アドミラル・シェーアとは、ドイツ海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦2番艦である。1934年11月12日竣工。艦名は1916年にジュットランド沖海戦に参加したドイツ海軍のラインハルト・シェーア大将から取られた。通商破壊で大活躍し、撃沈ないし拿捕した船舶は11万4616トンに上る。10万トン以上の戦果を挙げた唯一の水上艦艇であり、トップを誇る。戦争末期は対地砲撃に奔走、逃げる難民や敗残兵を援護した。1945年4月9日、航空攻撃により転覆。
1931年度計画艦として建造が決定し、「B」の仮称を与えられる。1931年6月25日、ヤード番号123の名でヴィルヘルムスハーフェン工廠で起工。1933年4月1日に進水し、シェアー大将の娘マリアンヌ・ベッセラーによって洗礼を受けた。ちなみに当時はデア・シェーアと呼称されていた。デアは男性を表す言葉であり、ビスマルクなど他の大型艦は女性を表すディが付けられた。何故シェーアだけ男性扱いされたのは未だ謎に包まれている。なぜ男なんだ。1934年10月1日に公試を行い、11月12日竣工。初代艦長にはヴィルヘルム・マーシャル大佐が着任した。アドミラル・シェーアの就役によって旧式戦艦ヘッセンは練習艦へと格下げになった。12月20日、ヴィルヘルムスハーフェンを出港。1934年中はバルト海で各種試験をこなして過ごした。
1935年1月から3月にかけて、バルト海で海上公試を実施。加えてアラド水上機を運用するための航空兵装を新設する。10月までに航海の準備を整え、10月19日にドイッチュラントとともに出港。大西洋で訓練航海を行う。マデイラを来訪し、イギリス海峡を通過して11月9日にヴィルヘルムスハーフェンに帰投した。1936年5月29日、キール近郊のラーボエに海軍記念館が開館し、記念パレードに参加した。6月19日より再び航海に出発、ストックホルムを訪ねた時に国王グスタフ5世が乗艦している。7月2日にキールへ帰投。
1936年7月23日、スペイン内戦が勃発。短期決戦の目論見が外れ、苦境に立たされた国粋派の大将フランシスコ・フランコは独伊に救援を求めた。これに伴ってドイッチュラントにはロルフ・カールス中将が乗り込み、ドイツ艦隊の一員となってヴィルヘルムスハーフェンを出発。7月26日にサンセバスチャン港に寄港し、ドイッチュラントとともに内戦に巻き込まれたドイツ人や難民の避難を請け負った。ドイツ陸軍と空軍はおもむろに国粋派を支援したが、海軍は人道的支援に留めた。しかし敵対する共和国軍にとってドイッチュラント級の存在は脅威だった。国粋派艦艇を攻撃するついでに独伊の艦艇も標的にされた訳である。もちろん独伊は猛抗議したが、共和国軍は取り合わなかった。
1937年5月21日、アドミラル・シェーアは共和派駆逐艦と遭遇。緊張が走ったが、何事も無かった。この時は…。事件は5月29日に起きた。バレアレス諸島イビサ島沖でドイッチュラントが共和国軍のツポレフSB-2爆撃機に爆撃され、中破してしまう。これはドイッチュラント号事件と呼ばれ、初めてドイツ人乗組員に死傷者が出た。異常を察知したアドミラル・シェーアは駆逐艦4隻を率いて急行。炎上するドイッチュラントのもとに駆けつけ、軍医を派遣して負傷者の治療を行った。そして設備が整っている英領ジブラルタルへの入港を決断し、負傷者53名を地上の病院に入院させた。しかし治療の甲斐なく31名が死亡してしまった。この蛮行に激怒したヒトラー総統は報復を命令。5月31日午前7時29分、アドミラル・シェーアは独伊の駆逐艦4隻とともに共和派のアルメリア市を砲撃。28cm砲弾91発、15cm副砲弾100発、8.8cm機銃弾48発を撃ち込み、市民19名が死亡。推定5000名以上のスペイン人が難民となった。町並みは破壊され、メキシコ大使館やカトリックの大伽藍も瓦礫の山と化した。驚いた共和国政府は「ドイッチュラントを
カナリアス(国粋派の重巡洋艦)と見間違えた」と弁明した。7月1日にヴィルヘルムハーフェンへの帰投を命じられ、ドイツ本国に戻った。その後は地中海方面で活動。1938年6月29日にスペイン近海での作戦行動を終了し、本国に帰投。8月22日、キールで行われた重巡洋艦プリンツ・オイゲンの進水式に参加し、新たな仲間の誕生を祝った。
1939年2月14日、ハンブルクで行われた戦艦ビスマルクの進水式に参加。3月23日、ヒトラー総統を乗せたドイッチュラントに率いられてシュヴィーネミュンデを出発。リトアニアのメーメルに向かい、返還式典に参加。4月1日にはヴィルヘルムスハーフェンで戦艦ティルピッツの進水式に参列。その頃、長く続いたスペイン内戦が国粋派の勝利に終わり、戦勝を祝して4月22日から26日にかけてビルバオを訪問。
1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発。ドイツと英仏連合軍が戦争状態に入った。アドミラル・シェーアは西部方面艦隊旗艦としてヴィルヘルムスハーフェンのシリヒ水道で開戦を迎える事となった。
9月4日、ヴィルヘルムスハーフェンに29機のブリストル・ブレニム爆撃機が襲来。アドミラル・シェーアには第110飛行中隊のブリストル・ブレニム爆撃機5機が襲い掛かった。第110飛行中隊は気象状況の悪さから高高度爆撃を取りやめ、超低空で泊地に侵入。これがドイツ軍の虚を突き、まったくの奇襲となった。敵機の接近に気付いたシェーアの伝令が絶叫し警報ベルが鳴らされるも、初動の遅れが響いて対空砲は未だ火を噴かない。その隙にブレニムから500ポンド爆弾が投下され、2発が甲板に直撃。あわや撃沈の状況だったが、幸い爆弾は起爆する事無く弾き飛ばされ、海の中に落ちた。ようやくここで対空砲が放たれ、飛び去るブレニムを追った。後続のブレニムも爆弾を投下し、2発がアドミラル・シェーアの至近に落下。だがこれも不発であり、被害は皆無だった。アドミラル・シェーア側は反撃に転じ、激しい対空放火を残りのブレニムにぶつけた。驚いたブレニムは爆弾を投棄して散り散りに逃走したが、不運な1機は対空砲を喰らって撃墜された。これがアドミラル・シェーアの初戦果となった。第二陣の第107飛行中隊のブレニム5機が再びアドミラル・シェーアに襲い掛かったが、迎撃体勢を整えたドイツ軍の猛攻を受けて5機中4機を喪失メッサーシュミットMe109も応援に駆けつけ、29機中5機が行方不明、7機が撃墜された。アドミラル・シェーアは無傷で最初の試練を乗り切った。しかしアドミラル・シェーアは機関が不調であり、ドイッチュラントやアドミラル・グラーフ・シュペーと肩を並べて通商破壊する事は出来なかった。
1940年2月1日よりヴィルヘルムスハーフェン工廠に入渠し、近代化改修を実施。2月15日に艦種が重巡洋艦に変更された。機関のオーバーホールは思いのほか長期の工事になり、4月からのヴェーゼル演習作戦に参加できなかった。FuMO26レーダーと新たな対空砲を搭載し、艦首をクリッパー型に変更。艦橋も塔型から管状マストに改装された。7月19日から翌20日にかけてイギリス軍の爆撃機がアドミラル・シェーアと戦艦ティルピッツを爆撃したが、命中せず。7月31日に出渠したが、同日中にダンツィヒ港に回航されて工事再開。再びエンジンの改装を行った。このように開戦から1年はドック入りで費やし、戦果を挙げられずにいた。
戦艦ビスマルクの戦力化や、シャルンホルスト及びグナイゼナウの作戦投入が可能になった事でレーダー提督は通商破壊の機が熟したと判断。1940年10月14日、アドミラル・シェーアを大西洋に投じてイギリスの大洋通商航路に挑戦する事をヒトラー総統に具申した。当初貴重なシェーアを投入する事に難色を示したヒトラー総統であったが、レーダー提督の説得を受けて承諾。ベルリンの海軍司令部から準備が命じられた。10月22日、大西洋で通商破壊を行うべくゴーテンハーフェンを出撃。アドミラル・シェーア最初の戦闘航海であり、そしてこれまでの不遇を一気に晴らす実りのある航海となった。10月28日、前進拠点であるスタヴァンゲルに入港。狩り場となる大西洋に出るには二通りのルートが存在し、一つ目はイギリス海峡を突破する航路、二つ目はデンマーク海峡を突破する航路である。前者は最短だが敵国の眼前を通るため危険度が遥かに高く、大型艦はまず採用しない航路だった。後者はイギリスの北西にあるグリーンランドとアイスランド間の海峡を突破するもので、イギリス本国を迂回する以上遠回りだが突破率は高い。しかしイギリス軍もそこは見越していて、厳重な警備を敷いていた。どちらにせよ突破には苦労する難所だった。
アドミラル・シェーアは電波探信儀を巧みに使い、ノルウェー沖を北上。大時化にも助けられ、イギリスの沿岸航空隊はシェーアを捕捉する事が出来なかった。難所は敵の勢力圏であるデンマーク海峡であったが、嵐に紛れて10月31日に突破。荒天を抜けると、そこには穏やかな海…狩り場である大西洋が広がっていた。唯一の不幸と言えば、高波に乗員2名がさらわれて行方不明になった事だった。大西洋に到着する数日前、搭載された無線傍受装置が「10月27日にハリファックスを出発したHX84船団の存在」を知らせてくれた。まずはこれを撃滅する事にしたが、いかんせん情報が少なすぎた。11月5日、情報収集のため艦長のテオドール・クランケ大佐はピーチュ中尉のアラド水上機の出撃を指示し、午前9時40分に飛び立った。その間にアドミラル・シェーアは予想される船団の航路上へ移動、待ち伏せを行った。正午頃、アラド水上機が情報を持ち帰ってきた。これによりHX84船団の正確な位置を掴み、狩りを行うべく移動を開始した。
11月5日14時30分、アドミラル・シェーアは最初の獲物と遭遇。無防備にも単独航行していたのは、イギリスのバナナ運送船モパン(5389トン)だった。通常であれば喜ばしい出来事だが、HX84船団が迫っている現状では邪魔者でしかなかった。仮にR-R-R信号(水上艦艇からの襲撃)を打たれれば、HX84船団はたちまち離散してしまうだろう。クランケ艦長は気を揉んだ。アドミラル・シェーアが停船を呼びかけると、乗組員はすぐさま救命ボートに乗って船を放棄した。幸いな事に無線すら打たなかったので、付近のHX84船団に気付かれなかった。本来であれば拿捕して食糧を押収するのが基本だが、今は本命のHX84船団が迫っている。16時5分、10.5cm砲でモパンを始末し、間もなく来るであろうHX84船団の出現に備えた。
モパンが沈没するのと入れ替わりに、南方からHX84船団が姿を現した。37隻の輸送船を擁する大船団で、襲撃側としてはこれ以上無いくらいの獲物だった。しかも護衛は脆弱な武装商船ジャーヴィスベイだけだった。船団の先頭をゆくジャーヴィスベイはアドミラル・シェーアにモールス信号で呼びかけてきた。どうやら味方と勘違いしているらしい。その間にアドミラル・シェーアは距離を詰め、主砲だけでなく副砲の射程距離に収める。16時40分、彼我の距離が17kmまで縮まったところで巨砲が吼えた。無防備なジャーヴィスベイはまともに砲撃を喰らい、無線装置や推進軸を破壊される。ここでようやく相手が敵艦だと悟り、散開命令を意味する赤色の星弾を発射。そして船団が逃げる時間を稼ぐため、煙幕を展開し始めた。だが強大なアドミラル・シェーア相手では無謀としか言いようが無かった。ニ斉射目で船橋に直撃弾を受け、エドワード・フェーゲン船長が戦死。22分の時間は稼いだが、ジャーヴィスベイはあえなく沈没した。護衛を葬ったアドミラル・シェーアは、散り散りになった輸送船を追いかけて南下。あたりは宵闇に包まれ始めており追う側に不利だったが、それでも貨物船6隻(モパン含む)を撃沈。3隻を大破させる戦果を挙げた。たった一戦で5万2884トンを海底に葬り去ってみせたのだ。20時40分に攻撃をやめ、引き上げた。この被害はイギリス海軍を恐怖させ、ハリファックスを発った2つの船団はカナダに引き返すよう命じられた。同時にアドミラル・シェーアをやっつけようと、本国艦隊の戦艦ロドネイとネルソンがアイスランド・フェローズ諸島間の航路を塞いでドイツ本国への道を閉ざした。更に巡洋戦艦フッド、リパルス、巡洋艦ナイアド、フィービがビスケー湾近隣を固め、フランスに逃げ込むルートも塞いだ。まさに必殺の構えである。ところがクランケ艦長はベルリンの通信傍受部隊から情報提供を受け、イギリスが罠を張っている事に気付く。敵艦の動きを見たところ、南側には全く配備されていなかった。このためアドミラル・シェーアは南進するだけで包囲網から脱出する事が出来た。
一仕事を終えたアドミラル・シェーアは、補給艦ノルトマルクとの合流を試みていた。襲撃艦は作戦期間延伸のため、専用の補給艦を伴っているのだ。味方の港に逃げられない以上、ノルトマルクとの合流は急務だった。11月12日、カナリア諸島テネリフェ島近海でドイツの貨物船オイロフェルトと出会った。この船は開戦以来、ずっとテネリフェに避難していたのだという。オイロフェルトには持病とも言うべきエンジントラブルがあり、「アドミラル・シェーアの機関長に調べてもらえ」と本国から指令を受けていた。シェーアの技術者がオイロフェルトに乗り込み、蒸気が漏れるボイラーに応急処置を施した。お礼に燃料補給をして貰った。
11月16日、ノルトマルクも現場に駆けつけ、オイロフェルトに横付け。その間、シェーアの舷側には軍楽隊が整列して楽しげな音楽を奏でた。補給艦に積んであった修理用の部品を使い、本格的な修理を実施。シェーアも、ノルトマルクから1327トンのディーゼル燃料と食糧品及び備蓄品の補給を受けた。11月20日、ノルトマルクと別れて南下。オイロフェルトは仮装巡洋艦トールとの合流を目指して発った。
11月24日にサルガッソー海で英定期貨物船ポート・ホバート(7448トン)を撃沈。乗組員と乗客を救助し、相手にわざと救難信号を打たせた。これはイギリス艦艇を無意味な海域に誘引するためのエサだった。
ちなみに救助した乗客の中に女性7名が混じっており、荒々しい男の軍艦に華が添えられた。紳士的なクランケ艦長は女性のために士官室を提供した。12月1日、アラド水上機がガンビア沿岸沖で英冷蔵船トリベスマン(6242トン)を発見。シェーアは夜襲に備えてひそかに接近したが、トリベスマンに感付かれる。遭難信号を発しようとしたその瞬間、シェーアから放たれた砲弾が的確にアンテナを吹き飛ばし、力ずくで黙らせた。観念したトリベスマンの乗員たちは脱出し、ヨーロッパ人の高級船員8名とインド人水夫69名が救助された。無人になったトリベスマンはアドミラル・シェーアの咆哮とともに葬られた。更なる獲物を求めて赤道を南下し、南半球に突入する。天候こそ恵まれていたが、トリベスマン撃沈から全く戦果を挙げられなくなってしまう。げんなりするほど船舶の往来が無いのだ。クランケ艦長も挫折感を抱き始めるようになり、戦果が無いまま12月14日にノルトマルクと合流。燃料補給を受け、捕虜を移乗させた。海は静かに揺れているだけで、水平線に獲物は確認できない。トリベスマン撃沈から二週間が経過しようとした頃、アドミラル・シェーアには、少し早いクリスマスプレゼントが与えられた。
12月18日、英冷蔵船デュケーサ(8790トン)を拿捕。この船には9000トンもの肉と果物、900トンの卵が積み込まれており、まさに宝の山だった。ある乗組員が「一軍を養える」と評するほどの量である。今回はモパンの時と違って余裕があったので補給船として同行させる。乗組員の食糧事情は一気に改善され、食糧不足に悩む必要も無くなった。凄まじい恩恵をもたらしたデュケーサは「浮いてるデリカテッセン」、「ヴィルヘルムスハーフェンの南仕出し店」と評価された。デュケーサ自身は老朽化激しい船で、燃料も残り僅かだった事からドイツ本国への回航は諦めざるを得なかった。またクランケ艦長は一計を案じ、デュケーサにわざと遭難信号を打たせた。この無電を聞いたイギリス海軍は空母ハーミスとフォーミダブル、巡洋艦数隻を現場に向かわせたが、既にシェーアは去った後だった。敵からのクリスマスプレゼントを噛み締めるかのように、アドミラル・シェーアでは押収した卵やウィスキー、ワインが振る舞われた。おいしそう。12月22日の夜明けにノルトマルクが合流すると、宝の山分けが始まった。アドミラル・シェーアには卵604箱、缶詰食肉503箱、多量のベーコン、牛や羊の脇肉177個が詰め込まれた。デュケーサの方が設備が良かったので、クランケ艦長はポート・ホバートの女性乗客をデュケーサに移す配慮を行い、彼女たちから感謝された。デュケーサのおかげで今年のクリスマスは豪勢に祝う事が出来た。
12月25日、スペイン南部アンダルシアにて仮装巡洋艦トール、オイロフェルト、補給艦ノルトマルク、拿捕されたノルウェータンカーストルスタと合流。捕虜の移乗や補給を実施した。本国から6000マイル以上離れている海の上で、アドミラル・シェーアたちは大晦日を過ごした。
1941年1月1日、ベルリンの海軍司令部からこれまでの戦果を祝す電報が乗組員一人ひとりに送られた。アンダルシアに集結中の艦艇は電光をピカピカ光らせて新年を祝い、挨拶を交わした。今が戦争中だとは思えないくらい平和な光景で、シェーアに乗り組む若い水兵の励みとなった。デュケーサの戦利品はオイロフェルトにも与えられ、みんなホクホクしていた。新たな通商破壊の仲間として仮装巡洋艦ピングイン、アトランティス、コルモランが加わった。1月8日、アンダルシアを出発。前年のクリスマスに重巡洋艦アドミラル・ヒッパーが撃ち漏らした船団を捜索したが発見できず。代わりに敵空母ハーミスがセントヘレナ島近海で活動しているという情報が飛び込んできた。絡まれては厄介なので、大きく迂回する事で敵の目をすり抜けた。1月18日、ノルウェー船サンデフィヨルド(8038トン)を拿捕。回航要員を乗せ、後方のノルトマルクのもとへ送った。最終的にサンデフィヨルドはボルドーに回航され、ドイツのものになった。翌19日、オランダ貨物船バルネフェルト(5597トン)とイギリス船スタンパーク(5103トン)を同時に視認。これはまずい状況だった。1隻だけなら砲撃で黙らせる事も可能だが、2隻いるとなると片方にR-R-R信号を打たれる危険性がある。機知に富むクランケ艦長は、三連装主砲のうち1本を下げてイギリスの巡洋艦に見せかける奇策に出た。まずバルネフェルトに拿捕要員を送り込むと、スタンパークに向けて接近。奇策が功を奏し、スンタパークの乗員はアドミラル・シェーアを味方の巡洋艦と誤認。拿捕隊がモーターボートで近づき、舷側から登ってきてもなお抵抗しなかった。そして乗り込んできた連中がドイツ海軍の水兵だと気付いた頃には手遅れだった。武装水兵は手際よく無線室を占拠し、うろたえる乗組員は全員捕縛されてシェーアに連行された。スタンパークの各所には爆薬が仕掛けられたが、結局2本の魚雷で仕留めている。バルネフェルトの方も拿捕隊に奪取され、翌朝爆破処分された。2隻とも遭難信号を発しなかったため、英海軍省は消息を心配していた。1月25日、アドミラル・シェーアはアンダルシアに戻ってきた。仮装巡洋艦ピングインが拿捕した捕鯨船団を回航するための要員を提供するよう命令が下っていたのだ。乗員が減る事にクランケ艦長は難色を示したが、命令には逆らえず回航要員を供出した。
巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウがベルリン作戦のため、大西洋に進出した。この情報を聞いたクランケ艦長はインド洋での通商破壊を企図する。大西洋で2隻が暴れ回り、インド洋でシェーアが暴れる事でイギリスの補給路に重圧をかける意味合いがあった。舳先を南に向け、はるか彼方のインド洋を目指す。喜望峰を突破し、2月3日にインド洋へと進出。アドミラル・グラーフ・シュペーが進出した時よりも更に奥地へ進撃した。既にインド洋では仮装巡洋艦アトランティスが通商破壊をしており、2月14日に2隻の拿捕船を連れたアトランティスと合流。ロッゲ艦長から「イギリスの商船は通商破壊を恐れて迂回路を取っている」という情報提供を受け、モザンピーク海峡方面に行ったらどうかと薦めてくれた。ロッゲ艦長の薦めに従い、シェーアは東アフリカのザンジバル島沖で待ち伏せを行った。
2月20日、艦載のアラド水上機が手頃な獲物を見つけた。クランケ艦長は前回使った、イギリスの巡洋艦になりすますトリックを再度使用し、敵船に接近。相手は英貨物船ブリティッシュ・アドヴォケート(6994トン)だったがアメリカ国旗を掲げて身元を偽装していた。どうやら敵も自分と同じように偽装しているようだった。アドミラル・シェーアは進路を塞ぐように立ちふさがると、信号で「直ちに停止せよ。当方に砲撃させるな。貴船の挙動は不審である」と呼びかけた。ブリティッシュ・アドヴォケートは「貴艦もそうではないか」と返答し、「ドイツ艦のような振る舞いではないか」と言い放った瞬間、R-R-R信号が打たれた。敵もアドミラル・シェーアの偽装を見抜いていたのだ!直ちにシェーアの無線技師が通信妨害を行い、拿捕隊が艦を出発した。威勢こそ良かったが、拿捕隊が乗り込んでくると急に大人しくなり、観念。乗り込む武装水兵の手助けまでしだした。乗組員はシェーアに連行され、船は爆破処分された。2月21日、アドミラル・シェーアはギリシャ汽船グリゴリウス(2546トン)を停船させた。乗組員が言うには、ニューヨークへ
赤十字の補給品を運んでいるとの事だった。だが臨検してみると、船倉から武器が出てきた。クランケ艦長は乗組員を避難させたうえでグリゴリウスを爆破処分した。数時間後、中型の貨物船と出くわした。相手はカナダの連絡客船カナディアン・クルーザー(7170トン)だった。敵船は逃げようとしたが、シェーアの方が優速だったため程なく捕まった。しかしカナディアン・クルーザーは遭難信号を発し、地上のイギリス軍無線局が受信した旨の返答までしていた。乗組員を連行し、船は爆破した。二日後、オランダ汽船ランタウ・パンジャン(2542トン)を仕留めた時も同じやり取りが行われた。無線傍受部隊からの通報で、大型輸送船20隻からなるWS5B船団が近くにいる事が判明。非常に美味しい獲物たちであったが、これまでのR-R-R信号によりイギリス海軍は警戒を強めており、あまりインド洋に長居できなくなっていた。また空母ハーミス、巡洋艦ケープタウン、キャンベラ、シュロプシャー、エメラルド、ホーキンスがアドミラル・シェーア討伐の任を受けて包囲網を形成し始めており、一瞬の判断ミスが死を招く危機的状況に陥った。加えてカナディアン・クルーザーの遭難信号を受けた敵巡洋艦グラスゴーが逃走経路を遮断するように動いており、シェーアにとって最も脅威となった。悪い事は重なるもので、シェーアのレーダーが故障。盲目の状態で虎口から脱しなければならなかった。まさに絶体絶命の窮地だった。
グラスゴーのウォルラス飛行艇がアドミラル・シェーアを発見。敵パイロットは無線を発さずに飛び去った事からクランケ艦長は発見されなかったものと判断した。しかしこの判断は誤りだった。シェーアの位置情報はグラスゴーに知られ、追跡を受ける羽目になる。それでも慎重派のクランケ艦長はインド洋を去る時だと悟り、西進を開始した。再び飛来したウォルラス飛行艇がシェーアに触接し、追跡者のグラスゴーを誘導する。だが、ここで天運はシェーアに味方した。急激に天候が悪化し始め、視界が3マイル以下になるなど触接が困難になる。更にグラスゴーは燃料不足に陥ってしまい、泣く泣くモーリチウスに帰投。むざむざとアドミラル・シェーアを取り逃がした。グラスゴーの追跡は振り切ったが、死地から脱した訳ではなかった。アドミラル・シェーアを導く蛍火になったのは、無線傍受と暗号解析だった。敵の暗号を読む事で敵艦の配置を把握し、包囲網の薄い部分を狙って突破を図った。どの敵艦にも捕捉される事なく、恐るべき強運を発揮して2月26日に南大西洋へと逃げ切った。シェーアの突破を知ったインド洋方面のイギリス艦隊は追撃を断念した。しかし危うい一面もあった。ケープタウンを出発した敵巡洋艦コーンウォールがシェーアの航路を二度も横切っていたのである。コーンウォールがヴィシーフランスの輸送船ヴィル・ド・マジュンガを臨検していなければ、タイミング的に鉢合わせしていたのだからまさしく間一髪である。アドミラル・シェーアが挙げた大戦果はヒトラー総統の耳にも入り、クランケ艦長に騎士十字勲章を授与すると伝えてきた。艦長の首元には急造の勲章が掛けられた。レーダーが故障したままでは危険だと考えたクランケ艦長は、本国に修理部品の補給を要請。
3月8日に補給艦ノルトマルクと合流。2日後に郵便や予備品を積載したアルステルーファが来訪した。予備品はレーダー修理用のクオーツで、荒天のデンマーク海峡を突破するには欠かせない物だった。ドイツ本国はアドミラル・シェーアの帰国を確実なものにするため、アドミラル・ヒッパーを先に帰国させるなどイギリスを刺激しないよう配慮。様々な仲間に助けられながら、祖国を目指した。
3月11日、帰国に向けた航海を開始。3月18日、長年連れ添った伴侶のデュケーサを撃沈。思えば、今回の戦果はデュケーサの力添え無しでは決して叶わなかった。3月25日に難所デンマーク海峡の前に到着した。しかし海峡は晴れ上がっており、このまま突入すればアイスランド東西を監視している敵巡洋艦に発見されるのは火を見るより明らかだった。イギリス海軍の厳重な封鎖を突破するには、どうしても視界不良が必要だった。ここでアドミラル・シェーアは足踏みを強いられ、好機を待った。3月27日、新月の夜を利用してデンマーク海峡に突入。修理したレーダーを使って巡洋艦フィジーとナイジェリアの目から逃れた。3月30日、ドイツ占領下のグリムスタフィヨルドに投錨。帰国まで後一歩のところまで来た。乗組員は24時間の整備を行い、帰国に備えた最後の準備を整えた。グリムスタフィヨルドからは護衛の駆逐艦Z23とZ24が伴走してくれた。そして4月1日、アドミラル・シェーアはキールに入港。戦闘航海は161日に及び、走駆した距離は4万6000海里(8万5000km)だった。港ではレーダー提督が出迎え、水兵たちを査閲。士官とは一人ひとり握手を交わして歴史的成功を祝った。シェーアは17隻の敵船、計11万3233トンを撃沈ないし拿捕するという水上艦トップの大戦果を収めたのだった。クランケ艦長には騎士十字勲章が、乗組員全員に鉄十字章が授与される破格の対応だった。勲章を授与しに来たレーダー提督にはデュケーサが遺した食糧品が振る舞われ、花を添えた。
ようやく長旅の疲れを癒せるかと思った矢先の4月7日深夜、229機の英爆撃機がキール軍港と市街地を爆撃。死者88名と負傷者184名が出てしまった。アドミラル・シェーアに被害は無かったが、大西洋より自国の港の方が危険だと思い知らせる不吉の夜となった。4月中だけで四度の爆撃があり、5月17日から翌18日にかけても爆撃機70機が襲来。戦艦ティルピッツに攻撃が集中したため、アドミラル・シェーアは全くの無傷で済んだ。6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を開始し、ソ連領への侵攻を開始した。しかしヒトラー総統が「バルト海における大規模な作戦行動はレニングラード奪取まで避けよ」と命じたため、海軍に出番は無かった。その間にアドミラル・シェーアは大改装を受け、乗組員は休養。7月から8月にかけてバルト海で訓練を行った。9月4日、疲れを癒したアドミラル・シェーアが戦線に復帰。新しい艦長にメーンツェン・ボールケン大佐が着任した。シュヴィーネミュンデを出発し、カテガット海峡で慣熟訓練を行い、8日までオスロに留まった。シェーアの出港を知ったイギリス軍はB-17爆撃機4機を急派したが、ドイツ空軍の迎撃で2機が撃墜され、更に1機が着陸時に破損した。結局一撃も与えられないまま、シュヴィーネミュンデに戻っていくシェーアを見つめる事しか出来なかった。
9月23日、戦艦ティルピッツ率いるバルト海艦隊に加わってオーランド海に進出。ソ連軍艦隊に威圧し、出撃を抑える狙いがあった。ところが支援に出撃したドイツ空軍機がクロンシュタットを継続的に爆撃、戦艦マラートとオクチャブルスカヤ・レヴォルーチャ、巡洋艦キーロフとゴーリキー、駆逐艦6隻を撃沈して殲滅してしまった。このため海軍に出番は無く、1発も撃たないままシュヴィーネミュンデに引き返した。その後10月から11月にかけて、ハンブルクでオーバーホールを受ける。
1941年末にはリュッツォウとともに大西洋での通商破壊が計画されていたが、ビスマルクの喪失で大型艦を失う事に恐怖を抱いたヒトラー総統が中止を命令。代わりにノルウェーへ配備される事になった。連合国が運行する援ソ船団が北極海を走っていたし、国内にいるよりノルウェーにいた方が安全という面もあった。
1942年2月21日、アドミラル・シェーアはプリンツ・オイゲン、駆逐艦Z4、Z5、Z25、Z7、Z14とともにノルウェーへと向かった。翌22日13時にベルゲン近隣のグリムスタフィヨルドに仮泊し、20時40分に出発。トロンヘイムに向かっていた道中で旗艦プリンツ・オイゲンが敵潜トライデントに襲われ、大破させられた。プリンツ・オイゲンを労わりながらトロンヘイムに入港。のちにプリンツ・オイゲンは本国に戻った。予定ではトロンヘイムに留まるはずだったが、ヒトラー総統がアドミラル・シェーアを新たな通商破壊に投ずると命じたため、魚雷艇T-5とT-7、護衛艦ディトマルシェンを伴ってトロンヘイムを出発。ティルピッツがいるナルヴィクのオースフィヨルドに入港。イギリス本国艦隊を威圧する強力な艦隊の一員となった。7月2日、レッセルシュプルンク作戦に参加。レイキャビクからアルハングリスクに向かうPQ17船団を撃滅すべく、ナルヴィクにティルピッツ、アドミラル・ヒッパー、駆逐艦4隻、魚雷艇2隻が到着。7月5日午後、ティルピッツのグループに加わり、アドミラル・ヒッパーや駆逐艦7隻とともに出撃。PQ17船団が取りそうな主要航路の遮断に動いた。ところが既にPQ17船団はUボートと空軍機に蹴散らされており、喜ばしい戦果が続々と寄せられた。17時2分にソ連潜水艦K-21にティルピッツが雷撃されるも被害なし。21時30分、アルテンフィヨルドに引き上げるよう命令が下り、何も出来ないまま撤退する事になった。7月8日、艦隊はナルヴィク近くのボーゲン湾に投錨。
8月16日、カラ海で通商破壊を行うワンダーランド作戦に参加すべくボーゲン湾を出発。駆逐艦3隻がついてきてくれたが、彼らはベア島方面に送り出し、自身は単独で獲物を探した。極北の海は氷雪に包まれた異界であり、流氷、霧、氷山がアドミラル・シェーアを出迎えた。そしてそれらの環境は、時に敵の味方をした。8月20日、アラド水上機が三個小型船団を発見したが、クラコフカ島付近で巻き上がる霧や流氷、悪天候に阻まれ、接近する事が出来なかった。8月25日の明け方、ゼラニア岬のソ連軍基地を砲撃。倉庫、宿舎、気象観測所を破壊し、無線装置のある建物にも損害を与えた。次の目標であるノヴィ・ディクソンに向けて移動を開始したところ、ヴィリキツキー海峡にてソ連の破氷艦アレキサンドル・シビリヤコフ(1383トン)を発見し、停船させる。身元を伏せた上で、厄介なカラ海の流氷について最新の情報を聞き出そうとした。だが艦長のカチャラヴァ大尉は相手がドイツ艦だと見抜き、時間稼ぎを開始した。ちょうど近くに一個船団が航行しており、アドミラル・シェーアの爪牙から守ろうと考えたのである。まずシビリヤコフはシェーアに艦名を尋ねた。するとシェーアは「日本のシシヤマ」と答えた。ソ連と交戦していない中立国の船に偽装しようとした訳だが、乗組員のミスでマストに星条旗を掲げてしまったためあっさり嘘がバレてしまう。するとシビリヤコフは突如襲い掛かってきた。その様相はジャーヴィスベイを髣髴させた。だが火力差は歴然。シビリヤコフは撃沈され、カチャラヴァ艦長を含む22名の生存者が救助された。一方で全乗組員が冷たい氷の海に沈んだとする資料もある。
西向きに進んだアドミラル・シェーアは8月27日午前1時5分、ノヴィ・ディクソンに接近。霧の中に紛れ、幽霊船のように肉薄していった。午前1時37分、28cm主砲が火を噴いた。100発以上の28cm砲弾が町や港湾施設に降り注ぎ、多くの建物が損壊。破氷艦デズネフと汽船レヴォルツィオナーに損傷を与えた。しかしノヴィ・ディクソンはゼラニア岬より強烈な反撃をしてきた。沿岸防備隊やソ連陸軍の砲台がシェーアに砲撃し、港内に停泊していた商船の大砲も加勢。戦闘開始23分ほどで2発の命中弾を受けてしまう。これ以上の損害を防ぐため、シェーアは煙幕を展開して後退。半時間後に再度砲撃を加えたが、間もなく大洋に引き下がった。この戦闘でワンダーランド作戦は終了となり、西進を続けてカラ海を脱出。8月30日18時、ナルヴィクに帰投。修理に入った。
10月20日、本国で修理を行うべくアルタフィヨルドを出発。4日後に経由地のトロンヘイムに到着した。11月6日、護衛のZ23、Z28、Z29とともにトロンヘイムを出発。11月12日にシフィノウィシチェに寄港し、オーバーホールのためヴィルヘルムハーフェンに回航された。12月31日に生起したバレンツ海海戦の不満足な結果により、ヒトラー総統は水上艦艇を全て退役させてしまった。これに伴ってアドミラル・シェーアも第一線を退かされ、以降は訓練艦として燻る事になる。
1943年3月23日、ヴィルヘルムスハーフェン空襲に巻き込まれ、爆弾の直撃を喰らったが不発弾だった。3月27日15時30分、ヴィルヘルムスハーフェンを出発してシフィノウィシチェへ移動。ここで年内を過ごす羽目になり、一度も戦う事は無かった。かつての栄光は過ぎ去り、今やアドミラル・シェーアは浮いているだけの存在になった。ところが、戦況がシェーアの退場を許さなかった。
1944年に入ると、ひとつの転機が訪れた。中央軍集団の半壊に伴って東部戦線が崩壊し始め、ソ連軍が大挙して東プロイセンやバルト三国に押し寄せてきたのである。この窮地にヒトラー総統は焦り、半ば放置されていた水上艦艇に戦闘任務への復帰を許可した。これに伴い、アドミラル・シェーアは6月3日にゴーテンハーフェンへ移動。6月6日から10日にかけて入渠し、戦えるだけの力を再度手にした。7月2日、アドミラル・ヒッパー、リュッツォウ、プリンツ・オイゲンで第2戦闘グループを編制。東プロイセン方面から逃げてくる難民や陸軍の撤退支援を帯びた。
9月21日、ボーンホルム島からシフィノウィシチェにヒトラーユーゲントの少年150人を輸送。10月10日、リュッツォウとともにメーメル方面のソ連軍を砲撃。撤退する中央軍集団の兵を船団のもとまで守った。リュッツォウとプリンツ・オイゲンが砲弾を撃ち尽くしたため後退する事になり、シェーアはアドミラル・ヒッパーとタッグを組んでその穴を埋めた。艦砲射撃を疎ましく思ったソ連軍は高高度爆撃機や雷撃機を送り込んで激しい空襲をしてきた。しかしイギリス軍と比べると稚拙で、2隻とも無傷で乗り切った。砲撃支援は10月15日まで続き、脱出したドイツ兵はゴーテンハーフェンに送られた。10月25日から11月19日までゴーテンハーフェンで整備を受ける。
11月19日、スヴォルベ半島のソ連軍が本格的に侵攻を開始。南部のドイツ軍が絶体絶命の窮地に立たされた。これを受けて海軍はハンマー作戦を発動。11月21日、魚雷艇T-3とT-12を引き連れてゴーテンハーフェンを出発した。そして28cm主砲をソ連軍にぶつけ、進撃を食い止める。砲撃はローテーションを組んで行われ、11月23日にシェーアは後退。代わりにリュッツォウが任務を引き継ぎ、強力な火力を敵に浴びせ続けた。補給を済ませると、アドミラル・ヒッパーと一緒に舞い戻り、リュッツォウと交代。絶え間ない大火力をありったけ食わせた。献身的な砲撃支援が結実し、スヴォルベ半島のドイツ軍は退却に成功。ソ連軍が南端に到達した頃には誰も残っていなかった。アドミラル・シェーアは11月25日、悠々とゴーテンハーフェンに帰投した。作戦後、グディニアで燃料補給を受けるアドミラル・シェーア。すると負傷兵の一団がシェーアの舷門板を渡ってきて、涙を浮かべながら水兵と握手したという。彼らはシェーアが命を賭して助けた陸軍の兵たちで、感極まった彼らはなかなか言葉を出せず、やっとの思いで「ありがとう」と言葉を紡いだ。
12月16日、ゴーテンハーフェンを出発してピラウに回航。ピラウは東プロイセンの郊外にある小さな港町で、首都ケーニヒスベルクから脱出する避難民で溢れ返っていた。彼らを脱出させるべく輸送船から漁船に至るまで船が派遣され、水路は小型船舶でいっぱいになっていた。無論この町にもソ連軍が迫っており、ソ連軍の蹂躙から難民を守るのがアドミラル・シェーアとリュッツォウの役目だった。
1945年1月1日の年明けをピラウで迎えた。ソ連軍から放たれた砲弾が、列を作る難民の近くに着弾して悲鳴が上がる。東プロイセン最後の脱出口であるピラウを守るため、リュッツォウとともに艦砲射撃。砲弾が街を飛び越え、その先のソ連軍陣地に命中。混乱状態に陥ったソ連軍の隙を突いてドイツ陸軍が突撃し、孤立していた首都ケーニヒスベルクの連絡を一時的に回復。再び閉ざされるまで数千人が脱出に成功した。2月2日から5日にかけ、サンビア半島の海岸線からソ連軍の合流地点を砲撃。2月9日と翌10日は、フロンボルク沖のソ連軍を砲撃した。2月20日午前5時より2時間、ソ連軍に占領されたコニッヒスベルグを砲撃。もう一度ピラウ・ケーニヒスベルク間の脱出路をこじ開け、難民に脱出のチャンスを与える。3月8日、民間人800名と負傷兵200名を乗せてバルト海を脱出。本国のキールに送り届ける予定だったが、道中で機雷原に阻まれたためポーランド国境付近のシュヴィーネミュンデで一旦降ろした。その後、コルベルク郊外のソ連軍砲兵陣地を砲撃。この砲兵陣地から難民への砲撃が行われていたが、アドミラル・シェーアの活躍で3回沈黙させられた。この砲撃で全ての弾薬を使い切り、一旦降ろしていた難民を乗せて再びキールを目指す。何とか機雷原を突破し、3月18日にキール入港。酷使した船体の修理に着手した。しかしキールは連合軍から連日爆撃を受けており、ドックに入渠したアドミラル・シェーアが発見されるのは時間の問題だった。
1945年4月9日22時、キール造船所に300機以上の英軍機が襲来。当初は不思議なほど爆弾が当たらなかったが、ついにその幸運も尽きてしまったのか1トン爆弾トールボーイが至近距離で爆発。桁外れの破壊力により全舷側鋼板が引き裂かれ、急速に転覆。修理中だったため乗組員の多くは上陸しており、素早く防空壕に逃げ込んで助かった。しかし艦内に留まっていた対空要員や、重要な機材を守っていた人員32名が戦死してしまった。転覆した船体は放置され、そのまま終戦を迎えた。
シェーアの残骸は1946年7月に解体されたとも、駐車場建設のため1948年に埋め立てられたとも言われる。
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