白石宗実 単語

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白石宗実(しろいし むねざね 1553~1599)とは、白石領397年の歴史に止め名を刻んだであり、二度の替えに耐えんだ忠臣であり、ちょっと影が薄い伊達の武将である。通称右衛門、若狭など。初名は宗玄。

白石氏の起こり

白石氏は藤原足の14世後裔・刈田経元を祖と称し、に従い後三年の役に出した功を以って州刈田・を与えられ、刈田氏を名乗ったのが始まりである。

のちの世に州合戦が起こり、藤原泰衡へ与した5代刈田秀信は源頼朝の軍に敗れて戦死する。
賊軍として滅亡の危機していた刈田氏であったが、その・秀長が源頼朝へ合していた伊達氏初代・伊達宗に従い奮戦、白石の地を拝領し血脈を繋ぐことに成功する。

ここに白石秀長と姓をめて以降は代々白石氏を名乗り、3代長俊の時代には伊達政依の次男・宗を迎えてその地位を盤石とするなど、長年に渡って白石領を治めていった。

時代はさらに下って天文の乱の頃になると、13代白石宗綱・14代白石宗利はそろって伊達晴宗の麾下に入り、留守景宗などと連絡を密にして戦勝の機運を高めた。
また1546年には伊達稙宗の逆襲によって西山を追われた宗を居白石に迎えている。

乱の終結後には一家格へと昇進し、白石氏はますますの栄を極めた。

宗実の生涯

1553年宗利の長男として生まれる。幼名は老後丸。

1570年当世の伊達伊達輝宗謀反の兆しを見せつつあった先代宗の一を排すべく、奸臣中野宗時を討たんと出に及ぶ。
この時宗利は小梁盛宗らとともに宗時一行の自領通過を黙殺し逃亡を助けてしまう。
宗は激怒したが、両人は赦免を乞いなんとか処罰を免れた。

1575年先の事件もあってか諸の遊歴へ出されていた白石宗実はこの年に帰参し、まもなく督を継いで宗の寄騎となった。

1576年起請文を提出する。相馬表の布を許され、一層の忠勤を誓っている。

1584年駒ヶ峯攻めでは敗軍の殿を勤め、相馬軍の追撃を退けて見事に退却戦を遂する。
同年宗の勇退により伊達政宗相続。ところが一部の臣には政宗の若年を軽んじる傾向が見られた。
これを懸念した宗実は当時9歳であった(のちの心院)を男装させて側仕えとし、中の空気を一変させる。
白石殿ほどの男が自らの子を人質に出されたとあっては政宗様の御時世は確かに違いない、と臣たちは次々に恭順の意を表したという。

この件で政宗の信頼を得た宗実は伊達軍のとして各地に従軍し、抜群の功を立てていくことになる。

1585年名方へ離反した大内定綱を攻め(小手の合戦)、小瀬川方面に布して大内軍を打ち破る。
同年定綱とともに名の後ろを得ていた畠山義継の攻略へと出伊達成実片倉景綱とともにをなして岩を攻め落とす。
義継は居の先を落とされたことで敗勢を悟って降参したが、政宗に許されなかったため、隠居の宗へ取り成しを頼み入れた。
ところが依然厳しい処断を言い渡されたためこれを恨み、宗を謀って殺するに至る(之巣の変事)

同年伊達軍は二本攻めを強行するがあえなく敗退し、その隙に乗じて南連合軍が挙兵する。

1586年人取の合戦。宗実は玉井にあって軍勢はわずか兵500しかしながら戦況が悪化するにつれ荒井・五方面へと転戦し、ついには最前線に躍り出て連合軍とっ向から対峙し闘を繰り広げた。
白石勢は成実決死の突撃に続いて連合軍を何度も押し返し、本事本宮城まで退却させる。
鬼庭良直の討ち死になど被害は甚大であったが、突如佐竹軍が退却したことで九死に一生を得ることができた。

同年畠山勢は交戦不能に陥り相馬義胤へ和仲介を依頼。これを政宗へ取り次ぎ二本無血開城した。

これらの功績により宗実は安達に33郷を賜り、長年治めてきた白石より移り宮森となった。

1588年北方で起こった大崎合戦に伊達軍が敗れると、蘆名義広は実佐竹義重と連携して再び連合軍を組織し、大内定綱を後押しした。
宗実は成実、綱らとともに南の守りを担って伊達軍本隊の到着までしのぎきり、援軍を得たのちには離反した石川の郎党500人を打ち取る功を挙げた。

1589年摺上原の戦いにおいては三番備を担当。人が巻き上げる向かい風が容赦なく叩き付けてくる不利な状況に、一度は敗走しかかるものの向きが変わって以降は立て直し大勝へと繋げた。
同年須賀攻めにおいては八幡崎口の第二についている。

1590年豊臣秀吉州仕置により羽全土に一が発生。葛西大崎定に従事し、宮沢に入って抑えを担うなどして活躍した。

1591年一への関与が疑われた政宗が豊臣政権より岩出山転封を言い渡される。安達宮森収され、蒲生氏郷の所領となってしまった。

同年新領・胆沢に15,000石を賜り水沢となる。

1593年文の役により渡。帰した後も政宗に従い伏見を拠点とする。

1599年病を得て伏見にてす。徳川家康がその死を悼んだという。

宗実には男子がなく、伊達稙宗八男・梁宗清の子を貰い受けて・心院と娶らせ、白石宗直とし跡継ぎに据えた。

宗直は慶弔出羽合戦・白石攻めや和賀忠親の乱、大坂の陣などで功を挙げて養に劣らぬ活躍を続け、伊達名乗りを許されるまでに格を高めていった。
その子孫は登米伊達氏として戊辰戦争まで領地を有している。

墓所は京都府京都市伏見区の宝山寺。享年47。

戒名:徳寺殿西意性密大居士

補足

戦国大戦における白石宗実の概要

が、独眼竜となる者也」

Ver2.0伊達で参戦。伊達足軽スペックが低いものが多いが、彼は武7にして統率は4、で気合持ちと結構優秀。

計略の「撃滅の槍術」は、発動時に武の長さが少し上がり、効果中に自身で敵を撤退させると更に武の長さが上がっていく。効果時間も長く、今川の精鋭計略的な何かである。とりあえず士気溢れ対策として使っておくのも悪くない。

なお「也」という一文字用していたということで、全ての台詞の最後が「なり」になっている。あんまりナリばっかり言ってるのでニコニコではコロ助とか言われている。


信長の野望」(PCシリーズにおける白石宗実の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 68 戦闘 69 智謀 42 政治 52 野望 42
天翔記 戦才 148(A) 智才 88(B) 政才 104(B) 63 野望 59
将星 戦闘 77 智謀 54 政治 50
烈風 采配 53 戦闘 68 智謀 55 政治 44
世記 采配 54 智謀 44 政治 36 野望 43
蒼天録 統率 58 知略 50 政治 39
下創世 統率 60 知略 50 政治 37 教養 37
革新 統率 72 武勇 71 知略 56 政治 42
統率 72 武勇 71 知略 56 政治 42
創造 統率 70 武勇 68 知略 57 政治 46
大志 統率 69 武勇 67 知略 58 内政 46 外政 50

  

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