戦艦武蔵とは、大日本帝國海軍が建造・運用した大和型戦艦2番艦である。1942年8月5日竣工。最も長く連合艦隊旗艦を務めた。1944年10月24日、シブヤン海海戦で撃沈される。総合戦果はヘルダイバー4機とアベンジャー2機撃墜(World War Ⅱ Databaseではシブヤン海海戦だけで18機撃墜したとしている)。
大日本帝國海軍の大和型戦艦2番艦。武蔵とは東京都周辺の旧国名を指す。
大艦巨砲主義の極致とも言うべき存在で、日本が建艦した最後の戦艦であると同時に「世界最大の主砲を装備」「世界最大の戦艦」「最も被弾した艦」という3つのギネス記録を持つ。戦艦の建艦経験を積ませるべく官営の呉工廠ではなく民間の三菱重工に発注。三菱重工は豪華客船の建造実績に富んでおり、その恩恵により武蔵は大和以上の内装の豪華さと高い居住性を獲得した。居住区には西洋式水洗トイレやベッド、シャワーを装備し、ラムネ、アイスクリーム、パン、こんにゃく等の製造機を持ち、料亭で働いていたコックを雇っていたので高級幹部は常に美味しい料理に舌鼓を打つ事が出来た。その快適さを高く評価されてか最も長く連合艦隊旗艦を務め上げている。ただ2000人以上の乗組員に対してトイレの数が少なく、迷路のような広い艦内も手伝って苦労したとか。最終的な建造費は6490万円。現代に換算すると412億7640万円となる。
艦底から上甲板だけでビル7階分の高さがあり、その上に数十メートルに及ぶ艦橋が立っていた。高級士官用の5人乗り昇降機はあったが、下士官以下の乗員は網目のように張り巡らされたラッタルを上らなければならなかった。武蔵にも大型艦特有のシゴキが存在した。艦長命令で私的制裁を禁止していたにも関わらず目の届きにくい艦底部に連行されて暴行を受けるケースが後を絶たなかったという。
要目は全長263m、全幅38.9m、排水量6万4000トン、出力15万馬力、最大速力27.3ノット、重油積載量6400トン。武装は45口径46cm三連装砲3基、60口径15.5cm三連装砲4基、40口径12.7cm連装高角砲6基、25mm三連装機銃8基、13mm連装機銃2基、12cm28連装噴進砲2基。搭載機は零式水上観測機7機。
1930年代、世界は大艦巨砲主義を是としていた。大きな艦体と巨砲を持つ戦艦こそが最強であり、いかに他国以上の戦艦を造れるかで軍事力の優劣が決まっていたのである。そんな時流の中で大和型は誕生する。
ロンドン及びワシントン海軍軍縮条約の期限が1936年末で切れ、世界情勢を鑑みるにこれ以上の軍縮は困難な事から帝國海軍は1934年より新型戦艦の基本計画を始動。まず3月に51cm三連装主砲4基とディーゼル推進で最大速力30ノットを有する戦艦を設計したが、友鶴事件の発生と国力的に不可能と判断されて断念。6月に第2艦隊向けの30ノット重武装戦艦に方針を転換する。仮想敵アメリカのコロラド級やイギリスのネルソン級は40cm主砲を持っており、パナマ運河を通過する関係上、アメリカ製戦艦は40cm以上の口径は搭載できないだろうと思われたが楽観視はせず、軍縮条約終了後は更に大きな口径を持った新型戦艦の出現を予測して主砲口径を世界最大の46cmに決定。新型戦艦を打破できるだけの火力を大和型に持たせようとした訳である。研究討議の結果、前代未聞の46cm主砲の製造が決まる。既に帝國海軍は46cm主砲や50cmの基本設計を終えていたため容易に製造できる事も決定の後押しをした。諸外国のスパイから隠すため、46cm主砲は九四式40cm砲の秘匿名が用いて隠匿。10月、50口径46cm主砲8門以上、同砲弾安全圏20~35km防御、速力30ノット以上という基本設計を軍令部が要求。
1935年3月、海軍艦政本部第4部がA-140案の名で要目をまとめた。ところが軍令部は連合艦隊直卒の主力第1艦隊より露払いの第2艦隊に超強力な艦を配備するのは如何なものかという意見が出され、艦政本部でも友鶴事件の二の舞を恐れて艦型を縮小する事になり、4月に扶桑型の後継になる戦艦を要求。武装や性能を巡って議論と検討が始まった。1936年7月30日に最終案のF5案が認可される。大和型にはディーゼルエンジンを採用する予定だったが、帝國海軍に大型ディーゼルのノウハウが無く、ドイツのMAN社からの技術供与交渉は失敗、潜水母艦大鯨と水上機母艦瑞穂に導入した試作ディーゼルは不具合多発で実用化に昭和20年まで掛かる計算となったため、蒸気タービンのみとなった。試行錯誤の末、1937年3月に集成したA-140F6案が最終試案として確定。マル3計画で1番艦と2番艦を、マル4計画で3番艦と4番艦を建造する事に。大和型戦艦は扶桑型より続く国産戦艦の終着点であり、大艦巨砲主義を具現化した海の魔獣であった。
昭和12年度海軍補充計画(通称マル三)において戦艦2号艦として建造が決定。1936年12月26日より開かれた第70回帝国会議によって予算承認された。艦隊決戦の切り札である戦艦武蔵の建造は軍極秘であり、徹底的な機密保持が図られる。
1937年1月に三菱重工長崎造船所へ発注されたが、排水量、全長、全幅は現場に伝えられなかった。10月10日、長崎造船所は建造費6253万8550円の見積もり書を提出。1938年2月10日、村上春一海軍経理局長と三菱重工との間で契約を締結した事で正式に起工が決定した。米英両国の領事館から建造ドックが見えるため倉庫を建設して目隠しし、ドックを見下ろせる高台にあった香港上海銀行長崎支店やグラバー邸は三菱重工が買い上げるなど起工前から防諜に取り組んだ。工事に備え、2台の強化型クレーンも新設している。
1938年3月29日午前9時55分、800番船の仮称を与えられて起工。ガントリークレーンやドックには長崎周辺で買い込んだ400mの幌が張られ、外から見えないようにした。この影響で九州の漁業は一時的に幌不足になる事態に陥っている。建造に携わる工員は口外しない旨を記した宣誓書に署名し、綿密に身元を調べられ、艤装岸壁には証明写真付きの腕章が無ければ艤装員長ですら出入り出来なかった。艦上や岸壁には水兵が立ち、不審者がいないか目を光らせている。もし幌の間を見ようとしたり、長時間海岸を眺めていると水兵がすっ飛んできてビンタを喰らい、最悪逮捕される事もあった。姿を見ようとした者には等しく災厄が降りかかった。艦の全貌を記す製図は特に管理が厳重で、1枚でも欠けると見つかるまで探す羽目になった。意図的に製図を燃やした少年製図工は特高に逮捕され、家族もろとも長崎から満州へ強制引っ越しとなった他、飲み屋で口を滑らせた作業員も逮捕されている。建艦に携わる作業員たちは薄々何を造っているのか悟りつつあった。竜骨、甲板の厚さ、打ち込む鋲の大きさ、何もかもが規格外だったのだ。あまりの船の大きさに、工員の間では「化け物」と呼ばれていたという。進水日は工員にも伝えられず、9月頃から徹夜作業が頻繁に繰り返された。恐ろしいほどの機密保持がもたらす言い知れぬ緊張感は長崎市民にも伝わり、幌の中では『魔物』『怪物』が造られていると噂した。中には「長崎造船所で何かが起こっている。近づかない方が良い」とまで言われていた。
欧米の列強国では、1939年に「日本海軍が3万5000トンまたは4万トン級以上の戦艦を2~4隻建造しているらしい」との情報を朧気ながら掴んでいた。しかし徹底的な防諜により真相を掴めず、同年11月に竣工した水上機母艦日進こそが新型戦艦ではないかと疑われたほど。アメリカが大和型の存在に気付いたのは、5年後の1943年だった。一方で、1938年5月20日に中国国民党軍所属のツポレフTB-3爆撃機6機が長崎上空に飛来。宣伝ビラ撒きと空撮を行った際、建造中の戦艦2号艦が写り込んで偶然ロシア人パイロットに発見された。しかし列強国の警戒を引き出すには至らなかった。
1940年10月31日午後、船台への出入り口が突如閉められ、内外の工員は理由も分からぬまま閉じ込められた。11月1日午前8時55分、伏見宮博恭親王元帥臨席のもと進水式を挙行。軍艦武蔵と命名されたが、機密保持のため竣工までは第2号艦の呼称が使われた。本来であれば外部から観覧客を招いて盛大に執り行うのだが、武蔵の場合は違った。住人に見られないよう、進水式当日は防空演習と称して外出を禁止。カーテンや雨戸を閉める事まで指示し、一軒一軒に海軍警戒隊員を1人ずつ配置。路上に出ようものなら即座に取り押さえられた。市内要所の交通は遮断、長崎港への船舶の往来を禁じ、海岸にも憲兵や警察官が配置される徹底ぶりであった。軍楽隊の勇壮な演奏は無く、招かれた少数の参列者と1000名の作業員たちだけで門出を祝った。武蔵の巨体が水面に降り立った時、静かな海に1.2mの津波が発生。港内の立神桟橋では約10分の間、海位が30cmも上昇。船台の対岸にも大波が届いて民家に床上浸水をもたらし、小型漁船を転覆させてしまった。場所によっては川の水位も30cm上昇したと伝わる。向島岸壁に向かう武蔵の船体を隠すべく、建造中の新田丸級貨客船春日丸を曳航して視界を遮った。進水後は向島岸壁で艤装工事を続行。船台は空っぽになったが、進水を悟られぬよう幌に覆われたままだった。12月29日、重心査定を実施。
1941年7月1日午前5時、大型曳航船翔鳳丸と曳船5隻に曳航されて長崎出発。7月2日から21日にかけて佐世保工廠第7船渠で推進器を設置。この時、直径5mのスクリューが音を立てて落下する事故が発生した。8月1日、特務艦知床に曳航されて佐世保を出発し、再び長崎造船所に戻った。9月10日、有馬馨大佐を員長とした艤装員事務所が開設。造船所内の海軍監督官事務所1階の東側に設置された。防諜の都合から艦名は無く、「長崎造船所内有馬事務所」と呼ばれた。極秘裏に建造が行われているからか、海軍部内からの通信や文書は限られていた。ある日、有馬艤装員長が2名の下士官を伴って門を通ろうとした時、警備員に呼び止められた。艤装員長の腕に腕章が無かったのだ。「わしは艤装員長なのだが」と言うが、「たとえ艤装員長であったとしても、腕章を持っていない方は中に入れません」という警備員の断固とした態度には黙るしかなかった。中に入れてもらえなかった有馬艤装員長は一旦引き返さざるを得なかった。その後、腕章を付けて来たようで、夕刻事務所へ来た有馬艤装員長は准士官以上を集めて足止めを食らった事を話した。「艤装員長のわしまで入れてくれないんだよ、みんなも気を付けてくれ」と注意を促した。
先に就役した大和の運用実績から細かい改良が施され、駆逐艦1隻分に相当する巨費が投じられた。武蔵の武器である46cm主砲は呉工廠で造られ、長崎へは給兵艦樫野によって3回に渡って輸送された。10月5日に1番砲塔を、10月29日に3番砲塔を、11月20日に2番砲塔を長崎に輸送。
大東亜戦争開戦後の1941年12月、前後主砲を挟むように配置されている副砲に800kg爆弾が命中すると簡単に砲室内部まで貫通されてしまう事が判明。もし爆発の炎が弾火薬庫内に到達すれば、一撃で轟沈する危険性が指摘された。直ちに対策が検討され、1942年3月に改造訓令が出された。建造途中だった武蔵には大和と違って改良のチャンスがあり、可能な限り改善された。他にも旗艦施設改正に伴う艦橋作戦室等の諸待機室の変更、過大な航続距離に対する搭載燃料の減少といった改善を実施している。その結果、6月の竣工予定が8月にまで遅延してしまった。
1942年4月18日、ドーリットル空襲が発生。武蔵がいる長崎に被害は無かったが、艤装員長の有馬馨大佐は敵襲に備えて対空要員を配置。4月20日から銃座に要員が待機した。5月7日に乗組員が乗艦し、5月20日15時5分に出港。長崎造船所を去った後も幌が残されていたため、隼鷹の乗組員は「武蔵がもう1隻いるのか?」と疑問に思ったとか。東シナ海の甑島(こしき)列島を通過した後、佐世保鎮守府から飛来した2機の水上機が上空援護を実施した。また道中で25mm三連装機銃の試射も行っている。日付が変わった5月21日深夜、日向灘で第36号哨戒艇や機雷敷設艦と合流。呉防備隊からは特設駆潜艇が派遣され、豊後水道の対潜掃討を行った。16時頃、武蔵は呉に入港し、26番ブイに係留された。5月26日午前9時30分、呉工廠第4船渠に入渠。艦底部を清掃するとともに鉛色に船体を塗装した。6月9日午前7時に出渠し、6月18日から26日にかけて伊予灘佐多岬で運転公試を実施。28.1ノットを記録した。6月28日から7月16日まで入渠して対空兵装を装備する。7月24日、伊予灘で主砲発射試験を行うため呉を出港。発射の際に生じる爆風を調査したところ、甲板が焦げる事が判明。人間が甲板上にいたら無事では済まないので、主砲射撃時は事前にブザーを鳴らして艦内退避を促す対策を施した。7月30日、呉へ帰港。8月1日に最上甲板より上を鼠色に塗装。
そして8月5日午前9時に竣工。全乗組員が後甲板に集められ、一同整列。君が代の演奏を背に大軍艦旗が艦尾に掲揚された。帝國海軍が誇る鋼鉄の怪物が、産声代わりの咆哮を上げた瞬間だった。艦長に有馬馨大佐が着任し、横須賀鎮守府に編入された。武蔵国氷川大社から分祀を受け、艦内神社とした。
ちなみに大和や武蔵艦長の座は、将官及び鎮守府長官へと続く出世街道であった。このため水兵は勿論の事、佐官からも憧れの的だった。実際、武蔵に着任した艦長は在任中に全員少将へ昇進している。
1942年8月7日、1番艦大和とともに連合艦隊第1戦隊へ編入。8月10日に伊予灘へ回航され、各種試験と改修に従事。海軍兵学校70期生と71期生の初級士官の訓練艦も務めた。8月16日午前8時15分、宇垣纏参謀ら重鎮が武蔵に来訪した。8月18日に柱島を出発し、伊予灘で訓練に従事。8月28日に完了し、柱島泊地へ回航。9月3日、呉工廠に入渠して空中見張り用の2号電波探信儀1型を装備した。9月28日に出港し、柱島方面で対空訓練と機動訓練を実施。有馬艦長は体力づくりを重視し、午前中は猛烈な艦砲訓練、午後は海軍体操を行った。体操は「すごい」「恐ろしいほどだ」と評され、たちまち艦隊で有名になった。約2000名の乗員が手足を伸ばして体操できるのは武蔵くらいである。有馬艦長もちゃっかり参加していた。
10月28日、戦艦長門、伊勢、日向、扶桑、山城とともに周防灘で砲撃演習。演習中、主砲の爆風で電探が破損するトラブルに見舞われた。11月28日に周防灘でレーダー射撃実験を行うが、大和より精度が劣っていると判断された。12月22日、船用需品補充のため柱島を出発し、呉に回航。
1943年1月17日、呉でトラック諸島に向かう士官候補生100名を積載。いよいよ外洋へ漕ぎ出す時が来た。翌18日、空母翔鶴、瑞鶴、軽巡神通、駆逐艦秋雲、夕雲、風雲、巻雲とともに呉を出港。1月の波は山のように高かったが、武蔵の巨体は襲い来る波を悉く粉砕。磐石不動で、振動も傾斜も全く無かったという。その安心感は乗組員に不沈艦の力強さを感じさせた。1月22日、トラック諸島の春島へ到着。武蔵に搭載されている2機の零式水上観測機を一時的にダブロン島水上機基地に貸し出した。
2月10日、武蔵を旗艦とするため連合艦隊の要員が乗艦。2月11日の紀元節、山本五十六大将が乗艦。乗組の将兵一同が上甲板に整列し、長官を出迎えた。マストには旗艦を意味する大将旗が掲げられ、名実ともに武蔵は連合艦隊旗艦となる。旗艦となってからは規律が一層厳しくなり、体罰もまた苛烈化した。兵だけでなく下士官や士官までもが殴られるようになった。新しい艦艇がトラックに入泊すると必ずその艦長がランチに乗って武蔵を訪れ、山本長官に挨拶した。旗艦らしい振る舞いに、武蔵の乗組員は満足した。また週に一回、夜になると艦首に近い上甲板で映画上映会が行われた。2000人以上の乗組員は立ち、士官は用意されたイスに腰掛けてスクリーンを見つめた。まれに現れる山本長官を見かけると、体を硬直させながら乗員が挙手の礼をする。対する山本長官はほぼ全てに返礼した。
武蔵と言えど風呂に入れるのは週に2回だけで、しかも洗面器3杯分の水しか与えられない。このため乗組員は皮膚病に悩まされた。そんな中、恵みとなったのがスコールであった。雨が降り出しそうになると「総員スコール浴び方」の号令が下り、2000名以上の乗員が上甲板に上がる。この時ばかりは無礼講となり、素早く褌一丁になって石鹸を塗る。にわか雨なのでモタモタしているとすぐに去ってしまう。何が何でもスコールを浴びようと、みんな興奮していた。自然が相手なので必ず上手く行くとは限らず、準備してても肝心のスコールが艦を避けて行ってしまう事もあった。
武蔵はずっとトラック泊地に停泊していたが、ソロモン方面の戦況は逐一寄せられて手に取るように分かった。既にガダルカナル島より撤退し、日に日に戦局が悪化していた。大和型の存在は機密だから出撃は許されず、ただひたすら艦隊決戦が起こる時を待った。連日激しい訓練を行っていたが、いつまで経っても出撃せず、また快適な艦内環境から周囲からは「武蔵御殿(武蔵野旅館)」と揶揄された。
4月3日、山本長官は「い」号作戦視察のため、副官、軍医長、航空参謀2名、参謀長、主計長、通信参謀、気象長、従兵1名を伴って退艦。九七式飛行艇に乗ってラバウルに向かった。今日の対空教練は、長官が乗った九七式飛行艇が標的となった。「い」号作戦の影響か、広いトラック泊地の空を飛ぶ航空機は殆ど無く、たまに対潜用の水上機が飛来する程度だった。このため久しぶりに実機が相手となった。予定では4月18日夕刻に武蔵へ戻るはずだったが、戻ってきたのは長官が戦死したという報告だけだった。4月23日夕刻、山本長官の遺骨を乗せた飛行艇がトラックに到着した。白布に包まれた木箱と、包帯を巻いた宇垣参謀長が内火艇で武蔵に乗艦し、足早に奥へと消えていく。無用な混乱を避けるべく有馬艦長は副長の加藤大佐に命じて総員整列訓練を行わせ、注意を引いた。5月27日に海軍記念日を控えており、士気への悪影響を憂慮して長官戦死は伏せられた。4月25日朝、新たに連合艦隊司令となった古賀峯一大将が乗艦。しかし山本長官の死は秘匿されているため古賀大将の就任も秘匿され、身分上は横須賀鎮守府長官のままで、長官室から一歩も外に出なかった。
5月12日、アメリカ軍がアリューシャン列島アッツ島に上陸。大本営はアッツ近海の敵艦隊を過大に評価し、艦隊決戦を企図してトラック進出中の艦隊を内地へ引き揚げる事にした。武蔵の帰国も決定したが、その際に山本長官の遺骨を本土へ届ける事になった。5月17日にトラック泊地を出港。軍楽隊が奏でる勇壮な軍艦マーチの中、抜錨した。武蔵の周囲には戦艦金剛、榛名、空母隼鷹、飛鷹、重巡利根、筑摩、駆逐艦4隻が伴走。5月20日、暗号解析により米潜水艦ソーフィッシュが出現。レーダーに捕捉されたが、攻撃できなかった。翌21日15時、大本営が山本長官の死を発表し、北上中の艦隊にも知らされた。既に武蔵では公然の秘密となっていたものの、改めて悲嘆に打ちひしがれた。敵襲は無く、平穏な航海が続く。上空を旋回する哨戒機にさえ手を振る余裕が出来ていた。5月22日には東京湾口で米潜トリガーに捕捉されるも、こちらも振り切った。大島を過ぎる頃、「武蔵は横須賀へは入港しない」という噂が流れ始めた。緑の木立ちの中に、観音崎の灯台が見え始めた。東京か横浜かと入港先の候補を挙げていると、錨を降ろす音が聞こえた。他の艦が横須賀に向かう中、唯一武蔵のみ木更津沖で投錨。夜、武蔵艦上で葬式が執り行われた。翌日駆逐艦2隻が武蔵の近くで投錨。夕雲に遺骨を引き渡した。
6月8日、柱島泊地で戦艦陸奥が爆沈。当時、帝國海軍は爆沈の原因を三式対空弾の爆発と考えており、武蔵では急遽砲弾の信管を抜く作業が行われた。6月9日、新たな艦長に古村啓蔵大佐が着任した。6月23日、横須賀へ入港。横須賀軍港第三区に係留された。ここで昭和天皇と高松宮殿下が武蔵に行幸される事になり、乗組員は有頂天になった。上陸は取りやめとなり、総出で艦内を徹底的に清掃する。後部マストには天皇旗が高く掲げられた。大和より先に天皇旗を掲揚した事は乗組員の密かな誇りとなった。今回の行幸は停泊中の艦艇にも知らせない極秘裏なもので、新聞報道も禁じられた。6月24日午前11時3分、物々しい警備の中で両名が乗艦。艦内を見学して回った。昭和天皇が防空指揮所に立たれた時、軍港内の空から1羽の
鷹が艦首の旗ざおに止まって羽ばたいた。神武天皇の御東征を髣髴させるこの瑞兆は、武蔵が不沈艦であると確信させるには十分だった。14時25分、昭和天皇と高松宮殿下は退艦された。6月25日、駆逐艦萩風に護衛されて出港。2日後に呉へと入港した。7月1日から第4船渠に入渠して船体の清掃と再塗装を実施。ところが入渠中に食中毒者が出たため、船渠内のトイレが使用できなくなる事態になった。7月8日出渠。7月14日に呉を出発し、試験航行を行ったのち同日夜に柱島へ回航された。柱島泊地には先月爆沈した陸奥の艦橋の一部が水面に顔を出していた。1ヶ月経った後も乗組員の死体が浮いてくるようで、たびたび島で火葬が行われた。
7月30日、駆逐艦白露、野分、初風を率いて呉を出発。道中の長浜湾で一晩を明かし、後発の重巡妙高と羽黒と合流して横須賀に回航。翌31日、呉に向かう初風を分離してトラック方面に移動。8月1日、商船改造空母雲鷹や軽巡洋艦長良、若干の駆逐艦と合流する。8月5日午前2時、トラック北西で米潜スティールから4本の魚雷が伸びてきた。スティールは2回の爆発音を探知したため2発命中を主張したが、どれも命中していなかった。午前8時、春島に入港。幾重にも張り巡らされた防潜網の中心に鎮座する。灼熱の太陽が甲板を焼く中、長らく停泊する日々が続く。地上の陸戦隊は「動かざる戦艦」と冷笑した。トラック基地を増強するため各所で工事が行われており、秋島海岸の格納庫建設には武蔵の乗員も関わっていた。やがて立派な格納庫が完成し、武蔵から降ろされた不要品が運び込まれた。臨戦態勢自体は整えられていたが、実際に出撃する事は無かった。今度は秋島に農園が造られる事になり、各分隊ごとに決められた区画を耕した。雑草や木々は処分された一方、食糧になる椰子の木だけは伐採を禁止。灼熱の太陽と猛烈なスコールが同居する南国の農業は難しく、なかなか結実しない。ようやく収穫された作物は武蔵の艦内神社に供物として捧げられた。9月11日、商船改造空母冲鷹が補充の機銃員を乗せてトラックに到着。
9月18日、神出鬼没なアメリカ艦隊に決戦を挑むため旗艦瑞鶴率いる艦隊がトラックを出撃。ブラウン島に向けて東進した。だが大和、武蔵、扶桑は燃料を食うからか出撃からは外された。結局会敵は叶わず、9月23日に艦隊は帰投。10月5日から翌6日にかけて、第14機動部隊と第15機動部隊がウェーク島を空襲。現地の第22航空戦隊に甚大な被害を及ぼした。武蔵には連合艦隊司令部付きの暗号解読班が乗り込んでおり、敵の通信を傍受してある程度動静を把握していた。彼らは新しい呼び出し符号が、ホノルル発の電信に度々現れる事に気付いた。「米空母は近く作戦を再開する」との報告を受け、古賀大将は「今こそ主力を投入すべき」と決断。Z一号作戦を発令した。
10月17日朝、米任務部隊のハワイ出港の報告により旗艦武蔵のマストに「出港準備、移動物固縛」を意味する信号旗が掲げられた。今度は大和や武蔵も艦隊に加わり、午前7時5分に勇躍抜錨。トラック島近海には敵潜が数隻いる事が予想されたため、第一戦速の24ノットで突破。のちに15ノットへ速力を落とした。本当に敵がハワイを出港したのか確かめるため、伊36がハワイを航空偵察。すると港内に空母と戦艦がそれぞれ4隻停泊しているのが確認された。出港は誤報だったのだ。とりあえず艦隊は、10月19日午後12時40分にブラウン島へ到着。打倒すべき敵がいないという事態に陥ってしまった。古賀大将は再びウェーク方面に敵が来襲するかもしれないと考え、10月23日午前1時55分に出港。ウェーク方面に向かった。しかし瑞鶴や瑞鳳等が索敵を行っても一向に敵を発見できず。やむなく10月24日午後に戦闘演習を行い、大和と武蔵は爆撃訓練の標的艦を務めた。10月26日15時、艦隊はトラックに帰投。貴重な燃料を浪費してしまった。
10月27日、アメリカ軍がモノ島に上陸。189名の海軍陸戦隊は数十分で玉砕した。武蔵艦上でこの報告を聞いた古賀長官は、翌日「ろ」号作戦を発動。11月1日、古賀長官率いる連合艦隊司令部は一式陸攻でトラックを出発し、ラバウルに急行。武蔵から将旗が降ろされた。12月6日、朝倉豊次大佐が艦長に着任。謹厳実直な人柄だった。
1944年2月4日、トラック空撮のため飛来したアメリカ海兵隊第254中隊所属のB-24爆撃機2機に対し、武蔵所属の零式水上偵察機が迎撃。だが敵機に追いつけず取り逃がした。トラック泊地にもアメリカ軍の包囲が迫っており、マーシャル来攻など大規模空襲の予兆も散見された。艦隊への被害を恐れた帝國海軍は退避を命令。2月10日、軽巡大淀、駆逐艦初春、満潮、白露、玉波を率いてトラックを出港。武蔵は最後にトラックを出港した戦艦となった。2月15日午後12時25分、横須賀へ入港。同日夜、パラオ守備隊向けの弾薬、物資、燃料の積載作業を開始。約40台のトラックを使って積み込んだ。前甲板には第751航空隊用の60kg及び250kg爆弾、12.7mm機銃の銃弾、航空魚雷が積まれた。
2月22日午前10時、横須賀を出港。駆逐艦満潮と白露の護衛を受けながらパラオに向かった。ところが八丈島沖で台風に遭遇し、武蔵の甲板上に載せていた弾薬の多数が流失してしまった。また白露の乗員が波にさらわれ、行方不明者捜索のため一時的に駆逐艦が切り離された。翌23日、武蔵にマリアナ空襲の報が舞い込んだ。攻撃はサイパンとテニアンに集中し、航空機100機以上を喪失。連合艦隊司令部は切歯扼腕の思いで報告を聞いた。2月25日、大和と武蔵は第2艦隊へ転属。これより大和型戦艦も機動部隊の護衛に加わる事となり、最前線に投入されるように。2月29日18時7分、パラオのコロール泊地へ到着。物資の積み下ろしを行った。ちなみにパラオへの入港も武蔵が最後の戦艦であった。3月11日、特設給糧船北上丸から食糧品の補給を受ける。
3月27日、連合艦隊司令部は敵機動部隊がニューギニア北方を西進しているとの情報を掴んだ。参謀長の福留繁中将は朝倉艦長を呼び出し、空襲の危険性があるから北方へ退避するよう命じた。翌28日早朝、武蔵の零式観測機2機が潜水艦らしき反応を探知し、60kg爆弾を投下している。別の艦から発進した零式水上偵察機も同一目標に攻撃している。14時30分、予想される空襲を回避するため古賀大将と68名の側近が一時的に地上へ司令部を移動。これに伴って武蔵から大将旗が降ろされた。古賀大将は武蔵に戻るつもりだったが、のちにフィリピンのダバオへ移動する事になり、道中で海軍乙事件に遭遇。殉職と判断された。
3月29日15時、中天の太陽が甲板を焼く昼下がり。静まり返った戦闘艦橋に定刻を告げる声が響き、朝倉艦長が出港準備の号令を下す。出港を知らせる勇ましいラッパの音とともに両舷微速で前進。狭いアルミズ水道を巧みな操艦で通過し、外洋に出る。重巡高雄、愛宕、鳥海とともに駆逐艦の護衛を受けながら北上した。間もなく米潜水艦タニーに発見され、追跡を受ける。タニーは武蔵の事を浮きドックと誤認していた。続いて金剛型戦艦と推測した。夕日が太陽に沈み始めた17時44分、後方から6本の魚雷を発射。このうち3本が武蔵に向かっていく。左舷前方3000mを航行している駆逐艦が急角度の面舵を取ったかと思うと、武蔵の見張り員が左90度方向に雷跡を発見。すぐに朝倉艦長が面舵と前進を命じる。グングンと伸びてくる三条の白い航跡。回避運動により2本目まではかわせたが、最後の1本が左舷艦首聴音室付近に直撃。2630トンの海水を飲んだ。致命傷ではなかったが、7名の死者と2名の負傷者が発生。更に爆発で生じた一酸化炭素により9名が中毒になった。問題無く注水装置が働き、瞬く間に復元。朝倉艦長は「安定度変わらず、26ノット可能。艦首水線下の破孔以外損傷無し」と報告した。機関が無事だったので、24ノットの高速で敵潜を振り切った。第17駆逐隊の浦風と磯風が爆雷を投下したが、タニーに逃げられた。司令部から呉での修理を命じられ、応急修理を終えた夜、駆逐艦満潮、白露、藤波に付き添われて呉に向かった。4月3日午前9時34分、呉に入港。排水すると、中から水中聴音機室の室員7名の遺体が一緒に出てきた。彼らの遺体は陸揚げされた。とらやの羊かんも海水に浸かってしまったため、2000個以上が廃棄処分になった。
4月10日から22日にかけて呉工廠で入渠修理。22号水上電探と13号対空電探をそれぞれ2基装備し、2番と3番副砲を下ろして対空機銃を大幅に増やした。4月27日、瀬戸内海西部でレーダー試験を実施する。5月1日、沖縄への輸送任務に備えるべく呉を出発して佐伯湾に回航。道中で対潜演習を行った。5月3日、殉職した古賀大将の後任に豊田副武大将が連合艦隊司令に着任したが、旗艦を軽巡洋艦大淀に移したため武蔵に乗艦する事は無かった。
5月11日に佐伯湾を出港。豊後水道南口で護衛の駆逐艦が対潜掃討を実施した後、第2航空戦隊や第3航空戦隊とともに九州東岸を一路南下する。翌12日、沖縄の中城湾に寄港。武蔵は駆逐艦野分と時雨に燃料補給を施し、18時45分に出発。機動部隊の拠点となっているタウイタウイ泊地に向かった。台湾東方海域で変針する頃、海上にモヤが発生。僚艦の姿が確認しにくくなる。そんな中、武蔵は潜水艦を探知。敵潜の出現を知らせる「赤、赤」の緊急信号を発した。空母が一斉回頭し、駆逐艦が爆雷を投下する。幸い雷撃は無かった。およそ30分後に元の航路へ戻った。セレベス海とフィリピン近海では敵潜水艦の跳梁が激しかったが、艦隊は一切の攻撃を受けずに危険海域を突破。5月16日19時15分、タウイタウイ泊地へ入港した。ここは産油地タラカンに近く、燃料不足とは無縁の場所であった。6月2日午前9時、武蔵と大和は駆逐艦を標的とした長距離砲撃訓練を実施。3万5000m先の駆逐艦へ向けて2発の主砲を発射した。主砲や副砲による対空射撃や高角砲弾幕、機銃射撃の訓練を行い、13時20分に帰泊。玄洋丸に横付けして燃料補給する。翌日、砲術演習の研究会が開かれ、武蔵の砲術長は散布界の広さを問題点として指摘した。6月6日午後、武蔵で被弾時を想定した応急訓練を実施。
6月10日16時、連合軍の上陸を受けたビアク島を救援するためタウイタウイを出港。戦艦大和、軽巡能代、駆逐艦朝雲、沖波、島風とともにハルマヘラ島バチャン泊地に急行した。出港直後に米潜ハーダーに捕捉されるも、日本艦隊も潜望鏡を発見。沖波が分派され、爆雷で追い払った。武蔵も潜望鏡に対して12.7cm弾を数発撃ち込んでいる。翌11日20時、敵潜を警戒して針路を南へ変更した。6月12日午前8時、バチャン到着。現地で第5戦隊の妙高と羽黒が合流し、武蔵は給油船玄洋丸から燃料補給を受けた。しかしこの日、アメリカ軍の大部隊がマリアナ諸島に襲来。ビアク救援どころではなくなり、タウイタウイを出発した小沢艦隊との合流を命じられる。6月13日22時、バチャン出港。翌14日、ハルマヘラ北方で対潜哨戒から戻ってきた零式観測機が荒波によって転覆。搭乗員は救助された。6月15日、ミンダナオ東方で米潜シーホースに発見され、位置情報を通報される。翌日、フィリピン方面から出撃してきた小沢艦隊と合流。武蔵は機動部隊の先100海里に配置され、盾の役割を担った。
6月19日早朝、マリアナ沖海戦に参加。午前8時20分、大和の見張り員が西方より接近する敵味方不明機を発見。重巡高雄から照明弾が発射され、出方を窺ったが無視して接近を続けた。正体は後方の本隊から発進してきた第601航空隊の編隊であったが、事前に味方機が通過する事を知らされていない前衛艦隊は敵と断定。一斉に対空砲火を上げた。唯一味方機と理解していた武蔵は「友軍機を誤射するは遺憾なり」と電信を打って、周囲の艦艇に射撃停止を求めたが聞き入れられず。むしろ「友軍機にあらず、速やかに砲撃を開始せよ」と返ってくる始末だった。味方機はバンク(両翼を振って味方だと知らせる行動)をし、かろうじて同士討ちは止まった。誤射された第601航空隊側は当然ながら激怒していた。この日の戦闘で翔鶴と旗艦大鳳が沈没。旗艦を瑞鶴に移し、戦力の建て直しを図るため小沢中将は西方への退避を命じた。
6月20日早朝、小沢艦隊は一ヶ所に集結。午前7時までに補給部隊が合流し、各艦燃料補給を開始。15時20分、敵の哨戒機に発見されて触接が始まる。そして17時30分、200機以上の敵機が出現。敵の本格的な逆襲が始まった。武蔵にとってこれが実質初陣であった。5分後、敵機接近の報を受けた艦隊は素早く散開して、少数グループごとに分かれる。武蔵は瑞鳳の援護に回り、熾烈な対空砲火を展開。5分後、46cm主砲が吼えた。三番主砲から発射された三式弾がヘルダイバー2機を叩き落とし、初戦果となった。その後も主砲を盛んに発射し、敵機を寄せ付けなかった。上空には攻撃から帰投してきた味方機が現れ、敵味方入り乱れる乱戦状態に。また宵闇による視界不良も手伝って、25mm機銃で1機の零戦を撃ち落としてしまっている。この空襲で飛鷹が沈没。小沢艦隊は3隻の大型空母と400機以上の航空機、700名の搭乗員を失って戦闘能力を喪失。大本営から退却を促され、中城湾に向けて撤退を始めた。しかし敵艦隊は触接機を放ち、小沢艦隊を執拗に追いかけてきた。6月21日午前5時50分、武蔵は敵機2機に対して射撃を加える。辛くも敵機を振り切った小沢艦隊は翌22日13時1分、中城湾に寄港。生存者の移乗と駆逐艦への燃料補給を行い、6月23日に出港。荒天の玄界灘を突破し、6月24日20時23分に柱島へ到着した。6月29日午前7時、大和とともに柱島を出発して呉に回航された。
悪化する戦況は、武蔵に休息の時を与えなかった。南方航路で輸送船が次々に撃沈され、補給が滞り始めていたのである。また内地の燃料備蓄量が乏しく、艦隊が訓練するには燃料が豊富な南方に行くしかなかった。武蔵は他の艦ともども南方への進出を命じられ、行きしなに兵員も輸送する事になった。
7月2日、呉にて第49師団第106歩兵連隊2200名が乗艦。同時に武器や弾薬の積載作業を行った。7月8日午前8時45分、戦艦大和と武蔵を中心としたグループが呉を出港。18時30分、臼杵湾で戦艦長門を中心とした後発のグループを待つ。翌9日午前4時、長門のグループと合流して出発。7月10日、中継点の中城湾に到着。武蔵は駆逐艦朝霜と沖波に燃料補給を行い、21時に出港した。7月16日、武蔵と大和は艦隊から分離。駆逐艦五月雨、時雨、島風を護衛に伴ってリンガ泊地に向かった。16時10分、リンガ着。空母を除く連合艦隊の主力が集結しており、その眺めは壮観だった。翌17日、大発10隻を使って瑞祥丸に兵員と物資を移送。7月18日17時、作業完了。ここからは月月火水木金金の猛訓練が始まった。マリアナ沖海戦の敗北によりパラオ、ビアク島、マリアナ諸島を次々に失陥。次の戦いは最後の決戦になるかもしれないとして血の滲むような厳しい訓練となった。7月19日、リンガから22海里の場所で大和と操艦訓練と砲術訓練を実施。7月21日に見張り訓練を、7月28日に対空演習を、8月1日夜に探照灯訓練と長距離砲撃訓練を、8月8日にレーダー射撃訓練を実施した。
8月12日、最後の艦長となる猪口敏平大佐が着任。彼は自他共に認める水上砲術の天才であった。8月21日にリンガ沖で対空演習、8月24日に照明弾を使った夜間砲撃演習を行った。9月1日午前9時30分、大和と武蔵はリンガを出港。今度は駆逐艦と協同で曳航訓練と対空演習、夜間砲撃訓練を行う。9月2日、16日、24日に北上丸から食糧品を受領。9月中に猪口艦長の命令で船体を濃い灰色に塗装している。10月1日午前6時10分、大和、武蔵、長門の3隻はリンガを出発してシンガポールに向かった。道中で機動訓練や対空演習を行い、シンガポールに到着。ところがここで武蔵は暗礁に乗り上げ、僅かな損傷を負う。長門から2隻のカッターが派遣され、武蔵の乗員はシンガポールに上陸。最後の余暇を楽しんだ。10月8日夜、大和とともにガラン沖で合同砲撃演習を実施。武蔵は標的艦となった。10月17日、アメリカ軍がレイテ湾スルアン島に上陸。この危急を受け、大和と武蔵はシンガポールを出港。翌日リンガ泊地に戻った。
10月18日、捷一号作戦発令によりリンガを出港。10月20日正午、前進拠点のブルネイに入泊。燃料補給を受けるはずが、給油船が到着していなかったため武蔵は重巡利根、鳥海、鈴谷、数隻の駆逐艦にひとまず燃料補給を行った。猪口艦長は船体と砲塔の側面に灰色のカムフラージュ塗装を施すよう命じ、翌日に作業が完了した。この塗装はすごぶる不評で、まるで死に化粧だと乗組員からは忌み嫌われた。
決戦前の武蔵には准士官以上112名、下士官及び水兵2279名、軍属8名、第1機動艦隊司令部9名、長門乗員9名が乗艦していた。
10月21日午後12時20分頃、ようやく給油船が到着。八紘丸から燃料補給を受ける。10月22日午前5時、全艦給油完了。午前8時、武蔵は主力艦隊たる栗田艦隊の一員となってブルネイを出撃。総兵力は戦艦5隻、重巡10隻、軽巡2隻、駆逐艦15隻の計32隻で、敵が橋頭堡を築いたレイテ湾に向けて進撃を開始した。出港してすぐに18ノットに増速し、午前10時3分にアベノロック北方を通過。午後12時45分、針路15度に変針してパラワン水道に向かった。この水道はレイテ湾への近道であったが、敵潜が跋扈している危険な場所でもあった。23時、速力を16ノットに下げて之字運動を停止。給油艦を連れていないため、燃料の節約が必須だった。
10月23日午前0時、入り口であるパラワン水道南口に到達。南北に伸びる水道の東にはパラワン島の陸岸が、西には新南諸島が見える。艦隊が安全に航行できる海域は約45kmしかなく、密集せざるを得ない。午前5時20分、旗艦愛宕から「作戦緊急発信中の敵潜水艦の感度極めて大」との警告が入った。10分後、栗田艦隊は18ノットに増速し、之字運動A法を始めた。そしてその警告はすぐに正しいと証明される。午前6時33分、敵潜ダーターの雷撃を受けて愛宕が沈没、高雄が大破落伍。午前6時57分にはデースの雷撃により摩耶が沈没し、立て続けに2隻の重巡を喪失した。まことに痛恨事であった。午後、駆逐艦秋霜が救助した摩耶の生存者726名を引き受けた。
1944年10月24日午前7時43分、栗田艦隊は2つに分かれ、武蔵は前方の艦隊に所属。それぞれ輪形陣を敷いて防空体制を整えた。ミンドロ島の南を北東方向に向かい、外洋に出るための出口であり難所でもあるサンベルナルジノ海峡を目指す。
午前8時10分、タブラス海峡にて武蔵の見張り員が3機のPB4Y-2を発見して報告。また別の敵艦上機にも発見され、空襲は秒読み段階になった。猪口艦長は加藤副長に「とうとう捕まったな…」と呟いた。間もなく新旗艦となった大和が左へ回頭。合わせて武蔵も回頭する。艦長は艦内スピーカーを使い、「敵機来襲の公算大なり。天佑神助は我にあり、各自戦闘部署において最善を尽くせ」と呼びかけた。また栗田中将は武蔵に対し電波妨害を命じ、敵機の報告が本隊に届かないよう妨害を試みた。午前10時、武蔵の電探が右舷方向の東北に多数の機影を捉えた。直ちに対空戦闘用意のブザーが鳴らされ、艦内が騒がしくなる。直後に見張り員が40機以上の敵艦載機を発見。午前10時25分、武蔵が発砲を始めた事でシブヤン海海戦が幕を開けた。海の魔物は、持てる全ての力を使って雄叫びを上げた。
敵機の多くは武蔵に向かっていった。米空母フランクリン所属のヘルダイバーパイロット達は「計り知れないほど巨大で信じられなかった」「巨大だ」「私は人生でこれほど大きな物を見た事が無かった」と語っている。アメリカ兵にとっても武蔵はビッグ・モンスターだったのだ。
午前10時29分、8機のヘルダイバーが武蔵を襲撃。敵機は縦一列になって突撃し、艦首と船体中央部付近に4発の至近弾を受ける。周囲に巨大な水柱が築かれたかと思うと、滝となって崩れ落ちていく。敵機が内懐に飛び込んでくると、46cm主砲は水中に向けて放たれた。築かれる水柱で敵機を撃墜しようとした訳である。アベンジャーパイロットのジャック・ロートンは「これら水柱に1つでもぶつかると、山にぶつかったようになる」と証言しており、効果的だったと思われる。乗員が甲板にいる状態で主砲を発射したため、近くにいた者は視覚と聴覚を同時に奪われた。無数の機銃弾が武蔵の装甲に当たって火花を散らし、飛び散る破片と硝煙が機銃員の視界を奪う。そこへ爆弾の破片が飛び散り、数名が負傷。また投下された1000ポンド爆弾が1番砲塔に直撃したが、分厚い装甲によって跳ね返されて空中で爆発する。反撃により2機に損傷を与えた。続いて8機のヘルキャットが突撃し、機銃掃射で機銃員を殺傷していく。息つく暇もなく今度は右方向よりアベンジャーの編隊が接近、武蔵の巨体が右へ回頭を始める。対空砲火が2機のアベンジャーを貫き、空中分解しながら海中に突っ込んだ。だが雷撃を回避し切れず、右舷中央に魚雷1本が命中。ドーンという音とともに艦が左右に揺れた。わずかに傾斜するも、迅速な注水により復元。何事も無かったかのように怪物は戦闘を続ける。しかし被雷の衝撃で主砲方位盤が故障し、主砲の一斉射が出来なくなってしまった。別のアベンジャーが右舷側からの雷撃を試みたが、激しい対空砲火よって失敗に追いやった。午前10時40分、第一次空襲が終了。その僅か7分後、武蔵の見張り員が潜望鏡を発見したと報告。大和、鳥海、能代、岸波も同様に報告している。武蔵の被害は第12区画と第14区画への浸水、衝撃による射撃指揮装置の故障、電探の使用不能であった。
午前11時54分、武蔵の21号電探が290度方向81km先に接近中の敵編隊を捕捉。3分後には新たな編隊が探知された。午後12時4分、敵機を視認。太陽を背に突っ込んできた。栗田艦隊は24ノットに増速する。右舷30海里に敵艦上機10機を認め、三式弾を発射。8機のヘルダイバーが艦首と艦尾方向から同時に投弾。2発の命中弾と5発の至近弾を喰らうも、反撃でヘルダイバー2機を撃墜。4機に損傷を与えた。武蔵の主砲が旋回して応戦するが、方位盤の故障により各砲ばらばらに砲撃。殺人的な爆風をもたらす主砲があちこちで無造作に発射したため、機銃員の体が吹っ飛ばされ、対空機銃の照準装置はへし折られた。味方をも殺戮する血の咆哮に、機銃群指揮官の望月少尉は「主砲は何をしているのか!撃ち方やめろ!」と思わず絶叫した。敵機の機銃掃射も機銃員を狙っており、次々に物言わぬ肉塊へと変えられていく。防盾や遮蔽物の類は無く、狙われたら最後だった。午後12時6分、アベンジャーの2個編隊が接近。武蔵の左舷中央部に3本の魚雷が叩き込まれ、居合わせた機銃員をも粉砕した。最も被害をもたらしたのが、左舷一番砲塔下に命中した魚雷だった。被雷によって砲塔内の三式弾が引火。巨大な火柱と轟音が生じ、左舷へ5度傾斜する。注水により復元には成功したが、艦首が2m沈下。速力が22ノットに下がり、艦隊から落伍し始めた。午後12時25分、第二次空襲終了。猪口艦長は旗艦大和の栗田中将に向けて「出しうる速力22ノット」と報告。13時12分、栗田中将は艦隊の速力を22ノットへ落とすよう命じ、武蔵に歩調を合わせてくれた。これまでの戦闘で武蔵は46cm三式弾9発、零式弾17発、12.7cm三式弾217発、無数の25mm機銃弾を使用していた。
13時31分、29機の敵艦載機が出現して第三次空襲が始まった。この空襲では武蔵に攻撃が集中。機銃員の被害が大きい武蔵には、巨体を守れるだけの対空砲火を撃てる能力は無かった。挨拶代わりに2機のヘルキャットから機銃掃射を浴び、ヘルダイバー5機から投じられた爆弾2発が至近弾となった。間髪入れずにアベンジャー6機が出現し、4発の直撃弾を喰らう。大爆発が生じ、左舷中央にあった緊急治療室が一酸化炭素で満たされたため退避しなければならなくなった。13時50分に第三次空襲終了。艦首が更に沈下して速力は20ノットに低下。大和との距離が開きつつあり、艦隊から落伍しかける。14時20分に第四次空襲が始まった。今度は大和、長門、能代が集中攻撃を浴びた。少し離れた位置にいた武蔵は3隻を守るために、46cm三式弾15発、零式弾37発、12.7cm三式弾116発を撃った。
14時55分、敵機69機による第五次空襲開始。敵パイロットは武蔵が落伍している事を報告し、武蔵もまた敵に発見された事を示す信号を上げた。栗田中将は駆逐艦清霜と島風を護衛として派遣し、武蔵を避難所のコロン湾へ回航するよう命じられる。15時15分にヘルダイバー9機の襲撃を受け、4発の直撃弾を喰らう。次にアベンジャー8機から3本の魚雷を撃ち込まれ、右舷に2本、左舷に1本が命中。艦底を持ち上げられるような衝撃に襲われ、乗員は床に叩きつけられた。至近弾によって生じた水しぶきが、甲板上に広がる血を洗い流し、死体を海へと持ち去る。速力が13ノットに低下したが、未だ巨躯の怪物は沈没する様子を見せない。間もなく37機の敵機が武蔵に殺到。15時25分に3機のヘルダイバーから投弾を受け、2発の500ポンド爆弾が直撃。武蔵もダダでやられた訳ではなく、対空射撃で3機全てに損傷を与えて撃退した。5分後、7機のヘルダイバーに襲われて3発の1000ポンド爆弾が命中。うち1発が手術室で炸裂し、52名の乗員が死亡。20名が負傷してしまっている。防空指揮所にいた猪口艦長も右肩を負傷し、幕僚にも死傷者が出るなど甚大なる人的被害をこうむった。更に12機のアベンジャーが押し寄せ、9発の命中弾と2発の不発弾を受けた。また、ほぼ同時に3本の魚雷が左舷に、2本が右舷に命中。浸水被害を拡大させる。そこへ4本の魚雷が命中、続けざまに後方から2本の魚雷が命中し、満身創痍の怪物を死の淵へと追い詰める。速力は6ノットに低下した。15時30分に第五次空襲が終了。
しかし僅か15分後の15時45分に敵機75機が来襲し、第六次空襲が始まった。もはや武蔵に回避するだけの力は無く、滅多打ちにされる。死亡した機銃員に代わり、救助された摩耶の乗員が対空機銃にしがみついていた。だが長時間の戦闘で過熱し、使用に耐える機銃は激減。この時点で武蔵は魚雷19本、爆弾17発、至近弾20発という凄まじい攻撃を受けていた。イギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズですら魚雷6本で沈没している所を見るに、この耐久力はまさに怪物だった。武蔵が攻撃を吸収したおかげで、僚艦への攻撃が緩くなったとの指摘もある。アメリカ側の資料では、武蔵の反撃で18機を失ったとしている。
防御指揮所と注排水指揮所との電話連絡が途絶したため伝令が走ったが、傾斜によって移動が困難になっていた。防水区画への注排水、右舷第3機械室への注水、重量物の右舷への移動が行われ、何とか傾斜5度程度にまで復元。猪口艦長は駆逐艦に曳航させ、近くの島へ座礁させようと考えていた。動けない負傷者や戦死者をも重量物に見立て、右舷へと移動させた。しかし艦首沈下によって左舷前方への傾斜は止まらず、手の打ちようが無かった。16時21分、先行していた栗田艦隊が戻ってきて武蔵に近づく。艦隊から重巡利根、駆逐艦島風、清霜が派遣され、武蔵の護衛に回る。武蔵の沈没を予感した猪口艦長は、清霜と浜風(至近弾を受けた島風と交代)に「負傷者移乗のため接舷せよ」と手旗信号を送らせた。2隻からは「了解した」との返信があったが、一向に近づこうとしなかった。もし武蔵が沈没した場合、巨大な渦潮が発生。ひとたび巻き込まれれば駆逐艦さえも海底に吸い込まれてしまう。その渦潮を警戒して近寄れなかったのだ。
19時15分、傾斜が12度に達した事で猪口艦長は総員上甲板を命令。戦闘旗が降ろされた。既に乗組員は各部署ごとに整列を終え、次なる指令を待っていた。副長の加藤大佐が「退艦用意」と発したその瞬間、艦中央から火柱が上がった。19時30分、左舷への傾斜が突如30度になり、怪物の巨体がゆっくりと転覆し始める。右舷に集まっていた乗員は一斉に左舷側へ転がり落ちた。正規の乗組員は水泳の訓練を受けていたが、第二国民兵や志願兵の中には泳げない者が多く、上官に殴られても手すりから手を離そうとしなかった。左舷側に転覆した武蔵は艦尾を上げ、逆立ちする形で沈み始めた。19時36分、武蔵は沈没。沈没地点には巨大な渦潮が発生し、逃げ遅れた乗員を飲み込んだ。海中に没した後、2回の水中爆発が発生。
生存者は材木やマットなど浮遊物に掴まって救助を待った。武蔵から血液のように流れ出た重油が厚さ50cmの油膜となり、生存者を黒く染める。その重油は絶妙に温かく、眠気を誘った。勿論、眠ってしまえば溺死は免れない。眠気を醒ますため互いに殴り合った者も。夜空に上弦の月が昇り、海を明るく照らした事で生存者は一ヶ所に集まった。そして眠らないよう君が代や軍歌を唱和する。それでも体力の限界が訪れた者は続々と海の中へ沈んでいった。漂流から3時間が過ぎた頃、駆逐艦清霜と浜風が到着。カッターを降ろしつつ、竹ざおやロープで生存者を助け始めた。清霜と浜風により1423名が救助され、1023名が戦死した。その中には117名の摩耶生存者も含まれている。1944年11月15日、除籍。
清霜と浜風に救助された生存者はマニラに運ばれ、10月26日午前9時30分頃にキャビテ軍港に到着。ここで重傷者は陸上のマニラ海軍病院分院に送られたが、残りは上陸を許されずコレヒドール島に上陸。武蔵沈没が知れ渡る事を恐れた海軍上層部の意向で、山腹に用意した仮兵舎へ隔離された。副長だった加藤大佐の名を取り、加藤部隊と呼ばれた。彼らは小分けされ、各方面に分散配置された。1945年1月23日、輸送船さんとす丸に乗って帰国を試みたグループは道中のバシー海峡で乗船を撃沈され、漂流。ここで50名が死亡し、生存者120名は高雄警備府に編入。半数近くが内地へ帰投出来たものの、瀬戸内海の小島で軟禁生活を強いられた。商船改造空母隼鷹で出発したグループは幸運にも全員帰国。だが彼らにも軟禁生活が待っており、久里浜落下傘部隊の兵舎で隔離された後は各地に分散配置となった。残りは現地に留まり、マニラ防衛隊、南西方面艦隊司令部、コレヒドール地区隊、クラーク飛行場作業隊等に転属。マニラ防衛隊に配備された者は悲惨な戦闘に巻き込まれた。
第一艦橋被弾により、航海や通信関連の記録は人員とともに大きな損害を受けた。したがって現存している記録は元乗組員の証言をもとに再構築されたもので、戦闘詳報でさえ例外ではない。航跡図や電信記録は殆ど残っておらず、証言にも食い違いや記憶違いが見られるため、武蔵の全容を確かめる術は無い。
1964年11月24日、初めて軍艦武蔵戦没者慰霊祭が東京の靖国神社で行われた。戦後、沈没したと思われる場所に武蔵の残骸が無かった事から「気密区画に残った浮力がちょうどバランスを取る形となり、海流で移動している」という都市伝説が語られるようになった。2015年3月3日、マイクロソフト社創業者の1人であるポール・アレン氏が武蔵の残骸を発見したと発表。シブヤン海の海底1000mに沈んでいる武蔵の様子を無人探査機によって撮影した。アレン氏は「(船体は)戦没者の慰霊の場として適切に扱われるべきである」と主張、残骸=墓所との意向を示した。一方で船体の取り扱いについては日本政府に従い、協力すると答えている。2日後、菅官房長官は記者会見で「政府としては関知しない」という素っ気無い回答をした。残骸の引き揚げるかどうかについては意見が分かれており、引き揚げを強く要望する声がある一方、遺族や元乗組員はそっとしておいて欲しいとしている。同じく2015年5月6日付の毎日新聞に、砲術長永橋爲茂大佐の遺族が保管していた武蔵の貴重な主砲発射を収めた写真が掲載された。2015年は武蔵イヤーと言える。
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