伊363とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊361型/潜丁型潜水艦3番艦である。1944年7月8日竣工。輸送任務や回天作戦に従事し、無事戦争を生き残ったが、戦後の1945年10月29日に触雷して沈没。
概要
潜丁型とは、離島への補給任務を主とした輸送用潜水艦である。類別標準による正規分類は一等潜水艦。
第一次世界大戦時にドイツが計画していた潜水商船ドイッチュラントをベースにし、艦前部の物資用倉庫から円滑に物資を積み下ろせるよう上甲板へと繋がる電動ベルトコンベアを装備、接岸出来ない時に備えて大発動艇2隻の搭載設備を持つなど補給任務に特化している。艦橋側面には敵のレーダー波を乱反射させるためのV字の傾斜を備え、竣工時からシュノーケル、22号水上電探、逆探を持つ先進的な艦である。1945年以降は13号対空電探と水中充電装置が増備され、逆探も新型に換装されている。先に就役した伊361と伊362は魚雷発射管こそ持っているものの、実際に魚雷を発射するのは不可能であったが、伊363は艤装員長の荒木浅吉少佐の尽力により覆いを付けた上で雷撃が可能となっていた。
要目は排水量1400トン、全長73.5m、全幅8.9m、最大速力13ノット(水上)/6.5ノット(水中)、潜航深度75m、乗員55名。伊361型は計11隻生産され、その中では唯一触雷が原因で失われた。
戦歴
輸送任務
1942年に策定された改マル五計画において丁型一等潜水艦第5463号艦の仮称で建造が決定。
1943年5月1日、呉工廠で起工。10月20日に伊363と命名され、12月12日に進水式を迎える。竣工する前から既に瀬戸内海西部で活動していたらしく、1944年6月2日18時30分に長島東錨地で物糧揚陸実験の実施と成果報告を命じられている。6月5日、艤装員長に荒木浅吉少佐が着任。彼はかつて伊176の先任将校を務めていた。そして7月6日に艦長荒木浅吉少佐の指揮下に竣工し、横須賀鎮守府に編入するとともに第11潜水戦隊に所属する。
1944年7月9日から12日まで呉工廠に入渠して騒音の防止工事を実施。7月13日午前に呉を出港して伊予灘で第11潜水戦隊と会同したのち慣熟訓練を行う。7月25日午前11時、水無瀬島沖2海里にて文通船に乗って来た呉工廠の工員を収容し、速力試験を実施。7月27日13時より約1時間、八島泊地で戦隊の対空見張り訓練に参加。8月9日に別府へ寄港して乗組員を休養させた後、8月11日に出港して再度伊予灘で訓練。8月19日に呉へと戻った。8月29日15時30分に呉を出発するが、17時に試験潜航を行った結果、右舷第2排出弁の漏油が深刻だと判明。18時35分に呉工廠と第11潜水戦隊に反転帰投の電報を打って呉へと戻った。8月31日午前9時に再度潜航試験を実施、しかし未だ修理は万全ではなく更に数日を要した。何とか障害を取り除いて9月2日17時30分より三度目の潜航試験を行い、漏油は極僅かに抑えられた。9月12日午前13時に呉を出発し、伊予灘での訓練を再開。ところが9月13日、艦の最大戦速試験中に左舷のピストン耳軸が焼損するトラブルに見舞われてしまい試験中止。長島泊地に司令部要員を揚陸して呉へと向かったが、呉に在庫が無く、修理は横須賀で行われる事になった。訓練を終えた9月15日、輸送専門の第7潜水戦隊へ転属するとともに呉を出港。翌日横須賀に入港して修理を受ける。9月26日、連合艦隊司令長官豊田大将は孤立したトラック諸島とメレヨンへの作戦輸送を命じ、南東方面で特に不足しているマラリア治療薬キニーネ80梱包や衣服5トンを積載する。海軍省はラバウルの第8海軍病院宛てに「マラリア剤66万錠を10月1日に潜水艦へ積み込み、発送した」と送信。
10月9日、横須賀を出港。本土を包囲する敵潜水艦の目を掻い潜り、10月21日にトラック基地へ入港。運んできた物資を揚陸した後、現地で糧食60トン、衛生材料10トン、陸軍独立混成第50旅団参謀を積載し、10月24日にトラック・パラオの中間に位置するメレヨンへ向けて出発。アメリカ軍にマリアナ諸島を占領されて以降、現地の守備隊約4500名は激しい空襲下にあって補給が途絶、10月上旬の時点で22日分しか持たない事が試算されるほど飢餓状態に陥っていた。そして伊363は最初に派遣された補給艦であった。
10月28日に塗炭の苦しみに喘ぐメレヨンへ到着。現地の将兵が渇望してやまない糧食75トン及び重油5トン、参謀を揚陸し、内地に帰還する便乗者7名を乗艦。その日のうちにメレヨンを発ち、10月31日に再度トラックへ寄港して重油33トンを揚陸するとともに内地送還者82名を収容。11月2日に出港し、制海権と制空権を奪われた危険な海域を突破して11月16日に横須賀へ到着。便乗者を揚陸したのち整備と休養を行う。ちなみにメレヨンへは伊363の他に伊371、伊366、伊369が輸送に成功しているが、道中で伊362、伊365、伊371が撃沈される被害も出ており僅か4回で補給は打ち切られてしまった。
11月30日に訓練の目的で横須賀を出発するも、潜望鏡筒で荒木艦長が右足を骨折したため同日中に帰港。艦長業務に耐えられなくなったという事で12月2日、木原栄大尉が二代目艦長に着任。
12月10日、小笠原諸島最東端の南鳥島向けの糧食88トン、弾薬10トン、その他物資10トンを積載して出港。南鳥島もメレヨン同様約3200名の将兵が孤立していて補給が急務であった。東京から1862km離れた今や遥か遠い島の南鳥島へは12月17日に到着し、物資を揚陸したあと便乗者60名を積載して出発。12月26日に横須賀へ入港して整備を受ける。12月末日までに潜丁型は9回の補給に成功、2隻を喪失した。
1945年3月5日、横須賀を出港して再び南鳥島への輸送任務に就く。西方の硫黄島はアメリカ艦隊の攻囲を受けていたが、敵襲を受ける事無く3月13日に南鳥島へ到着し、物資を揚陸して3月20日に無事横須賀へ帰投。
回天母艦へ
横須賀に入港した3月20日、所属先の第7潜水戦隊が解隊となり第6艦隊第15潜水隊へ転属。これは回天母艦として運用する事を意味していた。14cm甲板砲と大発の揚陸装置を取り外し、回天5基を搭載するための架台と交通筒、回天を固縛または解除する装備の新設を行う。潜丁型は輸送用だけあって船体が大きく、5基の搭載が可能だった。
4月8日に横須賀を出発し、4月12日に呉へ到着。瀬戸内海西部にて回天との訓練を実施する。5月3日夜に光基地へ帰投したのち、翌4日から駆水頭部付き回天を搭載して発進作業と航行艦攻撃を同時に行う連合訓練を開始。5月22日、回天特別攻撃隊「轟隊」へ編入。伊36、伊165、伊361とともに沖縄・マリアナ間の敵補給線攻撃を命じられる。5月25日、伊156や特設捕獲網艇第一桐丸とともに回天の連合訓練を実施。5月27日に呉を出港し、光基地にて回天5基と搭乗員5名を搭載する。
そして5月28日午前9時に光基地を出撃。沖縄・ウルシー間の海域を目指して南下する中、6月5日に沖ノ鳥島北方30海里付近で初めて「回天戦用意」の号令が掛かった。すかさず搭乗員が乗艇して発進準備を済ませたが、荒天に阻まれて発進を中止。6月12日には敵空母らしきものを発見したが今回も回天攻撃には至らず。6月15日22時、沖縄南東500海里の地点を浮上航行中に艦首方向の水平線上にて灯火を発見。木原艦長は「魚雷戦用意」を発令、それと同時に敵船団が接近してきたため20分後に「回天戦用意」の号令も下った。搭乗員は七生報国と書かれた鉢巻きを身に着け、交通筒を通って各々回天に搭乗して発進準備を済ませる。木原艦長はまず通常魚雷による攻撃を行い、護衛の駆逐艦から攻撃を受けたら回天攻撃に移行する心算だったと言われるが、海が荒れていて回天攻撃が出来なかったとも言われる。22時50分、伊363は九五式魚雷2本を発射。9分後に1本が命中し、誘爆音も2回聴音された。海上に上げられた潜望鏡には暗い水平線を照らすように赤々と踊る火焔が映し出されていた。「輸送船1隻撃沈」を報じたがアメリカ側の記録によると該当船は無かった。敵から反撃も捜索も受けなかったが、伊363は直ちに哨区を移動。6月18日夜に帰投命令を受け、20日まで戦闘哨戒を行ったが遂に敵艦を見つけられず、帰路に就く。6月28日に平生基地へ帰投。使用しなかった回天5基をここで降ろし、翌29日に呉へ入港して搭乗員たちを降ろした。7月17日から26日にかけて瀬戸内海西部で訓練。
8月3日、回天特別攻撃隊「多聞隊」に編入。西カロリン諸島方面への出撃を命じられる。8月6日に呉を出発し、光基地にて回天5基を搭載して8月8日に出撃。豊後水道、特に各水道の出口には敵潜水艦が配置されていて危険だったため警戒を厳重にして突破、太平洋へと踊り出た。パラオ北方500海里を目指して航行中、8月9日にソ連が対日宣戦布告。8月12日、鹿児島沖で第6艦隊司令部より日本海への配置転換を命じられ、反転北上。8月14日正午頃、五島列島東方沖を浮上航行中に米第38任務部隊の敵戦闘機から機銃掃射を受け、乗組員2名が死亡し、2名が負傷。浸水により調整機能が失われ、一時は水深90mにまで沈降してしまう危機的状況に陥るも、不断の努力により約3時間後に浮上成功。修理のため佐世保へ寄港して工廠に入渠したところで終戦を迎えた。
終戦後
8月18日に呉へと戻った伊363であったが、ここから別の意味で忙しくなった。第6艦隊司令部では毎日艦長会議が行われており木原艦長も参加。「今からでも弾薬・食糧を搭載し、出撃して最後の一兵まで戦いたい」「我が艦は海賊船と呼ばれても良いから、どこかの島影を基地として出撃し、神出鬼没で敵艦をやっつけるつもりである」と徹底抗戦を訴える意見が百出した。だが第6艦隊司令醍醐中将に諭された事で場の全員が終戦を受け入れた。9月2日にアメリカ軍に投降。10月27日、アメリカ軍の命令により残余の潜水艦は佐世保へ集められる事となり、伊363は呉を出発した。
1945年10月29日午後12時45分、悪天候の宮城県広瀬村沖10海里を航行中にアメリカ軍が敷設した浮遊機雷により沈没。艦橋要員は海へと脱出したが、そのうち無事に岸まで泳ぎ着けたのは僅か1名のみで木原艦長以下34名が死亡。11月10日、除籍。
戦後の1966年1月26日に深田サルベージが残骸を引き揚げ、江田島で解体された。その時に得られた伊363の潜望鏡は呉市の長迫海軍墓地の記念館に展示され、また唯一の生存者が奉納した名簿が愛知県護国神社に、東京都文京区にある戦没者霊苑には伊363のラッパが遺されている。
関連項目
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