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伊36とは、大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜/15潜水艦17番艦である。1942年9月30日工。輸送任務、航空偵察、回天母艦と様々な任務をこなし、回天攻撃で歩兵揚陸艇LCI-600を撃沈した。終戦まで生き残った後、ローズエンド作戦により1946年4月1日に撃沈処分される。

概要

巡潜とは、大日本帝國海軍の一等潜水艦

1936年ロンドン海軍軍縮条約から脱退し、日本は制約に縛られない自由な設計と建艦が出来るようになった。潜水艦に関しては、今まで建造してきた巡潜三ベース戦隊旗艦用の甲と量産用の、この二本柱で戦増強を図った。

巡潜甲から旗艦機し、若干化・簡略化して量産性を向上させたのが巡潜である。広い太平洋で侵攻してくるアメリカ艦隊を発見するため長大な航続距離水上機運用を持つ。体が小化した事で搭載魚雷が17本に減少、九三式探信儀や九三式水中聴音機を装備しておらず、航続距離も(甲較すると)低下しているが、それでも日本潜水艦行動範囲を維持。量産型だけあって帝國海軍潜水艦最多の20隻が工。計画では32隻まで造る予定だったが、起工から工まで2年以上かかる工期の長さが問題視され、簡略化を更に進めた巡潜一、改二、巡潜へとバトンタッチしていく事となる。大東亜戦争における潜水艦の戦果のうち44は巡潜が出し、アメリカ本土爆撃(伊25)、ワスプ撃沈(伊19)、カリフォルニア州撃(17)など他にはい特異な成果も出ている。その代わり過酷な最前線に投入され続け、生き残ったのは伊36のみという大損をこうむった。

工したのがガダルカナル島争奪戦の頃だったため通商破壊ではなく不得手な輸送任務に従事。キスカ島から将兵を撤退させるケ号作戦にも参加した。戦争末期になると回天母艦改造され、僚艦が次々に撃沈されていく中、何度も奇跡的な生還を果たして終戦まで生き残った。

諸元は排水量2198トン、全長108.7m、全幅9.3m、乗員94名、水上23.6、水中8ノット、潜航深度100m、航続距離2万5928km。武装は40口径14cm単装1門、25mm連装機1丁、艦首53cm魚雷発射管6門、九五式魚雷17本。

艦歴

黄金の強運を抱きし寵児

1939年に策定された第四次海軍軍備充実計画(通称マル四)において、一等潜水艦第149号艦の仮称で建造が決定。1940年12月4日横須賀で起工、1941年10月25日伊47と命名されるが、11月1日進水式の際に伊36と名し、開戦後1942年9月20日に全ての試験を終え、9月30日工を果たす。初代艦長に稲葉通宗中佐が着任、彼は伊6艦長時代に敵空母サラトガを撃破した赫々たる戦果を持つベテランであった。

戦隊に編入された伊36は横須賀を出発して瀬戸内海西部へ移動、伊予や安下を拠点に慣熟訓練を行い、11月30日に入港して出撃に向けた準備を開始する。そして12月15日34、35とともに先遣部隊第1潜戦隊第15潜隊に転属し、未だ闘が続くソロモン戦線への投入が決まった。

12月18日13時、多くの人々が見送りに立つ潜水艦、そこから出港する際に稲葉艦長は信号マストに3~4mほどのい幟を立てた。その幟にはで「南八幡菩薩」と書かれており、これを見た人々は一様に「さすが稲葉艦長だ、面い事をやった」と大きな祝福を送ったという。稲葉艦長は優秀だが奇行が多い人物で、今回の幟もその一環であった。これを機に他の潜水艦でも幟を立てるようになったとか。中何事も12月25日に前進拠点のトラックへ入港、現地で第1潜戦隊三戸寿少将率いる部隊に配備され、16隻の潜水艦と孤立したガダルカナル島への輸送任務に臨む事になる。しかし潜水艦に積める物資はせいぜい20~30トン程度と駆逐艦の10分の1程度であり、効率が悪く、危険を伴い、本来の任務である魚雷攻撃をも投棄しなければならなかったため、輸送任務は乗組員にとって最も嫌な任務だった。

12月28日トラックを出発した伊36は物資の集積地兼最前線基地のショートランドに向かい、12月31日に到着。この時点で既に大本営ガダルカナル島からの撤退を決めていたが、撤退に耐えられるだけの体力を将兵に与えようと輸送任務は続行された。

1943年

1943年1月1日午前、稲葉艦長、長、航長の3人が、カミンボへの揚陸を終えて帰投したばかりの31を訪問し、カミンボ地区の情況と揚陸の手順を学んだ。午後からは艀を使って防ゴム袋に入った20トンを積載、その状態で合いにて試験潜航を実施し、同日18時ショートランドを出港。連合軍の厳重な監視網を潜り抜け、1月3日に飢えた将兵が待つガ西端カミンボへ到着。日から30分が経過するのを待ってから浮上し、地上にいる陸軍と発信号で連絡を取り、派遣されてきた4隻の大発動艇にを移載する。敵に見つからないよう闇に紛れての作業であり、乗組員も陸兵も言かつ協同で移載作業を行い、大発は陸地へと戻っていった。事輸送任務を成功させた伊36はカミンボを出発して帰路につき、1月5日午前7時39分にショートランドへ帰投する。

帰って来たのも束の間、すぐさま次の輸送任務のためゴム袋入り物資12トンの積載作業が始まり、追い立てられるように1月6日18時ショートランドを出発、1月8日にカミンボへ到着し、前回同様日を待ってから陸地に近づいた。12個の食糧入りゴム袋を大発へ移載するとともに傷病兵39名を収容してカミンボを出発。1月10日午前6時30分にショートランドへ帰投した。今度はニューギニア方面への輸送任務を命じられて同日16時に出港、翌11日午前11時21分にニューブリテンラバウルへ入港。第1潜戦隊部からニューギニア東部ブナ方面の状況と輸送任務についての説明があり、これまで物資を入れるのに使用していたゴム袋は浸が酷かったためドラム缶められた。

1月14日正午、物資を満載したドラム缶13本を携えてラバウルを出発。ポートモレスビーから飛来するB-17航空監視網を掻い潜り、1月17日、ブナのマンバレ河口に到着して運んできたドラム缶を揚陸、傷病兵47名を収容して帰路につき、1月18日午前9時36分にラバウルへ帰投。続いて1月22日18時6分に再びドラム缶13本を積載して出発。1月24日マンバレ河口へ到着するとともにドラム缶を揚陸、傷病兵39名を収容して1月27日ラバウルへ帰還した。

伊36の輸送任務はまだまだ続く。次の輸送先がラエに変更となり、1月28日に物資23トンを積載してラバウルを出港、1月30日にラエへ到着して物資を揚陸すると同時に傷病兵59名を収容。これが潜水艦による初のラエ輸送であった。2月3日午前11時ラバウルを出発し、5日に物資18トンをラエへ送り届け、2月7日午前8時14分に40名の傷病兵をラバウルへ連れ帰った。2月14日に物資45トンを積載してラバウルを出港、いつものようにラエに向かい、2月16日の日後にラエ合いへ到着、物資の揚陸と傷病兵90名を収容して帰路につく。今まで一度も会敵しなかった伊36だったがここで初めて敵と遭遇する事になる。2月17日午前0時10分、ラエ東方でPTボート2隻に発見され、伊36は急速潜航してやり過ごそうとする。幸い爆雷攻撃は短時間で終わり損傷も受けなかった。2月18日午前9時ラバウルへ帰投。2月20日午前10時、物資40トンと増援部隊72名を積載して出発、2月22日の日後にラエに到着して積み荷と便乗者を揚陸させ、2月24日午前8時50分にラバウル入港。今回の帰還を以ってラエ方面への輸送任務は終了となり、ようやく過酷な輸送任務から解放された。

伊36は第1潜戦隊旗艦に定され、トラックに向かう部要員数名や荷物、書類を積載して2月25日午前9時ラバウルを出港、2月27日午前10時30分にトラックへ入港して便乗者や荷物を降ろした。3月2日、内地で本格的な整備を受けるべくトラックを出発し、3月7日13時30分に横須賀へ入港して入渠整備。その間に乗組員には4週間の休暇が与えられて熱海で羽を伸ばした。

4月6日15時30分に横須賀を出港。トラックして航を始めたが、出港直後に台風暴風雨に巻き込まれてバッテリー充電が出来なくなり、一旦三宅島に隠れてやり過ごす事に。だが自然の猛威は容赦なく伊36に襲い掛かる。翌日水上航行中に高波が艦体をみ込み、機関室と制御室が浸被害を受けた事で稲葉艦長は横須賀への帰投を決断。9.2ノットの速で航行する。を飲んでいる伊36は普段より排水量が増加しているため、浮を確保するべく燃料の一部を投棄した。4月9日午前9時30分に何とか横須賀へ帰り着いて修理を受ける。

流氷と濃霧が支配する極寒の魔海

5月13日アリューシャン列島アッツ島アメリカ軍が上陸。これを受けて伊36は伊169等とともに北方部隊第1潜戦隊に転属。5月25日13時横須賀を出港して翌26日18時へ入港、5月29日から30日まで瀬戸内海で、6月3日から5日まで伊予で運貨筒航訓練を実施する。しかしその間にアッツ島守備隊は玉砕。退路を断たれて孤立する形となったキスカ島守備隊への補給が急務となるが、既にアメリカ軍が周囲の制権・制権ともに奪取しており、5639名の陸海軍兵を養うには潜水艦による補給・救助という非効率的な選ばざるを得なかった。戦況は再び伊36に輸送任務を押し付けるのだった。

6月7日午前10時を出港した伊36は、6月13日に北東方面の拠点である片岡湾に進出。作戦に参加する潜水艦は旧式艦まで投入して15隻、片岡湾とキスカ島を往復して補給物資を送り届けながら将兵を撤収させる任務に従事し、全体の作戦揮を第1潜戦隊の古宇田武郎少将が特設潜水母安丸から執る。巡潜は一度に80名の収容が可と見込まれていた。しかしアリューシャン方面の環境ソロモン方面とはまた違ったものだった。上には時折視界がゼロになるほどの濃霧が発生する上、レーダーを有するアメリカ軍艦艇は濃霧からでも正確に一方的に狙い撃てるという地の利を持っており、万が一上封鎖中の敵駆逐艦と出くわせば沈没は免れない。

そんな過酷な戦場に身を投じるべく伊36は6月15日午前10時片岡湾を出撃。い闇の中へと消えていった。ところが荒波に揉まれ続けた結果、出港してすぐに航中の運貨筒が流失してしまうが、それでもキスカをして進み続ける。6月17日、12ノットの速水上航行しながら北東に変針、バルディア南方リーフで座礁しかけるも何とか通過した。だが6月22日に第1潜戦隊から待機命が下される。敵のレーダー射撃によって24、9、7の3隻を喪失し、また濃霧の中から攻撃を受ける事が増加したのが原因だった。そして6月24日には輸送そのものが中止されたため反転帰投し、6月25日正午に伊36はへ入港。潜水艦での補給・撤退作戦は断念されたが代わりに水上艦艇による救援が試みられる事に。6月27日伊169とともに給油洋丸から燃料補給を受ける。

木村昌福少将率いる救助艦隊を支援するため7月2日に出撃。C線(アムチトカ北方)に配備され、キスカの東と北を警してケ号作戦支援。敵らしい敵の遭遇はかったが作戦は成功。被害ゼロで撤退を了させたため伊36も引き上げる事となり、8月4日へ帰投。キスカ島から守備隊が撤収して戦線がくなり8月6日筵を出発、8月10日横須賀へ帰投して新たにE27三逆探装置を装備する。

敵の本拠地を偵察せよ

通信傍受によりアメリカの有艦隊がハワイに集結中との情報を得た連合艦隊は、8月18日に伊36にハワイ方面偵察を命。かつてない困難な任務を前に入念な準備がめられる事となり、受領した零式偵察機を使って瀬戸内海西部で発進及び回収訓練を実施するがも9月5日ディーゼルエンジン1基が故障したため修理するべく横須賀へ回航。

9月8日15時に伊36は横須賀を出港。警が厳重なので日中航空偵察は不可能と判断し、明かりが最も強くなる9月20~27日の間に偵察しようと試み、予定通り9月20日未明にニイハウ南西に到着。しかし午前6時30分、カウアイ西方130kmで逆探装置が敵のレーダー波を捉えて最大の感度5を示し、すぐさま敵の大機がすっ飛んで来るのが見えたため潜航退避。翌までにニイハウ西端まで辿り着くも、浮上するたびに敵の通信量が増加する事から稲葉艦長は最も強な対潜レーダーカウアイにあると判断、がそれほど厳しくないと思われるハワイ南西に向かうプランBへ切り替える。しかしこちらも当然レーダーを備えており、130km圏内に入ると逆探装置は感度5を示した。これでは月光を利用した航空偵察は不可能だった。やむなく稲葉艦長は「次の明期までに考えよう。それまではアメリカ本土とハワイの間の通商破壊に任じながら待とう」と一度作戦を延期。性が悪い小偵の場合、の近くから発進させて偵察するのがベストであるが、にはレーダーがあって闊に近づけない。そこで搭乗員の大森富永両飛行曹兵長は思い切って洋上からの発進を具申。帰投には困難が伴うがこれなら敵のレーダーに悩む必要がない。成功の見込みがあるとして稲葉艦長は士官室に先任将校、航長などを集めて検討し、その意見を採用した。10月12日ハワイ南東200里の地点に到達、更にへと近づく。

10月17日、伊36は真珠湾から220km離れた地点より零式偵を発進。巨体を中に沈めつつ通信マストだけを水上に出して報告を待つ。偵はレーダーに捕捉されるのを防ぐため低からへ侵入したが、港内を偵察すべく高度を上げて真珠湾上を通過した際に捕捉され、幾条ものサーチライトが折り重なって夜空に機を浮かび上がらせる。潜航から1時間20分後、電信室が偵からの通信をキャッチし、伊36は浮上。「港内に戦艦4隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻停泊中」との情報連合艦隊へ発信する事に成功するが、帰投予定時間になっても偵は一向に姿を現さない。少しでも帰還の手助けをしようと敵に発見される覚悟弾を発射したり、探照灯を照射するなど2時間待ち続けたが、ついに帰らなかった。やむなく10月18日偵と搭乗員2名の喪失を第6艦隊に報告してハワイ域から離脱。命を賭して偵察を成功させた搭乗員2名は功績抜群として、連合艦隊長官より感状を賜った。10月19日真珠湾南南西480kmの地点で南西方向に向かう敵大タンカー6隻を発見、伊36は接近して攻撃を試みようとしたが、護衛の駆逐艦に見つかって潜航退避を強いられる。翌20日に第6艦隊へ敵団発見の報を出し、171伊2132が攻撃に向かった(捕捉に失敗して26日に追跡中止)。

11月1日アメリカが管理するカントに10cm弾13発を撃ち込んで嫌がらせをした後、11月7日から9日までクェゼリンへと寄港して補給を受け、11月12日トラックへ入港。現地で南東方面艦隊に一時編入となり、ラバウルを経由して12月31日ニューブリテン西端スルミへと物資を輸送した。

1944年

1944年1月2日ラバウルに入港。南東方面艦隊から原隊に復帰し、トラックへ移動。1月10日に内地へ向けて出発した。1月15日、第1潜戦隊が解隊し第6艦隊直属となる。16日、佐世保に入港。潜航が磨耗していたため修理を受けた。2月15日寺本少佐が艦長に就任する。3月20日連合艦隊は南東方面の陸海軍への補給に協するよう潜水艦に命じたが、伊36は整備未了だったため出撃から外された。

3月26日を出港。連合軍が支配する魔の域となったマーシャル方面に進出する。4月15日14時空母1隻を発見。追跡を開始し、翌16日14時12分に撃。命中音2を報告したが、敵空母沈没したという記録い。4月22日、メジュロ環礁を航空偵察。空母2隻と戦艦3隻の在泊を報告し、搭乗員のみを回収して退却。4月30日航空攻撃を受けて損傷するが沈没には至らず。

6月9日に入港。潜水艦用燃料450トン魚雷弾薬などを搭載して30日にトラックへ入港。トラック大空襲を受けて身動きが取れなくなっていた第7潜戦隊参謀の中佐や搭乗員86名を収容し、7月5日に出発。7月16日へと入港、便乗者を降ろした。ここで伊36は新たな運命を迎える事になる。伊36が連れ帰った中佐7月26日海軍大臣嶋田太郎大将に「潜水艦特攻兵器を搭載し、特攻作戦するべき」と進言。生き残っていた大潜水艦回天母艦改造する計画が始動した。

回天母艦への改造

9月1日、後甲の備を撤去し、回天4基を搭載する事になったのである。伊36は回天母艦となり、9月28日10月10日10月28日11月1日大津回天合同訓練を行った。そして伊37伊47とともに初となる回天特別攻撃隊「菊隊」を結成。攻撃作戦は第一次玄作戦と名付けられた。伊36と伊47ウルシー、伊37はコッソルを攻撃標とし、出撃準備を行った。

11月8日、3隻の潜水艦からなる菊隊は回天搭乗員や第6艦隊三輪中将に見送られ、大津を出撃。16日トラックから飛来した彩雲ウルシー泊地を偵察し、北部に戦艦を含む艦艇約30隻、中央錨地に輸送100隻、南部戦艦空母を含む艦艇約50隻の停泊を報じた。敵の網を突破し、伊47は南西から、伊36は北東から環礁に接近。互いに泊地内を入念に偵察した。そして11月20日午前4時54分、伊36は回天攻撃を開始。故障のため、射出できたのは僅か1基だけだった。午前5時45分と午前6時45分に爆発音を探知した。この攻撃で撃沈できたのは補給艦ミシシネワ1隻のみで、伊47の戦果だった。だがアメリカ軍に絶大な恐怖を与える事には成功した。11月30日伊47とともに入港。伊37は未帰還となった。第一次玄作戦の戦果は空母2隻、戦艦3隻と判定され、気を良くした第6艦隊は規模を大きくした第二次作戦の実施を決定。12月中旬に発され、伊36、伊4748、伊53伊5657、伊58が参加。12月8日金剛隊を結成し、伊36は再びウルシーを攻撃標とした。

12月30日回天4基を搭載してを出港。豊後に敵潜水艦が待ち構えていたため、第三戦速の之字運動で危険域を突破。事外洋に進出し、南下を開始した。

1945年

1945年1月4日、敵機の圏に突入。は潜航し、に浮上航行をして的地をした。

1月11日未明、伊36はウルシー環礁に到着。南方から回接近しようとしたが午前2時30分、水上航行中にレーダー波を探知して急速潜航。すっとんできた敵艇から爆雷攻撃を受けたが、被害かった。伊36の所在を知られてしまったので、環礁の西方へ移動。速3ノットの低速で息を殺しながら進んだ。13時頃、潜航接近中にヤウに座礁するトラブルに見舞われる。仰13度の姿勢で身動きが取れなくなり、潜望を出してもしか見えず、観測できない。座礁位置はウルシー環礁の南西出入り口だったため、伊36の頭上に小艦が何度も往来した。見つかれば一巻の終わりである。伊36はになるまで辛抱強く待った。敵艇が伊36を捜索したが、幸運にも発見されなかった。だがを迎えても伊36は離礁できず、既に潜航から20時間以上が経過していた。これ以上はもう限界である。1月12日午前2時、離礁作業を開始。後進をかけ、微速前進をしたが再び座礁。苦労の末、どうにか離礁に成功。急ぎ北上して攻撃予定時刻に間に合わせた。

1月12日午前3時42分、ウルシー環礁内のアメリカ艦隊に対して回天4基を発射。4回の爆発音を聴音した。午前5時54分、兵員輸送艦マザマの至近距離回天爆発。直撃ではなかったにも関わらず一番倉ハッチが吹き飛んで浸を引き起こし、前部が沈下。体は左に傾斜した。幸運にも積み荷の弾薬には引火せず、死傷者21名で済んでいる。だが作戦の続行は不可能になり、サンフランシスコまで後退させられた。一方、歩兵揚陸艇LCI-600(385トン)はマザマほど幸運ではなかった。LCI-600は回天の直撃を喰らい、あっという間に沈没してしまった。直ちにウルシー環礁内のアメリカ艦隊が動き出し、潜水艦狩りが始まった。駆逐艦が大挙して出動し、の根を掻き分ける勢いで近を捜索する。13時43分、伊36は爆雷攻撃を受ける。死の恐怖に耐えながら伊36は潜航を続け、日後に浮上。しかし19時45分に再び敵駆逐艦に発見され、爆雷攻撃を受ける。20時8分にようやく攻撃が止まり、伊36は虎口を脱した。

1月31日へ帰投し、48以外の潜水艦は全艦生還。金剛隊の戦果は特設空母1隻、大輸送艦9隻など合計18隻撃沈と判定された。2月5日少佐が艦長に着任。2月28日伊58神武隊を編成。硫黄島方面の敵艦隊攻撃を命じられた。

3月4日、第四次玄作戦のため回天4基を搭載して大津を出撃。硫黄島を攻囲するアメリカ艦隊攻撃に向かったが、3月6日作戦中止。予想以上に硫黄島の戦況が悪化していたためと言われる。伊58は第二次作戦支援に向かったが、伊36には帰投を命じられた。3月9日大津で不要となった回天と搭乗員を返却。翌10日にへ入港し、航空兵装を撤去。さらに回天2基を搭載できるよう改造した。

伊47伊53とともに武隊を結成し、4月12日(22日説あり)午前9時回天6基を搭載して基地を出撃。徳山に寄港して清水と燃料を補給し、外洋へと出た。今回から回天の洋上使用が許可され、攻撃標は停泊中の艦ではなく航行中の輸送団となった。この作戦から回天交通筒が整備され、随時発射が可となっている。本土近の制権は既に連合軍が握っており、を問わず敵機が飛来。飛行機に接近されるたびに潜航を強いられた。四苦八苦しながらも4月26日沖縄サイパン間の航路に到達、敵の輸送団が通りがかるのを待った。4月27日午前5時40分頃、大東北東でサイパンから沖縄に向かう輸送28隻の団を捕捉。団は四列縦隊を組んでおり、それを数隻の駆逐艦が護衛していた。距離7000mまで接近した後、午前7時45分に故障した2基を除く4基を射出。水中聴音器で4基の駆走状況を追っていたが、敵の護衛艦が迫ってきたため深度40mまで沈降した。突然4回の爆発音が聞こえた事から全弾命中と判断。「輸送4隻撃沈」と第6艦隊に報告した。4月30日基地へ寄港し、回天2基と整備員・搭乗員を下艦。5月1日へ帰投し、第6艦隊部に細を報告する。

5月14日、護衛空母サラモア率いる小規模艦隊が沖縄サイパン間の航路を通っていた。この日、艦載機航空機の補助燃料タンクを発見。大航洋シオが現場に急行したところ、漂流する潜航艇を視認する。
これは伊36が放った回天の1基であり、既に搭乗員は息絶えていた。おそらく攻撃が外れた後、航路に待ちせて次の攻撃に備えていたが、志半ばで尽きたのだろう。14時2分、シオは220mの距離から射撃を開始。回天行を保ったまま沈没していった。

高速輸送艦リングネスとの死闘

5月末、伊165伊361伊363隊を結成。この頃になると回天母艦に使える潜水艦はめっきり数を減らし、練習隊から老朽艦の伊165を持ってくるほど窮乏していた。6月4日回天を搭載して豊後を出発。伊165マリア東方に向かった。6月22日トラック北東640kmの地点でアメリカ戦車揚陸艦LST513を通常魚雷撃し、2本を命中させて撃破した。

6月27日、伊36は沖縄に向かっていた敵輸送団と遭遇。戦車揚陸艇や中揚陸艇からなる30隻以上の大団であった。戦車揚陸艇は9ノットの速で航行していたため、伊36もそれに合わせた。先頭に立って団を牽引しているのは高速輸送艦リングネスで、潜水艦を警してかジグザグ航法をしている。ソナーを常時使用し、潜水艦を探知しようと躍起になっていた。翌28日、リングネスに向けて回天2基を射出。午前8時23分、リングネスの艦り員が右舷後方より伸びてくる回天を発見。1分後、回天リングネスの艦尾僅か15m後方を通過した。回避された回天はそのまま一直線に走った後、突如右へ変針。再びリングネスに狙いを付けようとしたが、電池切れにより停止した。団の全艦に「魚雷潜水艦に警せよ」と警報を送るリングネス。その直後の午前8時25分、左後方300mに伊36の潜望を発見。戦果確認のため面に出していたものだった。その最中、爆発音1を聴音した。ところがリングネスから機による猛攻を受け、中への潜航を余儀なくされた。攻撃によって重タンクを損傷。一部に浸が認められた。直ちに反撃の回天2基を射出。リングネスの前方から回天が向かってきたが、艦首から約7m以内の僅か前を通過。しばらく走駆したのち見えなくなった。跡と潜航した場所から伊36の位置を推定し、午前8時28分にリングネスは4発の爆雷を投下。起爆深度はそれぞれ15m、23m、15m、23mであった。爆雷が炸裂した後、面に膜のようなものが浮き上がった。周囲を走査するリングネス午前8時45分、突如として60mの柱が高々と築かれた。これを「潜水艦水中爆発した」と判断し、残骸を詳しく調しようとしたが、輸送団から護衛任務に復帰するよう命じられて離脱。猛攻を受けたものの伊36は健在であり、4発の爆発音を聴音。これを回天爆発だと考えたが、実のところ爆雷の炸裂音であった。

戦い終わりて

7月6日に入港。8月6日広島市原子爆弾が投下され、巨大なキノコが立ち昇った。ちょうどに入渠していた伊36からもその様子が確認できたという。8月11日州隊の回天搭乗員を乗せるため、を出港。ところが早瀬瀬戸で敵機の撃を受けて損傷、艦長と航長の松下太郎大尉も負傷してしまった。修理を受けるべくに入渠したが、ここで8月15日終戦を迎えた。

生き残った潜水艦アメリカ軍に接収され、10月上旬から逐次佐世保へと回航された。1945年11月30日、除籍。集められた潜水艦のうち28隻の爆破処分が決定し、それに伊36も含まれていた。1946年4月1日ローズエンド作戦のため、日本人乗組員の手によって佐世保を出港。長崎県五島列島キナイへと回航され、アメリカ軍が艦内に爆薬を仕掛けた。その日のうちに伊36は爆破され、沈没していった。

余談

映画出口のない」で、伊36に主人公回天搭乗員が乗艦している。

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