飛鷹(艦これ) 単語

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ナマエハイズモマジャナカッタヒヨウデス

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名前出雲ま…じゃなかった、飛鷹です。航空母艦よ。よろしくね、提督!」

飛鷹(ひよう)とは、大日本帝国海軍の軽空母飛鷹モデルにした艦娘である。CV:大坪由佳

艦これでの概要ですってぇー

空母艦娘の一人であり、陰陽師装束を洋アレンジしたようなブレザーロングスカートといった装で、その出自(後述)からなのか、他の艦娘よりも飾り付けが多くのある出で立ち。これは姉妹艦の隼鷹も同様。
胸元には大きな勾玉が1つあしらわれている。髪型ストレートロング
性格的にはそうなキャラ付けがされているが、ひゃっはぁー!な隼鷹に引っられたのか、ノリの良さそうな面も垣間見える。

巻物状の飛行甲左手に携え、右手には“勅”の文字が浮かんだ言霊を浮かべている(龍驤隼鷹も同様の装備)。赤城加賀といった正規空母組が艦載機矢としているのに対し、こちらの艦載機陰陽師の式神の様に扱われている模様。

ステータスとしては、改造の段階でから装備スロットを4つ備え、軽空母としては搭載力に優れる点が長所。また軽空母の泣き所である耐久力較的高く、防御面も優れている。その代わり燃費は(軽空母の中では)悪いが、南西諸島海域から入手できる可性があり、空母不足に頭を悩ませる提督の強い支えとなる。
ただし、史実を反映して姉妹艦の隼鷹共々低速扱いになっているため、高速艦限定でのルート固定や艦隊全体の回避を下げてしまうというデメリットがある。このため、装甲の薄い駆逐艦軽巡洋艦との編成はあまりお勧めできない(後のアップデートでタービン+艦本式の組み合わせで低速⇒高速に出来るようになったので、艦載機を減らす代わりにルート固定要員として運用出来るようにはなる)

2014年2月26日アップデートで、改装すると立ち絵が変化するように。同じく2014年9月26日には、一部の台詞が変更&追加され、態度が軟化した飛鷹を見ることが出来る。

二次創作では概ね相棒である隼鷹(や彼女の飲み仲間)に振り回される苦労人な役どころが多く、他には二航戦の先輩格(+絵師繋がり)である龍驤行動を共にする作品や、生まれ故郷が神戸川崎所のため、空母仲間では同じ神戸生まれの瑞鶴大鳳と絡む作品も散見される(半公式作品『鶴翼の絆』では瑞鶴ライバル意識を持っている)

さぁ、飛鷹型航空母艦の戦史よ!

飛鷹航空母艦1番艦。文献によっては隼鷹と称される。

元々は日本郵船発注した橿原丸(かしはらまる)級貨客出雲丸として神戸川崎所で1939年11月30日に起工。第660番の仮称が与えられ、建造が進められていた(入手時に自己紹介を間違えるのはこのため)。

本来ならばサンフランシスコ航路向けに投入される予定であり、その規模は当時の日本のあらゆる民間船舶の中で最大となるはずであった。単純なトン数で言えば、現在日本籍のクルーズとも遜色はない(さすがに5万t飛鳥Ⅱべれば小ではあるが)。
また、内の設備や装飾類についても、貨客向けとしては最上グレードの物が採用されている。
……ということで、何事無ければ出雲丸は太平洋航路の女王として君臨するはずだった。

が、日本郵船政府の間で、『戦時には空母への改装を認める代わりに建造費を補助する』という取り決めがなされていたため、姉妹艦の橿原丸共々、建造途中の1940年10月海軍が購入。翌から空母への改装工事が始められた。ちなみに橿原丸は隼鷹へと改装されている。

元々建造前の取り決めで、政府が建造費の8割を負担する事になっていたが、いつの間にか6割に減らされていた。またサンフランシスコ航路は採算に合わない事から建造そのものに難色を示していた日本郵船だったが、軍と政府に押し切られ、渋々建造に着手する。そして一度も航する事出雲丸を海軍に取り上げられた形となり、日本郵船はまさに踏んだり蹴ったりだった。

海軍に引き渡された出雲丸は第1001号艦と名を改め、1941年6月24日に進。翌1942年7月31日工し、飛鷹と命名された。呉鎮守府所属に編入され、第三艦隊第二航空戦隊の一員となる。
8月10日から訓練も兼ねて内地の各所を転々。10月3日佐伯を出撃し、トラック方面へ向かった。

最初から空母として建造されていたわけではないため速力や装甲は正規空母べるとどうしても見劣りしたが、それでも商改装空母としては世界トップレベルの防御力を持つ。これは建造段階で空母への改装も想定した設計がされていたことや、防御面で蒼龍に準ずる性が要されたことによる。
また、搭載力に関しても蒼龍に匹敵していたため、ミッドウェーで4隻の空母を失った日本海軍にとっては重な存在であった。加えて、工当時から二号一電探を備え、式こそ異なる物の島風と同様に高温高圧のタービンを搭載するなど、当時としては先進的な技術を注ぎ込んだ艦艇だった。
しかし、大戦後半において高性化した航空機の運用においては、その低速がネックとなったため、発艦時に使い捨てロケットブースターを用いる等の対応がなされた。
元々全通甲として計画されていたが、大鳳建造の予備実験として煙突一体の艦が採用された。性は良好で、従来の空母を悩ませていた排煙・気流問題を解決に導いた。このため大鳳信濃にも採用されている。

なお、飛鷹飛鷹の1番艦という扱いではあるが、工時期自体は隼鷹の方がかったため、一部では隼鷹の2番艦として扱われることもある。
諸元は排水量24140トン、乗員1187人、艦載機は48機(常用)+5機(予備)の計53機、全長219.32メートル。その巨体さは特設空母でありながら翔鶴に匹敵するものだった。

太平洋戦争においては、隼鷹と共に第二航空戦隊を編成し、その旗艦としてトラックへ進出。ガダルカナル島攻撃へ向かい、1942年10月17日ガダルカナル島爆撃する。
しかし20日、発電機が火災事故に見舞われ機関故障を起こす。そのため南太平洋海戦には直前で不参加となり、トラック修理を受ける事に。その際、旗艦任務は隼鷹に移されている。修理了後、内地へ帰還。

年が変わって1943年は特に戦に参加しておらず、内地の各拠点を転々とした。

同年3月29日トラックにて隼鷹とともに戦艦大和を標的とした急降下爆撃の訓練に従事。4月1日、い号作戦に参加。艦載機ラバウルへと派遣5月17日トラックを出港し横須賀へ入港。北方作戦に備えて待機する。
6月7日駆逐艦有明」「夕暮」に護衛されて横須賀を出港。トラックしたが、中の三宅島付近で潜水艦「トリッガー」(文献によってはスカルピン)の雷撃を受ける。全部で6本の魚雷が伸びてきたが3本は不発および爆発。2本は回避に成功するも、最後の1本が命中、航行不能となる。軽巡五十鈴」に航され、横須賀軍港へ引き返す。9月15日修理了。この修理の際に、可燃物である木製の調度品を出来る限り撤去している。また飛鷹航空隊は僚艦の龍鳳に譲渡されている。

11月1日航空隊を再建。20日、空母龍鳳」とともにを出港。航空機を収容し、輸送任務に従事する。駆逐艦初霜」等に護衛されてマニラシンガポールタラカンパラオトラックなどの各拠点航空機を届ける。カビエンにも艦載機の一部を派遣。年が変わって1944年1月1日からは内地に帰投し、岩国付近を往来する。

1944年5月3日岩国で第652航空隊機を収容。佐伯を出撃し、沖縄を経由して16日にタウイタウイ泊地へ入港。

1944年6月13日、あ号作戦発動によりフィリピンタウイタウイ泊地を出撃。マリア西方へ進出する。新鋭空母大鳳」以下空母9隻と航空機約450機を擁した新生第一機動部隊の一員として、飛鷹マリアナ沖海戦に馳せ参じたのだが・・・。

6月16日、渾作戦に参加していた第1戦隊や第5戦隊と合流。巡洋艦以下の艦に燃料補給を施した。翌17日の午後3時半、補給作業を了し東進。18日、サイパン西方にて索敵機14機を放つ。結果、索敵機の1機が東進中の敵艦上機を発見し、付近に空母が潜んでいる事を掴んだ。続いて第二波の索敵機13機を放ち、午後2時45分から3時40分の間に3群に分かれた敵機動部隊を発見。ただち攻撃に移ろうとした小沢長官だったが、日が迫っており、搭乗員の錬度を鑑みて攻撃は翌日へと持ち越された。

6月19日午前6時30分、事前に放った偵察機が敵機動部隊を発見。「7イ」という仮称が付けられた。第一機動部隊第二航空戦隊の一を担った飛鷹隼鷹とともに、7イ攻撃のため午前8時30分に第一次攻撃隊49機を発艦させる。その直後、敵の別働隊と思われる飛行機が接近、これを迎撃するため飛鷹から山5機、爆戦9機、零戦9機が飛び立ち、第一次攻撃隊とは別の方角へ向かっていった。
9時、新たな敵機動部隊が発見され「15リ」の呼称された。15リ攻撃のため飛鷹から第二次攻撃隊(零戦10機、九九艦爆18機)が発進。
30分後、7イをして飛行していた第一次攻撃隊の攻撃標は、更に現れた敵機動部隊「3リ」に変更される。
やがて第一次攻撃隊は7イがいるとされた地点に到達、米軍の旧式戦艦を確認するも無視して飛行を続ける。その後、敵戦闘機40機の迎撃に遭い、壊滅。
15リ攻撃に向かっていた第二次攻撃隊も、予定地点で敵機動部隊(15リ)を発見できず失敗。ロタグアムに向かったが、着陸寸前に米軍機の襲撃を受けてどが未帰還機となってしまった。

発進させた航空機の多くは戻らず、19日中に虎の子の大鳳翔鶴も撃沈されて本隊は壊滅状態だった。生き残った飛鷹たちは西方へ遁走し、部隊の再編を図ることに。

翌20日の明け、飛鷹ら機動部隊5隻と合流。午前11時から駆逐艦に補給作業がなされた。午後3時ごろ、偵察機から敵機動部隊の接近が報告され、補給は中止。敵哨戒機も現れたため小沢長官は全ての航空機に攻撃命を出す。ついに機動部隊の逆襲が始まった。
航空隊は飛鷹西方から接近。護衛の駆逐艦が対戦闘を始める。全空母の中で航空機の発艦が遅れていた飛鷹は急遽発艦作業を取りやめ、全速力で本隊と合流しようと試みる。同時に対戦闘の号が下される。これが飛鷹にとって初めての対戦闘だった。午後6時、敵の艦爆約20機が上3000メートルより急降下爆撃を仕掛けてくる。飛鷹は回避のため右へ左へと体をよじった。対空砲火によって敵機が1機、2機と煙を噴いて面に墜落する。再び敵機が急降下してきて、飛鷹は左へを切ったが避けきれず艦後方のマストのヤードに触れて爆発。これにより防揮所にいた艦長が負傷、航長や飛行長は戦死してしまう。艦要員を失ったため、一時は若い航士が飛鷹を操艦していたという。
追撃の手は未だ続き、低で6機の雷撃機が接近してきた。飛鷹対空砲火で対抗し、2機を撃墜。3機は対空砲火に驚いたのか遠方で魚雷を投下。容易にかわす事が出来た。最後の1機は対空砲火に恐れず薄してきて、ついに200メートル距離にまで迫ってきた。その間、対空砲が敵機をとらえ撃墜に成功するも、命と引き換えに放った魚雷が右舷機関室に命中。元が商だったため防御力が低く、たちまちい煙が上がり航行不能となってしまった。隼鷹が寄り添い、復旧作業を見守った。

その時点ではまだ沈没する程の損傷ではなかったため長門による航が考えられていた。ところがび寄ってきた潜水艦からの雷撃が致命傷となる。この時は消火ポンプの故障により誘爆を防ぐことが出来なかったと言われており、艦これにおいて中破時に消火ポンプの故障について言及しているのはこの史実に由来する。
弾薬に引火した事により更に火勢が強くなり、もはや手の施しようがかった。そこへついに艦長から総員退艦命が下された。

時に午後7時32分、艦首に向けて沈没。乗員247名が運命をともにした。横井艦長以下約1000名は護衛の「時雨」「早霜」「浜風」「秋霜」「潮」「波」が救出した。11月20日、除籍。

なお、一部で誤解というか曲解されている節があるが、飛鷹となる前には出雲丸だったからと言って、22DDHこといずも型護衛艦1番艦である“いずも”との間には何の関連性もい。では“出雲”はどうだったのかというと、日露戦争にも投入された程の旧式艦だが、1945年7月軍港襲までは健在であり、艦これ実装の可性は0ではなかったりする。

どう?関連静画だって、甘くないでしょ? 私たち、結構やれるんだから!

 

なになに?関連コミュニティ?いいわね~

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