女の決闘(太宰治)とは、太宰治の文学作品である。1940年1月から6月にかけて発表された。
ヘルベルト・オイレンベルクが著した『女の決闘』という小説を下敷きにして、太宰治が小説作品に仕上げた。
作者の逝去から70年が経って著作権が消滅しているので、青空文庫
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ちなみに、ヘルベルト・オイレンベルクが書いて森鴎外が訳した『女の決闘』も、青空文庫
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1939年の冬のある日、太宰治はよそから借りた森鴎外の全集を家の中で開いていた。鴎外が翻訳したドイツ人作家の小説を寝っ転がりつつ楽しく読んでいたのだが、その中に、異様な雰囲気を漂わせた短い小説を見つけた。
その小説は、ヘルベルト・オイレンベルクという無名の作家の手によるもので、不倫に手を染めた夫の妻が、夫の不倫相手の女学生に向けて拳銃を用いた決闘を申し込むシーンから始まっていた。
不倫に手を染めた夫の妻が、拳銃を扱う店に行き、拳銃を購入するついでに拳銃を発砲する練習を繰り返すのだが、その描写が異様に的確である。
小説家の太宰治は、「これだけ的確に描写できるのは、作者が実際に体験したからに違いない」と同業者らしく直感する。
そして太宰は、「この小説の中の、『不倫に手を染めた夫』というのは、作者ヘルベルト・オイレンベルクそのものではないか」という恐るべき疑惑に辿り着くのである。
その疑惑を元に、太宰はヘルベルト・オイレンベルクの小説に対して加筆を重ねていった。
本作品は、ヘルベルト・オイレンベルクの小説作品を無断で下敷きにした挙げ句、「ヘルベルト・オイレンベルクは不倫に手を染めた好色男」というスキャンダラスな設定をするという、まったくもって人道的に許しがたい試みを行ったものである。
この小説が書かれた当時の主な通信手段は手紙であり、電話すらあまり普及していなかった。海外との通信は手紙を船に乗せてやりとりする程度であった。つまりどういうことかというと、ドイツから遠く離れた日本の中でなにをしようがドイツ人には気付かれないという環境だった。
また、ヘルベルト・オイレンベルクも日本において全くの無名であり、日本のファンなど絶無という状況だった。このため、太宰は、本作品を執筆し発表するという禁断の行いをすることができたのである。
さすがに太宰も自分の所業について申し訳なさを感じており、作中で謝罪をしている。以下、長文ながら引用。
というのが、私(DAZAI)の小説の全貌なのでありますが、もとより之は、HERBERT EULENBERG 氏の原作の、許しがたい冒涜であります。原作者オイレンベルグ氏は、決して私のこれまで述べて来たような、悪徳の芸術家では、ありません。それは、前にも、くどく断って置いた筈であります。必ず、よい御家庭の、佳(よ)き夫であり、佳き父であり、つつましい市民としての生活を忍んで、一生涯をきびしい芸術精進にささげたお方であると、私は信じて居ります。前にも、それは申しましたが、「尊敬して居ればこそ、安心して甘えるのだ。」という日本の無名の貧しい作家の、頗(すこぶ)る我儘な言い訳に拠って、いまは、ゆるしていただきます。冗談にもせよ、人の作品を踏台にして、そうして何やら作者の人柄に傷つけるようなスキャンダルまで捏造した罪は、決して軽くはありません。けれども、相手が、一八七六年生れ、一昔まえの、しかも外国の大作家であるからこそ、私も甘えて、こんな試みを為したので、日本の現代の作家には、いくら何でも、決してゆるされる事ではありません。それに、この原作は、第二回に於いて、くわしく申して置きましたように、原作者の肉体疲労のせいか、たいへん投げやりの点が多く、単に素材をほうり出したという感じで、私の考えている「小説」というものとは、甚だ遠いのであります。もっとも、このごろ日本でも、素材そのままの作品が、「小説」として大いに流行している様子でありますが、私は時たま、そんな作品を読み、いつも、ああ惜しい、と思うのであります。口はばったい言い方でありますが、私に、こんな素材を与えたら、いい小説が書けるのに、と思う事があります。素材は、小説でありません。素材は、空想を支えてくれるだけであります。私は、今まで六回、たいへん下手で赤面しながらも努めて来たのは、私のその愚かな思念の実証を、読者にお目にかけたかったが為でもあります。私は、間違っているでしょうか。
本作品は「尊敬しているからこそ、甘えて失礼もするのだ」という論法を駆使して太宰治がずいぶんと失礼なことをしたというものであるが、その罪滅ぼしをするためか、いくつか興味深い持論を提供してくれている。
小説は出だしを上手く書くことが大切である、というのが太宰の持論である。以下、引用。
いちども名前を聞いたことの無いような原作者が、ずいぶん多いですね。けれども、そんなことに頓着せず、めくらめっぽう読んで行っても、みんなそれぞれ面白いのです。みんな、書き出しが、うまい。書き出しの巧いというのは、その作者の「親切」であります。また、そんな親切な作者の作品ばかり選んで飜訳したのは、訳者、鴎外の親切であります。鴎外自身の小説だって、みんな書き出しが巧いですものね。すらすら読みいいように書いて在ります。ずいぶん読者に親切で、愛情持っていた人だと思います。
(中略)
以上、でたらめに本をひらいて、行きあたりばったり、その書き出しの一行だけを、順序不同に並べてみましたが、どうです。うまいものでしょう。あとが読みたくなるでしょう。物語を創るなら、せめて、これくらいの書き出しから説き起してみたいものですね。
太宰は「芸術家という職業に就いている者というものは、好色であり、珍しいものを表現してやろうとする虚栄の功名心にとりつかれている」と断言している。以下、引用。
何となれば、芸術家には、殆ど例外なく、二つの哀れな悪徳が具わって在るものだからであります。その一つは、好色の念であります。
(中略)
芸術家というものは、例外なしに生れつきの好色人であるのでありますから、その渇望も極度のものがあるのではないかと、笑いごとでは無しに考えられるのであります。
(中略)もう一つ、この男の、芸術家の通弊として避けられぬ弱点、すなわち好奇心、言葉を換えて言えば、誰も知らぬものを知ろうという虚栄、その珍らしいものを見事に表現してやろうという功名心、そんなものが、この男を、ふらふら此の決闘の現場まで引きずり込んで来たものと思われます。どうしても一匹、死なない虫がある。自身、愛慾に狂乱していながら、その狂乱の様をさえ描写しようと努めているのが、これら芸術家の宿命であります。本能であります。
(中略)まことに芸術家の、表現に対する貪婪(どんらん)、虚栄、喝采への渇望は、始末に困って、あわれなものであります。今、この白樺の幹の蔭に、雀を狙う黒い猫みたいに全身緊張させて構えている男の心境も、所詮は、初老の甘ったるい割り切れない「恋情」と、身中の虫、芸術家としての「虚栄」との葛藤である、と私には考えられるのであります。
作中で太宰は「的確とは、憎悪の一変形でありますから」と書いている。
これはいかにも太宰らしい、鋭い指摘と言えるだろう。
太宰治という人は虚栄心の持ち主をひどく嫌う人で、本作品でもそうした存在に対する悪口を書き並べている。
悪口とはいっても、妙にじっくり観察している様子がうかがわれ、「太宰治は、虚栄心の持ち主のことを好きなんじゃないか?」とすら感じさせるものである。また、人気小説家らしく軽妙にして面白い表現が続けられており、まことに読み応えがある。
私は、世の学問というものを軽蔑して居ります。たいてい、たかが知れている。ことにおかしいのは、全く無学文盲の徒に限って、この世の学問にあこがれ、「あの、鴎外先生のおっしゃいますることには、」などと、おちょぼ口して、いつ鴎外から弟子のゆるしを得たのか、先生、先生を連発し、「勉強いたして居ります。」と殊勝らしく、眼を伏せて、おそろしく自己を高尚に装よそおい切ったと信じ込んで、澄ましている風景のなかなかに多く見受けられることである。あさましく、かえって鴎外のほうでまごついて、赤面するにちがいない。
(中略)
鴎外は、ちっとも、むずかしいことは無い。いつでも、やさしく書いて在る。かえって、漱石のほうが退屈である。鴎外を難解な、深遠のものとして、衆俗のむやみに触れるべからずと、いかめしい禁札を張り出したのは、れいの「勉強いたして居ります。」女史たち、あるいは、大学の時の何々教授の講義ノオトを、学校を卒業して十年のちまで後生大事に隠し持って、機会在る毎にそれをひっぱり出し、ええと、美は醜ならず、醜は美ならず、などと他愛ない事を呟き、やたらに外国人の名前ばかり多く出て、はてしなく長々しい論文をしたため、なむ学問なくては、かなうまい、としたり顔して落ちついている謂わば、あの、研究科の生徒たち。そんな人たちは、窮極に於いて、あさましい無学者にきまっているのであるが、世の中は彼等を、「智慧ある人」として、畏敬するのであるから、奇妙である。
本作品は『月刊文章
』という雑誌の1940年1月号から6月号まで6回に分けて掲載された。
太宰治は森鴎外の大ファンで、本作品でも鴎外のことを賞賛している。太宰の作品に多く見られる「~~せられる(「脅迫せられる」など。普通は「脅迫される」と書く)」という文体は、鴎外の文体が太宰に伝染したものである。
囹圄(れいご)とは、牢屋、留置所、刑務所のこと。
曾我廼家五郎
は大阪府堺市生まれの舞台俳優。商売の街大阪出身なので、商人らしく「勉強いたしております」と言っていた。
小島政二郎
は小説家で、太宰治よりも15歳年上である。
マイヤーの大字典とは、マイヤー百科事典
ともいい、ドイツを代表する百科事典である。ライプツィヒの出版業者マイヤーが、1840~52年に初版を刊行した。最新版は1981~1986年に発刊されている。
作中で「廿世紀」という表現が出てくる。廿とは20という意味。
藤十郎の恋
とは、菊池寛が1919年に発表した小説。歌舞伎になったり、映画化されたりした。
ヘルベルト・オイレンベルクという人物は実在した人で、日本語版Wikipedia
やドイツ語版Wikipedia
がある。
1876年1月25日生まれで、太宰治よりも33歳年上である。森鴎外は1862年生まれなので、鴎外よりも14歳年下である。
ドイツ西部のミュールハイム
で生まれた。ここはライン川沿いのルール工業地帯の一角であり、ヘルベルトも機械製造業者の息子として生まれている。ところがヘルベルトは文系の素質があったようで、ベルリン・フンボルト大学やルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン学校やライプツィヒ大学やボン大学で法律学を学び、博士号を取得している。卒業後はオプラーデン
やケルン
で法律事務所を開いていた。
法律家として活動していたが、演劇に対する情熱は捨てきれなかった。フェルディナンド・ボン
という演劇監督に声を掛けられて、首都ベルリンのベルリン劇場
に行き、そこで劇作家として働き始める。
1901年にヘッダ
という女性翻訳家と出会い、1904年に結婚している。ヘッダは1960年に没しているので、『女の決闘』のモデルにはなっていなさそうである。ちなみにヘッダは英語やフランス語をドイツ語に翻訳するのが専門だった。
1909年に書いたフリードリヒ・フォン・シラーに関する批評は、文壇で物議を醸した。
1920年代から1933年までのドイツの演劇界において人気があり、「ドイツにおいて最も多くの脚本を提供した劇作家」のうちの1人だった。ただ、文学作品の発表は1920年代中盤でほぼ止まっている。
1933年にアドルフ・ヒトラー内閣が成立し、ヘルベルト・オイレンベルクやその妻のヘッダ・オイレンベルクの活動も次第に制限されていった。ヘルベルトの劇は上映されなくなり、ヘルベルトやヘッダの著作物は出版を禁止された。強制収容所送りになりそうになったが、劇作家としての名声があったので、なんとか回避することができた。偽名を使って新聞に評論を書いたり、友人からの金銭的支援を受けたりして、ナチス時代を耐え忍んでいた。
1945年にナチス政権が崩壊した後は、デュッセルドルフ市や東ドイツ政府から表彰を受けるなどしている。
1949年に73歳で逝去。
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最終更新:2025/12/18(木) 10:00
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