伊53とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊52型/巡潜丙型改潜水艦2番艦である。1944年2月20日竣工。回天攻撃で護衛駆逐艦アンダーヒルを撃沈する戦果を挙げて終戦まで生き残った。1946年4月1日、アメリカ軍のローズエンド作戦で海没処分。戦果は1隻撃沈(1400トン)、1隻撃破(1625トン)。
概要
巡潜丙型改潜水艦とは、その名に反して巡潜丙型ではなく巡潜乙型改二をベースにした戦時急造タイプ。前級(?)の巡潜丙型は巡潜三型をベースにしているため、改と言う割には、両艦の設計は大きくかけ離れたものになった。紛らわしい。
巡潜乙型改二まで装備していた航空艤装を撤去し、代わりに14cm単装砲を前甲板にも1門追加して弾薬搭載数は2倍に増加、即応弾薬も各門40発と水上砲撃能力に優れる。機関は乙型改二と同じ生産性に優れる艦本式22号10型過給器付きディーゼルエンジンを採用。水上速力が17.7ノット、機関重量の低減と空いたスペースに燃料タンクを追加して航続距離を向上させた点は改二と同様。また内殻板を加工が難しいDS鋼からMS鋼(軟鋼)へ変更。この時、板厚を増やす事で安全潜航深度の低下を防いでいる。しかし雷撃能力特化の丙型ではなく乙型改二の艦首をそのまま流用したため雷撃力は低下した(魚雷発射管8門→6門)。これは戦況逼迫に伴って設計を変更する時間が無かったからとされる。
巡潜丙型改は伊52、伊53、伊55の3隻が生産されたが、伊53を除いて初任務で撃沈され、1944年7月までに2隻とも失われた。唯一生き残った伊53は回天母艦に改装されて終戦まで戦い抜く事になる。
要目は排水量2095トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)、安全潜航深度100m、乗員94名。武装は九五式魚雷発射管6門、魚雷17本、九六式25mm連装機銃1基、14cm単装砲2門。
艦歴
開戦前の1941年11月、潜水艦の拡充を企図したマル追計画において、丙型一等潜水艦第626号艦の仮称で建造が決定。
1942年5月15日に呉海軍工廠で起工、11月1日に伊号第53潜水艦と命名されて12月24日に進水し、1944年2月20日に竣工を果たす。初代艦長に豊増清八少佐が着任。呉鎮守府に編入されるとともに第6艦隊第11潜水戦隊へ部署する。
1944年2月20日に竣工した伊53は当日中に呉を出港。別府を拠点に周防灘や伊予灘で単独訓練に従事し、2月28日18時30分に安岐崎南方泊地で入泊してきた第11潜水戦隊と合流する。急速潜航の訓練を行った際、乗員艦内収容時間が6秒9という最短記録を打ち立てた。最も突入成績が良かった福本一曹はプロ野球盗塁記録を持つ福本豊選手の父親だったという。3月29日に徳山第3燃料廠へ立ち寄って燃料補給を受ける。3月31日午後12時50分に安下庄を出発した伊53は佐伯湾へと向かい呉防備戦隊との合同訓練に参加、4月4日に安岐崎南錨地にて第11潜水戦隊と再度合流。
5月2日、訓練を終えた伊53は第1潜水部隊に転属。いよいよ実戦投入される事になる。
1944年に入ると中部太平洋で連合軍の猛攻が始まり、クェゼリン、メジュロ、ブラウンを相次いで攻略、重要拠点のトラック諸島やマリアナ諸島にも空襲を仕掛けてくるようになった。これに対し連合艦隊は南東方面での戦闘で空母と基地航空兵力を損耗し、何ら有効な反撃が行えず、反撃体勢構築のために時間を稼ぐ必要に迫られる。検討された諸作戦の中に竜巻作戦と呼ばれる案があった。これは海軍が開発した特四式内火艇を使った奇襲作戦で、マーシャル諸島(候補地はメジュロ環礁)に停泊中の敵機動部隊を攻撃するというものである。
5月3日、「あ」号作戦の一環で竜巻作戦要領が発令され、内地にて訓練中だった伊53、伊36、伊38、伊41、伊44に竜巻作戦への参加が命じられる。これを受けて5月5日に呉を出港し、特四型内火艇と連合訓練を開始。ところがこの特四型内火艇には大きな問題があり、エンジンが轟音、劣速、小石でキャタピラが破損するなど完成度の低さを露呈してしまい、第6艦隊は「作戦実施は不可能」と判断して連合艦隊に中止を具申。5月12日に竜巻作戦は中止となった。
1回目の出撃
5月15日、ニューアイルランド島北方のマ散開線への配備を命じられ、伊41や伊44とともに呉を出撃。佐伯湾で仮泊して一晩を明かし、翌16日に太平洋へと進出した。航行中の5月19日に第15潜水隊へ転属。
5月27日にカビエン北方のマ散開線へ到着するが、一緒に配備に就くはずだった伊44は姿を現さなかった。不運にも伊44は敵の対潜攻撃を受けて撃退されていたのだ。マ散開線には伊53ただ1隻のみが就いた。6月4日の先遣部隊電令作第136号により、在トラックの第7潜水戦隊の指揮下に入って索敵行動を行う。対するアメリカ軍は対潜掃討部隊ことハンターキラーを編制して潜水艦狩りを行い、マ散開線の後方にあるナ散開線の呂号潜水艦5隻を一挙に撃沈、同方面で活動しているのは実質伊53だけになる。
6月11日に米機動部隊がマリアナ諸島を空襲、続く6月13日に「あ」号作戦決戦用意が下令され、翌14日にグアム南方へ急行。そして6月15日にアメリカ軍がサイパンへの上陸を開始。これに伴ってサイパンに司令部を置いていた第6艦隊は戦闘に巻き込まれて指揮が執れなくなり、第7潜水戦隊が代わりに指揮を執る。早速第7潜水戦隊は伊6、伊10、伊38、伊53、伊184で甲潜水部隊を編制し、C散開線への配備を下令。6月16日には伊10や伊38とともにZ散開線への移動を命じられて再度移動。マリアナ沖海戦中は小沢機動部隊の作戦海域に入らないよう厳命されていた。6月20日、連合艦隊司令部は燃料に余裕のある潜水艦はサイパン及びグアムに集中配備とする電令作を送り、伊53はサイパン近海のC散開線へと移動する。
6月28日、ディーゼルエンジンの一つから深刻な燃料漏れを確認。作戦行動に耐えられなくなったため撤哨し、7月2日にトラック諸島へ寄港して応急修理を受けるが、トラック基地は既に大空襲で機能を喪失しており、本格的な修理を行うべく7月5日に内地帰投を命じられる。7月15日、トラックから内地に退避する大和田昇少将ら第7潜水戦隊司令部を乗せて出港。7月25日に無事呉へと帰投した。
「あ」号作戦で失った潜水艦は実に13隻にも達し、可動兵力が大きく減じてしまう。連合艦隊司令部は太平洋方面の潜水艦作戦を一時ストップするとともに内地在泊の潜水艦に被害防止対策の着手を命じ、同時に第7、第12、第22、第52潜水戦隊を解隊して戦力を再編した。7月27日に呉を出港、翌28日に佐世保工廠へ入渠した伊53は入渠整備を行うとともに電探や逆探の装備、防振ゴムの設置、対レーダー用塗料の塗布、必要部分に夜光塗料の使用、レーダー波対策用の斜行板の新設を実施。8月23日から約10日間、山口県北部の油谷湾にて集合訓練を行ったが、電探装備以外は有効な対策となりえなかった。
9月3日に佐世保を出港、9月5日に呉へと回航されて回天母艦になるための改装工事に着手。後部甲板の単装砲を撤去して回天4基分の搭載設備を装備した。改装工事後、9月20日から23日にかけて回天との合同訓練を行うも、ここで凶報が飛び込んで来た。
10月12日、台湾方面に米機動部隊が襲来して台湾沖航空戦が生起。敵艦隊に痛撃を浴びせたと判断した連合艦隊は迎撃に転じ、玄作戦参加予定の潜水艦を除いた全潜水艦に出撃命令を出す。ところが10月17日午前6時50分、レイテ湾口スルアン島の海軍見張り所が雨に煙る海上で敵艦隊を発見して緊急電を放ち、間もなく音信が途絶した。敵の本格的侵攻が近いと判断した連合艦隊は翌18日17時32分に捷一号作戦を発令。既に出撃していた潜水艦と、これから出撃する潜水艦にフィリピン東方へ急行するよう命じた。この命令により改装工事は中止。通常潜水艦での出撃となった。
2回目の出撃
10月19日、瀬戸内海を出撃。伊26、伊45、伊54、伊56とともに乙潜水部隊を編成してフィリピン東方へと進撃する。
10月24日22時57分に連合艦隊司令長官豊田副武大将の全軍突撃命令を受け、翌25日に指定の配備点へ到着して索敵行動を行う。総力を挙げたレイテ沖海戦は日本側の敗北に終わった。しかし、レイテの戦いはこれから始まるところであり、アメリカ軍は東のタクロバンを補給港にして無尽蔵の兵力と物資を運び込んでいた。この増援補給路を断つため10月27日に第一散開配備を命じられてスルアン島沖60海里へ移動。次に10月31日午前9時40分にC配備への移動を下令され、11月1日に100海里地点へ到着した。
11月2日20時、マニラ沖95度1200kmにおいて敵空母1隻、敵駆逐艦1隻の推進音らしき音を探知、その後続には集団音も探知された。伊53は適切な雷撃位置に就くため追跡を行うも失敗。11月4日午前1時、諦めて浮上したところを米駆逐艦ボイドとブラウンに発見され、水深150mにまで潜航退避。それから38時間に及ぶ熾烈な対潜制圧が始まった。艦内の二酸化炭素濃度を最小限に抑えるため乗組員には特殊な化合物が支給されている。幸い敵駆逐艦から逃れる事には成功したが、雷撃の機会は逸した。11月8日、伊41とE配備への移動を命じられ、スルアン島北東350海里に移動。
そして11月13日に撤収を命じられてフィリピン東方より退却。11月22日に呉へ帰投した。無事帰還できたのは伊53を含め7隻、伊26、伊38、伊41、伊45、伊46、伊54の計6隻が撃沈される大損害を受けたのだった。帰投後、乗組員の休養を行うと同時に呉工廠にて回天母艦への改装工事を再開。
回天母艦として
12月8日、第6艦隊は伊53、伊36、伊47、伊48、伊56、伊58の6隻で回天特別攻撃隊「金剛隊」を編制。西カロリン諸島の敵艦隊攻撃を命じられる。12月19日に第二次玄作戦が発令され、僚艦とともに合同訓練を実施。伊53の攻撃目標はパラオ諸島のコッソル泊地攻撃であった。ペリリュー島はアメリカ軍に奪取されていたが、パラオ本島には海軍第30根拠地隊がいて、北部のコッソル水道に敵艦が集結していると報告してきていたのである。だがコッソル水道は先月攻撃に向かった伊37が撃沈されており、厳重な警戒が予想された。
12月27日、伊58とともに呉を出港して大津島に回航。クレーン船を使って後部甲板に回天4基を積載し、搭乗員の久住宏中尉、伊東修機関少尉、久家稔予備少尉、有森文吉上等兵曹が乗艦した。
3回目の出撃
12月30日午前10時、伊36や伊58と大津島を出撃。パラオ方面へと向かう。
年が明けて1945年1月6日、第30根拠地隊から輸送船33隻、駆逐艦3隻、浮きドック2基、小型艦艇32隻が在泊中との情報が寄せられた。1月11日、コッソル水道近海へ到着した伊53は艦位の確認と敵情を偵察。コッソル水道はパラオ北端に続く泊地で、東西10海里、南北12海里に及ぶ四角形の環礁が外海からの波を防いでおり、南寄りの場所は暗礁や浅所が多いものの良好な泊地と言えた。回天の発射地点は泊地の主要出入り口である東口の東方5海里から南へ10海里下がったところだった。
1月12日午前0時、搭乗員2名が甲板上より回天に搭乗、コッソル水道東口へ向かうため潜航する。敵の警戒網を掻い潜って予定の位置まで進出すると回頭。回天を搭載した後部甲板を北へ向けて潜望鏡深度を保ちながら微速で南下していく。そして午前3時49分より回天の発射を開始した。ところが発進直後に久住艇の機械室で気筒爆発が発生、炎を噴き出しながら浮上するも、約5分後に沈没してしまった。潜望鏡で一部始終を見ていた豊増艦長は「視野いっぱいに炎が広がった」と評している。続いて久家艇を発進させるため急速に準備が進められたが、艇内に毒ガスが発生して久家予備少尉が失神。電話による呼びかけにも応じなかった。このため久家艇は発進中止、午前3時53分に伊東艇が、午前3時56分に有森艇が発進した。
危険を承知で伊53は敵前で浮上、回天のハッチを開けて気絶している久家予備少尉を艦内へ収容する。その直後、艦橋の見張り員が大型双眼望遠鏡で敵哨戒艇を発見したため急速潜航しながら南へと退避した。発進から約1時間半後の午前5時20分、午前5時25分にそれぞれ爆発音が聴音される。第30根拠地隊も2回の爆発音を聴き取った。
同日21時、第30根拠地隊より攻撃成功の報が入り、戦果は大型輸送船2隻撃沈とされた(アメリカ側に該当記録なし)。帰路に就いた伊53は1月18日に第6艦隊へ戦果を報告。1月21日夜、パラオ西方へと脱出した後に豊増艦長は1基だけ残った久家艇の投棄を決断、回天の固縛バンドを外して急速潜航と浮上を繰り返し、架台から切り離した。回天の投棄について第6艦隊に説明するとともに「不慮の事故を生起し、攻撃力半減に申し訳なし。特に1号艇久住中尉の尽忠を察すれば断腸の思いあり」と加えた。
1月26日に呉へと帰投。金剛隊は伊48を除く全艦が帰還した。2月1日、二代目艦長に大場佐一少佐が着任。2月7日に行われた金剛隊作戦研究会において第6艦隊司令部は伊53の戦果を大型輸送船2隻撃沈と認定、第6艦隊戦闘詳報にも同様の戦果を記載して連合艦隊に提出した。
触雷と修理
3月17日、アメリカ軍の沖縄方面来攻に伴って天一号作戦が発令され、急ぎ呉へ戻って出撃準備を開始するが、3月19日に米機動部隊から飛び立った敵艦上機が呉軍港を空襲。港内の在泊艦艇が攻撃を受けたものの伊53は潜航退避して難を逃れた。3月25日、大津島へ回航して回天6基を搭載。3月27日に伊53、伊44、伊47、伊56、伊58で回天特別攻撃隊「多々良隊」を編成し、3月30日午後に出撃拠点の光基地へ移動した。
ところが周防灘東口でトリムの試験を行おうとした時、B-29が敷設した磁気機雷に触雷して大破。右舷側の燃料タンクから漏油した上、多くのバッテリーが破壊され、ディーゼルエンジンにも被害が生じるなど、作戦行動に耐えられないほどの重傷を負ってしまう。補助エンジンを使いながら翌31日に何とか大津島へ寄港。ここで回天を降ろし、4月1日に呉へと帰投した。4月6日に多々良隊より除かれる。
修理を受けると同時に残っていた前甲板の単装砲も取り外し、回天2基分の搭載設備を増設した事で計6基の運用が可能になり、また回天に交通筒を通して潜航中でも搭乗員が乗れるよう改良。伊53には新たにシュノーケルが取り付けられた。シュノーケルは潜航中であっても外気を取り入れてバッテリーの充電を可能にする優れ物で、潜航時間の長大化に一役買っている。
6月17日から7月2日にかけて瀬戸内海西部で訓練。この頃になると瀬戸内海も機雷封鎖されていて、訓練も慎重にしなければならなかった。
沖縄戦が終結した頃にはもう作戦用潜水艦は伊53を含めても12隻しか残っていなかった。このうち数隻は練習艦隊から引っ張り出してきた老朽の海大型なので、いかに大型潜水艦が減少していたのかが窺える。7月5日、伊53、伊47、伊58、伊363、伊366、伊367からなる回天特別攻撃隊「多聞隊」を編制。使用出来る大型潜水艦をほぼ全て使った限界ぎりぎりの戦力投入であった。多聞隊は沖縄・マリアナ間を繋ぐ敵補給路の破壊を命じられる。
7月9日に呉を出港、航行中に戦闘訓練を行いながら大津島へ移動。回天6基と搭乗員の勝山淳中尉、開豊興少尉、荒川正弘一飛曹、川尻勉一飛曹、坂本雅刀一飛曹、高橋博一飛曹を積載する。
4回目の出撃
7月14日午後、多聞隊の先陣を切って大津島を出撃。同日夜、敵潜水艦の巣窟と化している豊後水道をシュノーケルを使って無事潜航突破し、割り当てられた作戦海域である沖縄・フィリピンの中間に向かう。
7月20日頃、バシー海峡東方400海里に到着して哨戒を開始。しかしこの時に嫌な欠陥が発覚してしまう。以前触雷した際に伊53の艦体外面に取り付けられた水中聴音機の集音盤が破損しており、修理されていなかった事が今になって判明したのである。このため伊53の聴音感度は劇的に低下。やむなく水深30~40mを潜航しつつ30分おきに潜望鏡深度の18mまで浮上、潜望鏡を出して海上の様子を窺うという本来なら危険とされる索敵を行った。
そのような状態で伊53は獲物と巡り合う事となる。
護衛駆逐艦アンダーヒルとの戦い
7月24日14時、台湾南東端400海里の地点で潜望鏡を上げて見ると、敵の輸送船団が航行しているのを発見。沖縄からフィリピンへ移送中の第96歩兵師団を乗せた7隻の戦車揚陸艇と冷蔵船アドリアで編成され、それをバックレイ級護衛駆逐艦アンダーヒルを旗艦とした小型駆潜艇8隻が約10ノットの速力で警備。8隻の護衛対象船舶が中央で二列縦隊を組み、その前方3000mをアンダーヒルが先行、他の駆潜艇が船団の周囲を取り囲んでいる陣容だった。敵船団は既に伊53の近くを通り過ぎた後のようで徐々に遠ざかりつつあり、ちょうど伊53が背後を取っている状況である。
乗組員は直ちに戦闘配置に就き、大場艦長は「魚雷戦、回天戦用意」の号令を下して搭乗員が回天に飛び乗る。しかし、戦闘準備が終わった頃には彼我の距離が開き過ぎて雷撃に向かず、回天攻撃にも不利だった。このため一時は攻撃を断念しようとしたが、回天搭乗員からの強い要望を受けて大場艦長は勝山艇の発進を決断。
14時20分、敵船団の指揮艦であるアンダーヒルは潜水艦を探知。艦長のロバート・M・ニューカム少佐が小型駆潜艇PC-804に対潜制圧を命じる。その僅か5分後、勝山中尉の1号艇が伊53から発進。距離が離れている状態での攻撃は成功の見込みが薄いため後続の回天は発進を取りやめた。14時42分、PC-804は左舷後方の至近距離に回天の潜望鏡を認めた。すると勝山艇は潜望鏡を引っ込めてPC-804の船底を通過。続いて反対側の右前方に潜望鏡を出す。PC-804は40mm機銃と20mm機銃で掃射するが、勝山艇はそれを物ともせずに高速で突進し、PC-804の艦尾側をすり抜けていった。PC-804は浅深度に設定した爆雷を用意していたが、あまりにも速くて投下する暇が無かった。
PC-804から「潜水艦が艦底を通過した!」との報告を受けた指揮艦アンダーヒルは自ら対潜掃討に動き、14時53分、ソナー探知した目標へ向けて浅深度に設定した爆雷13発を投下。爆雷の炸裂で生じた丸い水面を見て「潜水艦1隻撃沈」と隊内電話で各船に通達する。だが、勝山艇はまだ生き残っており、PC-804が至近距離で回天の潜望鏡を発見。すかさずアンダーヒルが迎撃に向かうと潜望鏡は海中に姿を消した。ニューカム艦長は「一人乗りの潜航艇が15ノットほどで走り回っている。こいつを追いかける」と各艦に通達し、激しい操艦を以ってあちこちに顔を出す回天を追い回す。15時5分、ニューカム艦長は艦内放送で「衝撃用意!海の中にいる異様な者どもを追い払ってやる!」「衝撃用意!」とがなり立てた。どうやら体当たりで勝山艇を沈める気のようだ。
15時7分、アンダーヒルの艦首前方に勝山艇が浮上するのをPC-804が目撃。これを見たアンダーヒルは右へ急旋回して回避しようと試みたが回天の突進力が勝った。「魚雷が突っ込んで来る!」と誰かが電話で叫んだその直後、15時15分に護衛駆逐艦アンダーヒル(1400トン)の左舷へ回天が直撃。たちまち弾薬庫誘爆による大爆発が生じ、300mほどの巨大な火柱が上がるとともに船体が断裂、艦橋が消し飛んでニューカム艦長と乗組員112名が行方不明となる。この凄まじい爆発音は伊53にも届き、大場艦長が確認のため潜望鏡を上げると視界を埋め尽くすほどの黒煙が噴出していた。黒煙の多さから撃沈したのは輸送船と判断され、第6艦隊に「大型輸送船1隻轟沈」と報告。外れるはずだった魚雷を人力で命中させるという回天の特性を最大限に活かした故の戦果だった。1基しか発進させていないので回天攻撃では珍しく誰の戦果かハッキリしており、勝山中尉は死後二階級特進している。
致命的な一撃を受けたアンダーヒルは真っ二つに艦体が裂けていた。艦前部は右舷に傾きながら直立し、艦尾部分のみ何とか浮いている状態だった。小型駆潜艇群は残った艦尾を守るように展開、PC-804が生存者の救助を行うが、14時20分に潜水艦を探知してからは断続的に対潜戦闘が始まり、本来いないはずの幻の潜水艦に怯えて爆雷を投下しまくった(この時にはもう伊53も回天もいなかった)。前部はともかく後部は曳航可能と判断されたものの、周囲を潜水艦に囲まれていると誤認したため撃沈処分する事とし、一列に並んだ駆潜艇群からの一斉砲火を浴びて18時28分に前部を処分。続いて後部の処分に取り掛かったが、潜水艦を探知して準備が遅れ、19時18分にようやく沈めた。
アンダーヒルを仕留めた後、伊53は引き続きバシー海峡東方を索敵。
7月27日13時頃、不調の九三式水中聴音機を使って索敵をしていると、聴音手から「周りが異常にザワザワしている」と報告が上がって来た。大場艦長が慎重に潜望鏡を上げて海上の様子を確認してみたところ、周囲を多数の敵輸送船に取り囲まれているではないか。不運にも伊53は数十隻からなる輸送船団の真っ只中に迷い込んでしまったのである。突拍子もない出来事に驚きつつも大場艦長は戦闘配置を命令。しかし、あまりにも近すぎて魚雷も回天も発射出来ないので、ひとまず船団の外に出ようと身をよじる。対する船団側も潜望鏡を発見。兵員が砲を操作する姿が見えたが、うかつに砲弾や爆雷を放てば僚艦を傷つけるし、回避運動を取れば衝突の危険性もあるので身動きが取れずにいた。
敵の焦りにも助けられ、伊53はどうにか船団後方へと脱出する事が出来たが、雷撃の体勢が整った頃には遥か南に逃げられていて取り逃がす。だが搭乗員が発進を切望したため大場艦長は川尻一飛曹の2号艇のみ発進を許可。約1時間後、激しい爆発音が聴音されたため潜望鏡を上げてみると黒煙が出ているのを確認し、「艦種不詳1隻撃沈」と第6艦隊に報告した。
間もなく始まるであろう空と海からの熾烈な対潜攻撃を予想して哨戒位置を移動。8月3日の日没後に浮上してバッテリーの充電を行い、23時頃から潜航哨戒に移った。
伊53最大の危機
8月4日午前0時30分頃、ガランビ岬沖南東約400海里で潜航中の伊53の頭上を米駆逐艦3隻が通過していく。すると大量の爆雷が降ってきて次々に至近距離で炸裂。伊53は、およそ7分前にフィリピン方面へ向かっていた米駆逐艦5隻に捕捉されていたのだ。こうして最大の試練が訪れた。
消費電力の多さから普段は使わない三式探信儀を使って敵情を探ってみると、半径1km圏内を敵艦5隻に囲まれている事が判明。敵は交互に伊53へ接近して爆雷を投じている様子だった。大場艦長は右へ左へ急旋回したり、深度30m~100mの間を浅く深く潜って決死の回避運動を取る。爆雷が至近で炸裂するたびに艦内が揺さぶられて器具が無残に飛び散ってゆく。歴戦の乗組員たちもここまで苛烈な爆雷攻撃を受けた事は無かった。まさに絶体絶命の窮地。
回天搭乗員の関豊興少尉が司令塔に上がってきて、「回天を出して下さい。相手が駆逐艦でも不足はありません」と意見具申するが、大場艦長は「暗夜の回天攻撃は無理」と退ける。その間にも艦底の至近で爆雷が炸裂して主蓄電池が破損、一切の動力が停止して艦内の電灯も消失する。万策尽きたかのように見えたが乗組員全員が決死の努力を重ねて何とか復旧に成功。そこへ再び関少尉がやってきて、艦長に詰め寄りながら「私たちは回天で突入する事を本望としています。このままでは死に切れません。夜間でも粘り強く食い下がって、必ず成功します!」と哀願。爆雷攻撃は続いており、このままでは発進させる前に母艦ごとやられてしまうかもしれない、と大場艦長は考え、ついに全艇へ「回天戦用意」の号令を下した。回天4基の搭乗員は暗い艦内を懐中電灯や夜光塗料を頼りに進み、交通筒を通って回天に移乗。訓練には無い水深40mからの発進だった。
午前2時30分にまず関少尉の5号艇が発進。それから約20分後に回天のものと思われる大音響が轟き、探知の結果、包囲する対潜艦艇が1隻消失している事が分かった。続いて午前3時、荒川一飛曹の3号艇が発進。32分後に再度爆発音が響いて敵の推進軸音は2つに減少した。この爆発は護衛駆逐艦アール・V・ジョンソンのヘッジホッグ攻撃にやられた回天の断末魔であったが、衝撃波によってジョンソンの一号主機械が故障し、よろよろと戦線から離脱した。4号艇の高橋一飛曹は発進待機中に爆雷攻撃を受けて四塩化炭素の容器が破裂、艇内に毒ガスが漏れ出して意識不明となった。6号艇の坂本一飛曹も爆雷の至近爆発によって酸素パイプに亀裂が入り、高圧酸素が漏洩して圧力計が下降し始めた。艇内の気圧が上昇して苦しい彼は「一刻も早く出して下さい」と電話で叫んだ。すぐさま6号艇を発進させようとしたが失敗、坂本一飛曹はそのまま意識を失ってしまった。気絶していた高橋、坂本の両名は艦内に収容されて手当てを受けた。
辛くも死地を脱した伊53は潜航しながら艦内の損傷個所を修理。4日夜に浮上して爆雷による損傷を調査したところ、大損害を負ったものの作戦行動は可能と判断、戦闘速報を打電して哨戒を続けた。8月7日に第6艦隊からの帰投命令を受けて北上、豊後水道をシュノーケル潜航で突破し、8月12日に大津島へ到着。使用しなかった回天2基を揚陸して翌13日に呉へと入港、そして8月15日の終戦を迎えた。
戦後
1945年8月24日、輸送任務の目的で光基地と呉間を一往復。10月5日に進駐してきたアメリカ軍に降伏して接収。艦内には航海士の山田実中尉率いる50名の乗組員が保安のため常駐し、燃料15トン、米7.2トン、真水20トンを積載、兵装は既に取り除かれていた。11月30日の海軍省解体に伴って除籍となり、艦内の有用な機器や貴重な資材が剥ぎ取られたのち佐世保の恵比寿湾へ回航される。
ソ連が日本の潜水艦技術を手に入れようと調査団を送り込む兆候を見せたため、アメリカ軍は技術を渡さないよう1946年3月26日にローズエンド作戦を決定、残余の潜水艦全て海没処分しようと考えた。4月1日、米潜水母艦ニリュースに曳航されて五島列島沖まで移動。伊53には元乗組員19名が乗っており、別れを惜しむかのように艦内の写真を撮影して回った。潜水艦の内部は軍事機密で殆ど残っていないため防衛省防衛研究所は貴重な資料としている。伊53は23隻の潜水艦とともに爆破処分され、海底に身を横たえた。
1991年4月23日、呉市の長迫公園内に呉鎮守府潜水艦戦没者之碑が建立。伊53も合祀されている。潜水艦訓練教育隊資料館の資料室には、潜望鏡と同じ素材を使って元乗組員が製作した伊53の模型が展示されている。
関連項目
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