伊369とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した伊361型/潜丁型潜水艦9番艦である。1944年10月9日竣工。回天母艦に改装されていない潜丁型の中では唯一終戦まで生き残った。
概要
開戦前の1941年初頭、艦政本部は第一次世界大戦のドイツで計画されていた潜水商船ドイッチュラントを参考にし、潜水艦で兵員及び物資の輸送を行う構想を提案していたが、作戦部が興味を示さなかったため、この時は自然消滅した。
本格的に計画が始動し始めたのはミッドウェー海戦後の1942年8月24日で、きっかけは軍令部が離島への奇襲上陸を想定した潜水艦の開発を艦政本部に打診した事だった。既にドイッチュラントを研究していた艦政本部は「すぐに作れる」と快諾し、海軍大臣の承認を得て、10月21日に改マル五計画に加えられて同予算で建造される事が決定。
上陸用舟艇2隻と兵器82トンの輸送能力を保有し、兵員110名を搭載できる事をコンセプトに建造を開始したものの、ガダルカナル島争奪戦における潜水艦輸送の戦訓と、戦況の悪化により、物資のみを輸送する純粋な輸送潜水艦へと設計を変更。艦前部に物資用の倉庫を設けた事で物資145トン(艦内120トン/艦外25トン)を積載可能、また上甲板に繋がる電動ベルトコンベアを装備して搬出を容易なものにしている他、主機や電動機は既製品を用いて工数を削減。
連合軍のレーダー装置発達と警戒厳重な沿岸部への揚陸を考慮して、艦橋側面にV字の傾斜を付けた。これには敵のレーダー波を海面に跳ね返す意図があった。また水中航続力増加の要望を受けて電池を増設し、最長40時間という日本潜水艦最優の潜航時間を獲得、加えて竣工時からシュノーケル、22号水上電探、E-27電波探知機を有しており極めて先進的な艦と言えた。
輸送潜水艦ではあるものの自衛用に魚雷発射管2門と魚雷2本を搭載。前甲板には14cm単装砲を、後甲板に25mm単装機銃を装備、この単装機銃は後甲板へ特型運貨船を搭載する際、邪魔にならないよう移動式に改められている。建造当初、発射管の前扉が剥き出しの状態であり、駆逐艦の全力航走に近い波を立てていたため、伊362艦長・南部伸清少佐の提案で艦首波を少なくするカバーをかけたが、それでも艦橋と潜望鏡の振動が激しく、双眼鏡が震えて見張りが非常に難しかったという。
要目は排水量1440トン、全長73.5m、全幅7.05m、速力13ノット(水上)/6.5ノット(水中)、安全潜航深度75m、乗員55名。兵装は艦首魚雷発射管2門、魚雷2本、14cm単装砲1門、九六式25mm単装機銃2丁。
艦歴
1942年9月に策定された改マル五計画において、丁型一等潜水艦第5469号の仮称で建造が決定。1943年9月1日、横須賀海軍工廠で起工、1944年1月25日に伊369と命名されて佐世保鎮守府へ編入、次いで3月9日進水、そして10月9日に無事竣工を果たした。初代艦長には呂112より転出してきた松島茂雄大尉が着任する。
就役と同時に訓練部隊の第11潜水戦隊に部署。10月14日まで東京湾で単独訓練に従事した後、戦隊と合流するべく横須賀を出港、米潜水艦が遊弋している本州南岸を慎重に通り抜け、10月18日に伊予灘へ回航して慣熟訓練を開始する。実弾射撃、襲撃訓練、電探測的及び水中測的訓練、急速潜航、応急潜航訓練、夜間見張り訓練などを、内海の夏の太陽を浴びながら、油汗を滲ませながら、そして上官に怒鳴られながらこなしていく。訓練終了後は旗艦の潜水母艦長鯨で様々な訓練の模様を語り合った。休養地は大分県の別府で、訓練の合間にたびたび寄港しては、月月火水木金金の猛特訓に明け暮れる乗組員に束の間の休息を与えた。
11月15日より12月3日まで呉で停泊。呉出港後は伊予灘で再度訓練に従事する。そして12月15日、訓練を終えた伊369は輸送専門の第7潜水戦隊へと転属。
連合軍の飛び石作戦により、内南洋方面の離島18ヵ所には14万2566名の将兵が孤立していて、このうち自給極めて困難な島が5ヵ所、自給策すら立たない飢餓の島が2ヵ所に及んでいた。第7潜水戦隊の役目はこれら補給が途絶えた島に物資を送り届ける事である。早速、伊369は横須賀潜水艦基地隊に将旗を掲げる戦隊司令部の下へ回航して輸送作戦の準備に取り掛かる。
南鳥島、父島への輸送
1945年1月21日、横須賀を出撃して、約1800km先にある内地の最東端・南鳥島へ向かう。同島には陸軍の独立混成第12連隊と海軍の南鳥島警備隊計2500名ほどが孤立していた。無論、辿り着くには米潜水艦が遊弋する危険な海域を突破しなければならない。南鳥島自体も度々空襲を受け、時には艦砲射撃まで受けていたが、幸い何事も無く、1月28日に目的地の南鳥島へ到着、物資を揚陸したのち帰路に就き、2月5日、横須賀に帰投して輸送任務を成功させる。
南鳥島へは潜丁型が細々と補給を続けていたものの、硫黄島失陥後は、本格的に補給が途絶する事となり、数十名の兵士が栄養失調などで死亡した。
3月12日、次は父島へ物資を届けるべく横須賀を出港。父島には陸軍約9000名、海軍約6000名が駐留し、自力で飲料水が手に入るため比較的恵まれていたものの、硫黄島守備隊に重火器や物資を供出していた関係上、現地は困窮と飢餓に見舞われ、既に第9号輸送艦による緊急輸送が行われていた。
今回の輸送に関しては成功したとも、松島艦長の発病で引き返し、連合艦隊司令部から作戦中止が下ったとも言われ、いまいち結果が判然としない。ただ父島への到着日が不明である事、帰投後間もなく松島艦長が退艦して陸上勤務になった事から察するに発病説が有力と思われる。また3月21日に横須賀へと帰投した際、暗礁に接触して、長さ30cm、幅約20cm、深さ3~4cmのへこみが生じた。
3月20日、潜丁型の大部分を回天母艦に改装するため、第7潜水戦隊が解隊、母艦化を免れた伊369、伊372、波101、波102、波104は今和泉喜次郎大佐率いる第16潜水隊に転属した。司令部は引き続き横須賀に置かれる。3月25日、二代目艦長として伊122から異動の中島万里大尉が着任。いつ頃かは不明だが、次の出撃までに魚雷発射管の門扉を溶接し、魚雷を降ろして積載スペースに転用する改造工事が行われた。
こうして離島輸送に励む潜丁型は伊369と伊372の2隻のみとなる。
トラックへの輸送
4月16日午前10時30分、岸壁に並んだ人々や、在泊艦艇の乗組員たちの帽振れ、内火艇あるいは水雷艇に乗った将校に見送られ、伊369は悠々と横須賀を出発。南鳥島以上に離れたトラック諸島及びメレヨン島への輸送任務に就く。艦内にはトラック行きの糧食312kg、武器弾薬6.3トン、重油25トン、その他4.4トン、メレヨン行きの糧食38.9トン、その他2.6トンの物資が積載されていた。
東京湾口では出入港する船舶を狙い、米潜水艦が目を光らせているため、14時30分に館山湾で一度仮泊、夕方まで待機し、宵闇に紛れて一気に突破しようと試みる。夜の帳が下りるまでの間、中島艦長は総員を集めて当時の流行歌を斉唱したという。
16時30分に館山湾を出発、作戦は見事功を奏し、宵闇に紛れて危険な湾口を突破、無限に広がる太平洋を疾駆する。道中の制空権・制海権は既に連合軍の手中に収まっていたため、可能な限り会敵を回避すべく、伊369は敢えて目的地に直進するのではなく、東京湾から東経160度近くまで東進する奇策を実施、そのおかげか平穏な航海が続き、波間を漂う流木を潜望鏡と見間違えたり、イルカを雷跡と間違えるといった可愛いハプニング程度しか起きなかった。右舷側を流れていく南鳥島を見送り、時折叩きつけられるスコールを浴びながら進んでいく。
4月20日、荒天に遭遇したため、午前5時40分から15時50分まで潜航退避。
そんな中、突如として真正面に敵駆逐艦が出現。距離にして1000mもない。直ちに急速潜航が命じられ、見張り員は続々とハッチへと滑り込み、艦がゆっくりと海中に沈んでいく。潜望鏡深度まで潜った後、潜望鏡を上げて海上の様子を探ってみると、見えるのは青々とした海面だけで、不思議な事に敵駆逐艦の姿は無かった。予想された爆雷投下もない。乗組員一同きつねに包まれたかのような気分だったという。それから2、3日は平穏な航海が続いた。
ウェークとグアムの中間あたりで之字運動しながら南下していると上空に敵機が出現。「潜航急げ」の号令が飛び、艦内が慌ただしくなった一方、敵機は何故か伊369を味方だと思い込み、味方識別信号を出しながら旋回するだけで攻撃を加えてこない。まさかこのような場所で日本潜水艦と出くわすとは思わなかったのだろう。いとも容易く急速潜航が間に合った。
約1時間後に浮上。頭上には満天の夜空が広がっていた。しかし輝きを発する星々の中に、明らかに強い白光を放つ点があり、よく見ると微かに移動もしているため敵機と思われ、すぐさま急速潜航に移る。間もなく水中聴音機が左舷の遠方に小さなスクリュー音を探知。そのスクリュー音は徐々に大きくなり、敵艦が高速で接近している事を伝えてくる。艦種は駆逐艦、数は複数、おそらく2、3隻ほどか、魚雷を持たない伊369は息を殺して隠れ続けるしかない。程なくして艦内に激震が走る。電灯が一瞬消え、艦が傾斜、リベットの弛目から凄まじい勢いで海水が噴き出し、気圧が高まっていく。遂に爆雷攻撃を受けたのだ。
それから一昼夜。スクリュー音は断続的に続き、中島艦長曰く11隻の敵艦が頭上を右往左往しているとの事。翌日夜、恐る恐る潜望鏡を上げると、敵の輸送船が1隻、煌々と作業灯を点けて我が物顔で進んでいるのが見え、まるで平時であるかのように振る舞っていた。その輸送船をやり過ごした後に浮上。
5月2日午前4時20分、ついにトラックの島影が視界に入る。およそ1時間後には出迎えと思われる味方の水偵が確認された。しかし、かつて一大拠点だったトラック基地は今や連合軍の爆撃訓練地と化し、環礁内上空にはB-29らしき大型飛行機が我が物で旋回している様子が窺える。このため、味方泊地近海でも潜航しながら進まなければならず、入口の南水道から夏島泊地までの、短い距離を進む間にも空襲警報が発令され、泊地へ辿り着いたのは15時20分の事だった。
このような状況下だからか、中島艦長と哨戒長だけが連絡役として上陸、残りの乗組員は上陸を許されなかった。久々の補給艦入港という事で司令部では盛大な歓待が実施され、乏しい物資の中で何とかやりくりし、煮っころがし、しるこ、アルコールなどが出される。味はいまいちなものの真心がこもった記憶に残る味だった。
5月3日午前5時30分より秋島への揚陸作業を開始、それと並行して重油の補給作業も行われた。午前8時30分作業完了。この日も空襲警報が発令されて泊地内での沈座を強いられる。出発直前、餞別として基地隊の大発がバナナと椰子の実を山盛り持ってきてくれた。ちなみに伊369はトラックに入港した最後の潜水艦である。
メレヨンへの輸送
5月4日午前6時10分、次はメレヨンに向かうべくトラックを出港、南水道を通って太平洋に進出した。敵に見つかりやすい日中は潜航、夜間のみ水上航行を行ってメレヨンに急ぐ。
メレヨンはトラックとウルシーの中間に位置する小さなサンゴ礁の島で、ここには陸軍独立混成第50旅団3400名、海軍第44警備隊及び第216設営隊3200名が駐留していたが、サイパン失陥後は孤立し、島が小さすぎる上、2mも掘ると海水が湧き出てくるので農耕に向かず、火薬を用いた漁も戦果が微々たるもので、これまで伊369が輸送してきた島の中で最も飢餓が深刻化していた。その凄まじさたるや、多数の餓死者と自殺者を出し、また農作物窃盗による処刑や制裁、同士討ちによる死者をも出したほど。まさにこの世の地獄である。
そして5月7日午前7時20分、メレヨンが見えてきた頃、陸岸の人影がスルスルと勢いよく軍艦旗を掲げ、遠路はるばるやってきた伊369を歓迎。これだけで補給を待ち続けた現地部隊の悲痛と喜びが伝わった。実際、島内では守備隊の面々が歓喜に震え、中には潜水艦に向かって拝んでいる兵もいたという。前回の伊366到着からおよそ3ヶ月ぶりの補給潜水艦到着である。
17時49分より揚陸作業開始。メレヨンには港が無いので、沖合いに漂泊した伊369のもとに守備隊の大発が取りに来る形で物資を陸揚げするのだが、長い間飢餓に苛まれてきた彼らは、比較的元気な者であっても幽鬼と呼べるほど瘦せ衰えており、急遽哨戒要員以外の乗組員も総員で積み替え作業を手伝う。主計科員の腰には臨時の米袋が縛られていたとか。一方、伊369側は守備隊より郵便物の託送を依頼された。
第二次丹作戦で不時着した第5航空艦隊所属の二式飛行艇搭乗員11名に加え、現地軍属数十名を収容して帰国させるのも伊369の任務で、軍医長が選定を行った結果、若くて健康そうな約30名の若者を候補者に選んだ。しかしそれでも「骸骨に人間の皮をかぶせた」と形容されるほど痩せこけていたという。
何とか物資の積み込みを終えた舟艇はそれぞれの島へと帰っていった。すると間もなくして彼方の夜空から何発かの銃声が轟き、何事かと乗組員が守備隊に尋ねても満足のいく回答は得られなかった。もしや敵機か?メレヨンは敵中で孤立しているので、いつ攻撃が始まってもおかしくなく、また守備隊の体力不足で予想以上に時間が掛かってしまって、予定時刻を大幅に超過、既に空は白み始めている。空襲が始まる前に一刻も早くここを出発しなければならない。
5月8日午前4時50分、全島が見える環礁内に移動し、別れの手旗と全軍の無事を祈って帽振れを実施、そのまま外洋に出て試験潜航を行う。しかし横須賀出港から早三週間、乗組員の疲労も限界に達しつつあり、一時は潜航事故寸前まで艦が沈降してしまったものの、辛くも再浮上に成功、が、一難去ってまた一難、今度は配電盤が故障してバチバチと音を立てながら火の玉と煙が噴き上がる。伊369の艦体もまた限界に近づいていたのだろうか。
伊369を最後にメレヨンへの補給は完全に途絶。戦没者のうち97%が飢餓によるものであった。
便乗者には梅干し一粒を乗せたカユが与えられた。飢餓の苦しみを味わった手前、腹いっぱい食べたい気持ちは分かるが、栄養失調状態で満腹まで食べると消化不良を起こして死亡する危険があるため、満足感は無くとも、たった一杯のカユで我慢しなければならないと軍医長が説明。流動食で胃を慣らしてから固形食を与えようとした訳である。
ところがメレヨンで収容した若い設営隊員2名が偶然にも、艦の側壁とハイプの間に備えてある非常食の乾パンを発見し、これを軍属らが大量に盗み食いする事件が発生。たちまち全員が下痢症状を起こして潜水艦の少ない厠を占拠、質の悪い事に軍属は全員アメーバ赤痢の保菌者だったため乗組員にも感染者が続出した。そしてついに軍属の中から2名の死者を出してしまう。夜間浮上中、中島艦長の手によって遺体は軍艦旗にくるんで水葬に付された。艦内の地獄とは対照的に、航海自体は平穏だった。艦橋では眠気覚ましに「轟沈」を唄う事が多かったらしい。
5月13日午前6時50分、高度1000mで飛行するB-29を発見して潜航退避、17時15分に安全を確認して浮上する。23時30分にはスコールの切れ目、3000m先に敵の小型貨物船を発見、しかし伊369は魚雷を持っていないので潜航してやり過ごすしかなかった。
5月24日朝に伊豆七島の沖合いへ到達。次いで16時、予定通り東京湾口に到着する。中島艦長は、二式飛行艇の搭乗員にいち早く内地の情景を見せてあげようと、3名ずつ交代で艦橋に上がるよう特別指示を出し、18日間、艦内で陽の目を見ない生活を送っていた搭乗員に新鮮な空気と太陽光を与えた。そして16時30分に長い旅を終えて横須賀に帰投。乗組員の3分の1がアメーバ赤痢に罹患していたので横須賀海軍病院に移送される。
その後
本土決戦用の航空兵力展開に伴う航空揮発油の蓄積補充が必要になり、5月25日から横須賀工廠に入渠、伊373や伊351に準じた航空揮発油搭載工事に着手する。帝國海軍は生き残っている潜丁型に逐次搭載施設の装備を施そうとしていたものの、伊369以外は回天母艦に改装されるか、あるいは戦没していたため、実際に工事を行ったのは伊369だけとされる。
7月10日15時、房総半島沖の米第38任務部隊が横須賀の追浜飛行場の航空機、滑走路、格納庫、海軍航空技術廠をロケット弾で攻撃。続いて7月18日15時30分頃、米英の機動部隊が横須賀軍港に襲来、狙いは戦艦長門であったが、周辺の艦艇への攻撃も行われ、、姉妹艦伊372、特務艦春日、特設電線敷設船春島丸、魚雷艇28号、未完成の駆逐艦八重桜などが撃沈、長門が中破する被害が発生したものの、幸い伊369は戦火を免れる。
8月15日の終戦時、横須賀にて残存。未だ工事が完了していなかったようで半解体状態だったという。8月30日に伊369は進駐してきたアメリカ軍に投降した。9月15日除籍。工事中ゆえに佐世保への回航が出来ず、1946年解体された。
関連項目
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