三十年戦争(1618〜1648)とは、ヨーロッパを巻き込んだドイツの大内乱である。
三十年戦争はドイツにとって2つの世界大戦以前における最大の戦争にして災禍であった。30年もの長期にわたりドイツのほとんど全土を巻き込んだ内乱は、同時に近世ヨーロッパ最初の世界戦争でもあった。
その対立構造は複雑でなかなかに分かりづらい
以上の対立による戦争だけでも大変なのに、
などなどの要素が加わり、ドイツという国はすさまじい打撃を受けることとなった。
旧教(カトリック)。
目指すはカトリックによる普遍的支配、そしてその頂点としての信仰の守護者ハプスブルクである。家はスペインと分かれたものの、中世以来の帝国の政治的分裂に終止符を打ち、欧州をハプスブルクで支配するのが目標。敵が眼前に居るのでスペインよりは異端に寛容(にならざるを得ない)。
帝国内で自由に動きたいから皇帝の権力は弱くあって欲しいが、帝国外の諸国が帝国内部に影響を持って欲しくないから皇帝には強くあって欲しいという矛盾したような立場で皇帝と諸国の間を行きつ戻りつする。そのため、皇帝に逆らうが、フランスを帝国内に入れないが、スペインが帝国に影響あるのがむかつく。結局の所、自分が得したいという話。
カルヴァン派の信仰を認めて欲しいのに、支配者が異端に絶対の嫌悪を示すスペイン系ハプスブルクだったため、独立戦争を起こす。この頃、事実上の独立は達成していたものの、スペインからの経済上の圧力が掛けられており、新大陸からの富に関与できなかったことが、ネーデルラントがアジア貿易を目指す理由となる。当時、最大のアジア貿易国であったポルトガルがスペインとの同君連合下であったことも有り、独立戦争はアジアにおける植民地戦争へと移行していった。こうした状況下で三十年戦争が勃発する。
旧教(カトリック)。
アルマダ海戦で負けたとはいえ、未だ覇権国家。また、歴史的、地理的な理由から異端や異教を凄まじく敵視する。というより、称号の一つがカトリック王なのでヘタに異端異教を認めると王権の正統性に疑問符が付きかねない。目標は同じく、カトリックによる欧州の普遍的支配。皇帝でもないので、宗教的な統一の方に比重が偏っている。
旧教(カトリック)。但し、ナントの勅令で国内では新教も容認。
カール5世のときのような、個人によって挟み込まれると言う状況は脱したが、東西をハプスブルク家に挟まれている状況は変わらない。というか、ネーデルラントやイタリアまで含めると、フランスは四方にハプスブルク家がいる様な状況であるからこの状況をどうにかすることが目標。特に、イタリアが欲しい。あわよくば、皇帝位を奪取したい。だからハプスブルク氏ね。カトリックだが新教側。
新教(プロテスタント)。
王が実に個人的な理由でカトリックをやめた事に加え、スペインが新大陸の富を独占していることが気に食わないので反カトリックとして新教側を支援する。とはいえ、犬猿の仲であるとはいえ、新教側のフランスとも殴り合うというよく分からない立ち位置。
新教(プロテスタント)。
スウェーデンが独立したとは言え、いまだ北方の大国の地位にある。バルト海、北海の交易利益で食っていたので、この地域に大勢力が出現することを望まない。ただし、スウェーデンの拡張も望まないし、あわよくば再連合したい。
新教(プロテスタント)。
デンマークから独立した。バルト海の交易で食っていて、この地域での更なる勢力拡大を目指す。ただし、デンマークとは敵対する。新教であることに加え、旧教のポーランドとも一悶着起こしていたため、新教側。新教を守ると言う建前以外に、古ゴート主義なる全欧州は俺のものというジャイアニズム信望者でもある。
旧教(カトリック)。
ポーランドが、リトアニアを取り込んで、広大な領土と膨大な人口を持ったが、貴族の勢力が高まりすぎて積極的な対外政策が打ち出せなかった事に加え、国内のかなりの人口が異端(正教徒)なので、異端禁止と言い出すと東のモスクワ大公国(後のロシア)も合わせてどうなったものか分からなかったため、この戦争にはほぼ無関係不介入をつらぬく。その結果、西欧全体が疲弊する中で、黄金の時代を享受する。
最盛期を過ぎたとはいえ、脅威は陸海でまだ健在。この国の存在は皇帝に新教への幾度もの妥協を強いた他、属国のトランシルヴァニア公国が新教側で三十年戦争に参加した。反ハプスブルクのため、どちらかと言えば新教側。
三十年戦争のきっかけになったのは新旧の宗教対立である。ルターの宗教改革からうまれたプロテスタントとカトリックの対立は、1555年の、領主や都市に信教の自由を認めるアウクスブルクの宗教平和会議によってひとまず解決されたかにみえた。しかしこれは一時の妥協にすぎなかった。プロテスタント勢力はその後も北ドイツに拡大し、それに対抗してカトリック側もトリエント公会議にて対抗宗教改革を行い陣営を立て直した。
その際に、アウクスブルクの和議の持つ「聖職者に関する留保」が最大の問題とされた。それは「カトリック聖職者がプロテスタントに改宗するときには、その聖職と所領を放棄しなければいけない」というものである。読んで分かる通り、プロテスタントにとっては不利な条項である。そこでプロテスタントは、これは帝国等族の同意を得ていないとして、その条項の無効を主張した。
この当時、すでに北ドイツではほとんどすべての司教領がプロテスタントの手中にあり、下ライン地方まで勢力を伸ばさんとしていた。一方カトリックも上記の留保を理由に巻き返しを計ったので1570年代以降、両派の対立は深刻となった。その対立は82、83年のケルン大司教職を巡る紛争で最初のピークを迎える。これに勝利したカトリックは勢いづき、北ドイツにまで勢いを伸ばす。
カトリックは留保事項をもとにプロテスタントに領土の返還を求めるが、それはプロテスタントにとっては破滅と同義である。到底受け入れられるものではない。ドイツ帝国議会はこの紛争を調停する力を持たず無力であり、事態は軍事力による決着しかなくなりつつあった。
このころ既にプロテスタント側は、新たに勢力を伸ばしてきた急進的カルヴァン派と穏健派のルター派に分裂していたが、カルヴァン派のリーダーであるプファルツ選帝侯の主導の下、1608年に新教同盟(ウニオン)が結成されると、それに対抗してカトリックも翌年に、バイエルン侯マクシミリアンによって、多くのカトリックをまとめた旧教連盟(リガ)が結成された。
新教同盟の背後には西ヨーロッパのカルヴァン派勢力、とりわけオランダがついていた。これに対して旧教連盟にはヨーロッパのカトリックの盟主、スペインが後ろ盾となっていた。つまりドイツの新旧宗教対立はヨーロッパ全体の国際的な対立にも繋がっていたのである。火種はヨーロッパのいたるところにあり、まさに一触即発。その導火線に火がついたのは1618年のベーメンであった。
ベーメンではルター以前に神学者フスに関して宗教戦争が起きているなど、プロテスタントが多く、しかも信仰の自由が保証された土地であった。しかし、反宗教改革派のフェルディナント(ハプスブルク家、オーストリアの領主も兼任していた)が1617年にベーメンの国王につくと、ただちにプロテスタントを弾圧し始めた。ベーメンの領邦等族がこれに対抗したので、単なる宗教的対立を越えて、領主vs領邦等族の対立と、チェコ人とドイツ人の民族的対立が発生した。
ことのおこりは、等族議会が領主フェルディナントに抗議して、一部の過激派が皇帝の代官マルティニツとスラヴィタをプラハ城の窓から突き落として殺したことに発する(第2次プラハ窓外放擲事件)。1618年5月23日。三十年の永きにわたりドイツ全土を戦乱に巻き込んだ三十年戦争の勃発である。
反乱貴族たちはただちに新政府をつくり、軍隊を招集した。さらにオーストリア内のプロテスタントにも呼びかけを行い、勢力を広げる。そしてついに翌年の議会でフェルディナントを罷免し、新教同盟の盟主プファルツ選帝候フリードリヒ五世をベーメンの新国王に選出した。ここにドイツのカルヴァン派とベーメンの等族が政治的に結びついたのである。
当然、領主側のオーストリアも黙ってみていたわけではない。フリードリヒ五世のベーメン国王就任とほぼ同時期に、フェルディナントは神聖ローマ皇帝に就任する。新皇帝はスペインや旧教連盟と同盟を組むことに成功し、ルター派のザクセンまでが皇帝の側についた。これに対してベーメンは新教同盟や外国の援助の獲得に失敗し、その勢力の差は歴然となってしまった。
1620年、新旧軍がプラハの郊外で激突したとき、ベーメンは壊滅的敗北を喫する。ベーメン国王のフリードリヒ五世は国を追われ、ベーメンの反乱貴族は処刑あるいは追放され、その財産は没収された。ベーメンの国内ではカトリック教化が行われ、ベーメンは従来の体制を大きく変化させることとなった。
その後、舞台はベーメンからプファルツに移る。バイエルンのティリー将軍率いる旧教連盟軍と、スピノラ支配下のスペイン軍は1621年にプファルツに進軍し、そこを占領した。それによってバイエルン大公マクシミリアン一世は皇帝とのかねてとの約束通りプファルツ選帝候の地位を獲得した。一方で一緒についてきたスペインはスペイン街道の確保に成功した。この街道は北イタリアとネーデルラントを結ぶ重要な街道であった。こうしてとりあえず三十年戦争の第一幕であるベーメン戦争、プファルツ戦争(1618〜23)は終結した。しかし、戦争はまだ終わらない。
このスペインのプファルツ侵攻に対して、フランスは強い脅威を感じていた。ルイ十三世の宰相リシュリューは北ドイツの諸侯の他にオランダ、イギリス、デンマークにも働きかけ、1625年にハーグ同盟をむすび、ここに三十年戦争の第二幕が始まった。
まず行動にでたのはデンマーク国王クリスチャン四世であった。プロテスタントの危機を感じていたクリスチャン四世は北ドイツに侵攻。これに対抗して神聖ローマ帝国軍の総司令官に選ばれたのが、傭兵隊長ヴァレンシュタインである。
1626年にティリーとクリスチャン四世がルッターにて衝突し、ティリーの勝利に終わる。この間にヴァレンシュタインは10万の軍勢を率いて北上し、北ドイツのメクレンブルクを占領し、さらにデンマークのあるユトラント半島にまで迫った。
ドイツ皇帝軍の優勢のもとに1629年にヴァレンシュタインはデンマークとリューベック講和条約をむすび、同年ドイツ皇帝は帝国等族に相談することなく単独で、復旧勅令を発布した。これは1552年以来、プロテスタントに没収された教会領をカトリックに返還することを命じたもので、ドイツ皇帝権のピークと皇帝絶対主義を意味するものであった。三十年戦争の第二段階であるデンマーク戦争(1625〜29)はここに終わった。しかし戦争はまだまだ続く。
ドイツ皇帝の強化はドイツの国内外に不安をもたらした。復旧勅令によって土地を奪われる北ドイツのプロテスタントはもちろん、皇帝権力が高まれば自分たちの権益を犯されるとドイツの帝国等族も緊張感を強めていた。また外国勢力は、フランスはもとより、スウェーデンがバルト海の覇権をドイツに奪われやしないかと脅威を覚えていた。というのはヴァレンシュタインがドイツ皇帝から「バルト海、大西洋の提督」に任命されたからである。
まず動いたのはドイツの帝国等族であった。彼らは新旧の宗教を問わず、1630年にヴァレンシュタインの罷免を皇帝に訴えた。皇帝の強権の源はヴァレンシュタインにあると彼らは考えたのだ。皇帝もこの罷免要求に応じた。
ちょうどその頃、スウェーデン王グスタフ・アドルフはフランスなどの資金援助をもとに、プロテスタントの擁護をかかげて三万人を率いて三十年戦争に介入。これにより戦争の重点は国内紛争から、国際戦争へと移行した。スウェーデン戦争の始まりである。
ティリー支配下のドイツ皇帝軍が1631年にマクデブルクを占領し、街を徹底的に破壊したとき、それまで皇帝に忠誠を誓っていたザクセンやブランデンブルクなどのプロテスタント諸侯もついに立ち上がり、スウェーデン軍と同盟した。プロテスタント諸侯とスウェーデン連合軍は、ライプツィヒ近郊のブライテンフェルトにて皇帝軍に勝利をおさめる。
この後スウェーデン軍は勝利をかさね、前線は南下していった。窮地に陥った皇帝は翌年にヴァレンシュタインを再び皇帝軍の総司令官に任命し巻き返しをはかり、これによって戦争は長期化した。
グスタフ・アドルフ自身は1632年のリュッツェンの戦いで戦死したが、スウェーデン軍は勝利し、南ドイツにまで進軍した。一方でヴァレンシュタインは独断でスウェーデン軍などと和平を交わしたりして皇帝の猜疑を買い、34年に皇帝から派遣された軍隊によって殺害されてしまった。
戦況は皇帝に厳しかったが、体勢を立て直したドイツ皇帝軍はスペインの援軍も得て、ついにスウェーデン軍をネルドリンケンの戦いで破ることに成功した。その後、皇帝は1634年にスウェーデンと、翌年にはザクセンと講和条約を結び、復旧勅令の停止をすることによって一時の平和を得た。こうして三十年戦争の第三段階であるスウェーデン戦争は終わった。しかし三十年戦争の終結は、まだ十年以上も先のことである。
ここにきて、これまで背後に控えるだけであったフランスが、スペインとオーストリアのハプスブルク家に対抗するために前線にでてくる。ここに至って三十年戦争は宗教戦争の様相を失い、ことはすべてヨーロッパの政治的問題となった。ハプスブルク家とフランスという16世紀から続くヨーロッパの国際対立が三十年戦争の中に持ち込まれたのである。やがてスウェーデンもふたたび参戦し、事態は泥沼化した。
膠着状態のまま40年代に入ると、流石に両陣営ともに戦争に疲れてきた。41年に和平交渉を行う約束がなされたが、実際に交渉が始まったのは45年。条約締結により三十年戦争が終結したのは更に三年後の1648年であった。
三十年戦争の和平条約であるウェストファリア条約はヨーロッパに主権国家の概念を生んだ条約と言われる。その内容は大きく、国際問題とドイツ国内問題について分かれる。
国際問題についてはやはり領土問題が重要である。アルザス(あのアルザス!)の一部のズントガウなどがフランスに割譲され、フランスの勢力はライン川にまで進出した。スウェーデンはシュティッテインを含む西ポメルンなど多くの領土と、ドイツ帝国議会の議席を得た。フランスとスウェーデンが三十年戦争の最大の勝利者であり、この両国はウェストファリア条約の保証国となった。他方でスペインは和平対象から外され、フランスとスペインとの対立は1659年のピレネー条約まで引き延ばされた。
宗教問題ではアウクスブルクの和議の有効性が確認されたが、かつて問題視された「聖職者に関する留保」条項は破棄され、その代わりに遡って1624年時点での宗教分布を基準とすることが決められた。またカルヴァン派も公認され、今後宗教問題にかんしてはドイツ帝国議会内でプロテスタント会派とカトリック教派が別々に協議し、多数決ではなく両者の合意にもとづく決定が行われることになった。これによって宗教問題が帝国の宗教問題となることはもはやなくなった。とはいえこの時代にはまだ個人の信仰の自由はなく、宗派を決められるのはあくまで領邦君主のみであった。
帝国国制の問題では、まず戦争中のさまざまな行為とそれに対する判決には恩赦が適用され、プファルツも、バイエルンに奪われた以前の領土と選帝侯位を回復した。ただバイエルンも選帝位もその後も認められた。皇帝権力は大きく後退し、かたや帝国等族の権利が強調された。これによってフランスの思惑通り、ハプスブルク家の権力は弱体化し、ドイツの統一は大きく遅れることとなる。
ウェストファリア条約によって、目標であった帝国統一の野望は帝国諸侯の分立というかたちで粉々に砕かれた。各諸侯への介入ができなくなったハプスブルク家は直轄であるオーストリアやボヘミア、ハンガリーに注力することとなる。とはいえ、この後200年以上にわたってドイツ地域最有力の国家で、全ドイツ人の君主として君臨することはする。
一方で皇帝からの独立を達成したことで、逆にフランスやスウェーデンの影響を被ることとなる。だが、再建しなおされた帝国のシステムの中で防衛同盟を築いてこれに対抗。やがて三百余りの諸邦の中からホーエンツォレルン家を戴くブランデンブルク選帝侯国が台頭してくる。
北部七州が完全独立した挙句、スペインの没落、ポルトガルの凋落によってアジア海域の海上優勢を得ることとなった。この後暫くの間、蓄えた資本と進んだ工業技術によってアジアの交易、欧州の物流を支配し、世界の海に海上覇権を築く。そうして築いた覇権を、海上において英国が、陸上において仏国が脅かしてくるのは別の話。
ネーデルラント北部七州は独立された物の辛うじて南部十一州は確保した。が、三十年戦争中にポルトガルが独立した挙句、オランダに対し独立承認という大きな妥協をしてまで、挑んだフランスに西仏戦争で敗北したことで西欧における軍事的優越を失う。また、フランスによってフランシュ=コンテを奪われ、確保した南部ネーデルラントも度々フランスに侵される。海上においてもオランダ、イギリスの勇躍が著しく、止めとばかりに、スペイン継承戦争で王冠をルイ14世の孫に持ってかれた。
アルザス・ロレーヌを奪取して領土はライン川に達し、帝国は三百諸邦に分かれて名目のものとなり、更にウェストファリア条約締結後も続いた西仏戦争に勝利したことでスペインを覇権国家の座から脱落させたことで、念願の軍事的優越を確保したぞ!
となるはずだったのだが、戦争の最中に国王ルイ13世、宰相リシュリューが相次いで死去。選帝侯の地位や皇帝の座の野望は放棄せざる終えなかった上に、帝国諸侯と成れなかったため、外交的にドイツ地域へ浸透するという手段がとれなくなってしまう。
このため、フランスは幾度もの軍事侵攻を続けていくが、包囲網ともみれる対抗同盟が繰り返し神聖ローマ帝国で結ばれた。そうこうしているうちに、イギリスとの次代の超大国の座をかけた百年戦争へと突入し、ややもすればその可能性もあったものの最終的にフランス革命へと進んでいく。
清教徒革命勃発に就き絶賛内乱中。
途中まで新教側へ支援していたものの、前時代からの因縁からフランスとも戦火を交えた挙句、途中から清教徒革命が勃発して戦争から脱落。戦勝国として扱われることはなかった。最も、国力が落ちたわけではなく、オランダ、フランスとの戦いを通して世界帝国への道を歩んでいく。
三十年戦争前は、バルト海、北海、北ドイツ地域において、最大の影響力を保持していたが、三十年戦争のさなかにスウェーデンとのスウェーデン・デンマーク戦争(トルステンソン戦争)に惨敗した結果、バルト海の海上覇権を喪失。新教国にも関わらずウェストファリア条約で戦勝国になれずに終わり、北方の覇権をスウェーデンによって奪われる。ノルウェーとの紐帯を強めつつ、以後暫くの間覇権奪還をかけてスウェーデンと激突を繰り返す。
三十年戦争最大の戦勝国。
トルステンソン戦争において、デンマークを覇権国家の座から脱落させ、バルト海の海上優勢を確保し、北ドイツに領土を保持して、帝国諸侯の一つとして新教の保護者として神聖ローマ帝国内にも影響力を持って、バルト帝国として君臨する。その後は覇権奪還を狙うデンマーク、東欧の大国ポーランド・リトアニア共和国、海洋進出を狙うロシア帝国と鎬を削り、大北方戦争によってロシア帝国に敗北するまで覇権を保持する。
冒頭に述べたように三十年戦争は千年以上にわたるドイツ史の中でも2つの世界大戦についで悲惨な戦争である。ドイツの人口は1600万人から1000万人と三分の一が減少し、地域によっては半分以上も人口減が起きたところもある。もちろんこれは死亡者だけでなく逃散民も含んでいるが、それでも少なく見積もったところで割合でいえば世界大戦以上だ。傭兵による略奪と、苛烈な課税にくわえ、ペスト、コレラ、チフス。そして寒冷化による飢饉によってドイツ国民はばったばったと死んでいった。社会不安は人間の心を蝕み、魔女狩りの横行やユダヤ人虐殺が発生した。
国内の荒廃と権力分散が進んだ結果、ドイツでは植民地獲得に出遅れ、その結果、ドイツは英仏に植民地の数で大きく差を開けられてしまった。その結果、ドイツは経済的に後れをとってしまい、それが近代大規模戦争の遠因となったとする向きもある。
掲示板
34 ななしのよっしん
2023/03/27(月) 23:14:49 ID: vKVoO8jDLq
地獄のルターも泣いてるで。
35 ななしのよっしん
2023/08/22(火) 09:40:17 ID: 9e+mGBf1NZ
ドイツ統一は遅れたが、後にドイツ統一するプロイセンにとっては
飛躍の切っ掛けにもなったという皮肉な結果にもなった戦争
36 ななしのよっしん
2023/10/27(金) 11:47:15 ID: hsBv5dVPEE
イサック見てる人おらん?サムライが三十年戦争で活躍するめっちゃ面白いマンガなんやけど・・・
一話の狙撃シーンまじで好き。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/02(月) 02:00
最終更新:2024/12/02(月) 02:00
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