どこにも負けないらーめんを作りたい。
らーめん世界とは、石川県金沢市を本拠地とするラーメン店である。
1996年8月30日に金沢市西泉2丁目で創業したラーメン店。北陸三県と滋賀県に展開し、8番らーめんや岩本屋、麺家いろは、西町大喜と並んで北陸地方で愛される人気ラーメンチェーン店である。
ほぼ全店舗黄色を主体とした店構えで、筆書きで書かれた店名とメニューはひと際インパクトを放っている。なお、黄色い看板から連想して二郎系ラーメンと間違えられることが多いが、全く関係しておらず、大阪府にある「らーめん大王」をルーツとしているラーメン店である。(実際、「らーめん大王」も看板が黄色く、風貌が「らーめん世界」と似通っている部分がある。)
らーめんは豚骨醤油ベースを主体とし、スープには豚のげんこつ、鶏のもみじ、生姜、にんにく、ねぎをダシとして使用。これに加えるかえしとして、創業以来継ぎ足され続け、豚の旨味がしっかりと染み込んでいる自家製チャーシューの煮出しを使用。この煮出しの原料は、金沢大野のヤマト醤油と富山の畑醤油をブレンドしたお店オリジナルの醤油を使用している。このかえしによって、ほどよい塩味と深いコクを演出している。麺は長野県産石臼挽き小麦粉を配合した中ちぢれ麺を使用。こってり系ながらもスープはさらっとしており、女性でも食べやすく、深いコクが味わえるらーめんとなっている。
このほかの人気メニューとして、高級な干し貝柱をふんだんに使用し、上品なコクを引き出した「加賀味噌らーめん」、しっかりした食べごたえで、脂身がトロットロの自家製チャーシューをふんだんに投入した「チャーシュー麺」、辛さが調節できる「四川加賀味噌らーめん」、沖縄県産深煎り塩「ぬちまーす」と鶏の旨味と焼きあごをスープに加えた「鶏塩らーめん」などがある。また、夏季限定として「冷やし中華」が提供されており、こちらも定番商品として人気がある。
ラーメン以外の定番商品として「絶品やきめし」があり、こちらも人気の一品となっている。やきめしに使う卵は黄身の味が濃い卵を厳選し、米は粒が大きく甘みのある2種類の米をブレンド。具材には粗みじんにした自家製チャーシューやネギをなどを使用し、パラッパラに炒めあげている。味はチャーシューから来る醤油の深いコクとこしょうのスパイシーな味わいがしっかりと効いており、「これぞお店のチャーハン」とも言える一品となっている。
あまりにも旨すぎるためか、ラーメンを頼まずやきめしだけを頼む人も多く、これに反応してか、店側も一品料理とやきめしをセットにした「やきめしセット」を販売している。
ちなみにこのやきめしのテイクアウト販売も行っている。
1969年に富山県で生まれ、学校教員になることを目指して大阪学院大学に入学した創業者で現社長の石野康弘氏は、学生生活のために関西のラーメン店でアルバイトを始める。このラーメン店というのが、大阪府吹田市岸部に本店を置き、大阪府内に4店舗展開する「らーめん大王
」で、店の社長である岡田國男氏と運命的な出会いを果たす。
「らーめん大王」社長の岡田氏は15歳で料理の道に飛び込み、現在の4店舗展開のラーメン店を持つまでの実力を持っていた。これに石野氏は憧れを持っていたのであった。石野氏が在籍していた当時の店での岡田氏の姿は、社長の地位を持ちながら積極的に厨房に入り、不手際があれば烈火のごとくしかりつけた。その反面、懐の深い男として指導し、石野氏も師匠としてこれに倣った。岡田社長も真面目にいそしむ石野氏を見て、アルバイトながら店長格と同等に扱うようになった。
岡田社長から言われたその一言に石野氏は感銘を受けた。大学生活は授業と部活(バレーボール)とアルバイトの三刀流でこなしおり、ひどく疲れていたが、岡田社長に会えば疲れが吹き飛んだ。
4年生になった石野氏は日に日にそう願うようになった。元来は学校教員を目指していたが、岡田社長の元へ就職することがそれ以上の夢として膨らんでいった。
しかし、世間知らずの自分が社長の役に立つかどうか一定の不安もあった。また、家族からも反対の声が上がった。そこで、石野氏はいったん「普通の社会」を経験してから岡田社長の元へ転職しようと考えた。そして、富山県内の薬品会社へUターン就職を決めた。
富山県の薬品会社へ就職した石野氏であったが、上司や先輩のことが未来の自分の姿に見えてしまい、全くやりがいを感じられなかった。
結局、就職2ヶ月で脱サラすることを決意。誰にも相談せずに独断で辞表を提出。これを知った両親はひどく怒り、「お前なんか帰ってくるな!」と怒鳴りつけた。
両親に勘当をつけられてしまった石野氏は単身大阪へ再び向かい、岡田社長の店へ戻った。岡田社長もこれを受け入れ、再びラーメン職人としての道を歩みだしたのであった。家は家賃15,000円のアパートを借り、家具はゴミ捨て場にあったものを拾い集めた。
「いつか見とれ。自分の店を持つまでは絶対に家に帰らんぞ。」
そう決心した石野氏は、岡田社長の元でラーメン職人としてのノウハウを学んだのであった。
岡田社長の元で働いて約4年、「ここを出てもっと大きくなれ。ふるさとに帰って独立せい。」と社長から突然茶封筒で2000万円もの札束を積まれて、独立することを勧められた。石野氏は「社長のために」と一心で働いていたため、独立をまだ考えていなかったが、「お前は俺の夢なんや。」と言って説得され、独立を決めた。ちなみにこの2000万円について岡田社長は、「儲かったら返してくれればいい。失敗して返せなかったら戻ってこいや。またチャンスをやる。」と話した。
石野氏は自分の力を試すため、地元富山ではなく、あえて隣県である石川県金沢市に出店することを決めた。ちなみに、市街地の片町や金沢駅前、車が多く行きかう国道8号沿いではなく、創業当時まだ田んぼだらけだった西泉に出店したことについて、石野氏は「俺のラーメンは田んぼの真ん中でも売れる」と自信満々に意気込んでいた。ちなみに創業の地を紹介した不動産屋から「商売するならあんまりオススメできんよ」と言われていた。
満を持して独立1号店をオープンした石野氏であったが、客足は意に反し1時間に1~2人来る程度で、まさに閑古鳥が鳴くような有様であった。その理由として、当時の金沢の人達は石野氏が社長の元で修業し、独立後も看板メニューとして出していた豚骨醤油ラーメンになじみがなく、なかなか受け入れてもらえなかったのである。そのため、スープも飲み干さずに去っていく客がほとんどだった。
石野氏はこれを見かね、泊まり込みでスープの味を金沢の人達の味に合うように研究し、微調整を続けた。そしてある日、ラーメンを食べた男性客から握手を求められ、「本当においしかった、ありがとう。」とお礼を言われた。この瞬間、石野氏はついに着地点を見つけたと確信したのである。
西泉にある1号店をオープンして数年後、「らーめん世界」の味は口コミで徐々に広がり、北陸地方の人気ラーメン店にまで成長。岡田社長から融資された開店資金も、1年半で返済することに成功した。また、店を運営する「有限会社翔志」も2003年11月に株式会社に改組し、本社事務所を白山市田中町へ移転オープン。のちにこの隣接地には2号店である「らーめん世界 松任店」をオープンし、現在の実質的な本店となっている。(西泉店は創業店として現在も営業している。)
そして2005年8月に富山ブラックラーメンのある富山県、2006年4月に岩本屋の本拠地である福井県に殴り込み店舗進出を果たし、以降8番らーめん、岩本屋、西町大喜、麺家いろはなどと並んで北陸地方の大手主要ラーメン店にまでのし上がったのである。
現在は北陸地方を中心に10店舗、滋賀県に1店舗展開し、独立店舗も4店舗存在している。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 04:00
最終更新:2025/12/06(土) 04:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。