伊45とは、大日本帝國海軍が建造した伊40型/巡潜乙型改一6番艦である。1943年12月28日竣工。1944年10月29日に米護衛駆逐艦エヴァソールを撃沈する戦果を挙げるが、逃げ切れずに自身も撃沈される。戦果は撃沈1隻(1350トン)。
概要
ロンドン海軍軍縮条約を脱退した後、帝國海軍は旗艦用の巡潜甲型と量産型の巡潜乙型を主軸に潜水艦戦力の充実を図っていた。しかし、量産型であるはずの巡潜乙型ですら起工から竣工までに2年半以上を要していたため、この乙型を簡略化して生産性を高めた改一の設計に着手。複雑で生産が難しい艦本式2号10型ディーゼルを、巡潜三型にも採用された生産が容易な艦本式1号甲10型に換装。これにより出力が1万2400馬力→1万1000馬力に低下し、排水量の増大も招いてしまったが、長大な航続距離は何とか維持している。また内殻の素材を生産性が良くないDS鋼からMS鋼(軟鋼)に変更。厚みを1mm増やす事で安全潜航深度の減少を防いだ他、艤装の簡略化を行って生産性を高めた。その甲斐あって建造期間を1年半にまで短縮。目的を達成したと言えるが、帝國海軍は潜水艦の数を揃えるために更なる簡略化を推し進めた巡潜乙型改二の設計を行っている。
伊40、伊41、伊42、伊43、伊44、伊45の計6隻が生産。伊44を除いて1944年中に喪失し、その伊44も1945年4月に撃沈された事で乙型改一は終戦を待たずして全滅した。このうち撃沈の戦果を挙げたのは伊45だけである(撃破を含めると伊41も)。
要目は全長108.7m、全幅9.3m、喫水5.2m、排水量2230トン、水上速力23.5ノット(水上)/8ノット(水中)、安全潜航深度100m、乗員94名。兵装は艦首魚雷発射管6門、14cm単装砲1門、九六式25mm連装機銃1基、呉式一号射出機四号と水上機の運用能力を持つ。
艦歴
伊45、天敵の護衛駆逐艦を撃沈す
開戦前の1941年8月15日に策定されたマル急計画において、乙型改一潜水艦第375号の仮称で建造が決定。第79及び第81帝国議会で成立した予算から建造費2049万円が捻出された。
1942年7月15日に佐世保海軍工廠で起工、1943年2月5日に伊45と命名されて3月6日に進水し、11月27日に艤装員事務所を開設、そして同年12月28日に竣工を果たした。かつてアメリカ本土爆撃を成功させた殊勲の田上明次中佐が艦長に着任するとともに横須賀鎮守府所属となり、訓練部隊の第11潜水戦隊へ編入される。竣工日である12月28日に佐世保を出港し、寺島水道で仮泊して一晩を明かした後、関門海峡を通って翌日博多に寄港し、12月31日17時に徳山湾へ到着した。
1944年1月3日、作業地の安岐崎に回航され、伊予灘で慣熟訓練を行う。2月27日より呉へ入港して整備を受ける。3月25日、第6艦隊第15潜水隊へ転属するとともに呉を出撃して最初の戦闘航海に臨む。道中の3月30日、度重なる西カロリン諸島への空襲を受け、連合艦隊司令部は潜水艦に丙作戦第六法及び丁作戦警戒を発令。マーシャル諸島方面で活動中の伊36、伊38、伊44、伊45は引き続き警戒に当たるよう命じた。しかしこの通信をアメリカ海軍に傍受され、ハワイ・マーシャル間で日本潜水艦4隻が活動している事を察知。これを撃滅すべく護衛空母アルタマハを基幹とした第11.1任務部隊を派遣してきた。
4月4日14時8分、マーシャル諸島メジュロの北東650海里をバッテリー充電の目的で水上航行中にアルタマハから飛来したアベンジャー雷撃機とワイルドキャットに発見される。敵機の出現に気付いた伊45は急速潜航を試みるが、ワイルドキャットから機銃掃射を受け、続いてアベンジャーからロケット弾と爆雷攻撃を受けて艦尾に直撃。深刻な浸水被害と漏油が発生する。更なる機銃掃射を避けるため田上艦長は全力後進を指示。艦首より勢いなく沈んでいくのを見た敵機は撃沈と判断して退却し、潜水艦撃沈と認められた。
だが伊45は生きていた。急速潜航に成功した後、田上艦長は全力前進を命じたが、その時に艦が制御を失って際限なく沈降していく。乗組員の努力により沈降が止められた時には水深149mまで潜っており、急ぎ浮上しなければ水圧に潰される状況であった。応急修理の結果、何とか101mまで浮上して危機を脱する。敵機の襲撃からは逃れられたが、これ以上の作戦続行は困難と判断し、帰路に就く。4月15日に横須賀へ帰投。4月下旬から5月下旬にかけて呉工廠で修理を受ける。
6月10日、関戸好蜜少佐が二代目艦長に着任。6月12日にアメリカ軍がマリアナ諸島の攻囲を開始したため、翌13日に「あ」号作戦が発動。包囲下に置かれたテニアン島に物資を届け、孤立した搭乗員たちを救助するべく伊45にも出撃命令が下った。6月28日、弾薬と武器377トンを満載した41.1mの運貨筒を曳航して伊55とともに横須賀を出港。7月14日にテニアン島近海へ到着。しかし通信の混乱から現地の部隊と連絡がつかず、危険を冒して試みた2回の接触は失敗。更に7月16日からアメリカ艦隊の艦砲射撃が始まったため、やむなく運貨筒を放棄して撤退。7月27日に横須賀へ到着し、呉に回航された。
9月5日、最後の艦長である河島守大尉が着任。この時点で回天母艦への改装が決まっており、9月30日までに完了させて10月18日に出撃する予定だったが、実行には移されなかった。
10月13日にフィリピン防衛を企図した捷一号作戦が発動し、伊45は呉を出撃してフィリピン近海の哨区へ向かう。10月20日、いよいよアメリカ軍の大部隊がレイテ湾スルアン島に上陸。敵を迎撃するため10月24日、伊26、伊37、伊53、伊54、伊56からなる散開線に加わり、ミンダナオ島北東に展開。しかし11月5日、第6艦隊がラモン湾への移動を命じても応答は無く、帰投予定日の11月18日になっても帰還しなかった。このため12月2日にフィリピン方面で亡失と判断された。乗組員104名全員死亡。
最期
アメリカ側の資料によると、伊45の最期はこのようなものだった。
レイテ沖海戦が終結した後の10月29日深夜、米護衛駆逐艦エヴァソール(1350トン)はリチャード・S・ブルとともにサンペドロ湾から出港。フィリピン海まで第77.1.1任務部隊を迎えに行った。午前2時10分、ディナガット島の東60海里にてソナーが潜水艦らしき怪しい反応を探知。この反応こそ伊45であり、逆探装置で捕捉に気付いてすぐさま急速潜航。エヴァソールは対潜攻撃へ移ろうとしたが、僅か30秒後に白線の尾を引いた2本の魚雷が伸びてきて、午前2時28分、回避する間もなく2本が立て続けに命中。たちまち30度傾斜して乗組員は次々に船を放棄。15分後に艦尾から沈没した。午前3時頃、浮上した伊45は沈没地点をゆっくりと一周して戦果を確認し、20分後に潜航していった。午前3時25分、エヴァソールに搭載されていた爆雷が水中で起爆して約30名が死亡するが、この爆発がリチャード・S・ブルに異変を知らせ、海面に漂う生存者に気付いて救助活動を開始。救助で手一杯のためアルフレッド・W・ガルデス艦長は付近の僚艦に救援要請を発信し、補給部隊の護衛戦力から駆逐艦ホワイトハーストが分派された。
午前5時45分、エヴァソール撃沈地点から93km離れたシアルガオ島北東85海里でホワイトハーストのソナーが反応。3回に渡ってヘッジホッグ攻撃を行ったが、伊45の巧みな回避運動により決定打を与えられず。後にホワイトハーストの艦長は「(伊45は)優れた回避戦術と機動性を有する」と評価している。水深69mにいる伊45は敵艦に艦尾を向けて決死に離脱を図るが、午前6時48分に行われた4回目のヘッジホッグ攻撃で遂に命脈を断たれた。5~6回の小さな爆発音が聞こえた後、水中で大爆発が発生。午前7時20分、ホワイトハーストがソナー探知を再開。海面には多量の油や破片、木片などが漂っており、撃沈の証拠となる残骸をいくつか回収して午後12時15分に海域を去った。これが伊45の最期だった。
関連項目
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