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伊53とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊52/巡潜潜水艦2番艦である。1944年2月20日工。回天攻撃で護衛駆逐艦アンダーヒルを撃沈する戦果を挙げて終戦まで生き残った。1946年4月1日アメリカ軍ローズエンド作戦処分。戦果は1隻撃沈(1400トン)、1隻撃破(1625トン)。

概要

巡潜潜水艦とは、その名に反して巡潜ではなく巡潜改二ベースにした戦時急造タイプ。前級(?)の巡潜は巡潜三ベースにしているため、改と言う割には、両艦の設計は大きくかけ離れたものになった。紛らわしい。

巡潜改二まで装備していた航空装を撤去し、代わりに14cm単装を前甲にも1門追加して弾薬搭載数は2倍に増加、即応弾薬も各門40発と水上力に優れる。機関改二と同じ生産性に優れる艦本式22号10過給器付きディーゼルエンジンを採用。水上速力が17.7ノット、機関重量の低減といたスペースに燃料タンクを追加して航続距離を向上させた点は改二と同様。また内殻を加工が難しいDS鋼からMS鋼(軟鋼)へ変更。この時、厚を増やす事で安全潜航深度の低下を防いでいる。しかし雷撃力特化のではなく改二艦首をそのまま流用したため雷撃力は低下した(魚雷発射管8門→6門)。これは戦況逼迫に伴って設計を変更する時間がかったからとされる。

巡潜改は伊52、伊53、55の3隻が生産されたが、伊53を除いて初任務で撃沈され、1944年7月までに2隻とも失われた。一生き残った伊53は回天母艦に改装されて終戦まで戦い抜く事になる。

排水量2095トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)、安全潜航深度100m、乗員94名。武装は九五式魚雷発射管6門、魚雷17本、九六式25mm連装機1基、14cm単装2門。

艦歴

戦前1941年11月潜水艦の拡充を企図したマル追計画において、一等潜水艦第626号艦の仮称で建造が決定。

1942年5月15日海軍で起工、11月1日号第53潜水艦と命名されて12月24日に進し、1944年2月20日工を果たす。初代艦長に豊増清八少佐が着任。呉鎮守府に編入されるとともに第6艦隊第11潜戦隊へ部署する。

1944年2月20日工した伊53は当日中を出港。別府拠点周防伊予で単独訓練に従事し、2月28日18時30分に安岐崎南方泊地で入泊してきた第11潜戦隊と合流する。急速潜航の訓練を行った際、乗員艦内収容時間が69という最短記録を打ち立てた。最も突入成績が良かった福本一曹はプロ野球盗塁記録を持つ福本豊選手の父親だったという。3月29日に徳山第3燃料へ立ち寄って燃料補給を受ける。3月31日午後12時50分に安下を出発した伊53は佐伯湾へと向かい防備戦隊との合同訓練に参加、4月4日に安岐崎南錨地にて第11潜戦隊と再度合流。

5月2日、訓練を終えた伊53は第1潜部隊に転属。いよいよ実戦投入される事になる。

1944年に入ると中部太平洋連合軍の猛攻が始まり、クェゼリン、メジュロ、ブラウンを相次いで攻略、重要拠点トラックマリアナ諸にも襲を仕掛けてくるようになった。これに対し連合艦隊は南東方面での戦闘空母と基地航空兵力を損耗し、何ら有効な反撃が行えず、反撃体勢構築のために時間を稼ぐ必要に迫られる。検討された諸作戦の中に竜巻作戦と呼ばれる案があった。これは海軍開発した特四式内火艇を使った奇襲作戦で、マーシャル諸島(補地はメジュロ環礁)に停泊中の敵機動部隊を攻撃するというものである。

5月3日、「あ」号作戦の一環で竜巻作戦要領が発され、内地にて訓練中だった伊53、伊3638、伊41伊44竜巻作戦への参加が命じられる。これを受けて5月5日を出港し、特四内火艇連合訓練を開始。ところがこの特四内火艇には大きな問題があり、エンジン音、劣速、小石でキャタピラが破損するなど完成度の低さを露呈してしまい、第6艦隊は「作戦実施は不可能」と判断して連合艦隊に中止を具申。5月12日竜巻作戦は中止となった。

1回目の出撃

5月15日ニューアイルランド北方のマ散開線への配備を命じられ、伊41伊44とともにを出撃。佐伯湾で仮泊して一晩を明かし、翌16日に太平洋へと進出した。航行中の5月19日に第15潜隊へ転属。

5月27日カビエン北方のマ散開線へ到着するが、一緒に配備に就くはずだった伊44は姿を現さなかった。不運にも伊44は敵の対潜攻撃を受けて撃退されていたのだ。マ散開線には伊53ただ1隻のみが就いた。6月4日の先遣部隊作第136号により、在トラックの第7潜戦隊揮下に入って索敵行動を行う。対するアメリカ軍は対潜掃討部隊ことハンターキラーを編制して潜水艦狩りを行い、マ散開線の後方にあるナ散開線の呂号潜水艦5隻を一挙に撃沈、同方面で活動しているのは実質伊53だけになる。

6月11日機動部隊マリアナ諸襲、続く6月13日に「あ」号作戦決戦用意が下され、翌14日にグアム南方急行。そして6月15日アメリカ軍サイパンへの上陸を開始。これに伴ってサイパン部を置いていた第6艦隊は戦闘に巻き込まれて揮が執れなくなり、第7潜戦隊が代わりに揮を執る。速第7潜戦隊伊6伊1038、伊53、184で甲潜部隊を編制し、C散開線への配備を下6月16日には伊1038とともにZ散開線への移動を命じられて再度移動。マリアナ沖海戦中は小沢機動部隊作戦域に入らないよう厳命されていた。6月20日連合艦隊部は燃料に余裕のある潜水艦サイパン及びグアムに集中配備とする電作を送り、伊53はサイパンのC散開線へと移動する。

6月28日ディーゼルエンジンの一つから深刻な燃料漏れを確認。作戦行動に耐えられなくなったため撤し、7月2日トラックへ寄港して応急修理を受けるが、トラック基地は既に大空襲で機を喪失しており、本格的な修理を行うべく7月5日に内地帰投を命じられる。7月15日トラックから内地に退避する大和田少将ら第7潜戦隊部を乗せて出港。7月25日へと帰投した。

「あ」号作戦で失った潜水艦は実に13隻にも達し、可動兵力が大きく減じてしまう。連合艦隊部は太平洋方面の潜水艦作戦を一時ストップするとともに内地在泊の潜水艦被害防止対策の着手を命じ、同時に第7、第12、第22、第52潜戦隊を解隊して戦力を再編した。7月27日を出港、翌28日に佐世保へ入渠した伊53は入渠整備を行うとともに電探や逆探の装備、防振ゴムの設置、対レーダー用塗料の塗布、必要部分に夜光塗料の使用、レーダー波対策用の斜行の新設を実施。8月23日から約10日間、山口県北部の湾にて集合訓練を行ったが、電探装備以外は有効な対策となりえなかった。

9月3日佐世保を出港、9月5日へと回航されて回天母艦になるための改装工事に着手。後部甲の単装を撤去して回天4基分の搭載設備を装備した。改装工事後、9月20日から23日にかけて回天との合同訓練を行うも、ここで報が飛び込んで来た。

10月12日台湾方面に機動部隊が襲来して台湾沖航空戦が生起。敵艦隊に痛撃を浴びせたと判断した連合艦隊は迎撃に転じ、玄作戦参加予定の潜水艦を除いた全潜水艦に出撃命を出す。ところが10月17日午前6時50分、レイテ湾口スルアン海軍り所がに煙る上で敵艦隊を発見して緊急電を放ち、間もなく音信が途絶した。敵の本格的侵攻が近いと判断した連合艦隊は翌18日17時32分に捷一号作戦を発。既に出撃していた潜水艦と、これから出撃する潜水艦フィリピン東方急行するよう命じた。この命により改装工事は中止。通常潜水艦での出撃となった。

2回目の出撃

10月19日瀬戸内海を出撃。伊26伊45伊54伊56とともに部隊を編成してフィリピン東方へと進撃する。

10月24日22時57分に連合艦隊長官豊田副武大将の全軍突撃命を受け、翌25日に定の配備点へ到着して索敵行動を行う。総力を挙げたレイテ沖海戦日本側の敗北に終わった。しかし、レイテの戦いはこれから始まるところであり、アメリカ軍は東のタクロバンを補給港にして尽蔵の兵力と物資を運び込んでいた。この増援補給路を断つため10月27日に第一散開配備を命じられてスルアン60里へ移動。次に10月31日午前9時40分にC配備への移動を下され、11月1日100里地点へ到着した。

11月2日20時マニラ95度1200kmにおいて敵空母1隻、敵駆逐艦1隻の推進音らしき音を探知、その後続には集団音も探知された。伊53は適切な雷撃位置に就くため追跡を行うも失敗。11月4日午前1時、諦めて浮上したところを駆逐艦ボイドブラウンに発見され、150mにまで潜航退避。それから38時間に及ぶ熾な対潜制圧が始まった。艦内の二酸化炭素濃度を最小限に抑えるため乗組員には特殊な化合物が支給されている。幸い敵駆逐艦から逃れる事には成功したが、雷撃の機会は逸した。11月8日伊41とE配備への移動を命じられ、スルアン北東350里に移動。

そして11月13日に撤収を命じられてフィリピン東方より退却。11月22日へ帰投した。事帰還できたのは伊53を含め7隻、伊2638、伊41伊4546、伊54の計6隻が撃沈される大損を受けたのだった。帰投後、乗組員の休養を行うと同時ににて回天母艦への改装工事を再開。

回天母艦として

12月8日、第6艦隊は伊53、伊36伊47伊48伊56伊58の6隻で回天特別攻撃隊「金剛隊」を編制。西カロリンの敵艦隊攻撃を命じられる。12月19日に第二次作戦が発され、僚艦とともに合同訓練を実施。伊53の攻撃標はパラオのコッソル泊地攻撃であった。ペリリュー島アメリカ軍に奪取されていたが、パラオには海軍第30根拠地隊がいて、北部のコッソルに敵艦が集結していると報告してきていたのである。だがコッソルは先攻撃に向かった伊37が撃沈されており、厳重な警が予想された。

12月27日伊58とともにを出港して大津に回航。クレーンを使って後部甲回天4基を積載し、搭乗員の久住中尉伊東機関少尉、久稔予備少尉、有文吉上等兵曹が乗艦した。

3回目の出撃

12月30日午前10時伊36伊58大津を出撃。パラオ方面へと向かう。

年が明けて1945年1月6日、第30根拠地隊から輸送33隻、駆逐艦3隻、浮きドック2基、小艦艇32隻が在泊中との情報が寄せられた。1月11日、コッソルへ到着した伊53は艦位の確認と敵情を偵察。コッソルパラオ北端に続く泊地で、東西10里、南北12里に及ぶ四形の環礁が外からの波を防いでおり、南寄りの場所は暗礁や浅所が多いものの良好な泊地と言えた。回天の発射地点は泊地の要出入り口である東口の東方5里から南へ10里下がったところだった。

1月12日午前0時、搭乗員2名が甲上より回天に搭乗、コッソル道東口へ向かうため潜航する。敵の警網を掻い潜って予定の位置まで進出すると回頭。回天を搭載した後部甲を北へ向けて潜望深度を保ちながら微速で南下していく。そして午前3時49分より回天の発射を開始した。ところが発進直後に久住艇の機械室で気筒爆発が発生、炎を噴き出しながら浮上するも、約5分後に沈没してしまった。潜望一部始終を見ていた豊増艦長は「視野いっぱいに炎が広がった」と評している。続いて久艇を発進させるため急速に準備が進められたが、艇内にガスが発生して久予備少尉失神電話による呼びかけにも応じなかった。このため久艇は発進中止、午前3時53分に伊東艇が、午前3時56分に有艇が発進した。

危険を承知で伊53は敵前で浮上、回天のハッチを開けて気絶している久予備少尉を艦内へ収容する。その直後、艦の見り員が大双眼望遠鏡で敵哨戒艇を発見したため急速潜航しながら南へと退避した。発進から約1時間半後の午前5時20分、午前5時25分にそれぞれ爆発音が聴音される。第30根拠地隊も2回の爆発音を聴き取った。

同日21時、第30根拠地隊より攻撃成功の報が入り、戦果は大輸送2隻撃沈とされた(アメリカ側に該当記録なし)。帰路に就いた伊53は1月18日に第6艦隊へ戦果を報告。1月21日パラオ西方へと脱出した後に豊増艦長は1基だけ残った久艇の投棄を決断、回天の固縛バンドを外して急速潜航と浮上を繰り返し、架台から切り離した。回天の投棄について第6艦隊に説明するとともに「不慮の事故を生起し、攻撃力半減に申し訳なし。特に1号久住中尉の尽忠を察すれば断腸の思いあり」と加えた。

1月26日へと帰投。金剛隊は伊48を除く全艦が帰還した。2月1日、二代艦長に大場佐一少佐が着任。2月7日に行われた金剛作戦研究会において第6艦隊部は伊53の戦果を大輸送2隻撃沈と認定、第6艦隊戦闘詳報にも同様の戦果を記載して連合艦隊に提出した。

3月8日を出港して瀬戸内海西部で訓練。

触雷と修理

3月17日アメリカ軍沖縄方面来攻に伴って天一号作戦が発され、急ぎへ戻って出撃準備を開始するが、3月19日機動部隊から飛び立った敵艦上機軍港を襲。港内の在泊艦艇が攻撃を受けたものの伊53は潜航退避して難を逃れた。3月25日大津へ回航して回天6基を搭載。3月27日に伊53、伊44伊47伊56伊58回天特別攻撃隊「多々良隊」を編成し、3月30日午後に出撃拠点基地へ移動した。

ところが周防東口でトリム試験を行おうとした時、B-29が敷設した磁気機雷に触雷して大破。右舷側の燃料タンクから漏した上、多くのバッテリーが破壊され、ディーゼルエンジンにも被害が生じるなど、作戦行動に耐えられないほどの重傷を負ってしまう。補助エンジンを使いながら翌31日に何とか大津へ寄港。ここで回天を降ろし、4月1日へと帰投した。4月6日多々良隊より除かれる。

修理を受けると同時に残っていた前甲の単装も取り外し、回天2基分の搭載設備を増設した事で計6基の運用が可になり、また回天交通筒を通して潜航中でも搭乗員が乗れるよう改良。伊53には新たにシュノーケルが取り付けられた。シュノーケルは潜航中であっても外気を取り入れてバッテリー充電を可にする優れ物で、潜航時間の長大化に一役買っている。

6月17日から7月2日にかけて瀬戸内海西部で訓練。この頃になると瀬戸内海も機雷封鎖されていて、訓練も慎重にしなければならなかった。

沖縄戦が終結した頃にはもう作戦潜水艦は伊53を含めても12隻しか残っていなかった。このうち数隻は練習艦隊から引っり出してきた老朽のなので、いかに大潜水艦が減少していたのかがえる。7月5日、伊53、伊47伊58伊363伊366、伊367からなる回天特別攻撃隊「多聞隊」を編制。使用出来る大潜水艦をほぼ全て使った限界ぎりぎりの戦力投入であった。多聞隊は沖縄マリアナ間を繋ぐ敵補給路の破壊を命じられる。

7月9日を出港、航行中に戦闘訓練を行いながら大津へ移動。回天6基と搭乗員の勝山中尉、開豊少尉荒川一飛曹、川尻勉一飛曹、坂本一飛曹、高橋博一飛曹を積載する。

4回目の出撃

7月14日午後、多聞隊の先を切って大津を出撃。同日、敵潜水艦の巣窟と化している豊後シュノーケルを使って事潜航突破し、割り当てられた作戦域である沖縄フィリピンの中間に向かう。

7月20日頃、バシー東方400里に到着してを開始。しかしこの時に嫌な欠陥が発覚してしまう。以前触雷した際に伊53の艦体外面に取り付けられた水中聴音機の集音盤が破損しており、修理されていなかった事が今になって判明したのである。このため伊53の聴音感度は劇的に低下。やむなく深30~40mを潜航しつつ30分おきに潜望深度の18mまで浮上、潜望を出して上の様子をうという本来なら危険とされる索敵を行った。

そのような状態で伊53は獲物と巡り合う事となる。

護衛駆逐艦アンダーヒルとの戦い

7月24日14時台湾南東端400里の地点で潜望を上げて見ると、敵の輸送団が航行しているのを発見。沖縄からフィリピンへ移送中の第96歩兵師団を乗せた7隻の戦車揚陸艇と冷蔵ドリアで編成され、それをバックレイ級護衛駆逐艦アンダーヒルを旗艦とした小駆潜艇8隻が約10ノットの速力で警備。8隻の護衛対船舶が中央で二列縦隊を組み、その前方3000mをアンダーヒルが先行、他の駆潜艇団の周囲を取り囲んでいる容だった。敵団は既に伊53の近くを通り過ぎた後のようで徐々に遠ざかりつつあり、ちょうど伊53が背後を取っている状況である。

乗組員は直ちに戦闘配置に就き、大場艦長は「魚雷戦、回天戦用意」の号を下して搭乗員が回天に飛び乗る。しかし、戦闘準備が終わった頃には彼距離が開き過ぎて雷撃に向かず、回天攻撃にも不利だった。このため一時は攻撃を断念しようとしたが、回天搭乗員からの強い要望を受けて大場艦長は勝山艇の発進を決断。

14時20分、敵団の揮艦であるアンダーヒル潜水艦を探知。艦長のロバート・M・ニューカム少佐が小駆潜艇PC-804に対潜制圧を命じる。その僅か5分後、勝山中尉の1号艇が伊53から発進。距離が離れている状態での攻撃は成功の見込みが薄いため後続の回天は発進を取りやめた。14時42分、PC-804は左舷後方の至近距離回天の潜望を認めた。すると勝山艇は潜望を引っ込めてPC-804の底を通過。続いて反対側の右前方に潜望を出す。PC-804は40mm機と20mm機で掃射するが、勝山艇はそれを物ともせずに高速で突進し、PC-804の艦尾側をすり抜けていった。PC-804は浅深度に設定した爆雷を用意していたが、あまりにも速くて投下する暇がかった。

PC-804から「潜水艦が艦底を通過した!」との報告を受けた揮艦アンダーヒルは自ら対潜掃討に動き、14時53分、ソナー探知した標へ向けて浅深度に設定した爆雷13発を投下。爆雷の炸裂で生じた丸い面を見て「潜水艦1隻撃沈」と隊内電話で各に通達する。だが、勝山艇はまだ生き残っており、PC-804が至近距離回天の潜望を発見。すかさずアンダーヒルが迎撃に向かうと潜望中に姿を消した。ニューカム艦長は「一人乗りの潜航艇が15ノットほどで走り回っている。こいつを追いかける」と各艦に通達し、しい操艦を以ってあちこちに顔を出す回天を追い回す。15時5分、ニューカム艦長は艦内放送で「衝撃用意!の中にいる異様な者どもを追い払ってやる!」「衝撃用意!」とがなり立てた。どうやら体当たりで勝山艇を沈める気のようだ。

15時7分、アンダーヒル艦首前方に勝山艇が浮上するのをPC-804が撃。これを見たアンダーヒルは右へ急旋回して回避しようと試みたが回天の突進力が勝った。「魚雷が突っ込んで来る!」とかが電話で叫んだその直後、15時15分に護衛駆逐艦アンダーヒル(1400トン)の左舷へ回天が直撃。たちまち弾薬誘爆による大爆発が生じ、300mほどの巨大な火柱が上がるとともに体が断裂、艦が消し飛んでニューカム艦長と乗組員112名が行方不明となる。この凄まじい爆発音は伊53にも届き、大場艦長が確認のため潜望を上げると視界を埋め尽くすほどの煙が噴出していた。煙の多さから撃沈したのは輸送と判断され、第6艦隊に「大輸送1隻沈」と報告。外れるはずだった魚雷人力で命中させるという回天特性を最大限に活かした故の戦果だった。1基しか発進させていないので回天攻撃ではしくの戦果かハッキリしており、勝山中尉は死後二階級特進している。

致命的な一撃を受けたアンダーヒルっ二つに艦体が裂けていた。艦前部は右舷に傾きながら直立し、艦尾部分のみ何とか浮いている状態だった。小駆潜艇群は残った艦尾を守るように展開、PC-804が生存者の救助を行うが、14時20分に潜水艦を探知してからは断続的に対潜戦闘が始まり、本来いないはずの潜水艦に怯えて爆雷を投下しまくった(この時にはもう伊53も回天もいなかった)。前部はともかく後部は航可と判断されたものの、周囲を潜水艦に囲まれていると誤認したため撃沈処分する事とし、一列に並んだ駆潜艇群からの一斉火を浴びて18時28分に前部を処分。続いて後部の処分に取り掛かったが、潜水艦を探知して準備が遅れ、19時18分にようやく沈めた。

アンダーヒルを仕留めた後、伊53は引き続きバシー東方を索敵。

7月27日13時頃、不調の九三式水中聴音機を使って索敵をしていると、聴音手から「周りが異常にザワザワしている」と報告が上がって来た。大場艦長が慎重に潜望を上げて上の様子を確認してみたところ、周囲を多数の敵輸送に取り囲まれているではないか。不運にも伊53は数十隻からなる輸送団の中に迷い込んでしまったのである。突拍子もない出来事に驚きつつも大場艦長は戦闘配置を命。しかし、あまりにも近すぎて魚雷回天も発射出来ないので、ひとまず団の外に出ようと身をよじる。対する団側も潜望を発見。兵員がを操作する姿が見えたが、うかつに弾や爆雷を放てば僚艦を傷つけるし、回避運動を取れば衝突の危険性もあるので身動きが取れずにいた。

敵の焦りにも助けられ、伊53はどうにか団後方へと脱出する事が出来たが、雷撃の体勢が整った頃にはか南に逃げられていて取り逃がす。だが搭乗員が発進を切望したため大場艦長は川尻一飛曹の2号艇のみ発進を許可。約1時間後、しい爆発音が聴音されたため潜望を上げてみると煙が出ているのを確認し、「艦種不詳1隻撃沈」と第6艦隊に報告した。

間もなく始まるであろうからの熾な対潜攻撃を予想して位置を移動。8月3日の日後に浮上してバッテリー充電を行い、23時頃から潜航に移った。

伊53最大の危機

8月4日午前0時30分頃、ガラン南東約400里で潜航中の伊53の頭上を駆逐艦3隻が通過していく。すると大量の爆雷が降ってきて次々に至近距離で炸裂。伊53は、およそ7分前にフィリピン方面へ向かっていた駆逐艦5隻に捕捉されていたのだ。こうして最大の試練が訪れた。

消費電力の多さから普段は使わない三式探信儀を使って敵情を探ってみると、半径1km圏内を敵艦5隻に囲まれている事が判明。敵は交互に伊53へ接近して爆雷を投じている様子だった。大場艦長は右へ左へ急旋回したり、深度30m~100mの間を浅く深く潜って決死の回避運動を取る。爆雷が至近で炸裂するたびに艦内が揺さぶられて器具が残に飛び散ってゆく。歴戦の乗組員たちもここまで苛爆雷攻撃を受けた事はかった。まさに絶体絶命の窮地。

回天搭乗員の関豊少尉に上がってきて、「回天を出して下さい。相手が駆逐艦でも不足はありません」と意見具申するが、大場艦長は「暗回天攻撃は理」と退ける。その間にも艦底の至近で爆雷が炸裂して蓄電池が破損、一切の動力が停止して艦内の電消失する。万策尽きたかのように見えたが乗組員全員が決死の努力を重ねて何とか復旧に成功。そこへ再び関少尉がやってきて、艦長に詰め寄りながら「私たちは回天で突入する事を本望としています。このままでは死に切れません。間でもり強く食い下がって、必ず成功します!」と哀願。爆雷攻撃は続いており、このままでは発進させる前に母艦ごとやられてしまうかもしれない、と大場艦長は考え、ついに全艇へ「回天戦用意」の号を下した。回天4基の搭乗員は暗い艦内を懐中電灯夜光塗料を頼りに進み、交通筒を通って回天に移乗。訓練には深40mからの発進だった。

午前2時30分にまず関少尉5号艇が発進。それから約20分後に回天のものと思われる大音き、探知の結果、包囲する対潜艦艇が1隻消失している事が分かった。続いて午前3時荒川一飛曹の3号艇が発進。32分後に再度爆発音がいて敵の推進軸音は2つに減少した。この爆発は護衛駆逐艦アール・V・ジョンソンのヘッジホッグ攻撃にやられた回天断末魔であったが、衝撃波によってジョンソン一号機械が故障し、よろよろと戦線から離脱した。4号艇の高橋一飛曹は発進待機中に爆雷攻撃を受けて四炭素の容器が破裂、艇内にガス漏れ出して意識不明となった。6号艇の坂本一飛曹も爆雷の至近爆発によって酸素パイプに裂が入り、高圧酸素が漏洩して圧力計が下降し始めた。艇内の気圧が上昇して苦しい彼は「一刻もく出して下さい」と電話で叫んだ。すぐさま6号艇を発進させようとしたが失敗、坂本一飛曹はそのまま意識を失ってしまった。気絶していた高橋坂本の両名は艦内に収容されて手当てを受けた。

辛くも死地を脱した伊53は潜航しながら艦内の損傷個所を修理。4日に浮上して爆雷による損傷を調したところ、大損を負ったものの作戦行動は可と判断、戦闘速報を打電してを続けた。8月7日に第6艦隊からの帰投命を受けて北上、豊後シュノーケル潜航で突破し、8月12日大津へ到着。使用しなかった回天2基を揚陸して翌13日にへと入港、そして8月15日終戦を迎えた。

戦後

1945年8月24日、輸送任務の的で基地と間を一往復。10月5日に進駐してきたアメリカ軍に降して接収。艦内には航士の山田中尉率いる50名の乗組員が保安のため常駐し、燃料15トン7.2トン20トンを積載、兵装は既に取り除かれていた。11月30日海軍解体に伴って除籍となり、艦内の有用な機器や重な資材が剥ぎ取られたのち佐世保恵比寿湾へ回航される。

ソ連日本潜水艦技術を手に入れようと調団を送り込む兆を見せたため、アメリカ軍は技術を渡さないよう1946年3月26日ローズエンド作戦を決定、残余の潜水艦全て処分しようと考えた。4月1日水母艦ニリュースに航されて五島列島まで移動。伊53には元乗組員19名が乗っており、別れを惜しむかのように艦内の写真を撮して回った。潜水艦の内部は軍事機密でど残っていないため防衛省防衛研究所は重な資料としている。伊53は23隻の潜水艦とともに爆破処分され、海底に身を横たえた。

1991年4月23日呉市の長迫公園内に呉鎮守府潜水艦者之碑が建立。伊53も合されている。潜水艦訓練教育隊資料館の資料室には、潜望と同じ素材を使って元乗組員が製作した伊53の模型が展示されている。

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