伊165とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊165型/海大五型潜水艦1番艦である。1932年12月1日竣工。大東亜戦争では旧式艦ながら奮闘して連合軍船舶8隻(4万1054トン)を撃沈。撃沈数では伊20と並んで第5位のスコアを誇る。1945年6月27日、サイパン島東方沖にて航空攻撃を受けて撃沈された。
概要
海型五型は、前級海大四型…ではなく、海大三型をベースにしており、これに伴って機関がラウシェンバッハ式ディーゼルエンジンではなく従来のズルサー式へ戻されているが、これは徹底改良を加えたバージョンの三号ディーゼルである。船体を完全複殻式にして船体形状を洗練化した事で水上速力と安全潜航深度の向上を実現。ただ水中速力は8.5ノットから8.2ノットに低下してしまった。
八八式無気泡発射管、九三式水中聴音器、昇降短波アンテナ、MV式水中聴音機など新式装備をふんだんに盛り込んでいる他、対空機銃を12mmのものに交換して対空能力を強化し、艦隊随伴した時の対空戦闘に備えて上部構造物前方に10cm単装高角砲を装備した(ただし輸送船に対する攻撃力不足を指摘されて海大六型bで12cm単装砲に戻されている)。また熱帯方面での作戦行動を考慮して冷房装置を改良するなど実用面に優れた艦に仕上がっている。
要目は排水量1575トン、全長97.7m、全幅8.2m、速力20.5ノット(水上)/8.2ノット(水中)、乗員62名、安全潜航深度75m。兵装は八八式魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷本数14本、50口径10cm単装高角砲1門、毘式12mm単装機銃1丁。後の改装で魚雷発射管を八八式から九五式に換装し、新型魚雷の搭載や水測兵器改良等が行われた。
海大五型として伊65、伊66、伊67の3隻が生産される。しかし開戦前に伊67を事故で喪失したため2隻のみが大東亜戦争に参加した。
艦歴
戦前
1929年12月19日に伊65の艦名で呉海軍工廠で起工、1931年6月2日に進水し、1932年12月1日に無事竣工を果たした。佐世保鎮守府に編入されるとともに第30潜水隊に所属する。伊65、伊66、伊67には空気冷却器内に発生した露滴を集めて飲料水や雑用水等に流用する、壁発生露滴蒐集装置が装備されていた。真水が貴重な潜水艦らしい装置と言える。
1933年7月1日、佐世保工廠で二次蒸留水装置を撤去し、代わりに第29潜水隊から撤去した蒸留器を一部改造した上で設置。11月15日、第2艦隊第2潜水戦隊に転属。1934年5月12日、予備重油タンクに排水管を新設しつつ、9月22日に真水管装置を一部改造。1936年3月24日に蒸留水濾過器と無菌濾水器を搭載。
1937年7月7日の盧溝橋事件により支那方面が緊迫化。7月15日、第2艦隊とともに宿毛湾へ集結し、7月21日に佐世保へ回航。有事に備えて出撃準備を整える。8月13日夕刻、ドイツ製最新鋭武器で固めた中国国民党軍が上海の日本人租界と守備隊4000名に襲い掛かった事で第二次上海事変が勃発。8月17日、第30潜水隊は佐世保を出港。旅順を経由して裏長山列島に進出する。最も在留邦人が多い青島では抗日活動が激化の一途を辿り、現地の国民党軍もおもむろに戦力を増強し始めたため、邦人と財産を保護する目的でA支隊による青島占領が計画された。
8月23日、第30潜水隊はA支隊の支援を下令されるも、作戦中止に伴って邦人の引き揚げ援護に回る。8月28日、裏長山列島を出港。避難民を乗せた船団の警護を行い、9月22日に大連へ帰投した。9月24日、第2潜水戦隊は北支部隊第1封鎖部隊に編入され、海州湾以北の海上封鎖に参加。五度に渡る哨戒によって中国船舶を沿岸部から締め出し、国民党軍の補給線を困窮せしめた。11月20日、第1封鎖部隊の編制を解かれ、伊65は11月23日に佐世保へ戻った。
1941年2月23日、伊66より第30潜水隊の旗艦を継承し、寺岡正雄大佐が乗艦。8月20日に原田毫衛少佐が艦長に着任する。
戦争の足音が迫りつつある11月15日、第5潜水戦隊は南方部隊潜水部隊に部署。南方作戦のフィリピン攻略支援を下令される。11月24日、軽巡洋艦由良や第29及び第30潜水隊の僚艦と佐世保を出港、前進拠点のパラオに向かっていたが、道中の11月28日に南方部隊マレー部隊潜水部隊へ異動となり、行き先を海南島に変更。12月2日に海南島三亜港へと入港した。
そして12月5日に三亜を出撃してマレー方面に移動。12月7日、イギリス艦隊の北上を警戒するためカモー岬南方100海里の散開線に展開。ここで運命の開戦を迎える。
大東亜戦争
1941年
翌9日15時15分、マレー東岸カモー岬の125海里沖を哨戒していた伊65の視界ぎりぎりに一対の巨影が映り、すかさず「敵レパルス型戦艦2隻見ゆ、地点コチサ11、針路340度、速力14ノット、1515」との緊急電を送った。潜水艦の小出力な短波通信では本来受信困難なのだがこれが功を奏した。伊65の緊急電はZ部隊にも、南遣艦隊にも受信されなかったものの、日本本土の通信部隊が傍受に成功し、南遣艦隊へ中継した事で味方にだけ伝える事が出来たのだ。
伊65が送った報告は南方作戦を支援中の南遣艦隊とマレー部隊に大きな衝撃を与えた。旗艦の重巡鳥海から確認の電報が届き、それに対して伊65は「一番艦は新型戦艦、二番艦はレパルスに間違いなし」と確答。伊65の報告どおり敵の正体は英東洋艦隊のZ部隊を率いる新鋭戦艦ブリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスだった。この2隻は事前の航空偵察でシンガポールに留まっているものと考えられていた。それが既に出港し、マレー沖に出現しているというのだ。
南遣艦隊は燃料補給のため下がらせていた用心棒の戦艦金剛と榛名を急遽呼び戻し、上陸作業中の第25師団の船団をタイランド湾に退避させ、各巡洋艦からは索敵機が飛び立って周辺海域を血眼になって探した。それから伊65は2時間に渡ってZ部隊を追跡し続ける。ところが17時20分にスコールによる視界不良で一度見失ってしまった。18時22分、艦首方向に再度Z部隊を捉えたが、鬼怒所属の九四式水上偵察機が伊65を敵潜と誤認して追い回してきたため急速潜航せざるを得ず、30分後に浮上したが見失った。
12月10日未明、伊58がZ部隊を捕捉して三度に渡って位置情報を通報。しかし最も重要な2番目の電報が届いておらず、位置を把握出来なかったマレー部隊は航空隊と潜水艦に迎撃を託した。伊65はクアンタン沖に急行するよう命じられたが、マレー沖海戦によりプリンス・オブ・ウェールズとレパルスが撃沈されたため、予定の哨区へ復帰した。
12月12日、伊62、伊64、伊66とともにミリ沖へ配備。ボルネオ島攻略作戦の支援に回る。12月15日、クチン北西125海里で敵船団が発見されたとの報告を受け、翌日クチン沖に到着。索敵と哨戒を行う。12月25日に撤哨して帰路につき、12月27日にカムラン湾に帰投。東南アジアで抵抗を続ける連合軍の背後を撹乱するべく、次なる任務として第5潜水戦隊はベンガル湾での通商破壊を命じられる。
1942年
1942年1月7日、伊66とともにカムラン湾を出発。1月9日、道中のジャワ海でオランダ貨物船ベンコーレン(1003トン)を砲雷撃で撃沈した。その後、ロンボク海峡を通過して狩り場のインド洋に進出し、1月14日午前2時17分にベンガル湾南方でシンガポールからカルカッタに向かっていた英印の武装商船ジャララジャン(5102トン)を雷撃で撃沈。1月16日にシンガポール在泊中の敵戦艦を警戒するためマラッカ海峡北口の警戒を命じられ、翌17日に到着。しかし敵戦艦の在泊は誤認と分かり、1月20日にペナン基地へ入港。伊65は同島に入港した最初の潜水艦となった。
軽巡由良から移動してきた醍醐中将が伊65に乗艦して将旗を掲げる。2月5日、インド洋で通商破壊を行うべくペナンを出撃。2月9日、セイロン島南東で英貨物船ラオメドンを雷撃して撃破。インド沿岸への配備を下令され、翌10日よりインド西岸のコチンに向かって移動。2月15日18時50分、コチン西方40海里にて英商船ゴハン・ジャストセン(4681トン)を雷撃して撃沈。敵船は目的地コチンを眼前にして沈んだ。2月20日、インド西方沖で英商船ブヒマ(5280トン)を雷撃により撃沈。翌21日、インド洋でコロンボに向かっているソ連の蒸気貨物船アルクティカに2本の魚雷を発射したが、命中せず。その後、セイロン西方から撤収して帰路につく。2月28日、ペナンに帰投して補給と休養を行う。ジャワ島のオランダ軍が降伏して蘭印作戦が達成された翌日の3月10日、伊65はロンボク海峡を通ってスターリング湾に移動するよう命じられる。3月13日にペナンを出港し、3月17日にスターリング湾へ寄港するが、内地での本格整備のため翌日出発。3月25日、母港の佐世保に帰投して入渠整備。4月10日、第5潜水戦隊は第6艦隊に転属する。
5月14日、ミッドウェー作戦参加のため佐世保を出港し、前線基地のマーシャル諸島クェゼリン環礁へと向かう。道中の5月20日、伊65は伊165に改名。元々巡潜型には1~50の数字が、海大型には51~100の数字が割り当てられていたのだが、巡潜型が50隻以上増産される事になり数字が不足。そこで帝國海軍は、海大型の数字に100を足して数字の余剰スペースを作った訳である。5月24日にクェゼリンに到着。5月26日に出発してフレンチ・フリゲート礁北方の乙散開線に向かった。6月5日のミッドウェー海戦では、第5潜水戦隊の僚艦とともにクレ環礁に哨戒線を張った。しかし会敵はおろか味方空母4隻を撃沈される大損害を受ける。伊65は大破漂流中の飛龍の雷撃処分を命じられ、2日間に渡って捜索したが発見できず。南雲機動部隊が退却した後も潜水艦はミッドウェー近海に残され、哨戒を続行。6月13日、敵機動部隊の大部分がミッドウェー島東方に潜んでいるとの情報を受け、第6艦隊は第5潜水戦隊にU散開線への配備を下令。東進しながら索敵を行う。ところが結局どの艦も会敵が出来なかったため、6月15日に第30潜水隊は帰投を命じられる。6月26日、佐世保に帰投。7月10日、第5潜水戦隊は解隊となり、第30潜水隊は南西方面部隊B部隊潜水部隊に編入。ベンガル湾での通商破壊と敵情偵察を命じられる。
7月22日、伊166とともに佐世保を出港。7月28日にカムラン湾外で触雷した特設潜水母艦りおでじゃねいろ丸の護衛に従事し、翌日湾内に入った。8月6日にペナンへ入港したが、ここで椿事が発生する。アメリカ軍がソロモン諸島ガダルカナル島に来襲し、ソロモン戦線が生起したのである。これに伴ってメルギーに集結していた水上艦艇は急遽ソロモン方面へ送られる事となり、通商破壊は少数の潜水艦だけで行う羽目になってしまった。伊27と伊29で編成される第14潜水隊はアラビア海及びアデン湾まで長駆、旧式の伊162、伊165、伊166の3隻はセイロン南西の敵海上輸送路の破壊を試みる。
8月11日、ペナンを出撃してインド洋に進出。8月25日、トリンコマリから出港してきた英武装商船ハルモニデス(5237トン)を雷撃により撃沈。見事一番槍をつけた。しかし救難信号を出されたらしく、その日の午後に北方から敵哨戒機が出現。日没後は英駆逐艦がハルモニデスの沈んだ海域に現れ、照明弾を打ち上げて伊65を捜索していた。敵の目からは逃れられたものの荒天により損傷をこうむり、哨戒を中止しなければならなくなった。8月31日、ペナンに帰投して整備を受ける。
9月16日にペナンを出撃。伊165には反英インド人のグループが便乗していた。9月24日、モルディブ諸島東方でコロンボに向かっていた米貨物船ロスマー(5549トン)を雷撃で撃沈。9月28日の日没後、伊165はクジャラート沖5海里に浮上して連合軍に気付かれる事無くインド人工作員を上陸させた。10月1日、モルディブ諸島東方から撤収し、10月9日にペナンに帰投する。11月5日にペナンを出港して三度目の通商破壊に臨むが、今回は戦果に恵まれず、手ぶらで11月26日にペナンへ戻った。同盟国イタリアからアメリカ軍とオーストラリア軍が東ティモールに上陸するとの情報提供を受け、伊165、伊162、伊166の3隻はペナンからスラバヤに拠点を移す事に。11月30日にペナンを出港し、12月3日にスラバヤへ到着した。
12月5日、スラバヤを出港してアラフラ海で哨戒。敵船を発見する事無く12月22日にスラバヤへ戻った。というのもイタリアからの情報は誤りであり、敵は東ティモールへの上陸を考えていなかったからである。
1943年
1943年1月7日にスラバヤを出撃。ガダルカナル島撤退作戦支援のためオーストラリア西岸にて後方撹乱を行う。1月14日、ゼラルドトンの陸上施設砲撃及び同方面の通商破壊を下令される。これはスンダ海峡を通過する日本軍艦艇の危険除去も兼ねていた。ゼラルドトンに接近する伊165であったが、敵哨戒機からサーチライトの照射を受け、更に敵駆逐艦まで出現したため北方に一時退避。1月27日夜、再びゼラルドトンに近付くが、敵機3機と駆逐艦の存在を探知したため砲撃を一旦中止。潜航退避して息を潜めた。敵駆逐艦は伊165の3.2km圏内を航行していたが、気付かずに去っていった。日付が変わった翌28日深夜、粘り強く耐え凌いだ伊165はゼラルドトン北方4海里で浮上。敵の隙を突いて距離7000mから10cm砲弾10発を発射した。伊165側は弾薬工場を砲撃したと考えていたが、実際は魚の缶詰め工場だった。2月12日に西岸沖から退却し、2月16日にスラバヤへ帰投した。
2月24日にスラバヤを発ち、3月5日に佐世保へ入港。入渠整備を受けた。4月15日、第30潜水隊は南西方面艦隊潜水部隊に編入。4月下旬に修理を終え、瀬戸内海西部で訓練に従事する。
8月26日、佐世保を出港してペナンに向かい、9月8日に入港。9月14日から10月8日にかけてオーストラリア西岸で遊弋するも、戦果無し。10月24日にペナンを出港し、インド洋とベンガル湾を狩り場に定める。11月1日、第30潜水隊は南西方面艦隊から除かれて第8潜水戦隊に転属。11月26日にペナンへ戻り、整備のためシンガポールに回航。12月16日にペナンに戻るべくシンガポールを出発したが、その道中で英潜水艦から雷撃を受け、3本の魚雷が伸びてきた。幸い回避に成功し、12月18日にペナンへ入港。
1944年
1944年1月7日、ペナンを出撃してインド洋に向かう。1月16日午前11時45分、セイロン北方にて軍需品2800トンと弾薬500トンを輸送中の英武装商船ペルセウス(1万286トン)を雷撃。敵船は船尾より沈み始めた。10分後に2本目の魚雷を撃ち込んだが沈没速度に変わりなく、午後12時5分に3本目を撃ち込んてようやく撃沈。しかしペルセウスは沈没する前にSOS信号を出しており、これを受信したカタリナ飛行艇が飛来したため急いで退避している。2月5日、ペナンに帰投。シンガポールで入渠整備を受ける。
2月27日、インド洋南西で通商破壊を行うべくペナンを出港。3月18日午前8時、モルディブ諸島東方で石炭を満載した英武装商船ナンシー・モラー(3916トン)の左舷に2本の魚雷を撃ち込み、1分以内に撃沈。前日、イギリス海軍本部から「伊162に英商船フォートマクラウドが撃沈された」との報告を受け、セイロン南南西300~350海里を避けて東に迂回していたのだが、それが原因で伊165に捕捉されてしまったようだ。
生存者たちは4隻の救命艇に乗って脱出。その46m先に伊165が浮上する。ナンシー・モラーの残骸付近を漂う生存者に対して伊165側は司令塔から船長と機関長の出頭を命じたが無視されたため、救命艇に急接近し、彼らを尋問。すると連合軍の訓練を受けていた船員たちは「既に戦死した」という標準的かつ虚偽の返答を行った。この嘘を看破した伊165側は救命艇から6名の生存者を甲板に上げ、砲手のデニス・フライヤーを捕虜にして連行。残った中国人船員2名とインド人船員3名をひざまずかせ、中国人船員を背後から射殺して海に蹴り飛ばし、インド人船員は撃たずに海へ押し出した。その後、10分間かけて救命艇の近くを通って一ヵ所に残骸を集め、海面にいる生存者に向けて銃撃。30名の船員と2名の軍人を殺害した。これはドイツから人的被害を狙って欲しいと要請を受けた第8潜水戦隊からの命令であった。2時間後、攻撃を終えて去った。3月25日、長らく所属していた第30潜水隊が解隊。伊165は単独で第8潜水戦隊に属する。3月30日、ペナンに入港。シンガポールで整備を受けたのち、5月15日に出港してスラバヤに回航された。
5月31日、出港してオーストラリア南西沖を遊弋し、7月5日にスラバヤへ帰投した。
7月20日、連合軍の攻囲を受けて窮地に陥るビアク島への作戦輸送と第28特別根拠地隊司令官の救出を下令される。7月24日、ドラム缶60本等の軍需品を携えてスラバヤを出発するが道中で機械故障を訴え、7月30日にアンボンへ寄港して応急修理。8月12日に出発して再度ビアクを目指す。8月18日、ビアク島に接近した伊165は地上の守備隊と連絡を試みるが、応答なし。ワルサ湾北西14海里付近で敵哨戒艇2隻と遭遇し、潜航退避するも9発の爆雷投下を受けて機関室が破壊され、艦首が23度浮き上がる。艦内の温度は71℃にまで上がり、安全潜航深度を超えた水深110mまで押し込められる。絶体絶命の窮地に陥った伊165は奇策に転じる。甲板上に固縛した補給用ドラム缶の一部を解放し、魚雷管を通して艦内のゴミや燃料を放出。同時に機関を全て停止する事で、あたかも撃沈されたかのように見せかけた。18時間に及ぶ根比べを制したのは伊165だった。敵哨戒艇は撃沈を確信して去っており、かろうじて死地からの生還に成功した。満身創痍の伊165はとても作戦続行できる状態ではなく、よろよろとアンボンまで後退。現地で応急修理を行う。8月24日、ビアク島への輸送中止を命じられてアンボンを出発。8月27日から9月10日までスラバヤで応急修理を実施し、以降はシンガポールで修理。それでも完全な修理には至らず本土回航が決まり、10月7日にシンガポールを出発。海南島を経由して10月17日に佐世保へ入港。本格的な修理を受けた。
12月15日、第8潜水戦隊から除かれて呉潜水戦隊第19潜水隊に転属。警備艦兼練習潜水艦となり、現役を引退した。翌16日、佐世保を出港して呉に回航。これで伊165の艦歴に幕が下ろされるかに見えたが、悪化の一途を辿る戦局は伊165の退場を許さなかった。
1945年
1945年2月11日、大竹の潜水学校を出港して翌日神戸に回航。ここで伊165は特攻兵器回天の搭載工事を受ける。甲板砲を取り外して搭載装置を設置したが、海大型の船体では2基の搭載が限界だった。4月1日に第19潜水隊は解隊し、伊165は第34潜水隊に編入。他の海大型が内地で回天の輸送任務に従事する中、伊165のみ最前線に投入されたのは、おそらく生き残っていた海大型の中で最も新しかったためと推測される。1945年に入った時点で海大六型と海大七型は既に全滅していたのである。
5月下旬、沖縄を攻略中のアメリカ軍を攻撃するため、伊361と伊363からなる回天特別攻撃隊轟(とどろき)隊を結成。更に増援として伊36と伊165が轟隊に編入され、沖縄・マリアナ間の補給路攻撃を命じられた。6月4日に光基地へ入港し、回天2基と搭乗員の水知創一予備少尉と北村十二郎一飛曹、整備員の阿部福平上曹と恵比寿忠吉一曹が配備。出陣式では市民からは花が、第6艦隊からは短刀が贈られた。式が終わると内火艇で伊165に向かい、乗艦する。
6月15日、多くの人々に見送られながら光基地を出港。翌16日16時頃、今や敵潜水艦の巣窟となっている豊後水道を突破。灰色に染まった薄暗い海と雲に挟まれた太平洋に出る。早速敵潜水艦デビルフィッシュに捕捉され、2本の魚雷が伸びてきたものの急速潜航で難を逃れる。デビルフィッシュが追いすがってきたが、何とか振り切った。その後、伊165は報告を送ったが、これが最後の通信となった。6月23日、護衛駆逐艦ギリガンと機雷敷設艦チャンピオンはソナーで海中に潜む伊165を捕捉し、ヘッジホッグ攻撃をしてきたが回避した。
最期
1945年6月27日午後12時32分、サイパン東方410海里で入道雲の中から飛び出してきたPV-2ロッキード・ハープーンの奇襲を受ける。伊165側は厳重な見張りと逆探装置で万全の探知網を敷いていたのだが、そのハープーンはレーダーが偶然故障していた上、雲がギリギリまで機体を隠していたという二重の不幸が重なり、奇襲を許してしまった訳である。右舷より迫るハープーンは高度1700mから一気に降下。高度900mになった時に伊165も敵機を確認し、右へ転舵しながら急速潜航を始める。しかし旧式艦のため中々海に入り込む事が出来ない。ハープーンから3発の160kg47型対潜爆弾が連続投下され、続いて5発の発炎ブイが投下。更に24型機雷を投下しようとしたが、機器の故障で失敗した。
攻撃が終わると、海面に油膜と2基の回天が漂っているのが確認された。午後12時47分、ハープーンは24型機雷を投下。14時25分まで海中の探査を行った後、燃料が心もとなくなってきたためテニアンへ帰投した。これが伊165の最期であり、乗組員106名全員が死亡した。
連合軍の通信を解析した大和田通信所は「7月2日、伊165がサイパンでの回天攻撃に成功した」と報告しているが、誤りだった。7月29日、帝國海軍はマリアナ方面で亡失と判断し、1945年9月15日に除籍。スコアは8隻撃沈(4万1054トン)。伊165は海大型で唯一回天攻撃に参加した艦となる。
関連項目
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