総力戦研究所 単語

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総力戦研究所とは、太平洋戦争の直前から戦中にかけて存在した大日本帝国研究教育機関である。

その活動の中でも特に、米国英国などを仮想敵とおいた大規模な総力戦演習シミュレーション)を行ったことで知られる。太平洋戦争開戦以前の1941年8月に行われたこの演習は、「日本敗北」という結果となった。

このことから、「密かに太平洋戦争戦前から「日本必敗」を予測していた組織!」といった論調でセンセーショナルにられることもある。

概要

1940年の勅第648号「総力戦研究所官制」に基づき、1941年4月近衛内閣の直轄機関として設立された[1]内閣直轄の機関であることから、「内閣総力戦研究所」と称されることもある。

上記の「総力戦研究所官制」が止されたのは1945年の勅115号であるが、「戦況の悪化から1943年12月に解散した」とる入所者の言もあり、実動期間と書類上の止までの期間はずれていたようだ[2]

名称から軍事機関と誤解されることもある。しかし実際には軍事も含めた策全体の教育研究、並びに官吏の再教練を的とした[3]文民組織であり、後の節で掲載する第1期研究生名簿の「社会区分」欄を見てもわかるとおり、軍人の割合は少なくたるは官僚である。その少ない軍人もこの研究所に出向する際に、高等文官試験合格相当を認定する審が行われていた資料が残っているという[4]。また少人数ながら民企業からも数名が入っており、広い範囲から若き俊英を集めていたことがうかがえる。

この研究所の立ち位置は、いわば政策科学大学院大学であった。このことは、教育界から派遣され第一期生として入所していた人物、倉沢剛の著作『総力戦教育理論』内に

総力戦国家における各職域の最高導者を育成する大学院であって、これは研究機関であると同時に教育機関である。

といった記述があることから、当事者の認識としても確認できる。また同書の序文において倉沢は

浅学非才な私が、ともかくも本書をまとめて世に送ることのできたのは、ひとへに東京文理大学教育学教室と総力戦研究所との恩師および学友の賜物にほかならない。

と記しており、「恩師」「学友」などの表現から見ても明らかに入所者たちは総力戦研究所を教育・学問の場として捉えていたことがうかがえる。[5]

また、1941年2月3日付けで総力戦研究所から発表され当時極秘資料とされた「皇総力戦導機構ニ関スル研究」 内でも、提唱した「皇総力戦導機構組織案」にて「防本部」の附属組織として「総力戦研究所(防大学)」との名称が記載されており、自組織を大学として位置付けていたことがわかる。

ちなみにこの「皇総力戦導機構ニ関スル研究」は、当時の大日本帝国総力戦体制について「防(総力戦導に対する単一中枢機関がない」点などを批判し、善案を提案する内容であった。特に陸海軍の特権制度であった「統帥権独立制」を問題視している。研究報告書内の「附属意見」の項では、帝国統帥機構の一元化が実現できていない理由について

各部ガ自己既得権限ノ縮小ヲ危惧シハ名誉アル伝統ヲ理由トシ憲法ノ独善的解釈ヲ楯ニシテ旧体制ニ執着シタルニ因ス

と糾弾するような文章も記されている[6]

机上演習

前述した「総力戦教育理論」や「皇総力戦導機構ニ関スル研究」といった研究結果の実例から見ても、この研究所が行った研究教育活動は多岐にわたるようだ。だがそれらの中でも、研究所の第1期生たちによって1941年8月5日から23日にかけて行われた大規模な演習「第一回演習」が特に話題に挙げられることが多い。

第1期生の総数は36名。全員が30歳代の青年(推定含む)。軍人は皇族である閑院宮仁王を入れても6名のみで、計科士官や機関科士官も含まれる。5名が民間企業からの出向(同盟通信社、産業組合中央金庫三菱鉱業、日本郵船日本製鉄)。教育界から2名(東京女子高等師範学校教諭、東京高等学校教授)。法から1名(東京民事地方裁判所判事)。残り22名は高級官僚であり、彼らが大半を占めた。36名中28人が東京帝国大学出身者で、その大半は法学部または経済学部であったが、文学部出身者が1名居た。

そのうち演習プレーヤーとなったのは33人である。閑院宮仁王は皇族のためか聴講生として不参加、2名は演習の開始前に召集などで退所したため不参加となった。

彼ら33名は「」(または「N」。すなわち、日本)の政府要職の役割を演じ、「A」米国)および「B」(英国)との総力戦を行った場合にどのような展開となっていくかについてのシミュレーションを行った。

総力戦研究所 第1期研究生名簿[7]
社会区分 氏名 年齢 教育歴、昭和 代表体、職位 演練役割 演練後要職歴 備考
行政 芥川 30- 東大法、5 鉄道事務 鉄道大臣 四国鉄道局長 一高、5年門書記会計院院長
民間 秋葉武雄 30- 東大法、10 同盟通信社員 情報局総裁 共同通信政治部長
行政 石井 30- 東大法、9 拓務省事務 拓務大臣 パラグアイ大使 一高、9年管理局
行政 今泉兼寛 30- 東大法、9 大蔵省事務 大蔵大臣 横浜税関長 水戸高、9年管財局
軍事 岡村 30- 九大法文、7 陸軍少佐 陸軍次官 戦死 福岡
行政 岡部史郎 30- 東大法、7 衆議院書記 内閣書記官長 北海道開発部長 水戸高、7年内務省秋田
行政 川口次郎 30- 東大法、5 内務省事務 情報局次長 警保局外事課長 松本高、6年大阪府巡査
行政 清井正 30- 東大法、7 事務 大臣 事務次官 四高、7年穀部
民間 窪田 36 東大法、2 産業組合中央庫参事 総理大臣 農林中央金庫常務理事
学界 倉沢剛 37 東京文理大教、8 東京女子高等師範学校教諭 文部次官 東京教育大学教授教育史)
行政 酒井 30- 東大法、9 大蔵省事務 企画院次長 庫副総裁
行政 佐々木 33 東大経、5 日本銀行書記 日本銀行総裁 日本銀行総裁
軍事 志村 30- 大37期 海軍少佐 海軍大臣 支那方面艦隊参謀中佐
軍事 白井 30- 陸士43期
陸大51期
陸軍大尉 陸軍大臣 綜合計画局参事官中佐 陸士43期恩賜、大本営参謀
行政 玉置敬三 34 東大法、5 商工省事務 企画院総裁 賠償実施局長 姫路高、5年商務局、通産次官、東芝社長
軍事 武市義雄 30- 機38期 海軍機関少佐 海軍次官 海上自衛隊将補 横須賀地方総監部副総監
行政 千葉 31 東大法、7 外務省事務 外務大臣 ブラジル大使 一高、 7年英国書記
行政 丁子尚 37 東大法、2 文部省事務 文部大臣 名古屋事務局長 二高、2年嘱託、国立大学協会事務総長
行政 中西久夫 30- 東大法、4 内務省地方事務 企画院次長 車両工業株式会社社長
行政 成田 31 慶應法、7 亜院嘱託 亜院総務長官 支那方面軍済南特務機関
行政 野見山勉 30- 東大法、9 商工省事務 商工大臣 化学肥料課長 三高、9年貿易局、中小企業信用保険庫理事
行政 30- 東大法、7 外務省上海大使館三等書記 外務次官兼・情報局次長 メキシコ大使 一高、7年米国書記
学界 原種行 30- 東大文、7 東京高等学校教授 大政翼賛会副総裁 岡山大学教授科学史)
行政 博雄 33 東大法、7 朝鮮総督府事務 朝鮮総督 勤労部調整課長 9年逓信書記
行政 福田 30- 東大法、9 内務省事務 警視総監 佐賀警察部長 江高、9年大阪警部補
民間 保科礼一 30- 東大法、4 三菱鉱業株式会社社員 企画院次長 三菱経済研究所常任理事
民間 前田勝二 30- 東大経、7 日本郵船株式会社社員 企画院次長 日本郵船株式会社店長
三渕太郎 30- 東大法、6 東京民事地方裁判所判事 法大臣兼・法制局長 東京高裁判事
行政 30- 東大法、7 厚生省事務 厚生大臣 引揚援護院庶務課長 五高、7年内務省社会局、束労基局長
行政 宮沢次郎 34 東大法、8 満州国大同学院教官 対満事務局次長 トッパンムーア社長
行政 30- 東大法、9 逓信省事務 逓信大臣 運局課長 浦和高、9年小石川郵便局局長
行政 矢野外生 30- 東大法、8 事務 企画院次長 熊本局総務部長 一高、8年畜産局、東京局長
行政 吉岡恵一 32- 東大法、8 内務省事務 内務大臣 静岡検察部長 一高、8年地方局、人事院事務総長
皇族 閑院宮仁王 38 陸士36期
陸大44期
陸軍大学校教官中佐 演練不参加(聴講生) 陸軍少将 皇籍離脱(閑院純仁)
民間 千葉幸雄 30- 東大経、9 日本製鉄株式会社社員 演練不参加(7月退所) 東部36部隊関特演臨時召集
軍事 山口敏寿 30- 陸大50期 陸軍少佐 演練不参加(7月退所) 関東軍参謀 転出

年齢30-は詳細不明につき30歳代の推定値

彼らプレーヤーのみではなく、専門集団による「経済戦」「外交戦」「武戦」「思想戦」の4部門の審判部がおかれたという。特に経済戦の審判部の専門数が多かったようだ。経済審判部には、通称「機関」を率いた丸次朗も含まれていた。[8]

この演習が予測した総力戦の結末は、「経済格差に基づく政府敗北」であった。結果論で言えば、未来を予測するようなものであったとも言える。さらに、その結末に至る過程の中には「東京がA空軍により襲を受ける」「D(ソ連)とも開戦に至る」という、まるで未来を見てきたかのような状況想定までもが含まれていた。

演習終了翌日の8月24日から26日にかけての3日間の省察の後、8月27日と28日には2日間かけて首相官邸での報告会が開催され、近衛文麿首相および東條英機陸軍大臣も含めた内閣の各大臣に演習結果の説明が行われている。しかし同年12月には真珠湾攻撃が実行され、太平洋戦争が勃発した。その後は演習の結果をなぞるように日本は徐々に劣勢となり、最終的に1945年敗北した。[9]

この演習については様々な一般向け雑誌・書籍などで取り上げられているが、中でも猪瀬直樹ノンフィクション小説昭和16年の敗戦』はこの演習を扱ったものとして代表的なものである。この小説で総力戦研究所は世に広く知られるようになったとも言う。

ただし『昭和16年の敗戦』はノンフィクションものとはいえあくまで「小説」である。それにも関わらず、同作内の表現がそのまま「関係者の発言」などとして引用されてしまうことがあるようだ。

戦後

戦中に解散した機関であるが、戦後1946年に始まった極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)においては総力戦研究所も戦争責任の有を問われることとなった。当初、連合軍検察側からは「戦争準備の体であったのではないか」「演習とは作戦研究的であったのではないか」と疑われていたようだ。[10]

しかし、人としてかつて総力戦研究所の所員であり当時第一復員局事務官であった場一雄元陸軍大佐が出廷し「研究所は教育研究機関に過ぎず、演習もあくまで教育的であった」という趣旨の言を行った。この言やその他の拠は信用に足ると判断されたようで、1946年10月29日と30日の2日間のみで総力戦研究所に関する言・拠調は打ち切られている。[11]

才気煥発な青年らを集めた組織であり、また入所者に軍人の割合が低かったため戦死した者も少なかった(上記の表で「戦死」とある人物は一名のみである)。そのため戦後はこの研究所の元入所者の多くが各自の分野で要職に就き、日本の復に大きな役割を担っていくこととなった。1941年8月演習プレーヤーであった1期生らのその後については上記の名簿表の「備考」欄も参照されたい。中央省庁の幹部となった者や、東芝社長となった者もいる。興味深いところでは、演習の際に日本銀行総裁役を担ったプレーヤーである佐々木直は後年本当に日本銀行の総裁となっている。

1期生以後の人々

やはり演習話題が注されるためか、上掲のように1期生は全員の名簿すら出回っているのに対して、1期生以後に入所した人々については較的世に知られるような情報が乏しい。しかし個々人の回顧録などで言及されていることもある。

例えば戦中に碧素産ぺニシリン開発研究に関わった医学者である稲垣陸軍軍医少佐は、陸軍医学校から第3期生として総力戦研究所に出向していた[12]ペニシリン開発についてる講演の冒頭で、昭和18年(1943年)4月から12月まで総力戦研究所に所属していたとっており、

ここはややがかったようなところもありましたが、そこで得た仲間たちは、優秀で仲よく勉強しておりました。その仲間達がその後の私の仕事にいろいろと手を貸してくれたり、忠告してくれたりしたことを、まず申し上げたいと思います。

とも述懐している[13]。様々な分野の知的エリートが集まり交流する場として、所属中もまた解散後も互いに刺を与えあっていたようだ。

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関連項目

脚注

  1. *市川新(2006) 「総力戦研究所ゲーミングと英米合作経済抗戦力調査シミュレーションの接点」 『流通經濟大學論集』 40(4), 25-34, 2006-03exit
  2. *稲垣(1997) 「ペニシリンの半世紀学術集会 第一部: ペニシリンの歩んできた道exit 1.ペニシリン開発と当時の感染症 ①開発の経緯」, 『日本化学療法学会雑誌』 45(5), 320-323, 1997
  3. *神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ(神戸大学経済経営研究所) 新聞記事文庫・「総力戦研究所(内閣直属)設置  国策研究、官吏を再訓練」神戸新聞 1940.8.14 (昭和15) (昭和15) 行政(5-230)exit
  4. *市川(2006)
  5. *市川新(2007) 「『総力戦教育の理論』に著された社会認識 : ゲーミング理論による分析」 『流通経済大学社会学部論叢』 17(2), 1-27, 2007-03exit
  6. *纐纈厚(1981) 「太平洋戦争直前期における戦争指導 : 「皇国総力戦指導機構ニ関スル研究」を中心にして」 『政治経済史学』 (186), 17-31, 1981-11exit
  7. *市川新(2009) 「総力戦研究所における国家戦略研究ゲーミングの演練者」 『流通經濟大學論集』 43(4), 181-189, 2009-03exit より引用
  8. *市川(2006)
  9. *以上、市川(2009)
  10. *市川(2006)
  11. *市川(2006)
  12. *小松明子(2018) 「〈研究ノート〉日本の戦時ペニシリン開発研究にみる「技術と文化」の相互性 : 複合的な「出来事」としてのペニシリンものづくり」 『国際日本研究』 (10), 203-220, 2018-02exit
  13. *稲垣(1997)
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