木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)とは、1572年6月14日に九州でおこった島津氏対伊東氏の戦いである。伊東氏サイドでは加久藤合戦(覚頭合戦)と呼んでいる。
概要
「九州の桶狭間」と呼ばれる戦いで、3000の大軍を擁する伊東軍が、島津義弘率いる300の兵の前に大敗を喫した戦い。これを機に伊東氏の勢力は傾き始め、耳川の戦い・沖田畷の戦いと並んで島津氏が九州統一へ進む大きなカギとなった合戦である。島津義弘の武勇伝のひとつでもある。
ただし本家の桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も凄まじい犠牲を出した上での勝利であった。
ここまでのあらすじ
日向の戦国大名・伊東義祐は1568年に念願だった飫肥城を攻略し、日向国の大部分を手にした。だが重要拠点である飯野城(現在のえびの市に位置する)は未だ攻略できていなかった。この飯野城を任されていたのが島津義弘であった。
同じ1568年には島津義弘が菱刈城攻めで不在の隙を突いて、伊藤祐安を大将とする伊東軍が飯野城を攻めようとしたが、勘付いて引き返してきた義弘とのにらみ合いとなってしまい、1569年に当主・伊藤義益が急死した混乱の為に伊東軍は撤退を余儀なくされた。
そんな中、島津家の勢力拡大を成していた島津貴久が1571年に死去する。すると大隅の肝付氏は島津領に攻撃を仕掛け始めた。この動揺を好機と見た伊東義祐は1572年、飯野城攻略を目指して兵を送るのであった。同時に同盟関係にあった肥後の相良氏にも援軍の約束を取り付けた。
加久藤城の戦い
伊東軍の総大将は今回も伊藤祐安であった。彼の父はかつてクーデターを起こして伊東家を我が物にしようとした伊藤祐武だったが、息子たちは赦され、祐安は若き一門として活躍が期待されていた。ほか、伊藤祐信・伊東又次郎・伊東祐青(伊東マンショの父)といった比較的若い一門が大将となって攻め込む計画であった。
途中、祐信と又次郎が別働隊として分かれると、義弘の妻子ら(のちの島津忠恒も含む)が守る城兵50人ほどの加久藤城へと向かった。加久藤城に着いた別働隊は民家に火を放ち挑発する。この火の明かりと間者からの報告を受けた義弘は部下の遠矢良賢に兵60を与えて加久藤城への援軍としながら、以後お家芸となる伏兵を白鳥山と元地原に配置し、自らは加久藤城と飯野城の間に移動して陣を張った。また新納忠元が守る大口城や、馬関田城にも救援を要請した。
伊東別働隊は事前に加久藤城の搦め手に関する情報を得ていたため、これに沿って城を攻略しようとした。だがこの情報は島津軍の間者による偽情報で、その通りの道を進んだ別働隊は迷走する。夜戦だったため辺りは暗く、若く経験の浅い将兵たちは混乱をきたした。別働隊は狭い隘路に押し込められてしまい、ようやくたどり着いた門は断崖に配置されており思うように攻撃できず、一方的に弓矢や投石による反撃を受けることになる。そこに遠矢率いる島津兵や他城からの援軍が到着し、加久藤城からも川上忠智が打って出たことで別働隊は退却を余儀なくされた。このとき知勇兼備の将と名高い米良重方がしんがりを務め、討死した。
一方、援軍として出陣した相良軍は、街道に義弘が立てた幟があるのを見て島津軍が既にいると勘違いし、策にハマって撤退してしまった。
池島川の戦い
伊東軍別働隊は池島川まで退却して休憩を取った。蒸し暑い季節と兵力で勝っているという安心感から、兵の多くが甲冑を脱いで水浴びを始めた。斥候からの情報でそれを掴んだ義弘は即出陣、真正面から攻め込んで雑兵を次々と討ち取った。義弘と伊東祐信は大将同士の一騎打ちとなり、祐信は討ち取られた。この一騎打ちの際、義弘の愛馬が祐信の槍に対し膝をついて躱したと言われており、以後「膝突栗毛」の名で島津家で丁重に扱われた。
義弘が頃合いを見て撤退すると、伊東の別働隊は本隊と合流し、小林城への退却のために白鳥山方面へと向かった。既に白鳥山に伏兵が仕掛けられているとも知らずに……。
白鳥山・木崎原の戦い
伊東軍が白鳥山へと入ると、島津と通じていた白鳥神社の神主以下、僧侶・農民など300人が鐘や太鼓を打ち鳴らして幟を立て、伏兵を偽装した。これに驚いた伊東軍の背後から島津の名将のひとり・鎌田政年が兵60で奇襲する。義弘隊も正面からぶつかるが数の不利は否めず、遠矢たちがしんがりを務めて撤退、遠矢ら6名は討死した。
こうして義弘は木崎原へと移動すると加久藤城の兵も加えて素早く立て直しを図る。伊東軍の予想以上に早い島津軍の立ち直りに伊東軍は動揺、そこに背後から鎌田隊が、横から初めに配置していた伏兵が襲撃したことで結果「釣り野伏せ」のような形となり伊東軍は崩れ始め、小林城へと撤退し始めた。だが元地原に辿り着いたところで島津の伏兵が再び奇襲をかけ、総大将・伊東祐安は脇下を射ちぬかれて落馬して戦死した。祐安の子・祐次と弟・祐審は小林城とは別方向へと逃亡しようとしたが、新納忠元率いる援軍により討ち取られた。
更にその先の横尾山でも島津軍が偽装兵を配置して逃亡路を巧みに誘導し、伊東軍のしんがりの将たちを次々と討ち取った。
これをもって義弘は追撃を終え、飯野城へと撤退した。伊東軍の将クラスで生き延びたのは伊東祐青くらいで、士分250余人(うち武将128人)、兵560人を失うという大敗を喫することになった。一方の島津軍も士分150人、兵107人と戦闘に参加した者の85%以上が討死するという最早全滅と言っていい犠牲の末に勝利を収めた。勝ったのに全滅とかいろいろおかしいのは流石島津クオリティ。飯野城に戻った義弘は生き延びた者たちと祝杯を挙げ、のちに島津兵、伊東兵をそれぞれ弔う碑を建て供養している。伊東家ものちに供養塔を建てている。
こうして100人以上の武将を失った伊東家は最盛期から一気に傾き始め、5年後の1577年には日向から豊後へ亡命し戦国大名として滅亡することになる。一方の島津家は大隅の禰寝家や肝付家を降伏させて勢力を拡大していく。また、今回の戦いはたまたま義弘隊・鎌田隊・伏兵が三面同時攻撃して「野伏せ」の形が成立したが、やがて積極的にこれを「釣り野伏せ」という戦術として用いるようになっていく。
関連項目
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