Z43とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用した1936B型駆逐艦3番艦である。1944年5月31日竣工。本艦は大戦中にドイツ海軍が就役させた最後の駆逐艦で、ソ連軍に追われる友軍部隊や民間人を守るために艦砲射撃任務に奔走した。1945年5月3日、鹵獲を避けるためフレンスブルク近郊で自沈。
1936B型とは、開戦前より予定されていたドイツ海軍の戦力拡充計画「Z計画」に基づいて建造されるはずだったタイプである。「Z計画」は1945年完遂を目途に遂行するはずが、予定よりも早い1939年に第二次世界大戦が勃発した事で計画が大きく狂ってしまい、1936B型は5隻のみが起工、就役に至ったのは僅か3隻のみだった。次級の1936C型が建造中止になったため実質本級が大戦最後に就役した駆逐艦となる。その中でZ43は3番目に就役したドイツ海軍最後の駆逐艦だが、実はZ43の妹となるZ44は完成寸前まで漕ぎ付けており、1944年7月29日にイギリス軍の空襲を受けて破壊され工事中止になってしまった。
前級1936A型駆逐艦は火力強化の目的で15cm連装主砲を装備していたが、生産性に難がある事、砲弾の大型化に伴う給弾速度の低下、高い火力も敵軽巡にはあまり通用しない事、重量増加により凌波性の低下を招いた事から1936B型から従来の12.7cm主砲に戻している。基本的に1936A型の設計を流用しているため船体そのものは大差無いが、増大する航空機の脅威に合わせて強力な対空兵装とFuMO 24/25レーダーを装備し、機雷搭載数も16発増加して76発になっているなど小改良が施されている。また工期短縮のため機関をワグナー式ギヤードタービンに換装、艦内の簡略化も進めた。以前の駆逐艦と比べて機関の故障自体は少なかったがボイラーとチューブの腐食が多く見られたという。
要目は排水量2519トン、全長127m、全幅12m、出力7万馬力、最大速力36.5ノット、乗組員330名。武装は12.7cm単装砲塔5基、37mm対空機関砲4基、20mm対空機関砲16基、四連装53.3cm魚雷発射管2基、爆雷投射機4基、機雷76発。
開戦前の1939年6月28日、デシマーグAG社のブレーメン造船所に1936B型駆逐艦として発注。ところが第二次世界大戦の勃発で「Z計画」に狂いが生じ、前級1936A型ですら数が足りなくなる事態が発生したため途中で1936A型に設計変更となるが、最終的に1936B型で再発注されるという若干迷走した誕生経緯を持つ。1941年2月17日、デシマーグAG社のブレーメン造船所に発注。1942年5月1日にヤード番号W1029の仮称で起工、1943年9月22日に進水し、1944年5月31日に竣工を果たした。艦長にはアーサー・ウェニンガー大尉が着任し、姉妹艦Z35やZ36が所属する第6駆逐艦戦隊に編入される。
Z43が誕生して間もない1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸して西部戦線が構築され、6月22日にはソ連軍がバグラチオン作戦を発動して東部戦線が崩壊。一気に戦況が悪化してしまう。崩壊した東部戦線からは敗走するドイツ軍や難民がソ連軍の追撃を受けながら本国を目指しており、カール・デーニッツ元帥はアウグスト・ティーレ中将を指揮官に据えた第2戦闘グループを編成。生き残っていた重巡リュッツォウ、アドミラル・シェーア、アドミラル・ヒッパー、プリンツ・オイゲンなどの大型艦を集めて即席の艦隊を作り、Z43が所属する第6駆逐艦戦隊も第2戦隊グループに加入した。バルト海での慣熟訓練や試験を経て10月17日に運用可能と宣言され、いよいよ実戦投入を迎える。敵対するは東より攻め入る赤き津波。
11月18日、エストニアのサーレマー島南西部スヴォルベ半島で孤立したドイツ陸軍に向け、ソ連第8軍が12時間に及ぶ準備砲撃を加えたのち進軍を開始。窮地に陥った陸軍は兵と装備だけでも救助しようと第2戦闘グループに艦砲射撃支援を要請する。これを受けてティーレ中将は重巡部隊を派遣し、11月19日にアドミラル・シェーアやプリンツ・オイゲン、Z35、Z36、魚雷艇4隻とともに出撃。11月20日から地上のソ連軍を艦砲射撃を加える。重巡部隊はリュッツォウとプリンツ・オイゲン、アドミラル・シェーアとヒッパーの二組に分かれており、Z43は後者に所属。どちらかが補給に戻っている間は片方が砲撃任務を継続する方法で絶え間ない砲撃を浴びせ続けた。11月22日、弾薬を使い果たしたZ43は一旦ゴーテンハーフェンへ退却して補給を受け、翌日砲撃任務に再参加している。
地上のドイツ軍はよく奮戦したが、11月23日に防衛線の維持が困難となりフェルディナント・シェルナー陸軍司令が撤退を命令。撤兵はダンケルク方式で行われ、第2戦闘グループがソ連軍の注意を引いているうちに無数の小型船舶にドイツ兵を乗せ、後方のゴーテンハーフェンやクールラントまで逐次移送した。思わぬ打撃を受けたソ連軍は沿岸の17cm砲台でドイツ艦隊を狙ってきたが沖合いへ退避する事で射程外から脱出。次にソ連軍は爆撃機の大編隊を送り込んで雷撃と高高度爆撃を仕掛けて来たものの、狭い湾内ながら巧みな回避運動によって全艦無傷でやり過ごす。時間を十分に稼いだおかげでドイツ陸軍はゴーテンハーフェンへの脱出に成功、重巡は11月24日に砲撃を切り上げたが、Z43ら駆逐艦群はドイツ兵が撤退した後の11月25日まで盛んに砲撃し続けた。決死の思いで降り注ぐ砲弾を抜け、スヴォルベ半島の南端へ辿り着いたソ連兵が見たのは、既にもぬけの殻になった土地だった。この活躍により陸軍司令官は第2戦闘グループに謝意を示す簡単な電文を送った他、グデーリアン上級大将がデーニッツ元帥に対して感謝の電報を送られ、ゴーテンハーフェン停泊中にも兵士から感謝の言葉が投げかけられたという。
「ソルベマの戦闘を終えるにあたり、海軍が我々に払ってくれた勇猛かつ自己犠牲的支援に関し、海軍の全員に対して、私自身及び東部戦線の全陸軍将兵よりの感謝の言葉を述べたい。
圧倒的に優勢な敵に対する今度の陸海協同作戦は、今後さらに海軍と陸軍の間の同志的絆を固く結び付けるものと確信する―――。」 陸軍大将グデーリアン
Z43、Z35、Z36、大型魚雷艇T23、T28で構成された第6駆逐艦戦隊はエストニアの海岸と既存の機雷原との間に新たな機雷原を設置するよう命じられる。しかし天候の悪化により実行日が12月11日深夜に変更となる。それぞれの駆逐艦は68個の機雷を搭載して12月9日朝にゴーテンハーフェンを出港、戦隊司令フリードリッヒ・ケーテ大佐が乗艦する旗艦Z35に率いられ、T23の護衛を受けながら航行。ところが目的地に近づくにつれ次第に天候が悪化し始め、荒れ狂う波と強雨が航行を困難なものにし、Z35やZ36とはぐれてしまう。そして悲劇は起きる。12月11日深夜、Z35とZ36の2隻は誤って北へ行き過ぎて4.6km先にある既存の機雷原「ナースホルン」に突っ込んでしまい、翌12日午前1時52分頃に2隻とも触雷。Z36は轟沈して全乗組員が死亡、Z35もボイラーの爆発によって午前2時までに沈没してしまった。このままではZ43も機雷原に突っ込んで後を追いかねない状況だったが、幸運にもMESシステムのおかげで事前に機雷原を探知し、後退した事で辛くも助かった。しかし暗闇で視界がきかないのと機雷原に非常に近かったため、救助を行えず、機雷敷設をも断念して魚雷艇とゴーテンハーフェンへ帰投。2隻の沈没により1936B型の生き残りはZ43だけとなった。12月31日、造船所に入渠して電子装備の整備と船体の修理を受ける。
1945年1月から2月初旬にかけ、ラトビアのリバウから退却する輸送船団をゴーテンハーフェンまで護衛する任務に就く。1月13日、ソ連軍は東プロイセンの首都ケーニヒスベルクを攻め落とすべく大規模攻勢を開始。ドイツ軍守備隊の猛烈なる抵抗を損害度外視で跳ね返し、独第3装甲軍がケーニヒスベルクとザンビア半島に分断、また第4軍と第2軍が孤立させられた。包囲下のケーニヒスベルクには取り残された難民が20万人おり、唯一の脱出路はケーニヒスベルク運河の先にあるザンビア西部の港町ピラウだけだった。毎日2000名が殺される地獄の世界から彼らを救えるのは第2戦闘グループを置いて他に無い。1月19日夜、アドミラル・シェーア、Z38、T28、T35と協同でザンビア南海岸にあるソ連軍の集結地点を砲撃。翌日には魚雷艇2隻が運河に突入してより近い場所から砲撃を浴びせている。
1月23日、ドイツ海軍のカール・デーニッツ元帥は東プロイセンにいる自国民と陸軍部隊を救出するためハンニバル作戦の実行を命令。民間のあらゆる種類の船舶494~1080隻が作戦に投入され、ピラウへ逃げてきた難民をドイツ本国もしくはドイツ占領下デンマークへと移送する。2月18日、サンビア半島の独第3装甲軍と第4軍がピラウ側から反転攻勢に出たため、翌日早朝よりシェーアとともに艦砲射撃で支援。ペイセ・ヴズモリエ間にあるソ連軍陣地を砲撃した。2月20日午前5時から2時間に渡って熾烈な砲撃支援を実施。そして2月23日に行われたZ43、Z38、T28の艦砲射撃支援が決め手となり、ケーニヒスベルクとの連絡が一時的に回復。その間に負傷者の移送や物資の補給が行われ、孤立していた難民や陸軍部隊がピラウへの脱出に成功している。3隻は帰投する際に1000人以上の難民を収容してゴーテンハーフェンへ戻った。切り開かれた血路は4月まで維持されたという。
2月26日、避難民を乗せて退避する遠洋定期船ハンブルグをZ25やT8と護衛し、翌日リューゲン島ヤスムント半島ザスニッツまで送り届けた後、しばらく避難船の対空防御を担った。3月7日、Z43はダンツィヒ湾から西方へ移動するリュッツォウとアドミラル・シェーアの護衛任務につき、翌8日にゴーテンハーフェンへ寄港してシェーアに難民800名と負傷者200名を収容。ここで修理のためキールに向かうシェーアと、シュヴィーネミュンデで再武装して東プロイセン方面に向かうリュッツォウと別れ、自身は新たな砲撃任務の地であるコルベルクに向かう。
バルト海に面するポメラニア州の大きな港町コルベルクはソ連軍第1及び第2ベラルーシ戦線の攻撃を受けていた。守備隊の奮戦で未だ街の占領こそ許していないものの、近隣の都市ケスリンを落とされてコルベルク占領の足掛かりにされる。3月8日にコルベルクへ到着したZ43は、港内に停泊する多数の避難船の対空防御を開始。3月11日、対空防御の任を新たに到着した応援部隊に任せ、今度はコルベルク近郊のソ連軍を砲撃。対戦車兵器が不足していた現地のドイツ軍にとって駆逐艦の砲撃はこれ以上ない最高の支援だった。3月15日に燃料と弾薬を補給する目的でシュヴィーネミュンデへ移動するが、3月17日にコルベルク沖へ戻って再び艦砲射撃を加える。ソ連軍に代わってコルベルク攻略を任されたポーランド人民軍や第1軍の侵攻により、3月17日からドイツ軍は全ての防衛線を放棄して撤退を開始したが、Z43の献身的な砲撃支援のおかげで民間人を含む大部分がシュヴィーネミュンデへの退却に成功し、3月18日に艦砲射撃を終了。Z43は最後に撤退するドイツ軍部隊を収容して悠々とコルベルクから脱出、彼らをシュヴィーネミュンデで退艦させた後、リュッツォウやプリンツ・オイゲンと合流するべくゴーテンハーフェンに走った。
続いて3月27日から4月7日までダンツィヒ南方にあるソ連軍陣地をリュッツォウ、T23、T28とともに砲撃。砲撃中の4月5日に二代目艦長のカール・ハインリッヒ・ランペ中佐が着任した。しかしZ43の奮戦むなしくゴーテンハーフェンは失陥、出撃拠点だった東プロイセンもソ連軍に包囲されてしまい、また生き残った艦艇に対する攻撃も熾烈なものになりつつあった。もはや艦隊の集結地に使えそうな場所はヘラ半島くらいしかなく、しかしそのヘラからも既に撤兵中であり、Z43は避難船の対空防御に従事する。やがて深刻化した燃料及び弾薬の不足により4月8日、爆撃で手傷を負ったZ38、Z31、リュッツォウとともにヘラ沖から退却するが、その翌日、ソ連軍機から爆撃を受けて前方ファンネルに不発弾が突き刺さった。損傷自体は大した事無かったものの、機雷を探知するMESシステムが使用不能になってしまい、これが最悪の形でZ43に襲い掛かる。
4月10日、ダンツィヒ湾内で触雷大破。船体に15mの大破孔が生じ、竜骨を破損、中央と後部の機関室が浸水する大損害を受けて航行不能に追いやられ、乗組員にも多くの死傷者が出た。もはや動く事も叶わないZ43はZ39の護衛を受けながら魚雷艇T33に曳航される。4月13日にロストックへ入港。現地のネプチューン造船所で緊急修理を受けるも、竜骨を破損する事はすなわち背骨と脊髄を損傷して半身不随になっているようなもので、切迫する戦況も手伝って完全な修理を諦め、「ロストック防衛用の要塞」として運用される事に。竜骨の上に2枚の鋼鉄ビームを溶接して補強し、幸い機関部が無事だったため排水したのち電力を復旧させ、かろうじて戦える状態にまで持ち直す。Z43は最後まで戦う事を諦めなかった。全ての対空砲と一部の乗組員を陸戦隊として降ろし、地上のドイツ軍を支援するべく砲弾が無くなるまで艦砲を撃ち続けたのである。
5月1日、砲弾を撃ち尽くしたZ43はヴァルネミュンデへ向かうべく死に体に鞭打って出港。造船所を出てワルノフ川を下っている時にソ連軍の戦車と出くわし小競り合いが発生したが、何とか切り抜けてキールへ到着。ここで軍港や都市に対する大空襲に遭遇するも幸い被害は受けなかった。そして5月3日にフレンスブルク近郊ゲルティング湾へ到達し、連合軍の鹵獲を防ぐため乗組員の手で爆破処分。戦闘中止命令が発令されたのはその翌日の事だった。ドイツ海軍最後の駆逐艦は自ら盾となって赤い津波を食い止め、見事死に花を咲かせた立派な最期と言えよう。
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