フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury、1946年9月5日 - 1991年11月24日)とは、イギリスのロックバンド・Queenのボーカリスト、ピアニストである。
概要
本名はファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)、またはフレデリック・バルサラ。
当時イギリス領だった、東アフリカ・タンザニアのザンジバル島にて生を享ける。両親はパールスィー(ペルシャ系インド人)で、父は植民地のオフィスで会計係を務めていた。
7歳でピアノを始め、8歳から英国式の寄宿学校に通う。既にこの頃からロックバンドでピアノとボーカルを務めており、12歳で学校のバンドを率い、ロックのカバーバンドとして活動した。この頃既に「一度聞いた曲を正確にピアノで再現する」など、早くも才能は花開いていた。
17歳の時にザンジバル革命により移民が迫害され、家族と共にイングランドに移住する。工業高校を経てイーリング・アートカレッジで芸術を学び、グラフィックデザインを学んだ。Queenのロゴも彼自身がデザインしたもので、他にも一部のアルバムのジャケットも手掛けている。
卒業後はヒースロー国際空港で働いたり、古着販売をしながらバンドを続けていた。転機となったのは1970年4月、ブライアン・メイとロジャー・テイラーのバンドに参加した事である。後に「Queen」として名声を轟かせる、その第一歩だった。
デビュー前、苗字をバルサラからマーキュリーに変更。またラリー・ルレックスの名義でソロシングルを発売している。
デビュー後は4オクターブとも言われてる幅広い声域と、ポップやバラードをはじめバラエティーに富んだ作曲によりバンド活動に貢献した。特に歌声は様々な音域を安定してパワフルに出すことができるため、ライブでのパフォーマンスと合わせて「世界最高のボーカリスト」と称されることもある。
ライブ公演においてその超絶的なパフォーマンスはシアトリカル(演劇的)と表現され、観客は型破りなフレディの姿と歌、演奏に文字通り魅了された。
最も知られるのは1985年に開催された「ライヴエイド」でのパフォーマンスである。
これはアフリカ難民を救済する為のチャリティコンサートで、全体を通じウッドストック・フェスティバルを超える20世紀最大の規模となった。当時のQueenは解散説も上がっていたが、スタジアムに参集した72000人の大観衆を熱狂させ、その存在を改めて知られる事となる。
『ボヘミアン・ラプソディ』『キラー・クイーン』『伝説のチャンピオン』など多くの名曲を手掛け、そのジャンルも多岐にわたる。
個人名義でのソロアルバムは1985年の『Mr.バッドガイ』で、他にもオペラ歌手のモンセラート・カバリェと共演したアルバム『バルセロナ』がある。
1987年にHIV陽性と診断されたが、本人も家族も対外的には頑として否定していた。ただし周囲のメンバーには早いうちから感染を告げている。
1991年2月、『イニュエンドウ』が最後のアルバムとなる。『ショウ・マスト・ゴー・オン』はフレディの白鳥の歌としてとみに有名。
その後徐々に体調は悪化し、1991年5月の『輝ける日々』のミュージックビデオではやせ衰えた様子が伺える。6月に入り容態は深刻となり、寝たきりとなる。
そして1991年11月24日、AIDSの合併症であるニューモシスチス肺炎(旧名:カリニ肺炎)により、45歳の若さで亡くなった。前日の11月23日、スポークスマンを通じて以下のコメントを発表している。
私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。 しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。
新聞とテレビは彼の死を大きく伝え、結果的にAIDSに対する認知が大きく広まったとする向きも多い。遺言により火葬の後散骨されたが、場所は不明。
彼の死をもってQueenは活動を休止。しかし1992年には残された三人の主導でフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われた。出演者はメタリカ、エクストリーム、デフ・レパード、ガンズ・アンド・ローゼス、トニー・アイオミ、ジョージ・マイケル、ポール・ヤング、ロジャー・ダルトリー、ロバート・プラント、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイといった豪華な顔ぶれ。また生前交友のあったエリザベス・テイラーのスピーチが行われ、トリはライザ・ミネリと全キャストによる『伝説のチャンピオン』ならびに『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』であった。
また同年のスペイン・バルセロナオリンピックではフレディの代役としてホセ・カレーラスが出演、モンセラートと共に『バルセロナ』を披露した。
死後もその存在感は大きく、後世のアーティストに多大な影響を及ぼしている。
日本との関係
親日家として知られている。本格的に人気が出る前、日本で女性ファンを中心に人気が高まった事もあり、Queenの初来日時に熱狂的な歓迎を受けた事に感激したのがきっかけだという。
来日公演以外にもお忍びで来日しており、新宿二丁目のとあるゲイバーがお気に入りで、来日するごとに通っていたという。他にも伊万里焼のコレクターで、ロンドンの自宅には日本庭園を作るほどだった。
日本語も少しなら喋る事ができ、来日公演のMCでは日本語を披露していた。『バルセロナ』に収録された『ラ・ジャポネーズ』は日本語の歌詞が大半を占め、『華麗なるレース』に収録された『手をとりあって』も日本語が使われている。
その他
- 大変な猫好きであり、自宅でも別宅でも数匹の猫と共に暮らしていた。『イニュエンドウ』収録の一曲『デライラ』は溺愛する愛猫・デライラのことを歌っている。歌詞を見ると解るが、デレッデレである。ねこだいすき。
- 両性愛者であり、女性とも男性とも交際した。性生活は乱れており、バスハウス(ハッテン場サウナ)に足しげく通っていたという。こうした事もあり、後にHIV感染する事となった(当時AIDSに対する知識はまだ充分に広まっていなかった)。
- 1984年にジム・ハットンと交際を始め、死ぬまでの7年間を共に過ごした。ジムは献身的にフレディを支え続け、「最後で最高の恋人だった」と語られている。実は彼自身もフレディからHIV感染したが、フレディが亡くなるまで決して口外しなかった。その後2010年に亡くなっている。なお、ハットンの死因は肺がんで、AIDSは無関係。HIV感染は20世紀後半にかなり治療法が進み、2000年代後半には健常者の平均寿命くらいまでは持ちこたえることができるようになったといわれる。
ヒゲとタンクトップ
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ライブでのフレディといえば、大方の人がヒゲ面でタンクトップという体操のお兄さんのような格好を想像すると思われるが、当初からあのようなスタイルというわけではなかった。実際初期のころのPVでは、ヒゲも剃られており、いかにもロッカーらしいロンゲのイケメンフレディを見ることができる。
ヒゲに関しては「AIDSの合併症であるカポジ肉腫を隠すためである」とも、単に「整えられた髭=定番ゲイファッション」とも言われていたが、定かではない。
『イニュエンドウ』の頃には綺麗に剃っていたとはいえ、その頃にはすでにAIDSによる身体の衰えが酷く、プロモにおいても写真やアニメ等が中心であったため、ヒゲなしフレディについては晩年のソレよりデヴュー当初のソレの方が印象が強い。
様々な場所に現れるフレディ
彼の存在感はかなり大きかったようで、実は様々な作品にも顔を出している。
鴨川つばめの漫画「マカロニほうれん荘」では後藤熊男と言うキャラクターがフレディに近いキャラクターとして描かかれている。
鳥山明の作品でもメインキャラではなくゲストやモブキャラ(例:ドラゴンボールの悟飯が通う高校の体育教師)がフレディの独特の風貌を描き出したキャラクターだったり、何気にフレディ的な衣装を着込んでいたりする事がある。
野中英次の漫画「魁!!クロマティ高校」に至っては風貌がそのまんま、更に名前までそのまんまな「フレディ」というキャラがいたりする。
SCP財団にて発表されたSCP-905-JPは旅客機内にフレディ・マーキュリーに似た特徴を持つ複数の人型実体が現れ、パフォーマンスを見せるというもの。
Playstationでリリースされたゲーム「moon」には「フレッド」というキャラクターが存在するが、ある条件を満たすと「そのまんまフレディじゃないか!!」と突っ込みを入れたくなるようなイベントが起きる。いや......まあ、名前見れば大体想像ついちゃうんですけどね。
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関連項目
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