秋霜(夕雲型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した夕雲型/甲型駆逐艦18番艦である。1944年3月11日竣工。マリアナ沖海戦、シブヤン海海戦、サマール沖海戦、多号作戦と数々の激戦に参加した。11月14日、マニラ大空襲に巻き込まれて沈没。
夕雲型駆逐艦とは、艦隊型駆逐艦の傑作・陽炎型駆逐艦に小改良を加えたタイプである。艦尾水線長を0.5m延伸し、プロペラ形状を変更、大型化の一途を辿っていた艦橋を楔型に改めて空気抵抗を減少させ、最大速力を35.5ノットに増加。主砲は12.7cm連装高角砲D型を採用。C型の最大仰角が55度だったのに対し、D型は75度になっており対艦用と対空用を両用出来るものだった。給弾速度が遅くて対空用に向かない意見もあったが、換装される事無く使われ続けた所を見るに、大きな支障は無かったようである。寒冷地では燃料の重油が粘性を伴ってドロドロになってしまう事から重油タンクに加熱装置を新設。強力な駆逐艦ではあるものの、建造に時間が掛かってしまう欠点は戦争が進むにつれ嫌われるようになり、1943年初頭で全ての夕雲型は建造中止となった。
要目は排水量2077トン、全長119m、全幅10.8m、最大速力35.5ノット、重油搭載量600トン、乗員225名。武装は12.7cm連装砲D型3基、25mm連装機銃2基、次発装填装置付き61cm四連装魚雷発射管2門。
開戦前の1941年8月15日に提出されたマル急計画により、甲型一等駆逐艦第346号艦の仮称で建造が決定。1943年5月3日、建造費1742万4600円を投じて藤永田造船所で起工、8月30日に駆逐艦秋霜と命名され、12月5日に進水し、1944年3月11日に竣工を果たした。横須賀鎮守府に部署するとともに平山敏夫少佐が艦長に着任し、訓練部隊の第11水雷戦隊へ編入される。4月2日、平山少佐の早霜艦長への異動に伴い、中尾小太郎少佐が二代目艦長に着任。瀬戸内海西部に回航して慣熟訓練を行うが、戦況の逼迫と燃料不足は秋霜に充分な訓練期間を与えず、追い立てられるように燃料が豊富な南方へと移動する事になる。5月10日、秋霜、早霜、響、電の4隻は第1機動艦隊に転属。
5月11日、戦艦武蔵、空母隼鷹、飛鷹、龍鳳、千歳、千代田等とともに佐伯湾を出港、九州東岸を南下し、沖縄の中城湾を経由してタウイタウイ泊地を目指す。敵潜水艦の跳梁が激しいセレベス海やフィリピン近海を突破して、5月16日19時15分、何事もなくタウイタウイ泊地に到着した。ここは産油地タラカンに近いため燃料不足とは無縁の場所だった。5月19日、タンカー4隻(日栄丸、建川丸、国洋丸、清洋丸)と駆逐艦秋霜、響、浜風、海防艦満珠からなる機動部隊第1補給部隊が編成され、小沢機動部隊を動かすための燃料を持ってくるべく、5月23日に第3補給部隊とともにタウイタウイを出港。道中で建川丸が米潜ガーナードに撃沈される被害が出るも、バリクパパンで補給した燃料を5月25日にタウイタウイまで持ち帰った。5月31日、日栄丸より燃料補給を受ける。
帰投後、秋霜、響、浜風の3隻はダバオ湾口の警戒を命じられてダバオにて待機。第一次渾作戦から戻ってきた第5戦隊の妙高、羽黒、戦艦扶桑がダバオへ寄港した際にはその護衛任務に従事している。6月8日、米潜ヘイクの雷撃で第5戦隊を護衛していた駆逐艦風雲が撃沈され、救援要請を受けて朝雲と秋霜が出動。風雲の生存者136名を救助してダバオに送り届けた。6月10日、第2艦隊第2水雷戦隊へ転属。6月14日午前3時30分、第1補給部隊のタンカー3隻を浜風、響、白露、時雨とともに護衛してダバオを出発するが、翌15日未明に白露と清洋丸が衝突事故を起こして白露が爆沈してしまう。同日午前7時17分、アメリカ軍のマリアナ諸島襲来に伴って「あ」号作戦決戦発動が下令され、18時に渾作戦から原隊に復帰する参加部隊と合流。6月16日朝より日栄丸から燃料補給を受け、15時30分にタウイタウイから出撃してきた小沢機動部隊との合流を果たし、6月17日15時30分に艦隊の補給作業が完了。一路サイパン方面に向かう。6月18日21時、小沢機動部隊は3つのグループに分かれ、秋霜は隼鷹、飛鷹、龍鳳を基幹とする乙部隊の護衛に加わった。
6月19日、マリアナ沖海戦に参加。徹底した無線封鎖により小沢機動部隊は敵艦隊に位置を悟らせなかったが、放った攻撃隊の大半は帰還せず、また敵潜の雷撃により午前8時10分に旗艦大鳳が被雷、午前11時20分には翔鶴も被雷して14時10分に沈没。残った大鳳も16時28分に起きたガス爆発で致命傷を負って沈没し、100機以上の航空機を失う痛手を受ける。体勢を立て直すべく小沢艦隊は17時10分に北上を開始、22時45分より西方への退避を始めた。迅速な撤退が功を奏して敵の索敵から逃れる事に成功した。6月20日午前7時、第1及び第2補給部隊の油槽船5隻が到着し、午前11時より燃料補給を開始。旗艦を瑞鶴に移して更なる攻勢計画を練るも、15時5分に傍受した敵の通信から既に発見されている事が分かり、油槽船に対し速やかに西方へ退避するよう命じるとともに15時20分から西方への退避を始める。16時には敵の偵察機に発見されてしまい、いよいよ敵の逆襲が始まる。
17時、東の空から216機に及ぶ敵機の大群が出現し、上空待機していた75機の零戦とともに迎撃開始。高角砲の弾幕が空一面を覆った。この時、航空機の発進で東方に取り残されていた飛鷹が逃げ遅れ、18時頃に急降下爆撃を受けて損傷、更に右舷機関室に魚雷を受け、被弾から約2時間後に大爆発を起こして19時32分に沈没。秋霜は早霜とともに飛鷹の生存者を救出し、御真影と勅諭を引き取った。闘志燃え盛る小沢中将は夜襲による反撃を企図していたが、豊田副武大将から「あ」号作戦の中止と撤退を命じられ、21時5分に沖縄への撤退を始める。このマリアナ沖海戦で日本側は虎の子の大型空母3隻、航空機400機以上、母艦搭乗員の78%を失う大損害をこうむり、西太平洋の制空権を失うと同時に二度と機動部隊を再建出来なくなってしまった。6月22日13時、中城湾に到着して燃料補給と生存者の移送を行い、翌日午後に出港。重巡熊野、鈴谷、利根、筑摩を護衛して日本本土に向かい、6月24日に柱島泊地へ帰投した。
7月1日、陸軍部隊を輸送する重巡妙高と羽黒を早霜とともに護衛して柱島を出港。7月4日にマニラへ寄港、艀を使って陸軍部隊と物資を揚陸した後、サンボアンガを経由して7月12日にシンガポールへ到着。現地で整備と修理を行い、翌日リンガ泊地に進出して訓練の日々を送る。8月15日、清霜、早霜、秋霜の3隻で第2水雷戦隊第2駆逐隊を新編。9月8日と10月1日に給糧船北上丸から生鮮食品の補給を受ける。
10月14日、秋霜と早霜はリンガ泊地を出港し、サイゴンへ移動する南方軍総司令部を収容すべくマニラに向かう。ところが10月17日午前8時、マニラ湾口に差し掛かった時にマニラ基地が米第38任務部隊の空襲を受けている事が分かり、命令により10月19日にブルネイ湾へ到着。10月20日午後12時15分、捷一号作戦発令に伴ってリンガ泊地から出撃してきた現地で栗田艦隊(第1遊撃部隊)と合流する。ここで燃料補給を受ける予定だったが、タラカンを出発した補給船団が米潜水艦の襲撃を受け、被害こそ出なかったものの到着が遅れていた。そこで前もって戦艦が巡洋艦と駆逐艦に燃料補給する事に。
10月22日午前5時に全艦艇の補給作業が完了し、午前8時、戦艦7隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦19隻からなる栗田艦隊はブルネイを出撃。五列二群の対潜警戒航行序列を組み、軽巡能代率いる第2水雷戦隊は艦隊の先頭に立って進む。午前10時3分にアベノロック北方を通過し、午後12時45分に針路を15度に変えてパラワン水道の入り口へと向かった。日付が変わった翌23日深夜、栗田艦隊はパラワン水道に差し掛かるが、そこには恐るべき敵が目を光らせて潜んでいた。10月23日午前6時33分、敵潜ダーターが6本の魚雷を発射し、旗艦愛宕の右舷に4本が命中して撃沈、2本が高雄に命中して大破落伍させられる。午前6時57分、次に距離1400mからデースが魚雷4本を発射、全てが摩耶の左舷に命中して瞬く間に沈没。愛宕の救助には岸波が、大破した高雄には長波と朝霜が、そして摩耶の救助には秋霜が向かい、午前9時に生存者726名を救出。あまりに多くの人数を乗艦させたため操艦が上手く行かなくなったとか。16時頃、戦艦武蔵に横付けして生存者を移乗させる。
10月24日午前2時、艦隊の前方にミンドロ島の山々が姿を現した。そして水平線上から太陽が顔を出し、銀色の海と栗田艦隊を曙光で照らすが、この光は艦隊に取って絶望の象徴でもある。何故なら夜明けは敵機の空襲が始まる事を意味していたからだ。午前7時30分には早くも敵触接機の気配が感じられたため、午前7時59分に陣形を輪形陣に変更。午前10時4分、能代、大和、羽黒の電探が接近してくる第一次攻撃隊(戦闘機21機、急降下爆撃機12機、雷撃機12機からなる計45機)の接近を探知。敵機は編隊を崩す事無く距離2万mまで近づいてきた後、三群に分かれながら太陽を背にして襲い掛かってきた。シブヤン海海戦の始まりである。敵は大和、武蔵、長門、妙高に攻撃を集中し、まず妙高が被雷して大破落伍。戦場から脱落する妙高を援護するため秋霜が一時的に付き添い、無事離脱を見届けた後は艦隊に合流。秋霜自身も対空戦闘で若干の損傷と戦死者12名を出す。15時30分、栗田艦隊は輪形陣のまま左へ一斉回頭して西方への退避を始める。これが効果的な目くらましとなり、ハルゼー艦隊に決定的痛打を浴びせたと誤認させ、北東方向に現れた小沢艦隊に釣り上げられる一因となった。シブヤン海海戦が終結した時点で栗田艦隊は戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦11隻にまで減少。実に16隻が沈没ないし離脱していた訳である。
多くの犠牲を払いながらも10月25日午前1時55分に難所のサンベルナルジノ海峡を突破。サマール島東岸に沿って南下してレイテ湾を目指す。午前3時6分、20ノットで航行していた秋霜が変針しようとした時、左側から来た島風と衝突事故を起こす。幸い両艦とも戦闘航海に支障は無かった。だが空が白み始めた午前6時25分、大和の電探が前方50kmに敵機を捕捉。対空戦闘に備えて輪形陣を組もうとした矢先の午前6時45分、南東方向35km先の水平線上に数本のマストを発見、距離が縮まるにつれ敵機を発進させている敵護衛空母群だと分かり、栗田中将は「戦艦戦隊、巡洋艦戦隊進撃せよ」と下令。サマール沖海戦が生起する。敵は快足の空母だろうから陣形を組む時間が惜しい。各艦はバラバラに敵艦隊への突撃を開始した。矢面に立たされたのは護衛空母6隻と駆逐艦7隻からなる第4任務群群第3集団(タフィ3)であった。思わぬ襲撃を受けたタフィ3の護衛空母群は退却を始め、それを駆逐艦が煙幕を張って援護する。午前7時、栗田中将は水雷戦隊が主力とする魚雷が真価を発揮するにはよほど接近しなければならないと考え、第2水雷戦隊に対し戦艦の後方に続航するよう命令。その影響で第2水雷戦隊は殆ど戦局に寄与出来なかった。敵機との交戦で秋霜の損傷は深まり、特に島風との衝突で負った損傷個所が増大して浸水被害が発生するなど徐々に窮地へと追いやられていく。
しかし各艦バラバラに突撃したせいで艦隊は散り散りになっており、どの艦が沈没してどの艦が健在なのか把握し切れていなかった。午前9時16分、旗艦大和は北上と集結命令を出して残存艦が集まり始める。間を置かず戦艦榛名が南方からの敵機襲来を報告したため午前10時14分に輪形陣を組む。6分後、雷撃機と爆撃機約30機が出現して対空戦闘。第一波が引き揚げていくのと同時に第二波の雷撃機20機が現れ、大和、長門、榛名、能代、鈴谷が標的にされたが、小規模な攻撃だったため難なく撃退。このサマール沖海戦で栗田艦隊は護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦サミュエル・ロバーツ、ホーエル、ジョンストンを撃沈。一方で鳥海、筑摩、鈴谷が沈没、熊野は艦首大破の損害を負って艦隊から落伍。一気に重巡4隻がいなくなった。栗田艦隊への攻撃は続き、午後12時17分には雲間からタフィ2の敵艦上機50機が襲ってきている。度重なる空襲でレイテ湾突入が遅れ、敵輸送船団がいないと考えた栗田中将は午後12時45分に突入を諦めて反転を下令し、艦隊は13時10分に反転・帰路につく。その1分後、北東から敵機100機が出現してすぐさま対空戦闘を強いられる。15時55分から16時16分までの空襲を切り抜けた直後、北方の空に零戦と九九式艦爆からなる第6基地航空隊の総攻撃部隊60機以上が飛んでいるのを目撃。サンベルナルジノ海峡東方の敵艦隊を攻撃すべく早朝クラーク基地から飛び立った部隊だった。今次作戦中、初めて見る味方の大部隊に栗田艦隊の士気は大いに盛り上がる。しかし味方機を見送ったのも束の間、16時40分に艦爆と艦攻からなる敵機40機が出現して栗田艦隊と現実と砲火の中に引き戻す。この対空戦闘で早霜が爆撃を受けて損傷、栗田中将は早霜のコロン湾回航とその援護を秋霜に命じ、艦隊から反転離脱して早霜に付き添う。一時は航行不能に陥っていた早霜だったが応急修理により自力航行が可能となり、2隻だけでサンベルナルジノ海峡を突破して栗田艦隊の後を追いかける。
10月26日午前7時50分、栗田艦隊本隊を発見。これに伴って秋霜は早霜の護衛を終了し本隊に復帰する。午前8時35分、スールー海にて264機からなる敵の大編隊に捕まり、対空戦闘。午前9時10分に敵の攻撃が一旦止んだため、秋霜は再び早霜のもとへ戻って護衛任務を再開するが、第二波攻撃により午前11時13分、栗田艦隊の先頭を進んでいた軽巡能代が航空攻撃を受けて沈没。早霜座乗の第2駆逐隊司令白石大佐の命令で秋霜は能代乗組員の救助に向かい、救助活動中の浜波を手伝って328名を生存者を艦内に収容。能代に代わって浜波が第2水雷戦隊の旗艦となった。秋霜と別れた早霜はその後、ミンドロ島南方で米第38任務部隊の空襲で深手を負い、沈没を避けるため自らセミララ島へ乗り上げて果てた。栗田艦隊はブルネイへ帰投しようとしていたが、秋霜、島風、岸波、浦風、浜波の5隻は燃料不足のためブルネイまで帰り着く事が出来ず、避難所に指定されているコロン島を目指して艦隊から分離。21時頃、秋霜は何とかコロン島コロン湾へ到着し、先に到着していた志摩艦隊の重巡那智から燃料補給を受ける。10月27日午前3時20分、闇夜に紛れてコロン島を出港。道中で先行した浜波、島風、岸波と合流し、4隻は10月28日午前1時にブルネイへ帰投。遂に地獄のレイテ沖海戦からの生還を果たしたのだった。だがその先に待つのもまた地獄であった。
レイテ沖海戦は敗北に終わったが、レイテ島における地上戦はこれから始まろうとしていた。フィリピンを失陥する事はすなわち南方資源地帯からの補給路が途絶える事を意味し、帝國陸海軍は是が非でもレイテを死守しようとルソン島からの増援輸送「多号作戦」を10月29日に発令。これに伴って水上兵力がかき集められ、生き残っていた秋霜もこの生還を期さない絶望的な作戦に臨む事となる。10月30日、第2水雷戦隊はブルネイを出港し、策源地となっているマニラに移動。しかしマニラですらもはや安全な場所ではなく、11月5日にマニラ大空襲が発生、志摩艦隊旗艦の重巡那智が撃沈され、駆逐艦曙が擱座するなど秋霜に降りかかる未来を暗示するかのような光景が湾内に広がっていた。行動不能になった曙に代わって秋霜が第四次輸送船団に参加する事に。
11月8日午前10時30分、第26師団1万人と糧食と軍需品3500トンを積載した陸軍徴用船香椎丸、金華丸、高津丸を護衛してマニラを出港。駆逐艦霞、潮、朝霜、長波、若月、海防艦4隻とともに揚陸地オルモック湾を目指す。護衛対象の輸送船はいずれも快足を誇る高速船だったため守る側も幾ばくか余裕があり、吹き荒れる嵐が敵機の脅威から守ってくれるなど地の利も日本側に味方していた。ところが11月9日16時59分、オルモック湾口でB-25爆撃機4機とP-38戦闘機約20機が低空より襲い掛かり、17時15分、まず最初に高津丸が直撃弾を受けて炎上。金華丸も至近弾数発を受けて損傷した。敵機の襲撃を掻い潜った第四次輸送船団は18時50分に湾内のイピル泊地に到着。しかし今度は台風の影響で50隻以上あった大発が10隻程度しか使えず、先の交戦で輸送船が持つ上陸用舟艇も全て使用出来なくなっている最悪の事態に陥り、やむなく海防艦を大発代わりにして人員をピストン輸送する。その間、秋霜ら駆逐艦は敵の出現に備えて湾の入り口を警戒。真夜中、闇夜に紛れてPT-492、PT-497、PT-524、PT-525からなる敵の魚雷艇群が出現するも、駆逐艦に撃退されて事なきを得る。海防艦でのピストン輸送はあまりにも非効率的だったため司令の木村昌福少将は重火器の揚陸を断念。人員のみ輸送を完了させた。
11月10日午前11時にオルモックを出発。既に陽が昇っているので空襲を受ける前にマニラヘ帰投しようと全速力で走る。だがその願いもむなしく出港直後の午前11時25分、モロタイから発進してきたB-25爆撃機30機とP-38戦闘機32機に襲われ、対空砲火で7機を撃墜するが反跳爆撃によって香椎丸、高津丸、第11号海防艦が沈没。他の駆逐艦が生存者の救助に当たる中、秋霜は唯一生き残った金華丸を護衛して必死にマニラへ向かう。船団は潮、秋霜、金華丸、沖縄、占守、若月の先頭グループ、霞、朝霜、長波の中間グループ、最後尾の第13号海防艦の三つに分かれていた。14時頃、秋霜がいる先頭グループがセブ島北端でP-38戦闘機10機に襲撃されて対空戦闘、14時18分に秋霜は艦首に直撃弾を受けてしまい、一番砲塔より前部が切断される重傷を負う。かろうじて命だけは助かった秋霜は潮の護衛を受けながら14~16ノットで退避しつつも金華丸の護衛任務を続行している。20時45分、マニラから出発してきた第三次輸送船団とすれ違う(マニラ空襲の影響で第四次より出発が遅れていた)。予定では秋霜も第三次輸送船団の護衛に加わってオルモックへ再突入するはずだったが、艦首切断の重傷によりマニラへの帰投を命じられ、ここで島風、長波、朝霜、若月と別れる。
11月11日17時30分、潮とともにマニラ入港。艦首を失った秋霜はキャビテ軍港の第103工作部に回航されて第2桟橋に係留。後は修理を待つばかりだったが最悪の事態が秋霜を襲う。
11月13日午後、三群に分かれた米第38任務部隊がマニラとルソン島中心部に大規模な空襲を仕掛け、果敢に対空射撃で応戦したものの回避運動が全く取れず、瞬く間に直撃弾3発を喰らって火災が発生、やがて弾薬庫に誘爆して火だるまと化す。翌14日午前5時、右舷側に転覆して着底。激戦を駆け抜けてきた秋霜の戦いは終わった。1945年1月10日、除籍。生き残った170名は陸戦隊に転用されてマニラ防衛戦に投入された。
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最終更新:2024/04/24(水) 07:00
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