野平祐二(のひら ゆうじ)とは、千葉県南葛飾郡(現:船橋市)出身の元JRA所属の騎手・調教師のことである。
野平祐二 のひら ゆうじ |
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
性別 | 男性 |
出身地 | 千葉県南葛飾郡 |
生年月日 | 1928年3月20日 |
没年月日 | 2001年8月6日 |
騎手情報 | |
所属 | 日本中央競馬会(JRA) |
中山競馬場. | |
初免許年 | 1944年 |
免許区分 | 平地・障害(-1971) |
引退日 | 1975年 |
重賞勝利 | 71勝 |
通算成績 | 7279戦1339勝 |
騎手テンプレート |
1928年3月20日生まれ。父省三は騎手兼調教師であり、祐二が5歳のときに東京競馬場近辺の府中市に移り住む。馬に囲まれた環境で育ち、父からは競馬の話を聞いて育ったため、当たり前のように騎手を志した。
1942年に中学を中退し、騎手見習いとして関東の名門尾形藤吉厩舎に入門。1944年秋に騎手免許を取得し、12月3日にデビュー。4頭立てで3着。ちなみにこのレースは戦時中のため馬券発売のない「能力検定競走」であった。その2日後の12月5日に初勝利を挙げた。同年は14戦3勝。
1945年に宇都宮へ疎開し日本競馬会の仕事に従事していたが、戦況悪化に伴い海軍飛行予科練習生乙科に願書を出願。ただ受験日に終戦となった。
1946年、公認競馬が再開され野平も復帰。尾形厩舎には保田隆芳という名騎手が戦地から帰還してきたため、質の良い馬への騎乗機会がなかなか巡ってこず、19戦2勝に終わっている。1949年に父省三の厩舎へ移籍。
1952年、スプリングステークスでアサトモに騎乗し重賞初勝利。
その後、着実に勝ち星を伸ばしていき、1957年には日本競馬初となる年間100勝(103勝)を達成し初のリーディングジョッキーとなった。翌1958年には121勝を挙げ、2年連続でリーディングを獲得。
1959年、トサオーに騎乗し天皇賞(春)を勝利し、自身初の八大競走での勝利を挙げた。また、同年オーストラリアで行われた国際騎手招待競走「インターナショナルステークス」に参戦して1勝を挙げ、海外競馬での日本人騎手初勝利を挙げた。
1964年、カネケヤキの主戦騎手を任され、桜花賞、優駿牝馬と牝馬二冠を勝利。
1967年、スピードシンボリで天皇賞(春)を勝利。後の同馬とのコンビで海外を転戦し、アメリカのワシントンD.C.インターナショナルに参戦(9頭中5着)、1969年にはイギリスのキングジョージクイーンエリザベステークス(9頭中5着)やフランス、ドーヴィル大賞典(11頭中10着)、凱旋門賞(着外)にも参戦。人馬ともに日本初の凱旋門挑戦であった。凱旋門賞後には日本に帰国し、ほとんどぶっつけ状態で出走した有馬記念で勝利している。
1972年、シンボリのオーナーである和田共弘氏ら複数の馬主の協力を得て、日本ホースマンクラブを結成。クラブのオーナーたちが共同出資をしてヨーロッパで馬を買い、その馬に野平が騎乗、好成績だった馬を日本で繁殖馬とする計画であった。野平はフランスのシャンティイに一軒家を購入し活動拠点をヨーロッパ中心に変えたが、思うような成果を挙げられず計画は頓挫した。それでも野平は1勝を挙げ、ヨーロッパでの日本人騎手初勝利を挙げている。この年野平は中央競馬で通算1296勝目を挙げ、当時の中央競馬歴代最多勝利記録を更新している。
1974年8月、父省三が亡くなり、現役に未練はあったものの厩舎を引き継ぐため、騎手引退を決意。1975年2月、引退レースとなった目黒記念では父の管理馬であったカーネルシンボリに騎乗して勝利。同日は他にも騎乗依頼が届いていたが騎乗依頼をすべて断り目黒記念に専念、見事有終の美を飾ってみせた。
1976年、同じくホッカイノーブルでステイヤーズステークスに勝利して重賞初制覇。
1984年からはシンボリルドルフの管理を担当。主戦騎手の岡部幸雄や調教助手として在籍していた藤沢和雄とともに調教プランを立て、三冠馬に育て上げると、以降も圧倒的な力で勝利を重ねていき、7冠という偉業を達成。天皇賞(秋)出走時には「競馬には絶対はないがシンボリルドルフには絶対がある」とコメントを残している。シンボリルドルフの活躍もあり、1984年、1985年の重賞獲得調教師賞を受賞している。
ただ、シンボリルドルフの出走プランに関してシンボリ牧場やオーナーの和田氏と対立、絶縁状態となってしまう。これによりシンボリの馬が入厩する事が無くなり、厩舎の勝利数もやや失速してしまった。
2004年、調教師・騎手顕彰者として殿堂入り(騎手部門)を果たした。
高い技術で常にファンを魅了する騎乗を心がけていた「ミスター競馬」。
その騎乗スタイルはスマートで柔らかい騎乗であったといい、日本で「モンキー乗り」を広めた保田隆芳より以前に独自に研究しモンキー乗りを習得していたという。「他人を妨害するのはもちろん、妨害されるのもプロ失格である」と語るなどフェアプレー精神にも溢れていた。誰もが認める名ジョッキーながら、牡馬三冠には手が届かなかった。
「ミスター競馬」という愛称は「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄氏になぞらえて、野平と親交の深かった競馬記者が命名したものである。
戦後の競馬廃止論を目の当たりにしていたことから、競馬の魅力を発信しようとメディアやファンに対し真摯に対応をしていた。交友関係も広く、芸能人の大橋巨泉や作家の寺山修司、プロ野球監督の広岡達朗らと週末に野平家に集まり競馬談義に花を咲かせていた。仲の良い人物からは「祐ちゃん」と呼ばれていた。
少年時代はいわゆる『ガキ大将』であり、仲間といたずらをして遊んでいた。また、差別のような意地悪をされたときは、一人で仕返しにいっていたという。
騎手見習いだった頃、尾形厩舎では戦中期を代表する名牝クリフジが変則三冠を含め11戦11勝の活躍を収めていた。そんな彼女の活躍を間近で見届けていたこともあってか、野平は「史上最強馬は誰か」という質問に対して迷いなくクリフジを挙げている。
※ニコニコ大百科に記事のある競走馬を記載。( )内は野平騎乗での勝ち鞍。
JRA調教師・騎手顕彰者 | |
騎手 | 野平祐二 | 保田隆芳 | 福永洋一 | 岡部幸雄 | 河内洋 | 郷原洋行 | 柴田政人 |
---|---|
調教師 | 尾形藤吉 | 松山吉三郎 | 藤本冨良 | 武田文吾 | 稲葉幸夫 | 二本柳俊夫 | 久保田金造 | 伊藤雄二 | 松山康久 | 橋口弘次郎 | 藤沢和雄 |
騎手・調教師テンプレート |
中央競馬の三冠達成調教師 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | ★田中和一郎 | 尾形藤吉 | 藤本冨良 | ★武田文吾 | ★松山康久 | ★野平祐二 | 布施正 | ★大久保正陽 | ★池江泰郎 | 角居勝彦 | 長浜博之 | ★池江泰寿 | 友道康夫 | ★矢作芳人 | |
---|---|---|
牝馬三冠 | 尾形藤吉 | |
変則三冠 | 尾形藤吉 | |
中央競馬牝馬三冠 | 稲葉幸夫 | ★奥平真治 | 松田由太郎 | 鶴留明雄 | 松田博資 | 伊藤雄二 | ★松本省一 | 西浦勝一 | 松田国英 | ★★国枝栄 | ★石坂正 | ★杉山晴紀 | ★中内田充正 |
|
古馬三冠 | 春古馬 | 達成者無し |
秋古馬 | 岩元市三 | 藤沢和雄 | |
★は同一馬による達成者。変則三冠、古馬三冠は同一年達成者のみ。 | ||
調教師テンプレート |
掲示板
1 ななしのよっしん
2023/08/17(木) 12:07:38 ID: bYlQVyk0Yk
「僕は最後の最後まで勝負師になりきれなかった。最終騎乗までただひたすら、❝格好良く勝つ❞事しか考えていなかった。❝どう格好良く勝てば、競馬のイメージを上げられるか❞、それしか考えていなかった」
本当、「生を受けるのが余りにも早過ぎた競馬人」と言うイメージしか無い
しかし、野平祐二と言う…「気障ったらしくも格好良い」先人が居たからこそ、福永洋一や田原成貴、武豊と言う「大天才」が生まれたのもまた事実
もし野平祐二騎手が本気を出していたら一体、どれ程の成績を叩き出していたのか…興味は尽きない
2 ななしのよっしん
2024/03/06(水) 22:08:59 ID: JBqb1vlJFF
今となっては縁深い岡部幸雄も藤沢和雄も一線を退いてしまったけども
やっぱりその二人が折に触れて話す内容を見るに、(正しい意味で)「意識の高い人」だったんだろうなというのが伺える
多分こういう人が居たから、競馬は戦後の空気から脱却できたんだろうなと
3 ななしのよっしん
2024/11/06(水) 23:11:40 ID: dlLxnAjGdb
シンボリの和田さんやメジロの北野さんたちとともに世界に挑んだ男
世界に追いつけ追い越そうとしたホースマンたちの努力があって今の日本競馬は存在してるんだな
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最終更新:2024/12/26(木) 21:00
最終更新:2024/12/26(木) 20:00
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