アトランタ級軽巡洋艦とは、アメリカ海軍が運用していた軽巡洋艦である。
ロンドン海軍軍縮条約の枠組みの範囲で旧式化した既存軽巡洋艦の更新及び駆逐艦部隊の嚮導(指揮+先導)及び防空戦闘を想定して11隻が建造され、太平洋戦争において2隻が戦没し残る9隻は戦後退役した。
全長165m、最大幅16m、満載排水量8,300tの船体は75,000馬力の蒸気タービンで最高速力33kt、18ktで8,500海里の航続距離を持たされていた。
艦上構造物は初期型では艦橋を中心に丸みを帯びた外観だったが中期型から生産性と室内容積を広くとれる直線状の構造物に変更されている。
主砲は当初、連装式152㎜両用砲4基が計画されていたが開発が難航したことから連装式127mm両用砲に変更されると共に艦首側3基、船尾楼から艦尾にかけて5基を装備して総計8基16門とした。
但し中期建造型から船尾楼両舷の2基を撤去して6基12門に削減し、後期建造型では6基の内4基を背負い式配置から水平配置にしているがこれらは重心を低くする改良措置であった。
副兵装は当初28㎜4連装機銃、20㎜単装機銃の組み合わせだったがこの内、28㎜は40㎜機銃に換装される[1]と共に20㎜共々増備された。
また水雷兵装は533mm4連装魚雷発射管を船尾楼両舷主砲後方に各1基=2基備え艦尾には爆雷投射機計6基、爆雷投下軌条2基を備えていたがこの内魚雷発射管は最終的に撤去され機関砲配置スペースに充てられた。
なお、後述する『ジュノー(2代目)』は40㎜機銃及び20㎜機銃に換えて76㎜両用砲[2]が装備された。
一方で装甲は舷側で最大9㎝、艦橋司令塔で6㎝と薄目である。
本級がネームシップ『アトランタ』を皮切りに就役を開始したのは1941年12月末=対日開戦直後であるが本格的に前線に投入されたのは1942年の『ミッドウェー海戦』からで想定通り対空戦闘に従事する。
ただ、この頃はまだ日本の航空機パイロットは熟練者が多くを占めていた事や就役から日が浅かった事も相まって護衛対象である正規空母への攻撃を防ぎ切れず『南太平洋海戦』に至っては『サンファン』が不発ながら急降下爆撃が命中し戦線離脱を余儀なくされている[3]。
そして『南太平洋海戦』から半月経った11月12日、『第三次ソロモン海戦』が生起する。
日中はガダルカナル島への米軍増援部隊を揚陸していた輸送船団とヘンダーソン飛行場を襲った日本航空機部隊を『アトランタ』、『ジュノー(初代)』が追い払った後に金剛級戦艦『比叡』、『霧島』を中心とする日本艦隊がガダルカナル島へ向かっていると情報が入り『アトランタ』達を組み込んでいたアメリカ海軍『67.4任務部隊』は輸送船団を逃がして迎撃態勢をとった。
但し日本側が戦艦2隻・軽巡1隻を擁していたのに対しアメリカ側は重巡2隻、軽巡3隻と砲力不足が明らかであったが1ケ月前の『サボ島沖海戦』同様にレーダーを活用すれば差は埋められると判断していたと見られている。
そして翌13日深夜になるとレーダーによりアメリカ側は日本より先に察知していたが旗艦『サンフランシスコ』に装備されていたレーダーが旧式だった為、新型レーダーを装備していた艦へ問い合わせてから攻撃判断をする、というやり取りをしている内に駆逐艦群が指令を間違えて方向を変えたことにより陣形が乱れてしまった。
しかし日本側も直前のスコールにより作戦中止をしようとした矢先にスコールがが止んだため目的のヘンダーソン飛行場砲撃を決断・実行しようところだったが方向転換の為露払いの駆逐艦が後方に出た事により旗艦『比叡』が先頭に出てしまった直後にアメリカ艦隊発見の報が入りそのまま戦闘に突入した。
先に被害を受けたのは『アトランタ』であった。
駆逐艦『暁』に接近されたが探照灯を使用していた事からすぐさま反撃に移り最終的に沈没に至らしめたのは良かったが確実に仕留める為に『アトランタ』も探照灯を使った事で位置が日本艦隊にわかってしまっただけでなく混乱していた『67.4任務部隊』旗艦『サンフランシスコ』[4]から誤認され[5]日米双方から集中砲火を浴びてしまった。
前述の装甲の薄さがプラスに働いて炸裂はしなかった反面、艦橋にも被弾した事から『67.4任務部隊』副将であったノーマン・スコット少将と傘下幕僚がほぼ戦死したのである。
しかも『暁』から放たれた魚雷が機関を破壊した事で航行不能となった。
艦長が健在だった為ダメージコントロールに努めたが自力航行が不可能かつ戦況は工作艦等の支援を受けれる状況ではなく13日の夜に自沈した。
だがそれを上回る惨劇に見舞われたのは『ジュノー』だった。
戦闘で魚雷を受けて速力が低下しつつも航行はできた事から残存艦と後退していた13日の午前、突如として大爆発に見舞われ30秒もしないうちに轟沈したのである。
これは日本潜水艦『伊26』による雷撃だった[6]。
これを目撃したアメリカ艦隊は状況から『生存者無し』と判断しつつも一応、航空機による捜索を依頼する通信を送って離脱した。
しかし沈没直後は艦長以下100人程度が生存しており彼らは救助を待っていたが前述の依頼に基づいた航空機がやってきたのは沈没から8日後[7]で生き残っていたのは10人のみ=艦長以下800人近くが戦死する惨事となった。
そして戦死者の中には長男ジョージ、次男フランシス、三男ジョゼフ、四男マディソン、五男アルバートの『サリヴァン兄弟』[8]が含まれており、最高指揮官フランクリン・ルーズベルト大統領のみならず時のローマ教皇・ピウス12世からも追悼メッセージが遺族に贈られる事態に発展し、『軍務に従事している兄弟姉妹のいずれかが戦死した場合、(血筋を守るため)生存している兄弟姉妹を軍務から外す』事を規定した『ソウル・サバイバー・ポリシー』へ繋がった。
そして『ジュノー』の名は後期建造型1番艦に引き継がれると共に駆逐艦『ザ・サリヴァンズ』[9]が誕生することになった。
なお、『アトランタ』はクリーブランド級26番艦に引き継がれた[10]。
ソロモン諸島の戦いが一段落し本格的に連合国側が優勢になってくると水上艦との戦闘機会は激減し本級は味方艦艇ないし上陸作戦時の防空戦闘がより主体となっていた。
そうした中で1944年8月、実質上、小笠原諸島への威力偵察『スカベンジャー』作戦中に『オークランド』が僚艦と共に輸送船団を護衛していた日本駆逐艦『松』を合同で撃沈している。
その一方で11月にフィリピン攻略戦に従事していた『リノ』が日本潜水艦『伊41』[11]の雷撃を受け大破して本国へ後送され修理中に終戦を迎えている。
終戦後、戦闘を生き残った艦は復員兵の本国輸送もしくは練習艦任務に従事していたが終戦1年後から順次モスボールが始まり1950年には終戦後に就役した後期建造型を含む8隻が予備役となった。
しかし象徴的存在である『ジュノー(2代目)』は現役に留まっており1950年6月25日の朝鮮戦争開戦時点において直近で北朝鮮軍に対応できる貴重なアメリカ海軍の水上艦だった。
そして7月に北朝鮮に制圧されていた江原道沖の日本海でイギリス艦2隻と警戒中の『ジュノー』は北朝鮮の魚雷艇部隊と遭遇して3隻を撃沈、続けて輸送船団を殲滅して制海権を確保することに貢献した[12]。
尤もアメリカ海軍は艦砲のみの水上艦による対空戦闘に既に見切りをつけて艦対空ミサイルの導入を進めており船体規模に余裕がなかった本級は1959年から除籍が始まり1972年には全艦が除籍された。
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最終更新:2025/12/15(月) 06:00
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