀忠も、母里太兵衛に太刀を与える際の録に「毛利兵衛」と記してしまった。

尼子氏に連なる姓である「里」を「毛利」と間違えるとはいくら徳川家康徳川秀忠といっても失礼極まると思えたが、まるで西郷隆盛の名に間違えられた西郷永の如く、気にしなかったらしく、何を思ったのかその後しばらく姓を本当に「毛利」にしていたらしい。

黒田家の関羽と張飛

母里友信には、黒田孝高より、

と思い、兄弟一体となって奉せよ

と言われて兄貴と慕い続けて戦場において共に先手大将を務めた栗山利安がいた。

江戸時代となって母里友信が重い病にかかって命が尽きようとしていた時、見舞いに現れた栗山利安に対して母里友信は、

これまではおこがましいと思って口にした事はかったが、御身の恩により人となることができたと感謝している。

と述べると共に栗山利安の手をとり、

閻魔大王の元に行く前にこの言葉を言えてよかった。
舌を抜かれてしまっては、御身に感謝の意を伝えることができなくなる。

と言って栗山利安と共に号泣したと言われており、この臨終の逸話から栗山利安と母里友信は、三国志における関羽張飛の様な関係(母里友信はヒゲキャラだし)だったのではとも推測される。 

関連動画

▼母里友信(母里太兵衛)と言えば黒田節

▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング中国編に武勇1位として登場。

吉川元春宮本武蔵チートで登場。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける母里友信(母里太兵衛)の力一覧。

多くの作品で取(日本号)をいただいちゃうイベントまこと黒田武士」が存在する。天翔記の関ヶ原シナリオプレイすると、大体1ターンみ取るが見られる。ただ、革新が最後で最近はご沙汰気味。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 174(A) 智才 42(C) 政才 80(B) 56 野望 49
将星 戦闘 86 智謀 56 政治 35
烈風 采配 65 戦闘 80 智謀 44 政治 19
世記 采配 71 智謀 39 政治 8 野望 39
蒼天録 統率 72 知略 39 政治 11
下創世 統率 72 知略 36 政治 11 教養 28
革新 統率 71 武勇 90 知略 41 政治 13
統率 71 武勇 90 知略 41 政治 13
創造 統率 68 武勇 83 知略 45 政治 28
大志 統率 66 武勇 86 知略 78 内政 31 外政 34

 

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