北条早雲(?~1519)とは、後北条氏の初代にして最初の戦国武将である。出自、生年、名前については後述する。
姉に駿河守護今川義忠の正室北川殿。弟に弥二郎。子に北条氏綱、北条幻庵。孫に北条氏康等。甥に今川氏親。
当初は幕府の官僚であったが義兄の今川義忠を頼って下野、その後一度は幕府に復職したが、甥の氏親の当主就任の為に尽力したことで独自の所領を得て、そこから、伊豆、相模を攻めとり、後に言う北条氏百年の基礎を築いた。
また、彼の伊豆討ち入りが、戦国時代の始まりとされることがある。少なくとも、一介の役人であった彼が、将軍のいとこを殺害したということは下克上の端緒として非常に意義のあるものである。
(最近では幕府側の指示による幕府官僚としての行動であったとも言われている)
また、伊豆や相模といった一国を制圧したにもかかわらず、守護とならなかったことから最初の戦国大名とされている。
チート爺の一人で、関東ドリームチームの一人。また、戦国三大梟雄の一人に数えられる。
江戸時代の軍記物の影響から、彼は前半生が謎に包まれた一介の素浪人で、じっくり待ち、好機を掴み、老齢になって成功したため、大器晩成の人として言われる。
ところが実際は、彼は幕府政所執事で平氏随一の名門である伊勢氏の一族の一つ備中伊勢氏の当主の伊勢盛定の4男であり、父の盛定も幕府申次衆でその妻(早雲の母)は伊勢氏当主の姉と、今でいうところの「名門出身の高級官僚」であり、彼自身も次期将軍候補の申継衆(駿河下向前)→将軍執事(今川義忠死去~氏親当主就任以前)という次官級の超エリートの部類に入る。決して身分の低い素浪人ではない。早雲が素浪人とされた原因は、身分が固定化されていた江戸時代において『下克上』は憧れであり、その代表とされたのが早雲だったためらしい。
また、生年に関しても1432年といわれてきたが、今では1456年説が主流となっている。八十の爺さんが戦争を最前線でバリバリやっているのがおかしいということである。もっとも、1432年説を主張する人もいて、また創作とかになると1432年説の方が面白いことがあったり、北川殿や子供の幻庵も高齢で死んでいるうえ、高齢で出陣した例(龍造寺家兼)もあるので、あり得ない話ではない。ということで、まだ完全に決着されたわけではない。
さらに、名前も北条早雲は江戸期の命名で、実際の名は伊勢新九郎。北条は、彼の息子の氏綱の代になって名乗ったものであり、彼が生前これを使用した記録はないが、遡ってこう呼ばれる。
また諱に関しては「長氏」が素浪人説の頃は主流であったが、やがてどうやら幕府との密接な交流から伊勢氏当主の弟「伊勢貞藤」の子「氏茂」か、備中伊勢氏当主「伊勢盛定」の子である「盛時」と同一人物と見なされたが、やがて備中伊勢氏でほぼ確定したことで、現在は「盛時」で確定であると見なされている。
1432年に生まれたとされる。
応仁の乱で焼け野原になった京都を見た彼は、東国へ行って一旗挙げようと、六人の浪人仲間(荒木兵庫守、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵庫尉)を誘い、妹の嫁ぎ先である駿河へ下向する。
その途中、伊勢神宮で七人は「どのようなことがあっても、仲違いせず、お互い助け合って功名を立てる。七人の中の一人が大名になったら、残りの者はそのものの家臣になる。また、大名になったものは残りの六人をないがしろにしない。」 という誓いを立てる。
という話が伝えられているが、恐らくこんなことはなかった。ただ、ここに出てくる名字の者が後に北条家で重きをなしておりそれらの家柄が「御由緒家」と呼ばれていたのは事実である。
駿河守護今川義忠のもとに新九郎の妹北川殿が嫁いでいるので、まずその縁を頼って駿河に行く。その時、今川家は当主の義忠が戦死したばかりで二派に分かれていた。義忠の子竜王丸を担ぐ一派と、一族の小鹿範満を担ぐ一派である。北川殿は兄を頼った。
この時、関東から太田道灌が指揮する扇谷上杉氏や堀越公方の軍勢がこの紛争に介入しようと、駿河へ侵入していた。あわやというところで新九郎が『竜王丸が成人するまでは範満が家督を代行する』という折衷案を提案。この案に同意した、関東勢はこの案に同意し、両派も一応納得する。ちなみに旧来の説なら道灌と早雲は同い年になる。
と言われていたが、このころ幕府の役人として働いていたらしく、駿河なんかにいってない、もしくは単に戦乱を避けて駿河に滞在していただけというのが実際の処らしい。まあ、早雲が折衷案を出したこと以外は、大体この通りらしい。
これで落ち着いたかに見えたが、11年後の1487年。竜王丸が成人する年齢になっても範満が家督を返さない。そこで、駿河に下った新九郎は、駿府館を急襲し範満は自害した。これにより竜王丸は成人して、家督を継ぎ、氏親と名乗る。この功績により新九郎は、駿東郡の所領と興国寺城を手に入れた。
さらに6年後の1493年、隣国の伊豆で足利政知の死後、庶子であった茶々丸が政知と異母弟潤童子(後の足利義澄の母を殺し家督を継承。この暴挙や、茶々丸の暴政により、伊豆の民心は離れていた。伊豆の豪族が、戦争に行った時を好機と見て早雲は、自身の兵二百、氏親から借り受けた兵三百の合わせて五百の兵を率い海路から伊豆に侵入。堀越御所を攻撃され茶々丸は自害。帰参した者の領地はそのまま、農民の諸役を撤廃、細かい税金を廃止し税率を四公六民(他国は最低五公五民、その上諸々の税や賦役が付いてくる)にした結果、伊豆は瞬く間に、早雲の手に帰した。
とされているが、実際は伊豆を平定するのに二、三年かかったようである。また茶々丸も死んでおらず、伊豆南部でしばらく抵抗したのち海路から武蔵→甲斐へと入り、各地の豪族や武田氏、山内上杉氏の協力を得ながら抵抗を続け、決着したのは五年後の事である。以後、韮山城を拠点に活動している。
ちなみに、この行動は早雲の野望もさることながら、当時の政治局面から早雲が氏親や当時の幕府の意向を受けたものであるようだ。(このころ、近畿では細川政元による明応の政変で将軍が潤童子の弟義澄になっており、弟が母や兄の敵を討とうとしたのだと思われる。)
さらにこの前後、早雲は氏親の属将としてあちらこちらに出陣している。伊豆討ち入りもその一環。
あんまり知られていないが三河方面にいって徳川家康のひいひいじいさんにあたる松平長親とも戦っている。この戦いで大群相手に善戦したことから、松平氏は三河の中で存在感を高めた。
また、武田信玄の祖父に当たる武田信縄とも戦っている。武田家がこの頃お家争いをしていて、信縄の敵側が今川氏との同盟相手の扇谷上杉氏と手を組んでいて、さらに信縄は茶々丸をかくまっていたためだったのだが、この攻撃で信縄は扇谷上杉氏側につくこととなった。
しかしこれが川中島の遠因になるって誰が想像できたか(上杉謙信は山内上杉氏を継いでいて、武田信玄は扇谷上杉氏の女を嫁にもらったことがある。)。
関東は早雲が来るはるか前から戦国時代並みに動乱が起こり疲弊しまくっていた。どのくらい乱れていたかというと、応仁の乱の五十年前から関東のNo.2が下克上しようとしたり(上杉禅秀の乱)、その下克上されかけた側(足利持氏)が幕府に反抗して将軍になろうとしたり(永享の乱)、その子が今度は城に立てこもり(結城合戦)、残った弟がお情けで関東公方になれたのはいいが、親父と同じく幕府に楯ついて、あげく上杉氏と三十年近くにわたり関東を二分し、甲斐や信濃も巻き込む戦いを起こし(享徳の乱)、その乱の最中に西関東の大半が上杉氏に反抗するような乱がおき(長尾景春の乱)たと思ったらたった一人のチートが解決し、この乱の影響で三十年戦争が終わったと思ったら、さっきのチートが死んだせいで、今度は上杉氏内部で二派にわかれて戦い始めた(長享の乱、しかもこの戦いも二十年近く続く)。(この後で和睦をしたのだが、ご丁寧にも山内上杉氏内部でお家争いがおこりそれに古河公方が巻き込み巻き込まれ、再び関東を二分して戦いが起こる。この時北条家は氏綱の代である。)
幕府もこれを止めようとしていたのだが、幕府も幕府で応仁の乱、明応の政変が起こり、関東に対し口出しする暇がなくなった。
まとめるとこうなる。
余談だが、享徳の乱で争っていた上杉氏と古河足利氏は、18年間五十子に陣を張って対峙していたらしい。そりゃ疲弊もする。
早雲の伊豆侵攻もこうした関東の情勢が影響していると思われる。(今川氏は親扇谷上杉氏で早雲はその配下、伊豆は山内上杉氏の守護国であった)
このような状況下において、早雲は氏親とともに扇谷上杉氏の味方として山内上杉氏と対決していた。その扇谷上杉氏を支えていたのが、相模の大森氏と三浦氏であった。(本来、扇谷氏を本家である山内氏と対抗できるまでに高めたのは太田道灌なのだが、その太田道灌を扇谷定正が暗殺してしまったために道灌の息子が山内上杉氏に寝返った。)しかし、1494年にこの三家の当主が相次いで亡くなるという不幸に見舞われる。この結果、今まで扇谷上杉氏に助力していた古河公方が山内上杉氏と手を組んだ。関東の天地は複雑怪奇。
さて、ここからが逸話の楽しいところである。
まず、早雲は小田原城主大森藤頼に贈り物をするなどして懇意になる。その後、時期を見計らって伊豆の鹿がすべて山を越えてしまったので鹿を追い返すために勢子を入れたいと申し出た。藤頼は承諾。これが早雲の罠で勢子に扮した兵士を引き連れ領内に侵入。さらに、牛の角に松明をつけ小田原城を襲わせた。これに驚いたのは大森氏側で何万もの兵が来たと勘違いし、小田原城を捨て去り逃げた。早雲は見事小田原城を手に入れた。
と言われていたが、そもそも同盟相手であった扇谷上杉氏の配下を攻撃することなどあり得ないことである。しかも、記録によると早雲が落とした年より後でなぜか藤頼と一緒に小田原城を守っていたりもする。実際は、大森氏が山内上杉氏に寝返り、それに驚いた扇谷上杉朝良が早雲に援助を頼んだらしい。1501年までにこの城は早雲のものとなっている。
この頃の扇谷上杉氏は同盟相手に自分の領土を割譲せざるを得ないほどに弱っていたようで、そして、そのまま1504年、山内上杉氏に降伏するのである。
ともかく、この城は嫡男氏綱に与えられ、その氏綱の代に北条氏の居城となり、後には上杉謙信や武田信玄の攻撃を防ぎ、最終期には周囲9kmの総構え、優に5万を超す軍勢を収容でき、豊臣秀吉二十万の軍勢をもって三カ月かけても櫓一つ落とせない城となるのだった。
ちなみに早雲は両上杉氏の戦いに決着がついたのにもかかわらず、扇谷上杉氏の援助要請を大義名分にして徐々に相模を侵食していった。
1510年関東管領上杉顕定が弟の仇を討ちに越後に出陣したところ、逆に討たれてしまった。これにより、山内上杉氏は家督をめぐって紛争を起こす。さらにご丁寧にも顕定のおかげでおさまっていた古河公方家のお家争いも再燃。両者が巻き込み巻き込まれる形で関東を二分し戦う。(これを永正の乱という)当然、扇谷上杉氏も調停をしようとするが失敗。この頃、扇谷上杉氏の重臣上田政盛を早雲が調略しようとしたことから、ついに扇谷上杉氏と早雲との戦いが始まる。
早雲は両上杉氏の勢力が弱ったのを好機と見たのである。
1511年、早雲は本格的に攻勢をかける。敵は三浦半島を拠点とする、三浦道寸、義意親子。ちなみに道寸の母は大森氏の出身である。早雲はまず岡崎城を、ついで鎌倉、住吉城と次々と攻略していく。三浦親子は三浦半島の先、新井城に籠り、ここを最後の砦にと抵抗を続けた。ここには厄介なことに二年以上もの籠城を可能にする米が入った洞窟があったのである。
さて、危機感を抱いたのが扇谷上杉氏当主扇谷上杉朝良。彼は太田道灌の子供太田資康を援軍に送る(既に両者は和解している)ものの、逆に討ちとられる。さらに彼は子の朝興を送るもこれも撃退される。籠城は味方が来なければ意味がない。けれども道寸は降伏しなかった。
結局、三年近くにもわたる籠城の末、1516年、早雲の総攻撃により新井城は陥落した。この時、海に流れた血が油のようだということで油壺という地名が付いた。(今も残っている)
相模の国人衆を傘下に加え、伊豆や相模の水軍を確保し房総半島にまで進出している。
1518年にこの氏綱に家督を譲って隠居。1519年に死亡。享年は64または88。いずれにせよ人生50年とされたこの時代の人物としては長い方である。
軍事力を全く持たないところから、駿河東部から伊豆相模までの領土を一代で築いた功績は大きい。
また、東国では初の分国法を定めたり、検地を最初に行ったのも彼である。彼の内政が優れていることは、北条氏が戦国時代の中で唯一といっていい程家中での争いがなかったことからもうかがえる。
氏綱の代で名字も北条に改められた北条氏は、五代にわたり関東の覇者として周辺の今川、武田、上杉といった大名たちと鎬を削った。その領土は駿河東部、伊豆、相模、武蔵、下総、上総、安房(従属下)、上野、下野、常陸に及んだ。
1590年に、各地の大名が全て豊臣秀吉に従うことから、北条征伐が戦国時代の終わりとされることがある。この説をとるならば、戦国時代は北条家が開き北条によって終わったと言えるだろう。その点でも、北条早雲は戦国時代を代表する武将であるといえる。
早雲はある日夢を見てそれを家臣に話した。曰く、鼠であった自分が二本の大きな杉を削って倒すとたちまち虎になったという。杉は扇谷上杉氏と山内上杉氏の事。そして鼠は鼠年生まれである早雲自身の事。つまり二つの上杉氏を倒せば、北条家は虎になるという。つまり、北条氏にとって上杉氏がラスボスであるということ。
事実、早雲の孫の氏康が川越合戦で扇谷上杉氏を滅亡に追い込むことに成功。しばらく後に山内上杉氏も上野から追い払うことに成功し、利根川以西を手に入れた。もっともこの結果北条氏にとって最大の強敵となる寅年生まれの長尾景虎が越後からやってくることになったために、北条氏の関東制圧は遅れに遅れ、しかも山内上杉氏を景虎が継承。後の御館の乱でも、上杉氏を手に入れられず、ついに上杉氏を倒せないまま、豊臣秀吉の関東征伐を受けて滅亡するのだが。
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最終更新:2024/05/05(日) 20:00
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