一式中戦車チヘは、第二次世界大戦において大日本帝国陸軍が開発・運用した中戦車である。
概要
九七式中戦車(以下チハと表記)の機動力と防御力を向上させる目的で1940~1941年に開発が開始された中戦車である。ただし当時の状況(日中戦争真っ只中+太平洋戦争直前)から開発に回されるリソースは少なく、開発完了が1943年で、量産と部隊配備は1944年である。どう見ても手遅れです、本当にありがとうございました
一式中戦車(以下チヘ)はノモンハン事件の戦訓を取り入れて対戦車戦を考慮した中戦車であり、実戦配備時には米軍のM3軽戦車、M3中戦車を撃破可能だった。え、M4シャーマンはどうだって?お察しください。
性能
速度 | 44km/h |
行動距離 | 210km |
主砲 | 一式四十七粍戦車砲(口径47mm、48口径、弾数121発) |
副武装 | 九七式車載重機関銃(口径7.7mm、弾数4,220発、車体前面と砲塔後部に各1丁搭載) |
装甲 | 50mm(正面)、25mm(側面)、20mm(後面) |
エンジン | 空冷4ストロークV12気筒型ディーゼルエンジン(240馬力) |
乗員 | 5名(車長、砲手、装填手、操縦手、機銃手) |
補足
武装
搭載砲の47㎜戦車砲の開発は「将来、戦車同士の戦いが増加するかもしれない」という懸念がキッカケである。その直後にノモンハン事件の様相が伝わり、懸念が正しかったことが証明され、具体的な開発がスタートした。しかし、開発開始時点においてはチハの正式な改良案として搭載することは考えていない。
防御面
当初は、ソ連軍が用いる45mm対戦車砲の徹甲弾による射撃を500mでギリギリ耐えることを考慮して正面装甲は35mmとされていた。使用される装甲板の種類は不明。(なお、チへ開発開始時に、鹵獲した45mm対戦車砲によるチハに対する射撃試験が行われており、1500mの距離から砲塔部を貫通している。) その後、1942年頃に最大装甲が50mmへと増厚したが、経緯は不明。
機動性
後退するソ連軍戦車に対して日本戦車は鈍足であり、追撃が困難であったため、エンジンを新規に開発することになった。このエンジンは一〇〇式統制発動機とも呼ばれた。このエンジンは新様式であり、チハのエンジンよりも高出力かつ、信頼性向上をはかったモノになるはずだった。しかし、量産の際に重要部品の製作がうまくいかず量産の遅れに繋がった。
操作性
従来の日本戦車に用いられていた変速機は重量が増せば増すほど、ギアチェンジが困難となり機動力及び操作性が低下するという特性があった。これを解決するために油圧式の補助装置とシンクロメッシュ式を採用することにするのだが、開発に支障をきたすほど手間取りすぎたため、結局不採用となってしまった。
(この変速装置絡みの問題は戦後の61式戦車開発まで引きずることとなる。)
開発
1938年、日本は八九式中戦車の後継車としてチハを採用したが、この戦車の採用は半分妥協的かつ暫定的な面があり、少々背伸びをして開発したため、生産性や操作性、機械的な信頼性に不満があり、重量過大であると見なされていた。
このため、日本はチハの後継となる試製中戦車(チホ)を開発することを開始する。チホはチハの戦闘能力を維持しつつも軽量化をはかり、信頼性と量産性などの向上を狙ったモノであったが主砲に関しては対戦車戦闘重視か歩兵支援重視かは定まっていなかった。
…そして1939年5月に事件は起きた。ノモンハン事件である。日ソが激突したこの事件では、日本、ソ連共に自軍の保有する戦車を投入したが、その結果、日本側の戦車部隊は壊滅的ダメージ(戦車連隊の隊長が戦死、出撃した全73両中約30両を損失など再起不能一歩手前)を被る事になる。これは日本側の戦車(八九式中戦車、九七式中戦車、九五式軽戦車)が搭載する砲の装甲貫徹能力が劣っていた上に[1]、装甲もソ連戦車が搭載していた45mm砲に対して防御力不足であったことが原因であった。(もっとも、ソ連側も投入したのはBT-5やBT-7など火力や防御力を犠牲に機動力を優先した快速戦車や軽戦車であり、こっちも日本側の火砲や対戦車兵器、火炎瓶攻撃、さらには日本側戦車部隊による機関部狙いなんて名人芸な砲撃で大損害を受けてたりする。だがソ連は戦車を500両以上投入するという物量で補った。まさにУра!)
事件が終わった後、自国の戦車が質・量ともに劣る事認識した陸軍は、量はソ連相手だから仕方ないとしてまず、チハと目糞鼻糞程度の差しかないチホの開発に見切りを付け、そこから更に機動力と防御力の向上させた改良型として、1941年にチヘの開発が始まった。
しかし、時はまさに世紀末日中戦争の真っ最中であり、しかも対米開戦(太平洋戦争)を控えていた日本において新規戦車開発の優先順位は低く、リソースである資材、工場、予算は航空機、艦船、高射砲の生産に回された。しかも、開発期間の短縮の為、ドイツから部品を輸入したり技術供与を受ける予定だったが、独ソ戦争勃発により不可能になってしまった。
(もっとも、開発の壁となったエンジン部品の量産や変速機周辺の問題は日本の工作精度の低さから来るモノであるため、リソースの少なさは氷山の一角でしかない。)
そんな感じで、試作車両が完成したのは開発開始から2年後の1942年であり、複数の試作車があったとされる。そこから各種試験を行うも、予定性能を満たせず開発が遅延し、開発完了とされたのが1943年で、量産と部隊配備は1944年となる。つまり一式中戦車と言いながらも皇紀2601年=1941年には影も形も無かったりする
(開発が難航したチへをどうにか完成させるため、最終的には同時期に開発され、一足先に完成していた二式砲戦車の車体を流用したという説がある。二式砲戦車はチへと比して保守的な設計だったらしいがよくわかっていない。)
ちなみに、日本がチヘ開発に四苦八苦している間に諸外国はM4シャーマンとかパンターとかT-34(ノモンハン事件を戦訓の一つとして開発)といった中戦車を開発・量産・実戦配備している。もはや何も言うまい・・・・・・全部国力不足が悪いんや・・・・・・
実戦
してません。
冗談でも何でもなく、日本陸軍が4年もかけて開発したチヘは実戦参加していない。軍上層部は来るべき本土決戦に備えて戦車の温存方針をとっており、一両も実戦には投入しなかったようである。もったいない。
(かわりに44年以降チヘの砲塔を乗っけたチハが出回っていたりするが)
まあ、本土から戦地にチヘを送ろうとしても潜水艦や航空攻撃が待ち構えているだろうし、そもそも同じ砲を持つ新砲塔チハでもM4シャーマン相手には正面から立ち向かう場合70m以内の至近距離でなおかつバイザー・履帯・駆動輪または車体下部の垂直部等の脆弱部を狙わなければならず[2]。、側後面でも数値上は1000mの遠距離で撃破可能であるが実戦では遠くとも400m以内の近距離に引き付ける必要があった。また量産及び配備時期を考慮すると装甲50mmは焼け石に水である。もし投入してたとしても結果は推して知るべし。
派生車両
- 二式砲戦車
試製一式砲戦車を前身とする車両であり既存の中戦車の支援を目的として開発。実戦には投入されていない。
成形炸薬弾を使用することで距離に関わらず100㎜の垂直装甲板を打ち抜きM4シャーマンに対しては至近距離(300m以内)で命中すればいかなる部位も貫通可能とされた。車体はチへに同じ。
ちなみに本車両の方が一式中戦車より早く完成しており、どっちがベースになったのかはっきりしない。 - 駆逐戦車甲(トイ車)
二式砲戦車の主砲を試製57㎜戦車砲に換装したモノ。連隊砲戦車とも呼ばれたが、計画のみで実車は無し。
試製一式徹甲弾を使用することで1000mでだいたい60㎜の垂直装甲板を貫通できたらしい。 - 三式中戦車/三式中戦車改(?)
三式中戦車を参照。ぶっちゃけ中戦車の名を冠した対戦車自走砲。 - 試製対空戦車タハ
計画のみ。
その後
M4シャーマンに対抗可能な四式中戦車チトや五式中戦車チリの開発が遅延したため、次善策としてチヘに必要最小限の改良を行って75mm砲を搭載した三式中戦車チヌが開発されている。
現在、完全な形で残っているチヘは存在せず、アメリカにチハの車体にチヘの砲塔を載せた車両が一両残っているのみである。
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関連項目
脚注
- *弁護させてもらえば、当時の戦車は歩兵支援が目的であり、対戦車戦闘は対戦車砲や対戦車ライフルに任せるもので、戦車対戦車の戦いはナンセンスだというのが主流であった。もっとも、大戦によりこういった考えは全く間違っていた事が証明されたが。
- *旧陸軍は45年の時点でM4の砲塔正面装甲は85㎜~100㎜以上の装甲板に相当すると想定し、47mm砲でもある程度の距離から(正面からでも)貫通可能だと考えていた
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