盧武鉉(ノ・ムヒョン 1946年9月1日~2009年5月23日)とは、大韓民国の第16代大統領である。
概要
在任期間は2003年2月25日~2008年2月24日。政界入りまでは弁護士として活動していた。
日本のインターネット世論でもその言動ゆえ面白がられる事が多く、「ノムタン」「飯島」「酋長」(後述)の呼び名がある。
韓国においてインターネットを活用した選挙で勝利。日本統治時代の経験のない「解放後」生まれの大統領としても大きく注目された。
2009年5月23日、自宅近くの岸壁から転落、頭部を強く打ちすぐさま病院に搬送されるも死亡。自宅PCから遺書と見られるメッセージが見つかったため、自殺と考えられている。享年62歳。
大統領選挙のおおまかな背景
盧武鉉氏の大統領就任以前についてはwikipediaを参照されたい。
2002年12月19日の韓国大統領選挙で、第16代大統領に当選。翌年2月25日に就任した。
大統領選挙前の予備選挙では、光州など韓国南部で堅調に勝利したものの、金泳三(キム・ヨンサム)元大統領との和解や、政治的に近い前任の金大中(キムデジュン)大統領の側近・親族の逮捕など、改革派、進歩派としての盧武鉉ブランドイメージに傷を付け、同年6月の統一地方選挙と8月の選挙に惨敗。一時は候補の交代や、鄭夢準(チョン・モンジュン)との候補一本化が取りざたされるほどに追い詰められた。
党内調整の結果、盧武鉉-鄭夢準のテレビ討論会(11月22日)で世論の支持を獲得した者を大統領候補として擁立する事に決定。盧武鉉46.8%、鄭夢準42.2%の僅差で盧武鉉が勝利し、大統領候補としてハンナラ党候補、李会昌(イ・フェチャン)と一騎打ちで戦う事になる。
遡って同年6月、ソウルの北にある議政府(イジョンブ/ウィジョンブ:地名)で、地元の女子中学生2名が在韓米軍の装甲車にはねられて死亡するという事件が発生。11月20日、在韓米軍軍事法廷は米韓行政協定に基づき、事故を起こして米兵に無罪評決を出す。この事が盧武鉉支持の活動家や反米主義思想、民族主義的傾向の韓国人を刺激。駐韓米大使や駐韓米軍司令官、さらにはブッシュ米大統領(当時)の謝罪コメントが出されたものの、韓国社会の怒りは一向に終息することなく、情勢は盧武鉉有利の風潮へと傾いてゆく。
2002年11月27-28日。盧武鉉ほか4名が候補者登録を済ませ選挙戦が正式に始まった。盧武鉉は金大中による対北朝鮮宥和政策、いわゆる「太陽政策」の継承と7%の経済成長(ただしこの数字には裏づけはなく、対立候補の李会昌が掲げた6%の数字に対抗して出したものとされる)を掲げた。対する李会昌は金大中路線からの転換(太陽政策の破棄、親米路線への転換)を掲げ、「対北朝鮮・対米国スタンス」が争点となった。
金大中路線の継承は党内からも反発を受け、投票日前日の12月18日には鄭夢準が離反。しかしこの事は逆に市民からの同情を集めたらしく、インターネット上の盧武鉉支持者(「ノサモ」と呼ばれる)による投票運動もあいまって大統領選挙に勝利した。しかし、2位の李会昌との票差はおよそ57万票差にすぎず、また地域によっては20%程度の得票率となるなど、その支持基盤が強固なものであったとは言いがたい。
なお、当時の日韓翻訳フォーラム「NAVER」でもこの話題が挙がっており、日本側は「経済や安全保障を日本以上にアメリカに依存しなければならない韓国で、金大中の太陽政策継承・反米主義は危険であるから、盧武鉉だけはやめたほうがいい」という警告を幾度も発したが、韓国人側は聞き入れず、逆に「インターネットを活用した大統領は日本では誕生しえないだろう」「日本人たち悔しがるのがうれしくて~」とホルホルしていた。以下は当時の状況。
thdlfqhs 韓 : 今日に限って倭人たちがあまり発狂する
作成時刻 : 2002.12.20 01:02:03
どうしても韓国の民主的な大統領選挙を報告
日本の後進国型政治と非校歌されてあまり衝撃を受けたようです ^^
日本人たちあなたたちも国民の力を一つで集めれば韓国のようにできる ^^
あまり衝撃受け巻きなさいdvdbano 韓 : 韓国に奇蹟が起きた
作成時刻 : 2002.12.19 21:59:55
貧しい家の高卒出身弁護士が大韓民国の大統領になった歴史的なことだ
やっぱり山が高ければ谷が深い
30年独裁が続いたらもう 10年国民の時代が続くようだ
日本の後進的政治システムでは偉大な政治家が政治的に大きく成功した事例があるか?play1022 韓 : 日本人たちの妬みが劇に達していますね, ^^
作成時刻 : 2002.12.19 23:04:58
逆転進歩,改革勢力によって国が発展して行く大韓民国です
極めて保守的なおいぼれたちが国を導いて行っている日本とは次元が違います
Dynamic KOREA!!!!
去る 5年間の改革成果に負って世界的な先進国で浮び上がる日だけ残りましたstargazor韓 : ノ・ムヒョン大統領当選は大韓民国一般国民の勝利!
作成時刻 : 2002.12.20 00:22:49
ノ・ムヒョンが勝利した. 胸がいっぱいだ! お金あって権力ある補修集団を勝った.
まさに私たち大韓民国お金なくて権力ない一般国民の力を見せてくれたのだ
5年後には韓国は日本を飛び越えてアジアの強大国になっているでしょう!!!!
「韓国人は最悪のタイミングで最悪の選択をする」という言葉の意味を、当時の日本人NAVER参加者はあらためて思い知らされていたのだった。
大統領就任後
大統領当選を果たしたものの、その支持基盤や政権運営基盤は磐石とは到底言いがたいものであった。
所属する与党「新千年民主党」は韓国国会でも少数派であり、過半数を占める野党「ハンナラ党」のほうが議席数が大きい「ねじれ国会」の状態におかれる事となった。ハンナラ党は、wikipediaの表現を借りれば「選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した」。…デジャブ?これは日本マスコミの「中の人」のルーツにも関わる問題かもしれない。
やがて新千年民主党は内部抗争により金大中派と盧武鉉派に分裂。主流派の盧武鉉派は2003年11月「ヨルリン・ウリ党」を結成。金大中派の新千年民主党もまた下野し、野党となった。政権運営基盤を大きく失った盧武鉉政権の運営は早くも難しいものとなる。
反米的市民の支持を受けて当選していながら、2003年3月からの「イラク戦争」に韓国軍を派遣したため、支持基盤の毀損となった。また経済運営も思うように巧くいかず、この面でも支持を大きく失うこととなった。
支持率維持のため、盧武鉉は就任演説の中で一度は封じた「反日ドーピング」を多用せざるを得なくなってゆく。盧武鉉以前の日韓関係であれば、「歴史認識などの材料での日本たたき→日本側の謝罪」をひきだし、支持率好転の切っ掛けとすることが出来たが、当時の日本の総理大臣は中国・韓国人にとって運の悪い事に小泉純一郎であった。小泉総理はこうした新たな謝罪要求を「村山談話」の有効活用によりかわし、まったくといっていいほど応じなかった。
また、2002年の「日韓サッカーワールドカップ」共催の際の韓国戦「誤審」――審判買収の疑惑が常に噂された――によって、日本人に「厭韓国感情」「嫌韓派」の増加をもたらした事も見逃せない。前述の小泉首相の態度は、W杯以前であれば、日本の有権者の反発も買う態度であった。こうした日本の有権者の、韓国に対する友好的態度が掻き消えていった事、つまりは日本人の意識の変化が、韓国や盧武鉉にとって不運として作用していった。
いくばくかリカバーの期待も持たれたであろう「韓流」ブームも、日本市民から「メディア(電通)の捏造」「ゾンビウェーブ」として片付けられ、効果が上がったとは言いがたい。しいて言えば若干の外貨収入を韓国にもたらしたのみであった。
盧武鉉は「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」(通称:反日法)という法律も作っている。これは戦時下で日本の支援を受けていた韓国人や韓国企業の財産を没収するというもので、この法律によって政財界における日韓間や韓米間のパイプは次々に切断された。さらに盧武鉉はアメリカに対して戦時作戦統制権の返還も求めたが、これは次の李明博政権がアメリカに返還の延期を要請している。[1]
AA
∧酋∧ あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
< ‘∀‘ >
─U─★U 『おれは登山をしていると思っていたら
し―-J いつの間にか滑落していた』 以下略
関連項目
脚注
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 6
- 0pt