ティレルとは、かつて存在していたF1世界選手権のコンストラクターである。日本ではタイレルとも呼ばれた。
概要
1970年にケン・ティレルの手によってプライべーターとして参戦し、第11戦より独自シャシーを持ち込んでコンストラクターデビューを果たす。
1971年コンストラクターズチャンピオンを手にするなど、初期は強豪チームの仲間入りを果たしたが、1983年の優勝を最後にポディウムの頂点から遠ざかり、中堅チームに格下げとなってしまった。
しかし、革新的なマシンやF1で活躍する若手ドライバーを次々と起用するなど、グランプリの舞台では決して無視することのできないチームであった。
1998年にBARが買収し、ティレルとしての活動は同年をもって終了した。
歴史
チーム結成、1970年代
1968年に、フランスのマトラのセミワークスチームとして、マトラ・インターナショナルを結成。ケン・ティレルはその監督に就任した。マトラのシャシーにコスワースDFVエンジンを採用し、ジャッキー・スチュワートの手によって1969年にドライバー、コンストラクターのダブルタイトルを手にした。
しかし、マトラは1970年より再び独自エンジンを使用することを決めたものの、スチュワートによるテストによってコスワースのほうが戦闘力が高いと判断したティレルは、独自にチームを結成することを決断、マトラのエンジニアであったデレック・ガードナーへ極秘裏にマシン制作を依頼した。
1970年当初は、スチュワートと、フランスの新人であったフランソワ・セベールを擁し、マーチのシャシーを使用したプライべーターとしてデビューを果たしたが、第11戦カナダGPで独自シャシー、001でコンストラクターデビュー、そしていきなり予選でポールポジションを奪った。
翌年にはスポーツカーノーズを採用し、戦闘力を向上させた003により、スチュワートが2度目のドライバーズチャンピオン、ティレルもコンストラクターズチャンピオンを手にした。
1973年には005でスチュワートがティレルで2度目のタイトルを手にしたが、この年をもって引退を決意していた。
しかし最終戦、成長著しかったセベールが予選中にクラッシュ、事故死。悲しみに暮れたスチュワートは決勝に参戦せずに引退した。
1974年には、ジョディ・シェクター、パトリック・デパイユという2人の若手ドライバーを起用し、優勝を幾度もするも、チャンピオンからは遠ざかっていった。
1976年に、空気抵抗を大きく減らすために前輪を小さなタイヤ4輪に変えた6輪車、P34をデビューさせた。最初は奇異の目で見られたが、第4戦のスウェーデンGPで優勝するなど実績をしっかり上げた。実は、当初狙っていた空気抵抗の低減はそれほどでもなく、4輪分のフロントタイヤがしっかりグリップすることによるハンドリングマシンとしての利点が勝った。ともあれ、この年はコンストラクターズランキングで3位を獲得した。
同年に日本で最初のF1グランプリ(国内レースとの兼ね合いで日本グランプリを冠すことができず、F1選手権インジャパンとされた)でもお目見えし、当時のスーパーカーブームにも乗って、P34は日本でも高い人気を誇ることとなった[1]。このとき、マシンにはひらがなで「たいれる」「しぇくたあ」「どぱいえ」(デパイユはドパイエと書かれる場合も多い)と書かれていた。
一方で型落ちとなった007は、1976年のF1選手権インジャパンで星野一義がプライベーターとしてドライブ、悪天候の中で一時3位を走る活躍を見せた。この時、レース前にシェクターが星野に「周回遅れにされるときはどっちに避けるか考えとけよ」と冗談交じりに言ったことが、星野の心の火にハイオクガソリンを注ぐ結果になったという逸話がある。
翌年には高橋国光が日本GPでドライブした。
翌年も改良型のP34/2を投入したが、ティレルしか使わない小さなフロントタイヤの開発からメーカーが手を引いたことで成績が低迷、この年をもって6輪車は姿を消した。
再びコンベンショナルな4輪車の008を開発し、1978年開幕戦のモナコでデパイユが初優勝した。しかし、その後はロータスのウィングカーの天下となり、ティレルも追従してウィングカーを開発するも、トップに追い付くことは出来ないまま1970年代は終わった。
ターボ時代
1980年代に入り、ルノーによって戦闘力を証明されたターボエンジンが次々と採用されていく中、ティレルはその波に出遅れてしまった。
何とかまだ戦闘力の残っていたコスワースDFVエンジンで1982年の最終戦ラスベガスGPで、イタリアの若手だったミケーレ・アルボレートによって優勝、翌年には改良型のDFYエンジンを使用して優勝を果たすが、これがティレル最後の勝利となってしまった。
1984年には待望のルノーターボエンジンを採用し、当時新人のマーティン・ブランドルとステファン・ベロフによって表彰台にも上る活躍を見せたが、水タンクに燃料を入れて走行し、終盤のピットインで水に交換して最低重量規定以下で走っていたことが判明、チームとドライバーのポイントはすべて剥奪されてしまった。
これによってティレルは致命的な損失をし、優勝争いから遠のくこととなった。
NA時代、1990年代
1988年をもってターボエンジンが禁止させれることが決まると、ティレルは1987年から積極的にNAエンジンを採用して将来に備えた。NAエンジンクラスの選手権、ジム・クラークカップ(ドライバー)とコーリン・チャップマンカップ(コンストラクター)が設けられ両タイトルを獲ったものの大した注目は集めなかった。
そして1989年、ノーズ先端を若干上げたハイノーズの前身ともいえるデザインと、細くなったモノコック向けに単一のコイルスプリングを使用したモノショックサスペンションを採用した018をデビューさせた。
エンジンはコスワースDFRエンジンで戦闘力に劣っていたが、第2戦から投入された018は早速戦闘力を見せつけて、ジョナサン・パーマーの手によって5位入賞、第4戦では復帰したアルボレート[2]の手によって表彰台を獲得した。
第7戦のフランスGPから、新人のジャン・アレジを起用、同戦で4位入賞を果たすなど、10年ぶりのコンストラクターズランキング5位に返り咲いた。
018は1990年当初にも使用され、開幕戦ではアレジがアイルトン・セナとトップ争いをする活躍を見せ、2位表彰台を手にした。 これには、開幕直前にピレリタイヤと契約を結んで同社のナンバーワンチームの待遇を得られたことも大きい。
そして第3戦からは、さらにノーズがリフトアップされ、フロントウィングを斜めに押し下げたようなアンヘドラルウィングを採用した019がデビュー、アレジはモナコGPで2位を獲得、この年に参入した中嶋悟[3]も3度の入賞を果たした。
1991年には、待望のホンダV10エンジンを採用した改良型、020を投入、アレジに代わってステファノ・モデナが起用され、カナダGPで2位表彰台を獲得した。
しかし、大きくて重いエンジンを使ったことでマシンバランスが悪化、カバーするためにギヤボックスを軽量化したことが信頼性の低下につながり、ベネトンにナンバーワン待遇を奪われたピレリタイヤの不安定さも手伝って思ったほどの成績を残せなかった。
そして中嶋悟にとっての最後のマシンとなってしまった。
020はイルモアエンジンに乗せ換えられて1992年シーズンにも使用されたが、却ってマシンバランスが好転し、4度の入賞を果たした。
しかし資金不足によって020は1993年シーズンの中盤まで使用されることとなった。エンジンはヤマハとジャッドの共同開発によるOX10A V10エンジンとなったが、さすがに3年落ちのマシンでは戦闘力不足は否めなかった。シーズン途中で登場した新設計の021も期待はずれに終わり、この年から参入した片山右京にとってもポイントの取れないシーズンとなってしまった。
1994年には、アンヘドラルウィングを捨ててスタンダードなウィングに戻された022を採用した。
が、セナの死亡事故などでレギュレーションが大きく改訂されたことや、前年をもってアクティブサスペンションなどが禁止されたことが功を奏し、この年から起用されたマーク・ブランデルが久々の表彰台を獲得するなど、復調を見せた。 片山右京も初めての入賞を果たしている。
翌年にはハイドロリンクサスペンションを採用した023を持ち込むが、セッティングが難しく低迷、ノーマルに戻して結果が出るほどであった。
1996年もさしたる成績を残せず、この年を持ってヤマハは撤退した。
事実上の撤退
1997年には、中嶋悟が率いる中嶋企画(ナカジマレーシング)が参画して立て直しを図るが、翌年にはジャック・ヴィルヌーブのマネージャーであったグレイグ・ポロックが率いるBARが買収した。
しかし、BARはティレルの資産を使わずに独自の組織を使用し、シャシーもレイナードを使用することとなったため、この年をもって事実上の撤退となった。最後に日本人の高木虎之介が乗ったことぐらいが話題になった程度で、F1においてはえてしてある事とはいえ、あまりにも寂しい幕切れであった。
その後
ティレルの参戦権を引き継いだBARは、2000年にホンダエンジンを採用するが、2006年にホンダが買収してホンダレーシングF1となり、同年に優勝を果たした。
しかしリーマンショックによる恐慌に近い景気低迷が災いして2008年でホンダが撤退、同チームにいたロス・ブラウンが引き継いでブラウンGPとして2009年に参戦するが、レギュレーションの隙間をついたマシンが連勝を繰り返し、参戦1年目でのドライバーズ・コンストラクターズチャンピオンを手にした。
2010年にはメルセデスベンツが買収しメルセデスGP、のちにメルセデスAMGとして参戦、2014年にはメルセデスとしても初のコンストラクターズチャンピオンを手にした。そして2017現在に至るまで、4シーズン連続でチャンピオンを独占し続けている。
関連動画
関連静画
関連コミュニティ
関連項目
脚注
- *アニメ『アローエンブレム グランプリの鷹』には主人公マシンとしてなんと8輪車が登場。後のアニメ『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』の主人公マシンも6輪車が登場するなど、日本におけるフィクションにも大きな影響を与えた。
- *アルボレートはウィリアムズ・ルノーへの移籍を図っており、ほぼ決まりかけていたが土壇場でティエリー・ブーツェンに奪われてしまった。また、この後ティレルチームがキャメルのスポンサードを受けるに当たり、個人的に競合企業のマールボロの支援を受けていたアルボレートはチームを追い出されてしまう。これ以降、彼は「サーキットのお遍路さん」(by古舘伊知郎)として中堅~弱小チームを渡り歩くことになるのである。
- *この時、中嶋はオリジナル曲「悲しき水中翼船」のCDを発売している。019のウィングを水中翼船に見立てたのだろうか。
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