第21号輸送艦とは、大日本帝國海軍が建造・運用した第一号型輸送艦/一等輸送艦21番艦である。1945年7月15日竣工。8月9日、小水無瀬島付近にて米軍機の大群と交戦し、沈没を避けるため愛媛県津和地島の砂浜に擱座した。
第一号型輸送艦とは、帝国海軍初の一等輸送艦である。特務艦特型とも。正式名称は第一号型輸送艦なのだが、他に分類された艦が無かった事から、艦種名の一等輸送艦とも呼ばれていた。
今まで輸送任務は駆逐艦や水上機母艦、民間から接収した輸送「船」が担っていたが、1942年8月より始まったガダルカナル島争奪戦にて多くの駆逐艦や輸送船を強行輸送の末に失った事により、1943年中期に軍令部から2種類の輸送艦の計画要求が出された。この計画案から誕生したのが一等輸送艦と二等輸送艦だった。
第一号型輸送艦は最初から輸送任務を念頭に置いて設計。生産性を高めるため、丙型海防艦や丁型海防艦に用いられている簡易線図を流用し、ブロック工法と電気溶接を採用して工期を大幅に短縮、およそ1ヶ月程度の工事で完成出来るよう目指している。敵勢力圏内での強行輸送を視野に入れ、12.7cm連装高角砲、25mm対空機銃(艦によって数と位置が変動)、爆雷投下軌道1条、九三式探信儀、九三式水中聴音機、22号水上電探を装備。電探装備に限れば駆逐艦並みもしくはそれ以上の充実が図られた。一等輸送艦は駆逐艦そっくりの見た目をしていたためアメリカ軍から駆逐艦と誤認される事もたびたびあった。
肝心な輸送能力は補給物件260トンを積載可能、浜辺への緊急輸送を可能とする大発4隻を持ち、これらの舟艇は艦尾に設置されたスロープからそのまま海へ発進出来るため洋上停止せずとも補給任務が可能だった。戻って来た舟艇は3基のデリックで回収する。戦況の悪化に伴い後から甲標的、蛟龍、回天、震洋の積載能力も付与されている。機関には松型駆逐艦で採用されているロ号艦本式ボイラー2基を使用。輸送船ではせいぜい10ノット前後しか出なかったが、第一号型輸送艦は最大22ノットの快足を獲得している。
第一号型輸送艦は46隻の建造が予定され実際に竣工したのは半分以下の21隻だった。第21号輸送艦は「最後」に竣工した第一号型であると同時に、1903年から42年間続いた呉海軍工廠が「最後」に完成させた133隻目の艦艇で、戦争中に撃沈された「最後」の特務艦と、何かと最後に縁がある。ちなみに一等輸送艦は過酷な最前線に投入され、短命で終わる事が多い中、第21号は竣工から擱座まで僅か24日と最短(次に短いのは第14号の28日)。
要目は排水量1500トン、全長89m、全幅10.2m、喫水3.6m、出力9500馬力、最大速力22ノット、乗員148名。兵装は40口径12.7cm連装高角砲B1型1門、九六式25mm三連装機銃3基、同連装機銃1基、同単装機銃15基、九三式13mm単装機銃5基、九三式水中探信儀、九三式水中聴音機、爆雷18個、須式75cm探照灯1基。計画時よりも対空兵装が強化されている。
1943年10月に一等輸送艦46隻全てを呉海軍工廠と三菱重工に発注。1944年に策定されたマル戦計画にて予算を捻出し、特務艦特型第2921号一等輸送艦の仮称で建造が決定。
1945年2月27日に呉海軍工廠で起工。しかし建造中の時から前途多難であった。3月19日、米第58任務部隊の艦載機が呉軍港に対して三次に渡る空襲を行い、港内に停泊中の艦艇に大小の損傷が生じる。4月25日に進水式を迎えて、達第64号で第21号輸送艦と命名、5月4日に篠原善助少佐が艤装員長に着任。6月22日には162機のB-29が呉工廠の壊滅を狙って徹底的な爆撃を行い、建造中の伊204と伊352が破壊される被害が発生、7月2日にも第20航空軍所属のB-29爆撃機150機が呉の地上施設と船舶に爆撃を加える。
終戦直前の7月15日に無事竣工。艦長には艤装員長の篠原少佐が着任した。熾烈な空襲により資材や人手が不足したのか、呉で建造された一等輸送艦の殆どは80日(およそ2ヶ月半)以内に起工と竣工を終えているのに対し、本艦の場合は異例の約5ヵ月を要している。第21号輸送艦は呉鎮守府に編入されるとともに連合艦隊第31輸送隊へ部署。所属艦は第19号、第20号、第21号、第115号、第145号、第174号輸送艦の計6隻だった。
第21号輸送艦が竣工した後も呉への空襲は続いた。7月24日、第38任務部隊の艦載機が呉軍港に襲来し、戦艦日向と標的艦摂津が沈没、7月28日の空襲では空母天城、戦艦伊勢、榛名、重巡利根、青葉、軽巡大淀、装甲巡洋艦出雲、伊404などが撃沈ないし転覆させられた。延べ1845機に及ぶ敵機が呉の上空を乱舞する中、幸運にも第21号は恐るべき戦火から無事に生き残った。
灼熱の太陽が甲板を焼き、絶え間ないセミしぐれが廃墟と化した軍港内に鳴り響く。空梅雨だったため長らく呉には雨が降っていなかったものの、沖縄方面から北上してくる台風の影響で8月3日と4日は久々の雨となり、そしてすぐ高気圧によって透き通るような青空が戻ってきた。8月6日、和歌山県田辺港の回天基地所属となる。一等輸送艦には回天6基分の輸送能力があるのだ。
8月9日午前8時、回天4基を田辺へ輸送するべく大津島に向けて呉を出港。この日は風も無く、とてもよく晴れていた。軍港内や広島湾は厳重な機雷封鎖を受けていて思うように動く事が出来ず、江田島と倉橋島の狭い早瀬瀬戸を縫って安芸灘南東へと進み、怒和島と津和地島の間を抜けて周防大島東方に差し掛かる。
出発から3時間後の午前11時、山口県周防大島の小水無瀬島南方にて、伊江島に拠点を置くアメリカ陸軍航空軍第20空軍第318戦闘機群第19戦闘飛行隊所属のP-47Nサンダーボルト戦闘機76機に襲撃される。敵は松山航空隊を無力化するため戦闘機で占められており、松山飛行場を攻撃した後、伊予灘を航行していた第21号輸送艦を発見したのだった。
サンダーボルトは対艦用の爆弾こそ持っていなかったが、代わりに機銃弾やロケット弾を執拗かつ雨のように発射して第21号輸送艦を攻撃。対する第21号輸送艦も回避運動を取りながら対空射撃で応戦する。上空から幾度となく急降下してくる敵機、輸送艦の周囲には機銃の着弾を示す小さな水柱が林立し、艦体からは白煙が立ち昇る。大きな銃爆撃音は周辺の津和地島の住民にも聞こえるほどだった。対空機銃を使うには甲板に身を晒さなければならない。それはつまり容赦のない機銃掃射の中に身を置く事を意味し、多くの乗組員が死傷する原因となっている。先任士官兼航海長の高木美佐男大尉は当時の様子を「艦橋周りは戦死傷者で歩く事も出来ませんでした」と述懐したほど。
損傷で機関が故障した第21号輸送艦は、一時航行不能に陥るも、乗組員の決死の復旧作業のおかげで何とか回復。しかし機銃掃射で発生した火災により弾薬が誘爆。戦闘航行が困難になったため呉へと引き返そうとするが、機銃で滅多打ちにされているうちに火災か発生。浸水被害も発生した事から、呉まで持たないと悟った高木大尉は負傷した篠原艦長代わり、沈没を防ぐため愛媛県の忽那諸島・津和地島の砂浜に艦首から乗り上げて擱座。擱座した後も盛んに対空機銃が火を噴き、敵機が引き揚げていくまで抵抗を続けた。一連の対空戦闘は断片的ながらサンダーボルトのガンカメラに収められており激しい戦いの様子を窺う事が出来る。
沈没こそ避けられた第21号だったが、大きな損傷を負うとともに沢山の死者を出し、重軽傷者は100名以上、中には手足が無い者もいるなど、人員面に壊滅的な被害を出していた。艦内からは弾薬が誘爆しているのか爆発音が何度も聞こえてくる。
そこへ津和地島の住民たちが救護に駆け付け、誘爆で民家への被害が生じたにも関わらず漁船を使って小学校に負傷者を搬送、そこで治療を行い、重傷者は広島や松山の病院に搬送するなど積極的に助けてくれた。しかし治療の甲斐なく乗組員58名が死亡。これで死者は兵科将校4名と乗員63名となった。戦死者は翌日浜辺で火葬。
日付が変わって間もない8月10日深夜、第21号輸送艦は転覆して浅瀬に沈没した。9月15日除籍。ただ、喪失判定が出ていなかったのか、12月1日に横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に指定された模様。残骸は戦後に引き揚げられて解体。
1985年、第21号輸送艦が座礁した浜辺を見下ろす曹洞宗洞源寺の境内に元乗組員と島民有志が慰霊碑を建立。碑文には戦死者の名前と出身地、そして島民の献身的な介抱に対する感謝の言葉が綴られ、かつてこの地にあった出来事を後世に伝え続けている。1988年には戦死者を火葬した浜辺に高木元大尉らが平和の碑を建立。年に1回、島民たちの手で清掃が行われているとか。なお第21号輸送艦が乗り上げた浜辺は現在防波堤になっている。
ちなみに第21号輸送艦を攻撃している様子を収めたガンカメラの映像は元々日本には無く、今治明徳高校矢田分校の元教諭・藤本文昭氏が米国立公文書館を調査して持ち帰ったもの。映像には日時や場所が書かれていなかったが、松山市の愛媛大大学院に通う竹中義顕氏が島の地形や航路、日米双方の記録を調べ上げた結果、第21号輸送艦だと特定された。
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最終更新:2025/12/22(月) 10:00
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