加賀武見(かが たけみ)とは、青森県上北郡天間林村(現・七戸町)出身の日本の元騎手、元調教師である。
加賀武見 かが たけみ |
|
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
性別 | 男性 |
出身地 | 青森県上北郡天間林村 |
生年月日 | 1937年9月8日 |
騎手情報 | |
所属 | 日本中央競馬会(JRA) |
東京競馬場→美浦T.C. | |
初免許年 | 1960年 |
免許区分 | 平地・障害(-1961) |
引退日 | 1988年1月31日 |
重賞勝利 | 68勝 |
GI級勝利 | 11勝 |
通算成績 | 8,664戦1,352勝 |
表彰・記録 | |
調教師情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 | 美浦T.C. (1988.3-2008.2) |
初免許年 | 1988年 |
引退日 | 2008年2月29日(定年) |
重賞勝利 | 2勝 |
通算成績 | 3,441戦178勝 |
騎手・調教師テンプレート |
1928年3月20日生まれ。青森県の農家の4男として寒村で育つ。農耕馬も何頭もいる環境だったため馬に跨るのが好きな子供であったが、経済状況は貧しく、小学校卒業後には家業の手伝いを強いられた。
14歳のときに中学を中退し、和歌山県の港湾労働者として出稼ぎに出た。休日に近所にあった紀三井寺競馬場に立ち寄り競馬を現地観戦して競馬に魅了される。加賀はすぐさま自身のいとこであり、柴田政人の叔父でもあった柴田不二男に「自分も騎手になりたい」と手紙を送った。
1955年、柴田の紹介で京都・新堂捨蔵厩舎に入門。ただ、農業や湾港労働の影響で騎手としては必要以上の筋力がついてしまっており、減量のためにろくに食事も取れず、加えて新堂師のスパルタ指導にも苦しみ騎手試験を不合格となってしまう。
その後、家庭の事情もあり、騎手になることを断念し青森へ帰郷、泣く泣く農業をしていた。そんな折に近所の奥羽牧場にて繋養されていたゲイタイム(英国ダービー2着馬にして、後にメイズイなどを輩出する名種牡馬)を何度か見に行っていたところ、杉浦照厩舎に所属していた人物から「阿部正太郎厩舎で騎手を探しているが行ってみないか?」と声をかけられ、騎手になる夢が再燃。家族を説得し再び上京。20歳となった1957年の秋に東京:阿部正太郎厩舎に入門。
1960年、騎手免許を取得。23歳でデビューと当時としてもかなり遅いデビューではあったが、加賀は1年目から58勝を挙げ、リーディング3位と大活躍。58勝は当時の新人騎手最多勝利記録でありこの記録は、1987年に武豊が更新するまで新人記録として残り続けた。
1961年、中山大障害(春)をクニハヤで制し重賞初勝利を挙げると、天皇賞(秋)をタカマガハラで制して八大競走・GI級レース初制覇を飾る。
1962年、障害騎手免許を返納し平地競走に専念。同年は八大競走勝利こそならなかったものの、90勝を挙げ、初のリーディングジョッキーに輝くと、1966年までの5年連続でリーディングを獲得。
1963年には101勝を記録し、野平祐二に次ぐ中央競馬2人目の年間100勝騎手となった。
1965年にはハツユキで桜花賞を、アサホコで天皇賞(春)を、ベロナで優駿牝馬を勝利するなど八大競走で3勝を挙げ、年間勝利数はキャリア最多の120勝を挙げた。
1967年は落馬による負傷や交通事故に遭った事も重なり、リーディングの座を高橋成忠に奪われたが、1968年・1969年、2年連続でリーディングジョッキーに返り咲いた。また、1968年にはアサカオーで菊花賞を制している。
1972年、ベルワイドで天皇賞(春)を勝利。また、3月にはオーストラリアへ遠征し、「アジア競馬会議国際招待競走」に参戦。日本人騎手3人目の海外競馬勝利を挙げた。
1974年、天皇賞(秋)をカミノテシオで勝利。先頭で抜け出たイチフジイサミの内に切り込みながら前に出て凌ぎ切るレース運びは加賀の真骨頂とも呼べる騎乗であった。
1976年の東京優駿では、いわゆる「TTG」と呼ばれた馬のうちトウショウボーイ・テンポイント2頭が人気を集め、加賀は4番人気のクライムカイザーに騎乗。レースでは最終直線で抜け出たトウショウボーイに対して内へと切り込み、トウショウボーイが怯んだ隙に一気に抜け出し勝利。強引にも見える騎乗に一部のメディアやファンから批判はあったが、勝利への執念を感じさせる気迫の騎乗で掴み取った勝利であった。
以降は1978年にカネミノブで有馬記念を制しているが、成績は年々下降線をたどる。
1982年には自身の生い立ちと真逆とも言える超高額落札馬にして良血馬のハギノカムイオーに対し、「あいつに競馬を教えてやる」と公言。皐月賞とNHK杯では、騎乗したゲイルスポートでハギノカムイオーの先行を許さず共倒れという結果に終わらせ、ハギノカムイオーの東京優駿出走を断念させている。
1988年1月31日の東京6Rが引退レースとなった(13頭中13着)。
通算成績:8664戦1352勝、重賞68勝、うちGI級11勝。
引退後、1987年に新設された「1000勝以上の騎手は調教師免許試験1次試験を免除」の適用者第1号となり調教師に転向。1989年に開業。
調教師としては毎年10勝前後という成績を残す。
2002年、オンワードメテオで東京ハイジャンプを制して重賞初制覇を飾ると、同馬で新潟ジャンプステークスも勝利している。
スタートで勢いよく先頭に立ちそのまま逃げ切るスタイルを得意とし、ライバル馬には進路妨害ギリギリを攻める闘争心溢れた騎乗騎乗で幾度も立ちはだかった。
キャリアの初期は鮮やかな逃げ切りから「逃げの加賀」と呼ばれたが、1970年代頃には闘争心剥き出しの騎乗から「闘将」と呼ばれるようになっていた。逃げの加賀と呼ばれること関して本人はあまり好んでおらず、むしろ追い込むほうが好きだと語っていた。
いわゆる気難しい馬の騎乗を得意とし、ズブい馬や気性の荒い馬の騎乗を任されることも多かった。
同時期にリーディング争いを繰り広げた郷原洋行が最大のライバルであり、ともに先行馬に騎乗した際には激しく競り合うことも多かった。
皐月賞には1961年から1979年まで19年連続で出走し、「同一クラシック最多連続出場」を記録している。
1979年の有馬記念では進路を妨害されたとして激怒し、騎手仲間から金を借りてまで異議申し立てしたこともある。
騎手生活晩年の騎手名鑑の趣味欄には「馬にのること、馬を見ること」と記されていた。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/05(木) 10:00
最終更新:2024/12/05(木) 10:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。