サザンフィーバー 単語


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サザンフィーバー

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サザンフィーバーSouthern Fever)とは、1982年生まれの日本競走馬栗毛

一の初年度産駒として生まれ、後の二冠馬と東西3歳王者と後の天皇賞をまとめて破る――それを前に散った悲運の快速逃げ

な勝ち
1984年黒松賞(400万下

概要

ベストブラッドルラウス、*フィリュースという血統。

彼については、まずその誕生の経緯から語らねばならない。
ベストブラッドは、大種牡馬*パーソロンと、自身は不出走ながらリーディングサイアーCrepelloと1000ギニーAbermaidという良血*クレペラの間に産まれた、青森県八戸市の老舗・タイヘイ牧場[1]の期待だった。しかし体は素らしかったものの、生まれつき右前脚が曲がっているという重大な問題があり、入厩はしたが結局競走馬としてはデビューすらわなかった。
タイヘイ牧場はこの良血の期待を惜しみ、不出走ながら種牡馬として供用することにした。初年度の種付け料を無料に設定してを募ったが、それでも余所から種付け依頼は結局ゼロ。初年度に種付けしたたった1頭、それがタイヘイ牧場が近所の農家に預けていたルラウスであった。
このルラウスも、重賞を数頭出したそこそこの種牡馬牝系には特に立ったもなく、サザンフィーバーが第7なのだが上の6頭は地方で5勝したが1頭いるだけであとは未勝利という、はっきり言って期待値ゼロの繁殖だった。1歳上のまではタイヘイ牧場産なのに、余所の農家に預けられていた時点でその立場はお察しというものである。

1982年4月24日、不出走であるの、たった1頭の初年度産駒として青森に生まれたサザンフィーバー。血統的にははっきり言っても注するはずがないであった。
しかしを管理した美鈴木調教師は、ベストブラッド一の産駒が生まれたと聞いて青森まで彼を見に行き、「これは大物になる」と直感。鈴木厩舎と縁の深い堀越毅一オーナーが彼を購入し、サザンフィーバーは鈴木厩舎から中央でデビューすることになった。

※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。

熱狂は遠く南の

というわけで鈴木厩舎にやって来たサザンフィーバーは、調教を始めてみると鈴木師の直感通りによく走った。デビュー1984年11月3日東京・芝1800mの新馬戦。この血統で単勝8.0倍の3番人気に支持されたのだから、いかに調教時計が良かったかという話である。
そしてそのデビュー戦では、柴田政人上に好スタートから逃げを打つと、思うままに後続を突き放して、9馬身の大圧勝。勝ち時計も1:50.5の好時計で、当時の競馬ファンや関係者が「ベストブラッドって誰だよ!」と困惑したのは想像に難くない。しかもこのときの3着には、後にダービー菊花賞で2着、重賞3勝を挙げるこの世代の代表的活躍の1頭・スダホークがいた。

この勝ちっぷりで、続く12月中山・芝1600m、黒松400万下)は単勝1.5倍という断然人気に支持され、危なげなく1:35.4の好時計勝利。どこの馬の骨ともわからぬ血統、生産者(彼の生産者名義はタイヘイ牧場ではなく、ルラウスの預託先だった中屋敷正治だった)青森産馬は、2戦2勝で翌年のクラシックの有力補の一となった。

明けて4歳、初戦のジュニアカップ(OP)は断然人気に支持されたが、明らかな太め残りで逃げ切れず3着(スダホーク2着)。続いて向かった共同通信杯4歳ステークスGⅢはドロドロの不良馬場となり、鈴木師は調教段階から悪はダメだと感じていたが、逃げ紅一点ウメフリートを2番手で追うと、4で捕まえて押し切りを図り、サクラユタカオーらにかわされたものの3着に残した。

そして迎えた皐月賞トライアルスプリングステークスGⅡ。この年のスプリングSレース史上稀に見るメンバーで、断然人気は五冠シンザンの最高傑作と噂される大器ミホシンザン。2番人気は社台ファーム悲願のダービー制覇をす東の3歳王者スクラムダイナ、3番人気は東上してきた西の3歳王者ダイゴトツゲキ。さらに5番人気にはデビュー3連勝のマルゼンスキー産駒ブラックスキー、6番人気には後の天皇賞クシロキングもいた。戦の柴田政人ミホシンザンに奪われて増沢末夫に乗り替わりとなったサザンフィーバーは連敗で若干評価を落としてはいたもの、2戦とも敗因は明確であったことや、逃げ定評のある増沢騎手ということもあり、このメンバーの中でも4番人気に支持された。

レースが始まる。好スタートを決めたサザンフィーバーと増沢末夫は、軽快なペースで後ろを3馬身ほど離して逃げを打った。ミホシンザンスクラムダイナは中団に構え、他のはそれをマークしたため、楽な単騎逃げという絶好の展開となったのである。そのまま抜群の手応えで4コーナー回る。増沢騎手はちらりと後ろを振り返る余裕を見せ、まずい、と気付いた後続が追いかけてくるが、々と逃げたサザンフィーバーの脚は止まらない。

場内がざわめく。このまま行ってしまうぞ、ともが思った、残り300m。
突如、サザンフィーバーは崩れ落ちた。
ゲートが置かれてできた馬場みに脚を取られたのである。
右前脚から転倒。増沢末夫は落。競走中止。

先頭を走っていたサザンフィーバーの転倒に後続は右へ左への大混乱。サザンフィーバーの後ろにいたブラックスキーは戦意を失い最下位に沈み、後方のスクラムダイナは内ラチ沿いまで突っ込まざるを得なくなる不利を受け、結局大外を回っていたため落を受けなかったミホシンザンが快勝。
そして起き上がって痛みに暴れるサザンフィーバーの右前脚は、にも明らかなほどに、ブラブラと力なく揺れていた。
右前脚粉砕骨折予後不良

幸い軽傷で済んだ増沢末夫は担架で運ばれる最中「絶対に勝ってた……」とき、鈴木師はショックで寝込んだという。
後の二冠馬も、東西3歳王者も、後の天皇賞もまとめて蹴散らして、クラシックへ高らかと名乗りを挙げるはずだった快速逃げは、デビューから僅か4ヶ彗星のように消えていった。通算5戦2勝。

ただ、サザンフィーバーの活躍はベストブラッドの評価を大きく高め、青森タイヘイ牧場から北海道アロースタッドに栄転。1985年は49頭、1986年は62頭と種付け数は急増し、重賞2勝を挙げたホワイトアローなどの活躍を輩出。晩年はまた青森に戻ったが、1995年まで15年間にわたって種牡馬生活を続けることになった。

の名を刻むためだけに生まれてきたような悲運の快速逃げサザンフィーバー。実績だけ見れば一介の重賞勝利だが、その出生と快速ぶり、そしてスプリングSの悲劇で当時の競馬ファンには実績以上に強い印を残したである。
もしあのときサザンフィーバーが事に逃げ切っていたら、ミホシンザン敗でなくなり、ブラックスキーの低迷もなく、そして何よりサザンフィーバー自身が本命の一として出走し、少なくとも皐月賞の様相は全く違っていただろう……。考えても詮きことではあるが、当時の競馬ファンにはそんな割り切れぬ思いを抱きながら1985年クラシックを観戦した者も多かったという。

現在ではミホシンザン1985年クラシック世代が語られる機会が多くはないため、彼の知名度は決して高いとは言えないが、『ウイニングポストシリーズでは1984年スタートの場合、自己所有しなければ最序盤にレース中に予後不良になってしまうとしてプレイヤーにその名が知られている。

血統表

ベストブラッド
1977 芦毛
*パーソロン
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
*クレペラ
1965 芦毛
Crepello Donatello
Crepuscule
Abermaid Abernant
Dairymaid
ルラウス
1968 鹿毛
FNo.5-h
*フィリュース
1953 鹿毛
Pharis Pharos
Carissima
Theano Tourbillon
Souryva
*ルーラーシエヴ
1957 鹿毛
Prince Chevalier Prince Rose
Chevalerie
Starullah Nasrullah
Nova Puppis

クロスPharis 4×3(18.75%)

関連動画

残念ながらニコニコにはウイポ動画しかない……。YouTubeサクラユタカオーが勝った共同通信杯exitがあります。

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *90年代はじめに生産拠点北海道に移し、八戸市の本場は現在育成牧場として使用されている。な生産ゴーカイサニングデールシルポートなど。
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