1 ななしのよっしん
2011/08/29(月) 23:32:17 ID: pYw7pW1KT7
>技術的には諸外に大きく遅れを取ってしまったという摘もある。

小説家だよね。これいってるの。多分、司馬とか逆説の日本史作者あたりがいってそう。史実とは違う。家康策として貿易を進めたんだし。
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2 ななしのよっしん
2011/08/30(火) 00:15:07 ID: pTtGBdHMJe
>キリスト教を信仰していた信長
っていうのも突っ込みどころだよね
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3 ななしのよっしん
2011/09/05(月) 23:32:05 ID: Mpe6mKqrOm
wikipediaからの転載が見られたため書き直しました

また、気づいた点がありましたら摘・修正願います
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5 ななしのよっしん
2012/02/05(日) 22:44:38 ID: aOrOsrjpZ9
その瀬田も当時の限られた情報じゃあ山岡兄弟の旗色が分からないしな。実際は光秀
しく抵抗するけど。
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6 ななしのよっしん
2012/02/05(日) 22:53:10 ID: JC/XdtysPr
ボキャブラ天国で見たプリンプリンネタで「敵はほんのり塩味」というネタが強記憶に焼きついたもんだから、本能寺の変だけは今後も一生忘れない自信があるな
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7 ななしのよっしん
2012/02/21(火) 01:17:44 ID: vsM2//b2Dl
>>4
詰んでたら逃げられません。
学会でも普通にそう考えられてるし。
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8 ななしのよっしん
2012/03/03(土) 03:21:40 ID: NzHpy70stE
ついでに言えば明智軍の兵士のほとんどは、相手が信長だということを知らなかったようなので、そこまでムチャなことではない。
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10 ななしのよっしん
2012/03/11(日) 10:53:16 ID: XMrT8h2zyX
市民にまぎれて隠れれば、信忠逃げ切れたと思うけどなぁ
明智軍の兵士全員信長はともかく、信忠まで顔を知ってたとも
思えないし。まさか市民全員を捕まえて確認することも不可能
物理的はもちろん、反光秀軍への備えもあるから光秀には
探してる時間的余裕がい。結果論で言えば10日逃げ切れば
生き残れた、あながち理とは言い切れない

ただ逃げた後、織田として再起出来たかどうかは別問題。
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11 ななしのよっしん
2012/03/19(月) 08:15:43 ID: aOrOsrjpZ9
信長は本寺囲まれた時点で逃げられる可皆無だろ。信忠は妙覚寺にいた時点なら可かも
しれないが、ここで逃げるって選択肢が当としてあったとは思えない。おまけに上でも言った
通り、光秀に同してるか全く分からない情勢だし。
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12 ななしのよっしん
2012/03/30(金) 04:29:02 ID: NzHpy70stE
>>9
なんで話が包囲された後限定になってんの?
死んだ連中がいっぱいって、そりゃ戦っただろ。
長益と玄以が逃げてる以上、信忠逃げられる可性はあった、と言うしかない。
そして彼らがそうしてる以上、信忠がそう判断する期待値もあった。
ちなみに二条が包囲された後、宿に泊まってた信忠臣が1人、中まで入り込むことに成功してるぞ。
信忠と一緒に戦って討ち死にしてる。

>>10
10日も逃げる必要はない。
信忠の本拠の岐阜に戻って(2日で行ける)、信長が率いる予定だった兵を召集し、伊勢の信雄を呼べば終了。

>>11
逃げ選択肢がないっつー根拠は何だ?
光秀に同意してる臣は、普通は「いない」と考えるよ。
光秀臣や与力でもない限りな。
なにしろ臣であるからには、例外なく織田に人質を出して、土地の安堵状をもらってるわけだから。
人質は殺されてもいいし、もはや天下統一寸前の織田より、成功するかどうか分からん謀反を起こす光秀に土地を安堵してもらった方がいい、失敗しておが滅ぶ恐れがあっても!
なんて思う人間普通はいないんだよ。
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13 ななしのよっしん
2012/04/02(月) 21:20:28 ID: aOrOsrjpZ9
>>12
まず上で言われたあるいは言ったように逃げるなら瀬田に行くしかないけど、ここ支配してるのは
外様山岡兄弟だろ。この状態と混乱で頼りにできるか?つーか山岡兄弟に叛意がないことが
分かっていても瀬田の唐を抑えられたらアウト

そりゃあ、逃げられる可性があるかないかならあるよ。だけど、何で信忠が当時そう言う判断を
したのかって観点を軽視し過ぎてる。まさに机上の空論
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15 ななしのよっしん
2012/06/24(日) 14:34:35 ID: +tQGHbhzZo
色々諸説ある話だけど、信長にしても信忠にしても、光秀を高く評価していて
基本的にはあいつが謀反を起こした以上逃げる隙など与えんだろう・・・
という考えに至って、それなら最後まで戦いとおすって選択をしたんじゃないかね?
あと、この時代プライド高い人多いから這ってでも逃げるという考えは浮かびにくいんじゃないかな。
農民出身の秀吉や、一度プライドを捨てて生き延びた家康ならやれるだろうけど、
下まで後一歩のような人が出来るかというと難しい選択。
落ち武者狩りという危険もあるし、それなら今戦って死ぬ方がいいって思考に向かうんじゃないかね。
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16 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 22:00:45 ID: SdnmBMJtjT
山岡一族は本寺の頃は信頼されてたと考えていい
・甲賀衆は六角の支持基盤だったが、その甲賀衆の差配を任されていた
・瀬田を織田一族が宿泊先にしていた
山岡を転封して要地を取り上げるようなことをしなかった

信忠の判断という点では、信忠明智軍と交渉して王の身の安全を保させたことも忘れてはいけない
王は織田の後押しを受けて皇位継承の有力補だった
・尾は土地柄勤皇が多い。後から入った尾も感化された程のレベル

変では信長信忠村井子だけでなく菅谷長頼のような重臣級の側近たちが大勢亡くなったのが織田にとっては致命的だったな
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17 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 22:20:24 ID: SdnmBMJtjT
変事の明智軍と信忠行動を追うと
・まず明智軍が旧山陰街道を東へ進み都へ入る。そこから北上して本寺を攻撃
(上記の街道を西へ進まなかった時点で本寺に連絡は入らなかったのだろうかと疑問視する人もいる)
信長は初めから明智軍を京都へ呼び寄せ、一緒に出発するつもりだったのでは、という説あり)
・本寺襲撃の報せを受けた信忠たちは、妙覚寺から二条御所に移る
明智軍は本寺の東の南蛮寺を通りその辺りから北上して二条御所を包囲
ここでググって地図見てもらいたいが、本寺と妙覚寺は結構近い。妙覚寺と二条御所はすぐ隣
明智軍は本寺包囲の手際は良かったが、妙覚寺への進軍が遅れている。おかげで村井子は妙覚寺へ入り、明智謀反を報せることができた
(本寺包囲の手際と妙覚寺・二条御所襲撃の手際の悪さから、首謀者は光秀ではなく斎藤利三明智臣となっていた旧幕臣だったのではという説もある)
もう一つ、村井貞勝の屋敷は本寺のすぐ傍。本寺から見てどちらの方角かは不明
ただ屋敷が北や東にあったとしても、村井貞勝京都における人脈を考えると、すぐにでも邸宅を抑えて拘束しなければいけない大物だった
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18 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 22:47:01 ID: SdnmBMJtjT
二条御所に信忠勢が移って、しばらく経ってから明智勢が来て小競り合いが始まった
(寄せ手の明智勢が少なかったのか、王と公家衆がいたため明智勢が遠慮したかは不明)
王を戦に巻き込んだことは後に明智従にとって大きな災いとなった。巻き込んだという点ではさっさと逃げなかった信忠たちも同じだが)
二条御所から村井貞勝が出て明智勢と交渉。王と公家衆の安全を保させる。王と公家衆は東門から脱出
戦闘再開。今度は戦の末、信忠以下討死。脱出できたのは前田玄以織田有楽など僅かだった

変の黒幕については諸説ありますが、
(私個人としては光秀自身や朝廷陰謀説は却下したいところ)
ここからは信忠京都から脱出できたかどうかについての考察
(脱出可だと認識していたとしても、王の安全確保のために留まって手を打ったのだろうと個人的には思っています)
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19 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 22:59:13 ID: SdnmBMJtjT
まず本寺と妙覚寺・二条御所の近さ
近いといってもそれなりに距離はあるが、本寺近くの屋敷にいた村井貞勝明智謀反情報を得て妙覚寺へ走り、
信忠に伝え、おそらく信忠の決断で二条御所へ移り防戦の構えをしてしばらく待った
ということから時間的余裕は十分にあったと思われる
・ただし明智勢の進軍が、「信忠たちの予想を裏切って遅かった」のかもしれず、
 当事者たちが明智謀反の報せを受けた時は、逃げるという選択肢は時間的制約から却下した可性もある

逃げると判断した場合、逃げ切れたかどうか
織田の忠臣だった光秀謀反し、その意は不明のまま明智軍がこれから都を支配すると予測される状況で、
織田と懇意にしていた王をただ置き去りにすることを、当時から勤皇が多い尾出身の教養人として選べたかとうか

選んだ場合、逃走経路はどうしたか
・西や北へ向かうと、逃げ場がなくなる。篭もって抵抗できる拠点がなく、その先には明智領が広がる
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20 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 23:16:22 ID: SdnmBMJtjT
・北へ逃げるとを巻き込む恐れさえ生じるのでそもそも論
・南から明智軍が迫ってくるので、東に逃げるしかない
 賀茂川を渡り、三条通りかその北の丸太通りから田口すことになる
賀茂川の通行に関しては織田勢の短くない統治期間で街道の整備を行い、問題はない
明智勢に先回りされてを押さえられていたらお終いだが、村井が妙覚寺へ行けたことや本寺から賀茂川への距離を考えると、
 光秀と連携する別の謀反人(しかも軍勢を動員できる)でもいなければ、明智を押さえることができるなら信忠勢はその前に妙覚寺か二条御所で包囲されている

田口から先は街道を東へ向かい大津すか、途中から南へ向かい槇あたりから宇治運を伝い大和伊勢に向かうことになるが、
宇治経由は厳しい。上流は流石を使えない
信忠たちの脱出後、明智勢が運を押さえて先回りする危険あり
・何より一行には、三法師という足手まといがいる
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21 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 23:34:33 ID: SdnmBMJtjT
となると大津へ向かうしかない
街道は整備されている。ただし明智勢も追跡しやすい
近江六角家の元領地、というより比叡山の力が強かった土地だが、在地の人衆はこの頃には信長の手足同然になっていた
信長六角家を撃破した後、重臣たちに南近江分割統治させて人衆を寄騎につけていた
・その後、柴田佐久間たちが他に領地を与えられて移ったので人衆の多くは信長の直属となり、側近に取り立てられたり婚姻を結んでいた
・この傾向は信長が安土に移ってからさらに強まっている
・そもそも南近江人衆は信長に降った後は忠実で、再起した六角家との戦や比叡山の扇動を受けても(信長包囲網)、織田に背いた人衆はこの地域では少なかった(甲賀あたりは別)
・前述の山岡兄弟将軍松永への内通を疑われた時期もあるが、以降は信長に信用され、重用されている
 また瀬田まで行かなくても、大津までたどり着けば最悪信忠三法師だけは逃げることはできたと考えられる

ただし「光秀謀反が計画的なら、大津も押さえられている恐れがある」と信忠たちが考えた可性はある
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22 ななしのよっしん
2012/08/15(水) 23:43:11 ID: SdnmBMJtjT
まとめると、
信忠が脱出を決断するためには
明智軍の襲来まで時間があると判断し(常識的に考えるとその時間はない)
王を見捨て(少なくとも親父信長は勤皇だった)
大津方面は事だと願いながら(光秀が本気出してたら大津押さえておくことも可
選ぶ逃走経路は東から賀茂川を渡り田口を出て大津へ向かうしかない
そして実際に逃走していたら、悪くても信忠子は逃げ切れたのではないか
(と私は考察してみた)
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24 ななしのよっしん
2012/10/08(月) 18:15:31 ID: lv3bmVtrOJ
信長全に囲われているから、そもそも逃げようがくて、
できることは、何とかって、援軍期待(凄く期待薄いけど、それしかい)しかなかった。

でも信忠に関しては、そういう考えあっただろうね。
光秀に抜かりはいだろうみたいな。
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25 ななしのよっしん
2012/12/22(土) 23:17:58 ID: NzHpy70stE
>>23
そんな事は書いておりません。
捏造はやめましょう。
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27 ななしのよっしん
2013/01/25(金) 13:46:22 ID: h3CXk/5Oij
歴史上の出来事って意外な文献に記述があったりするし、闊に捏造とか言っちゃうとっ恥を書くよね
論、たとえ有名なものであっても信憑性は怪しいものがあったりするからみにするのも危なくはあるんだが
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28 ななしのよっしん
2013/02/06(水) 12:06:11 ID: NzHpy70stE
原文

二日、、未余いねて有之処ニ、袖越中来り、明知、本のう寺法寺也、信長いられ所へ、明知取懸、
やき打ニ申也由申、そのまゝ出て、二条之御所へ可参トへハ、はや ゝ 人数取まき、入申事不成、
公家衆不成井上ト申者明知者也、かれよせ衆也、輙参度由申へ者、成間敷由申間、
しはし立やすらいへ共、成て、御所参て、分申入介ハ二条之御所ニ王御方御座候、被参
そのまゝ取つめ申村井のかれへの由申、当番之衆御供申、のかれ、若宮様、二宮様、五宮様、
ひめ宮様、御あ之局、其外女房衆、公家飛鳥井子、庭田、中納言、中山中将、四中将、薄、左頭、
中御門弁、柳原大納言卿二日御番請取にて、其被参也、正親町中納言参て、御供不申て、
跡のこりて、二ヶ所手おい、あとよりのき申、余存河勝左近ト申者、余をたつねて、御供申、のけ申
ひるいもなき事也、のかれ事あるましき事也、にて御座候由各申入也、庭田、
川端はせ参て、御供申、これきとくとて御ほうひ也、介被参事、各上にて不存也、
夕方屋敷共見物、くひ、しにん、かすかきりなし、
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29 ななしのよっしん
2013/02/06(水) 12:08:40 ID: NzHpy70stE


二日、晴れ。まだ寝ていなかったところに、袖越中が来て、「信長がいた法宗の寺・本寺を明智が攻め、焼き討ちにした」と伝えてきた。
私はそのまま外出し、二条御所へ参ろうとしたところ、くも軍勢が取り巻き、入ることができなかった。
ほかの公家たちも入れなかった。
井上という光秀臣に「御所に入りたい」と言ったが、それはできないと言われた。
しばしその場にとどまり、どうしようか迷っていたが、時間が経ったので、天皇の御所へ参上し、以上の次第を報告した。
介(信忠)は王の居場所である二条御所に入ったが、そのまま(そこを)攻撃された。
村井貞勝王に逃げることを勧め、この日当番だった公家たちがお供し、逃れた。
(脱出したのは)王以下、若宮様・二宮様・五宮様・姫宮様・御あの局、そのほか女房たち、公家飛鳥井教・継の子、庭田重保・高倉永相・中山・四季満・薄諸・左頭・中御門であった。
柳原は二日の当番と交代するため、に御所に参上していたが、脱出のお供はせず、居残って二か所に傷を負い、あとから脱出した。
私の知る河勝左近という者が私を訪ね御所にやって来て、王にお供して脱出した。
「たいへんなことになった、信忠はまず脱出できないだろう、これはの思し召しである」などとそれぞれが天皇の御所で言っていた。
庭田重保と河端喜はに御所へ馳せ参じ、王にお供した。
このことは奇特であるということでご褒美があった。
信忠二条御所に入ったことは、上御所にいた面々は知らなかったのである。
夕方二条御所を見物にでかけたが、首や死者の数がおびただしかった。
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30 ななしのよっしん
2013/02/06(水) 12:19:32 ID: NzHpy70stE
98Lx7M4Pofの誤読、および捏造


豊が聞いたのは「信長のいた本寺が焼き討ちにされた」ということである。
 信忠のことも二条御所のことも聞いていない。

信忠が泊まっていたのは妙覚寺である。
 よって豊は王の「救出」に向かったのではなく、本寺の近くにいた王が心配になって向かったのである。

光秀ではなく、光秀臣に断られたのである。

・「信忠がここに籠っているので」「絶望した」などとは書かれていない。

・当然だがこの日記を書いたのは事件の後なので、豊がいつ信忠二条に籠ったことを知ったのか、
 天皇の御所での報告内容にこれが含まれていたのかは不明である。
 おそらく河勝の報告ではじめて聞いたのではあるまいか。

・「再三再四の説得」などしていないし、豊は二条御所に入れてもらっていないし、信忠から王脱出の報を聞いたのではない。

・98Lx7M4Pofは「参度」を「まいりたく」ではなく「さんど」と読むなど、古文常識上およそありえないミスをいくつもしている。
 その上「信忠がここに籠っているので」「絶望した」などと独自の捏造を加えている。
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この掲示板には規制がかかっていて、投稿できない状態です。