ダホス(Da Hoss)とは、1992年生まれのアメリカの競走馬(騸馬)。4歳時のBCマイル制覇後に古傷を悪化させ約2年の長期休養に追い込まれながらも、そこから見事復活を遂げ2年越しにBCマイル2勝目を挙げた、アメリカ競馬における「奇跡の復活劇」の代名詞的存在である。
概要
父Gone West、母Jolly Saint、母父Welsh Saintという血統。
父ゴーンウェストはGI1勝(ドワイヤーS)だがその勝利が12馬身半差の圧勝というインパクト大の馬であり、種牡馬としては芝とダートを問わずオールラウンドに活躍した。
母*ジョリーセイントは重賞2勝を含む13戦3勝。1997年に日本に輸入されノーザンファームに繁殖牝馬として導入されたが、これといった産駒は出ず2000年に死亡している。ダホスの従弟には1995年にフランスの2歳GIモルニ賞を勝ったTagulaがおり、騸馬でなければ種牡馬価値が結構ありそうな血統である。
母父ウェルシュセイントは短距離戦を中心に走り12戦7勝。
本馬は後に米国競馬史上初の1000万ドルホース・Curlinを生産するケンタッキー州の名門・ファレスファームの生産馬である。しかし幼少期に感染症で蹄骨の1/4が壊死した上、1歳時には右前脚関節炎を抱えてしまう。この関節炎がキャリアを通してダホスを悩ませ続けることとなる。
1歳9月にキーンランドセールに上場されたがこんな状態の馬が高くつくわけもなく、同父の1歳馬の中で最も安い6000ドルという価格で購買され、共同購入者の一人であるケヴィン・エイクルベリー調教師の管理馬となった。
2~3歳時:雌伏
2歳9月にダート5.5ハロンのメイドン(未勝利戦)でデビューし、2歳時の主戦となるフラビオ・マルティネス3世騎手を背に1馬身差で勝利しデビュー勝ちを飾ると、24日後の一般競走(ダート6ハロン)でも3馬身差で楽勝。12日後のブラックタイプ競走ATBAセールスS(ダート6ハロン)では全米レコード1:07.2を叩き出して10馬身差で逃げ切り圧勝した。2歳時は3戦3勝でシーズンを終え、3戦目の後に権利の85%がケンタッキー州のプレストンウッドファームにトレードされた。
3歳時は始動戦となった3月のベストターンS(GIII・ダート6ハロン)を3馬身差で逃げ切ったが、3週間後のゴーサムS(GII・ダート1マイル)では3連勝中で本馬より5ポンド重い斤量のカナダ調教馬Talkin Manから7馬身差をつけられた2着に終わり、ケンタッキーダービーには向かわずその前週の芝1マイルの一般競走を使って勝利した。
続けて2週間後のイリノイダービー(GII・ダート9ハロン)に出走したが、スタートからGadzookと逃げ争いをして消耗してしまい、この年GI2勝を挙げることになる1番人気のPeaks and Valleysの2着に終わった。続くジャージーダービー(GII・芝8.5ハロン)ではこれまでと異なる中団追走の競馬を試し、早めに押し上げて半馬身差で勝利した。
しばらく休養した後、7月のスワップスS(GII・ダート9ハロン)に出走した。126ポンド(約57.2kg)を背負うケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬*サンダーガルチに対し118ポンド(約53.5kg)の斤量で中団からこれを追い詰めたが、最後は引き離されて2馬身差の2着に終わった。*サンダーガルチは後にトラヴァーズSも勝つ馬なので、ここでは相手が悪かったと言うべきであろう。
9月に入り、デルマー招待ダービー(GII・芝9ハロン)では2馬身差で勝ったが、ペガサスH(GII・ダート8.5ハロン)では単勝1.4倍の1番人気に推されながらもFlying Chevronに5馬身1/4差で逃げ切られ2着に終わった。Flying Chevronはこの2ヶ月後にNYRAマイルH(GI)を勝つことになる上がり馬だった。
その後BCスプリントに出走したが好位追走からズルズル後退し、勝ち馬から27馬身差を付けられたシンガリ負け(13頭立て)というキャリアを通して最悪の惨敗を喫した。勝ち馬Desert Stormerが逃げ切り勝ち、2着Mr. Greeleyも2番手からの粘り込みという行った行ったの競馬だったことを考えると、6ハロン戦は(2歳レコードを出したとはいえ)ベストの条件ではなかったようだ。
その後11月末のハリウッドダービー(GI・芝9ハロン)に出走したが、フランスから遠征してきたLabeebに全く追いつけず5馬身差の3着に敗れ、3歳時を10戦4勝で終えた。シーズン終了後に馬主名義がプレストンウッドファームに変更され、マイケル・ディキンソン厩舎に転厩した。
マイケル・ディキンソン
ここで、この馬を語る上において欠かせないディキンソン師について軽く触れておこう。
ディキンソン師は元々障害騎手・調教師として活躍し、1982年12月26日に1日12勝、1983年のチェルトナムゴールドカップでは管理馬で上位5頭を独占するという複数のギネス記録を残すなど辣腕を振るった後、1980年代末期にアメリカに拠点を移した。
アメリカでも成功を収め、一時引退していた2008~15年を除いて1989年から2021年まで全ての年で勝率10%以上を叩き出すという凄まじい手腕を見せている。この25シーズン中、勝率20%を割ったのも5シーズンだけというからただものではなく、キャリアハイの勝率を記録した2001年には勝率32%を叩き出している。
また彼の更なる功績として、人工馬場素材「タペタ」(tapeta=ラテン語で「絨毯」の意)を開発したことが挙げられる。これは元々ディキンソン師が自らの調教場であるタペタファームの馬場に使うために開発したもので、後に改良・開発が進むとレース用の馬場にも使用されるようになった。このタペタ素材はオールウェザー開催時代のメイダン競馬場にも採用されるなど相当の評価を得ており、先述した一時引退はこのタペタの開発に専念していたためという事情もある。
ディキンソン師は「The Mad Genius(狂気の天才)」という異名を取っていた人物であるが、こういった競走・研究開発両面の実績、そして何より本馬の活躍を考えれば、それも決して誇張ではないと言えよう。
4歳:一度目の栄華
※これ以降は芝でしか出走していないため、馬場種別は必要に応じて省略する。
さて、4歳時は8ヶ月の休み明けとなるポーカーH(GIII・1マイル)から始動しこれを3着とした後、フォースターデイヴH(GIII・8.5ハロン)を1馬身1/4差の2着に抑えて勝利。約2週間後のペンシルベニアガヴァナーズカップH(L・8.5ハロン)は5馬身差で楽勝した。
しばらく間を空け、BCマイルを目標として2ヶ月後のケルソH(GIII・1マイル)に出走するとここでは単勝2.7倍の1番人気に推された。しかし、120ポンド(約54.4kg)の本馬に対して113ポンド(約51.3kg)と軽量だったブービー人気のSame Old Wishにアタマ差で交わされて2着に惜敗した。
それでも3週間後のBCマイル(この年はカナダ・ウッドバイン競馬場での開催)に向かい、当年の英2000ギニー馬Mark of Esteemや愛2000ギニー馬*スピニングワールドといったトップマイラーを相手に3番人気に支持された。レースでは最初こそ中団後方に位置取ったが早めに位置取りを押し上げていき、直線で先頭に立つと追ってきた*スピニングワールドを1馬身半差で封じて勝利した。
5歳時~6歳前半:苦難の2年間
栄光を掴んだのも束の間、翌年3月に腱を痛めてしまい、6月には関節炎の状態が悪化してしまう。苦難はこれに留まらず、9月に入って両前脚が一時的に歩行に支障をきたすほど不自由になってしまった。血統の解説でも述べた通り騸馬でなければ種牡馬価値のありそうな血統ではあるのだが、そうは言っても騸馬であるものは仕方ないので、ディキンソン師は時間をかけてでも復帰させることを目指すことにした。
6歳になると歩行運動が出来るくらいには回復したが、腱に熱を帯びていることが分かり、本格的な調教まで取り掛かることは出来ず、4月にタペタファームに放牧に出された。ここで本馬はディキンソン師が馬主も兼ねていた、愛称を「ブーマー」という1頭の馬に懐くようになった。
このブーマーという3歳上の騸馬、本名はBusiness Is Boomin'というのだが、彼はなんと1992~97年にかけての5年間の休養明けから(下級条件戦とはいえ)復帰3連勝していたというとんでもない経歴を持つ馬であり、この頃はまだ現役で、この年の夏にも3連勝することになるという尋常ならざる馬であった。ディキンソン師はこの経験に倣い、本馬を再び蘇らせようと腐心していたのである。
ディキンソン師やミゲル・ピエドラ厩務員の献身的な世話により、6歳春から徐々に運動を再開できるようになった本馬は、9月に入ってようやく調教を再開した。
再びの栄華、「ラザロ以来」と称された大復活劇
ディキンソン師はこの年のBCマイルを狙うつもりであったが、1996年のBCターフにRicks Natural Starという下級条件馬が出走し終始後方のまま最終的に競走中止したのが物議を醸したことで主催者側が出走可否の裁定基準を厳しくしたというのもあるし、そうでなくても調教の動きが悪かったことを考えれば流石にぶっつけは無謀ということで、何らかのレースを挟むことになった。
降雨による馬場の悪化などもあり、最終的にはヴァージニア州のコロニアルダウンズ競馬場というマイナーな競馬場の一般競走(芝9ハロン)が復帰戦に選択され、本番27日前の10月11日にこれに出走。後にGI2勝を挙げジャパンカップにも来日することになるJohn's Callに3/4馬身差をつけ勝利した。
レース終了後、ディキンソン師は本馬をしばらくタペタファームに置いて、レースの約10日前にブリーダーズカップが開催されるチャーチルダウンズ競馬場に移動させたが、時間制限もあるし他の厩舎との兼ね合いもあるしで思うように調教を積むことが出来なかった。そんな状況だったこともあり、2年前に手綱を執ったゲイリー・スティーヴンス騎手にはイギリス調教馬で騎乗経験もないこの年のサセックスS勝ち馬Among Menを優先され、エージェントを通して断られてしまった。そこで、2年前のフォースターデイヴSを勝った時に騎乗していたジョン・ヴェラスケス騎手が騎乗することになった。
この年のBCマイルも粒揃いのメンバーで、本馬は単勝12.6倍で14頭中5番人気という単穴ポジションに留まった。1番人気は前年に2歳にして年度代表馬を獲得しこの年も重賞3勝を挙げていたFavorite Trick、2番人気は愛2000ギニーなど欧州でマイルGIを3勝している3歳馬Desert Prince、3番人気は3年前のハリウッドダービーで本馬を破りこの年もウッドバインマイル(GI)を勝っていたLabeeb、4番人気はこの年のアーリータイムズターフクラシックS(GI)を勝ったJoyeux Danseurであった。
レースが始まるとFavorite Trickが逃げ、本馬は好位から追走した。向こう正面に入ったところで英国馬のCape Crossが掛かり気味にFavorite Trickに絡んでいく展開となり、やや先行集団は乱れた感じとなったが、じっと脚を溜めた本馬は4角から一気に進出。直線入口で先頭に立って先行していたLabeebや脚が上がったFavorite Trickらを抜き去ってヴィクトリーロードを邁進せんとしたが、そこへGI未勝利ながらこの年重賞5勝を挙げていた7番人気のHawksley Hillが追い込んできた。3番手以下が離れていく中でHawksley Hillの勢いは良く、一旦は完全に前に出られたようにも見える態勢となったが、ダホスはゴール直前で凄まじい闘志を発揮してこれを差し返し、アタマ差を付けて先にゴールした。
ゴールの瞬間、実況アナウンサーのトム・ダーキンは「Da Hoss COMES BACK! UNBELIEVABLE!!」と叫び、そしてこの勝利を「ラザロ(新約聖書の登場人物)以来最大の復活劇」と讃えた。NBCの中継MCであったトム・ハモンドは「我々はマイケル・ディキンソンを狂気の天才と呼んできたが、一体どうやって2年で1戦しかしていない馬を復活させてBC2勝目を挙げさせたのか!」と驚嘆した。
11着に敗れたAmong Menを優先したばかりにチャンスを棒に振ってしまったスティーヴンス騎手はレース後にディキンソン師を讃え、Among Menのサー・マイケル・スタウト師はディキンソン師に「Maestro.」(天才)の一言だけをかけた。後にディキンソン師は「(スティーヴンス騎手のエージェントが断った判断は)100回中99回は正しいが、ダホスのような馬は稀にそれが間違いだと証明するものだ」(大意)と述懐している。
その後は翌年のBCマイルを視野に入れていたが、脚部不安が再発し、奇跡的な復活劇をラストランとして引退することになった。通算成績は20戦12勝・GI2勝だが、そのGI2勝は間に2年のブランクを経て掴んだBCマイル2勝である。
なお、ブリーダーズカップで同一競走を隔年で複数勝したのはOuija Boardが2004・06年のBCフィリー&メアターフを勝つまで本馬が唯一であった。
引退後は騸馬のため種牡馬入り出来ないのでしばらくタペタファームで過ごし、その後はケンタッキーホースパークに移住。その後は長寿を保ち、30歳になったばかりの2022年1月2日に老衰のためこの世を去った。
怪我から蘇って2年ぶりにBCマイル2勝目を挙げたこと自体もさることながら、去勢されていなければ古傷が悪化した時点で種牡馬入りしてもおかしくないと思わせるような血統でありながら騸馬である故に種牡馬としての道を閉ざされていたという偶然、そして転厩先が「狂気の天才」ディキンソン師であったということもまた「奇跡」と思わせるような、そんな波乱万丈のキャリアを歩んだ馬であった。
血統表
Gone West 1984 鹿毛 |
Mr. Prospector 1970 鹿毛 |
Raise a Native | Native Dancer |
Raise You | |||
Gold Digger | Nashua | ||
Sequence | |||
Secrettame 1978 栗毛 |
Secretariat | Bold Ruler | |
Somethingroyal | |||
Tamerett | Tim Tam | ||
Mixed Marriage | |||
*ジョリーセイント Jolly Saint 1982 鹿毛 FNo.16-c |
Welsh Saint 1966 鹿毛 |
St. Paddy | Aureole |
Edie Kelly | |||
Welsh Way | Abernant | ||
Winning Ways | |||
Jolly Widow 1974 栗毛 |
Busted | Crepello | |
Sans le Sou | |||
Veuve Joyeuse | *ヴィエナ Vienna |
||
La Canea | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Aureole 4×5(9.38%)、Nasrullah 5×5(6.25%)
関連動画
ポストを読み込み中です
https://twitter.com/BreedersCup/status/1478386237807411205
関連コミュニティ
関連項目
- 1
- 0pt