Z43 単語

ゼットヨンジュウサン

5.9千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

Z43とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用した1936B型駆逐艦3番艦である。1944年5月31日工。本艦は大戦中にドイツ海軍が就役させた最後の駆逐艦で、ソ連軍に追われる友軍部隊民間人を守るために艦砲射撃任務に奔走した。1945年5月3日鹵獲を避けるためフレンブルク近郊で自沈。

概要

1936B型とは、開戦前より予定されていたドイツ海軍の戦拡充計画「Z計画」に基づいて建造されるはずだったタイプである。「Z計画」は1945年遂を途に遂行するはずが、予定よりも1939年第二次世界大戦が勃発した事で計画が大きく狂ってしまい、1936B型は5隻のみが起工、就役に至ったのは僅か3隻のみだった。次級の1936Cが建造中止になったため実質本級が大戦最後に就役した駆逐艦となる。その中でZ43は3番に就役したドイツ海軍最後の駆逐艦だが、実はZ43のとなるZ44は完成寸前まで漕ぎ付けており、1944年7月29日イギリス軍の襲を受けて破壊され工事中止になってしまった。

前級1936A型駆逐艦火力強化の的で15cm連装を装備していたが、生産性に難がある事、弾の大化に伴う給弾速度の低下、高い火力も敵軽巡にはあまり通用しない事、重量増加により波性の低下を招いた事から1936B型から従来の12.7cmに戻している。基本的に1936A型の設計を流用しているため体そのものは大差いが、増大する航空機の脅威に合わせて強な対兵装とFuMO 24/25レーダーを装備し、機雷搭載数も16発増加して76発になっているなど小改良が施されている。また工期短縮のため機関ワグナーギヤードタービンに換装、艦内の簡略化も進めた。以前の駆逐艦べて機関の故障自体は少なかったがボイラーチューブの腐食が多く見られたという。

排水量2519トン、全長127m、全幅12m、出7万馬、最大速36.5ノット、乗組員330名。武装は12.7cm単装5基、37mm対機関4基、20mm対機関16基、四連装53.3cm魚雷発射管2基、爆雷投射機4基、機雷76発。

艦歴

赤き津波を堰き止める黒鉄の防波堤

戦前1939年6月28日、デシマーグAG社のブレーメン所に1936B型駆逐艦として発注。ところが第二次世界大戦の勃発で「Z計画」に狂いが生じ、前級1936A型ですら数が足りなくなる事態が発生したため途中で1936A型に設計変更となるが、最終的に1936B型で再発注されるという若干迷走した誕生経緯を持つ。1941年2月17日、デシマーグAG社のブレーメン所に発注1942年5月1日にヤード番号W1029の仮称で起工、1943年9月22日に進し、1944年5月31日工を果たした。艦長にはアーサー・ウェニンガー大尉が着任し、姉妹Z35やZ36が所属する第6駆逐艦戦隊に編入される。

Z43が誕生して間もない1944年6月6日連合軍がノルマンディーに上陸して西部戦線が構築され、6月22日にはソ連軍がバグラチオン作戦を発動して東部戦線が崩壊。一気に戦況が悪化してしまう。崩壊した東部戦線からは敗走するドイツ軍難民ソ連軍の追撃を受けながら本しており、カール・デーニッツ元帥はアウグスト・ティー中将指揮官に据えた第2戦闘グループを編成。生き残っていた重巡リュッツォウ、アドミラル・シェーアアドミラル・ヒッパープリンツ・オイゲンなどの大艦を集めて即席の艦隊を作り、Z43が所属する第6駆逐艦戦隊も第2戦隊グループに加入した。バルトでの慣熟訓練や試験を経て10月17日に運用可と宣言され、いよいよ実戦投入を迎える。敵対するは東より攻め入る津波

11月18日エストニアのサーレマー西部スヴォルベ半島で孤立したドイツ陸軍に向け、ソ連第8軍が12時間に及ぶ準備撃を加えたのち進軍を開始。窮地に陥った陸軍は兵と装備だけでも救助しようと第2戦闘グループ艦砲射撃支援を要請する。これを受けてティー中将重巡部隊派遣し、11月19日アドミラル・シェーアプリンツ・オイゲンZ35、Z36、魚雷艇4隻とともに出撃。11月20日から地上のソ連軍を艦砲射撃を加える。重巡部隊はリュッツォウとプリンツ・オイゲンアドミラル・シェーアとヒッパーの二組に分かれており、Z43は後者に所属。どちらかが補給に戻っている間は片方が撃任務を継続する方法で絶え間ない撃を浴びせ続けた。11月22日弾薬を使い果たしたZ43は一旦ゴーテンハーフェンへ退却して補給を受け、翌日撃任務に再参加している。

地上のドイツ軍はよく奮戦したが、11月23日に防衛線の維持が困難となりフェルディナントシェルナー陸軍が撤退を命。撤兵はダンケルク方式で行われ、第2戦闘グループソ連軍の注意を引いているうちに数の小船舶ドイツ兵を乗せ、後方のゴーテンハーフェンやクールラントまで逐次移送した。思わぬ打撃を受けたソ連軍は沿の17cm台でドイツ艦隊を狙ってきたが合いへ退避する事で射程外から脱出。次にソ連軍は爆撃機の大編隊を送り込んで雷撃と高高度爆撃を仕掛けて来たものの、狭い湾内ながら巧みな回避運動によって全艦傷でやり過ごす。時間を十分に稼いだおかげでドイツ陸軍はゴーテンハーフェンへの脱出に成功、重巡11月24日撃を切り上げたが、Z43ら駆逐艦群はドイツ兵が撤退した後の11月25日まで盛んに撃し続けた。決死の思いで降り注ぐ弾を抜け、スヴォルベ半島の南端へ辿り着いたソ連兵が見たのは、既にもぬけの殻になった土地だった。この活躍により陸軍官は第2戦闘グループに謝意を示す簡単な電文を送った他、グデーリアン上級大将がデーニッツ元帥に対して感謝電報を送られ、ゴーテンハーフェン停泊中にも兵士から感謝の言葉が投げかけられたという。

ソルベマの戦闘を終えるにあたり、海軍々に払ってくれた勇猛かつ自己犠牲的支援に関し、海軍全員に対して、私自身及び東部戦線の全陸軍将兵よりの感謝の言葉を述べたい。
圧倒的に優勢な敵に対する今度の陸協同作戦は、今後さらに海軍陸軍の間の同志を固く結び付けるものと確信する―――。」                陸軍大将グデーリアン


Z43、Z35、Z36、大魚雷艇T23、T28で構成された第6駆逐艦戦隊エストニア海岸と既存の機雷原との間に新たな機雷原を設置するよう命じられる。しかしの悪化により実行日が12月11日深夜に変更となる。それぞれの駆逐艦は68個の機雷を搭載して12月9日にゴーテンハーフェンを出港、戦隊フリードリッヒ・ケーテ大佐が乗艦する旗艦Z35に率いられ、T23の護衛を受けながら航行。ところが的地に近づくにつれ次第にが悪化し始め、荒れ狂う波と強が航行を困難なものにし、Z35やZ36とはぐれてしまう。そして悲劇は起きる。12月11日深夜Z35とZ36の2隻は誤って北へ行き過ぎて4.6km先にある既存の機雷原「ナースホルン」に突っ込んでしまい、翌12日午前1時52分頃に2隻とも触雷。Z36は沈して全乗組員が死亡Z35もボイラー爆発によって午前2時までに沈没してしまった。このままではZ43も機雷原に突っ込んで後を追いかねない状況だったが、幸運にもMESシステムのおかげで事前に機雷原を探知し、後退した事で辛くも助かった。しかし暗闇で視界がきかないのと機雷原に非常に近かったため、救助を行えず、機雷敷設をも断念して魚雷艇とゴーテンハーフェンへ帰投。2隻の沈没により1936B型の生き残りはZ43だけとなった。12月31日、造所に入渠して電子装備の整備と体の修理を受ける。

1945年1月から2月初旬にかけ、ラトビアリバウから退却する輸送団をゴーテンハーフェンまで護衛する任務に就く。1月13日ソ連軍は東プロイセン首都ケーニヒスベルクを攻め落とすべく大規模攻勢を開始。ドイツ軍守備隊の猛なる抵抗を損度外視で跳ね返し、独第3装甲軍がケーニヒスベルクザンビア半島に分断、また第4軍と第2軍が孤立させられた。包囲下のケーニヒスベルクには取り残された難民が20万人おり、一の脱出路はケーニヒスベルク運河の先にあるザンビア西部の港町ピラウだけだった。毎日2000名が殺される地獄世界から彼らを救えるのは第2戦闘グループを置いて他にい。1月19日アドミラル・シェーアZ38、T28、T35と協同でザンビア南海にあるソ連軍の集結地点を撃。翌日には魚雷艇2隻が運河に突入してより近い場所から撃を浴びせている。

1月23日ドイツ海軍カール・デーニッツ元帥は東プロイセンにいる自民と陸軍部隊を救出するためハンニバル作戦の実行を命民間のあらゆる種類の船舶4941080隻が作戦に投入され、ピラウへ逃げてきた難民ドイツもしくはドイツ占領下デンマークへと移送する。2月18日、サンビア半島の独第3装甲軍と第4軍がピラウ側から反転攻勢に出たため、翌日よりシェーアとともに艦砲射撃支援。ペイセ・ヴズモリエ間にあるソ連地を撃した。2月20日午前5時から2時間に渡って熾支援を実施。そして2月23日に行われたZ43、Z38、T28艦砲射撃支援が決め手となり、ケーニヒスベルクとの連絡が一時的に回復。その間に負傷者の移送や物資の補給が行われ、孤立していた難民陸軍部隊がピラウへの脱出に成功している。3隻は帰投する際に1000人以上の難民を収容してゴーテンハーフェンへ戻った。切り開かれた血路は4月まで維持されたという。

2月26日、避難民を乗せて退避する遠洋定期ハンブルグをZ25やT8と護衛し、翌日リューゲンヤスムント半島ザスニッツまで送り届けた後、しばらく避難の対防御を担った。3月7日、Z43はダンツィヒ湾から西方へ移動するリュッツォウとアドミラル・シェーアの護衛任務につき、翌8日にゴーテンハーフェンへ寄港してシェーアに難民800名と負傷者200名を収容。ここで修理のためキールに向かうシェーアと、シュヴィーネミュンデで再武装して東プロイセン方面に向かうリュッツォウと別れ、自身は新たな撃任務の地であるコルベルクに向かう。

バルトに面するポメラニア州の大きな港町コルベルクソ連軍第1及び第2ベラルーシ戦線の攻撃を受けていた。守備隊の奮戦で未だの占領こそ許していないものの、近隣の都市ケスリンを落とされてコルベルク占領の足掛かりにされる。3月8日にコルベルクへ到着したZ43は、港内に停泊する多数の避難の対防御を開始。3月11日、対防御の任を新たに到着した応援部隊に任せ、今度はコルベルク近郊のソ連軍を撃。対戦車兵器が不足していた現地のドイツ軍にとって駆逐艦撃はこれ以上ない最高の支援だった。3月15日に燃料と弾薬を補給する的でシュヴィーネミュンデへ移動するが、3月17日にコルベルクへ戻って再び艦砲射撃を加える。ソ連軍に代わってコルベルク攻略を任されたポーランド人民軍や第1軍の侵攻により、3月17日からドイツ軍は全ての防衛線を放棄して撤退を開始したが、Z43の献身的な支援のおかげで民間人を含む大部分がシュヴィーネミュンデへの退却に成功し、3月18日艦砲射撃を終了。Z43は最後に撤退するドイツ軍部隊を収容して々とコルベルクから脱出、彼らをシュヴィーネミュンデで退艦させた後、リュッツォウやプリンツ・オイゲンと合流するべくゴーテンハーフェンに走った。

続いて3月27日から4月7日までダンツィヒ南方にあるソ連地をリュッツォウ、T23、T28とともに撃。撃中の4月5日に二代艦長のカール・ハインリッヒ・ランペ中佐が着任した。しかしZ43の奮戦むなしくゴーテンハーフェンは失陥、出撃拠点だった東プロイセンソ連軍に包囲されてしまい、また生き残った艦艇に対する攻撃も熾なものになりつつあった。もはや艦隊の集結地に使えそうな場所はヘラ半島くらいしかなく、しかしそのヘラからも既に撤兵中であり、Z43は避難の対防御に従事する。やがて深刻化した燃料及び弾薬の不足により4月8日爆撃で手傷を負ったZ38、Z31、リュッツォウとともにヘラから退却するが、その翌日、ソ連軍機から爆撃を受けて前方ファンネル不発弾が突き刺さった。損傷自体は大した事かったものの、機雷を探知するMESシステムが使用不能になってしまい、これが最悪の形でZ43に襲い掛かる。

4月10日ダンツィヒ湾内で触雷大破。体に15mの大破孔が生じ、を破損、中央と後部の機関室が浸する大損を受けて航行不能に追いやられ、乗組員にも多くの死傷者が出た。もはや動く事もわないZ43はZ39の護衛を受けながら魚雷艇T33に航される。4月13日ロストックへ入港。現地のネプチューン所で緊急修理を受けるも、を破損する事はすなわち背脊髄を損傷して半身不随になっているようなもので、切迫する戦況も手伝って全な修理を諦め、「ロストック防衛用の要塞」として運用される事に。の上に2枚の鋼ビーム溶接して補強し、幸い機関部が事だったため排したのち電を復旧させ、かろうじて戦える状態にまで持ち直す。Z43は最後まで戦う事を諦めなかった。全ての対空砲と一部の乗組員を陸戦隊として降ろし、地上のドイツ軍支援するべく弾がくなるまで艦砲を撃ち続けたのである。

5月1日弾を撃ち尽くしたZ43はヴァルネミュンデへ向かうべく死に体に打って出港。造所を出てワルノフを下っている時にソ連軍の戦車と出くわし小競り合いが発生したが、何とか切り抜けてキールへ到着。ここで軍港や都市に対する大空襲に遭遇するも幸い被害は受けなかった。そして5月3日フレンブルク近郊ゲルティング湾へ到達し、連合軍の鹵獲を防ぐため乗組員の手で爆破処分。戦闘中止命が発されたのはその翌日の事だった。ドイツ海軍最後の駆逐艦は自らとなって津波を食い止め、見事死にを咲かせた立な最期と言えよう。

戦後1953年に残骸を引き揚げられて解体。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/10/06(日) 21:00

ほめられた記事

最終更新:2024/10/06(日) 21:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP