U-124単語

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ユーイチニーヨン
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U-124とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したIXB型Uボートの1隻である。1940年6月11日工。通商破壊連合船舶46隻撃沈(21万9862トン)、戦闘艦2隻撃沈(5775トン)、4隻撃破(3万67トン)という全Uボート中第5位の大戦果を挙げる。1943年4月2日ポルトガル西方で対潜攻撃を受けて沈没

誇り高き復讐鬼

1937年12月15日、デシマーグAGヴェーザー社のブレーメン所に発注1939年8月11日にヤード番号956の仮称で起工し、1940年3月9日に進、同年6月11日工を果たす。初代艦長にゲオルク・ヴィルヘルム・シュルツ大尉が着任。工日より第2潜隊群へ編入されてバルトで慣熟訓練に従事する。U-124には後のUボートエースであるラインハルト・ハーデゲン(U-123)やヴェルナー・ヘンケ(U-515)が当直士官として乗艦しており、U-124が育て上げたと言える。

の両側にはエーデルワイスが描かれていた。これは1940年4月13日ノルウェー北端ナルヴィクで英軍機に撃沈されたU-64の生存者38名を陸軍の山岳歩兵部隊に助けられた事に由来する。U-124の乗組員の大半がU-64の元乗員だったため感謝の意味合いで歩兵部隊の記章であるエーデルワイスを描いたのだった。U-64が撃沈された事で、フィヨルドのにいたドイツ駆逐艦8隻は第二次ナルヴィク戦で圧倒的優勢なイギリス艦隊にされ、壊滅の憂きを見た。

そしてU-124はこれから、そのイギリス復讐するかのように膨大な大戦果を挙げていく事となる。

1940年

1940年8月19日17時30分、ヴィルヘルムスハーフェンを出港して最初の戦闘に向かう。北海からノルウェー西に向けて北上し、ユトランド諸北方通過して南西方向へと進む。

8月25日23時50分頃、ヘブリディーズ諸バットオブルイス北方23マイルにてHX-65A団を襲撃。4隻の敵船舶へ向けて4本の魚雷を放ち、右舷先頭の列を走っていた英商ステークビーの右舷側に命中して大破。団のワシントン中将を乗せたハーパライス(5169トン)も被雷し、1分以内に左舷へ転覆して沈没。あまりにも沈没に救命艇をを降ろす時間すらく、ワシントン中将船長海軍参謀4名、手2名、乗組員34名が死亡。英商ファイアクレス(5394トン)は体中央部に被雷した直後、積み荷の鉱石の重みに耐えきれず沈。船長と乗組員38名、手1名が波間に消えた。一度の雷撃で2隻撃沈と1隻撃破の戦果を挙げた。英駆逐艦ゴデティアからの爆雷攻撃を避けるために深90mまで潜航するが、その際に海底の岩に衝突する事故に見舞われ、魚雷発射管3本を損傷して戦闘任務が不可能になる。やがてフラワーコルベット艦より12発の爆雷が投下されたが、そちらは大した被害く、1時間の潜航の末にコルベットはU-124を見失う。浮上後、U-124は戦闘任務から外れて気観測となった。9月16日18時30分、ドイツ占領下フランスロリアン軍港に帰投。

10月5日18時30分、ロリアンを出撃して2回戦闘に出発。スコットランド北西で通商破壊を行う。10月15日16時SC-7団のカナダトレビサ(1813トン)を捕捉して追跡。18時29分に最初の雷撃を試みたが失敗する。翌16日午前3時50分、ロッコール西方404kmで雷撃し、トレビサに1本の魚雷を命中させて撃沈。首尾よく敵を撃沈したU-124だったが、10月17日に英潜水艦クライドから3本の魚雷を撃たれる。幸い全て外れる強運に恵まれるも、U-124は最後まで攻撃に気付かなかった。

10月20日午前1時43分、ロッコール西方360マイルで35隻からなるOB-229団を雷撃。ノルウェーキューバ(5810トン)に命中し、キューバノは放棄されて乗組員は救命艇で脱出。イギリススラコ(5389トン)に救助されるも午前2時29分にそのスラコも被雷して沈没している。10月31日21時58分、HX-82団から分離したイギリストランド(1437トン)を約6時間の追跡を経て雷撃。魚雷1本が首に直撃して沈没した。11月1日17時6分、荒によりHX-82団からはぐれて単独航行中のイギリスエンパイアバイソン(5612トン)をロッコール北西約200マイルで雷撃して撃沈。24時間後、エンパイアバイソンの生存者4名はイカダに乗って漂流中に浮上したU-124を発見。捕虜になるのを嫌った生存者は死んだふりをしてやり過ごした。11月13日16時30分、ロリアンに帰投。

12月16日17時ロリアンを出撃。1941年1月6日午前11時37分、ロッコールの北北東約100マイルにてエンジン故障でOB-269団から脱落した英商エンパイアサンダー(5612トン)を撃沈。ちなみにエンパイアサンダーは処女中だった。

1941年

1941年1月22日14時10分にロリアンへ帰投する。

2月23日16時、4回戦闘のためロリアンを出撃。カーボベルデ北方狩り場とする。3月8日午前5時47分から午前6時8分にかけてSL-67団に向けて6本の魚雷を発射。英商ハインドプール(4897トン)、ホール(5304トン)、ナルダナ(7974トン)、ティーバンク(5984トン)をまとめて撃沈する戦果を得る。3月30日23時1分、護衛しの英商モナ(3767トン)を雷撃し、左舷の後部マスト下に命中させて8分後に撃沈。4月4日23時2分、同じく不用心にも護衛しで航行中の英商マレー(6507トン)をフリータウン南西で雷撃し、船橋下に直撃。乗組員はを放棄して救命艇だ脱出。と化したマレーネを23時44分から撃するも、照準器が壊れてしまったため、12発撃ったところで中止。しかしマレーネに致命傷を与えていたようで、翌5日午前0時5分に首より沈没していった。

4月7日17時39分、フリータウン南西約150マイルカナダポータドック(1746)を雷撃し、尾に1本命中させたがしぶとく浮き続けたため、11分後に浮上して甲と20mm対空砲を使って撃沈。船長と19名の乗組員が2隻の救命艇に分乗して脱出。捕まえて尋問した後、飲料提供して去った。4月8日午後12時25分、OB-296団から分散した英商イード(2697トン)をフリータウン南西で雷撃。1本を命中させたがツイード元気いっぱいに走り続けて回避運動を取ったため、発射した2本を回避される。が、5分後に力尽きて首より沈没。攻撃後、U-124は浮上して転覆した救命艇に近づき、尋問のため10名の生存者を艦内に引き上げた。その間、軍医が負傷者の手当てを行い、尋問後は全員救命艇へと戻された。騎士精神の鑑である。

4月11日20時59分、フリータウンの西南西約170マイルギリシャエイジオン(5285トン)を撃沈。エイジオン沈没する間際に遭難信号を放っていたため、イギリス海軍に包囲される前に急いで離脱。4月12日午前5時9分、英商セントヘレナ(4313トン)に魚雷1本を撃ち込んで撃沈。浮上後、生存者に尋問して去った。4月13日22時29分、単独航行中の英商リントス(4823トン)に魚雷を撃ち込んで停止させる。15分後にトドメの魚雷を放ったが不発だったため失敗。10分後に3本を発射して撃沈した。5月1日午前9時50分、ロリアンに帰投。

7月10日20時ロリアンを出撃。7月22日から8月5日までウルフパック「ズード」に所属してジブラルタル南西やアフリカ北西で遊するも獲物に巡り会えず、8月25日午前11時ロリアンへ帰投。初めて
手ぶらでの帰投になってしまった。

9月16日16時15分、ロリアンを出撃。アイルランド南西やアゾレス狩りを行う。9月20日23時31分、アゾレス北北東でOG-74団に2分間隔で3本の魚雷を発射。英商バルリン(1303トン)とエンパイア・モート(2922トン)を同時に撃沈した。両生存者はウォルマーキャッスルに救助されたが、翌日ドイツ空軍機の爆撃沈没している。9月25日午前7時44分、HG-73団に2本の魚雷を放ち、英商エンパイアストリーム(2922トン)を撃沈。U-124は追跡を続け、翌26日午前2時32分に英商コルテス(1374トン)、ペトレル(1354トン)、ノルウェーシレマルム(2468トン)をまとめて撃沈。10月1日15時ロリアンへ帰投した。

10月30日15時35分、7回戦闘のためロリアンを出港。11月18日ドイツ給油パイソンと合流して燃料補給を受ける。しかしイギリス海軍エニグマ暗号の解析により仮装巡洋艦アトランティスパイソンが南大西洋で活動している事を把握巡洋艦デヴォンジャー、ドーセットシャー、ダニーデンの3隻を刺客として解き放つ。

11月21日U-126に給油していたアトランティスはデヴォンジャーの襲撃を受けて撃沈されてしまう。そうとは知らずにパイソンは再びU-124への燃料補給命を受け、会合地点に向かっていた。同日午後、パイソンとの補給地点に向かっていたU-124は、セントポールロック東方で17ノットの速力を出しながらジグザグ運動している軽巡洋艦ダニーデン(4885トン)を発見。直ちに急速潜航して敵の針路上で待ちせた。14時50分、ダニーデンの見り員はU-124の潜望を発見して針路を変更、追跡しようとするが、U-124の位置を誤って認識したせいで背を向ける格好となり、彼距離がグングンと開いていく。やがて魚雷の有効射撃圏内から出て行ってしまったが、U-124は15時21分に3本の魚雷を扇状に発射。5分23後、1本魚雷ダニーデンの左舷へ直撃し、衝撃で艦体が揺らいだところへ右舷に2本が命中。17分後に艦尾から沈没していった。U-124は浮上した後、生存者の周りを約10分かけてグルリと一周し、そのまま去っていった。生存者は3日間漂流。当初約250名いた生存者はサメの襲撃や溺死などで数を減らし、救助されたのは72名だけだった。

12月3日21時47分、南大西洋でアメリカサガダホック(6275トン)に2本の魚雷を放って撃沈。当時ギリギリとはいえアメリカは参戦しておらず中立を沈めてしまった格好だが、サガダホックは側面を照らして籍を明確にする義務を怠ったため撃沈されても文句を言えない立場だった。U-124は2隻の救命艇に乗る生存者を尋問。こうしてサガダホックはアメリカ戦前に撃沈された4番となった。12月29日15時ロリアンに帰投。

1942年

1942年2月21日19時ロリアンを出撃。パウケンシュラーク作戦従事のためアメリカ東海に向かう。3月14日21時18分、バミュー北方約230マイルで英商ブリティッシュソース(7209トン)に2本の魚雷を命中させて航行不能に追いやる。しかしU-124の潜望を発見して備で撃ちかけてきたため、21時33分にトドメの魚雷を撃ち込まれて大破炎上。あまりの火勢に沈没する翌日まで燃え続けたという。3月17日午前2時26分、単独航行中のホンジュラスセイバ(1698トン)を撃沈。同日23時52分、ノースカロライナダイアモンドショーズライトブイ西方約1マイルで護衛しで航行中のアクメを雷撃し、尾に命中させて機関室を破壊する。近くに別の船舶や沿警備隊の艇がいたのでトドメを刺さずに退散。3月18日午前1時14分、ハッテラスギリシャカサンドラ・ルロウディス(5106トン)に魚雷1本を撃ち込んで撃沈。同日午前8時27分、雷の中でE・M・クラーク(9647トン)を雷撃し、1本が左舷中央部、もう1本が左舷前方に命中して約10分で沈没

3月19日午前4時31分、ルックアウト南西約15マイルで11ノットでジグザグ運動中のプー(5939トン)を雷撃して撃沈。午前5時38分にW・E・ハットン(7076トン)に魚雷2本を発射し、1本が右舷首に命中。10分後、左舷中央部に魚雷を撃ち込み、血のように噴き出した燃料に引火、炎に包まれたW・E・ハットンは約1時間後に首より沈没3月21日午前6時8分、フライングパンライトシップブイ北東約16マイルエッソナッシュビルを雷撃して右舷に命中させるも不発。1分後、2本が命中して体をっ二つに折る重傷を与えるが、ノーフォーク航されて後に復帰している。同日中にビューフォートシブイアトラティック・サンを発見。しかし敵は15ノットの高速で走っており、午前10時5分に何とか雷撃。右舷前部へ命中させたが致命傷には至らず、自力でビューフォートまで逃げられた。ちなみにアトラティック・サンは翌年2月15日にU-607によって仕留められた。

3月23日午前10時23分、ノースカロライナ州ルックアウト南東65マイルエコ(5373トン)を雷撃し、右舷側に大きな柱が築かれるとともに全体が炎にみ込まれる。やがて体は二つに折れ、尾部分は15時30分に沈没。残った首部分は遅くに駆逐艦ローパー撃で自沈した。4月10日午前9時30分、ロリアンへ帰投。

5月4日20時、9回戦闘に出撃。5月8日ウルフパック「パイク」に参加してニューファンドランド方面で通商破壊を行う。5月12日午前1時56分、フェアウェル南東でONS-92団を襲撃。一度の雷撃で英商クリスタレス(5389トン)、エンパイア・デル(7065トン)、ランドバー(4959トン)、ギリシャパーネスマウンテン(4371トン)を撃沈する。6月9日午前4時10分、フェアウェルでONS-100団を雷撃。右側の団を護衛している自由フランスコルベットミモザ(925トン)の左舷中央に1本が直撃して3分以内に沈没。搭載していた爆雷の起爆で乗組員の大半が圧死の末路を辿った。ミモザに乗っていたのはサンピーエルミクロン若者たちで、彼らがまとめて戦死した事で両高齢化一気に進んだという。またミモザの撃沈は明けまで他の艦艇に気付かれない始末だった。6月12日午前6時12分、ONS-100団の英商ダートフォード(4093トン)がU-124に雷撃されて沈没6月18日午前6時12分、大時化の中でONS-102団の3隻に向けて4本の魚雷を発射。シアトルスピリット(5627トン)の左舷に魚雷が命中し、すぐさま浸を引き起こしてボイラー爆発。もはや助かる状態ではなかったため、20時30分にコルベットから撃を受けて処分された。6月26日18時ロリアンに帰投。

11月25日17時戦闘に出撃。今回の狩り場は西大西洋、カリブ西方南米と遠方に定められた。12月4日U-118と合流して燃料補給を受ける。12月28日午前9時46分、トリニダー東方約50マイルで英商トレウォラス(4692トン)を艦尾魚雷で撃沈。イカダに乗っている生存者に尋問しようと浮上したU-124が近づいたところ、生存者がへ飛び込んでしまったので域から去った。

1943年

1943年1月1日、ポート・オブスペイン東方カタリナ飛行艇に攻撃されるが損傷はかった。1月9日午前4時33分、TB-1団を襲撃してバーミンガムティ(6194トン)、ロードアロー(7718トン)、リングスワース(5101トン)、ミノタウロス(4554トン)を撃沈。2月2日、U-504から燃料補給を受ける。2月13日午前10時ロリアンに帰投。

最期

1943年3月27日、最後となる11回戦闘に出撃。ビスケー湾を出て南西に進む。4月2日18時55分、ポルト西方320マイルOS-45団を攻撃。英商ゴーグ(5190トン)とカタ(4357トン)を撃沈。16機のホーカーハリケーンや計1万3000トンの軍需物資、弾薬1000トン魚雷等が一緒に沈んだ。しかしフラワーコルベット艦ストーンクロップスループのブラックスワンに襲われ、爆雷攻撃を受けてポルトガル西方沈没。乗組員53名全員死亡した。

総戦果は46隻撃沈(21万9862トン)、4隻撃破(3万67トン)。この大戦果を上回ったのはU-48、U-99、U-103、U-123の4隻だけだった。

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