萩(橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した橘型/改松型/改丁型駆逐艦4番艦である。1945年3月1日竣工。復員輸送任務に従事後、1947年2月16日にイギリスへ引き渡された。
艦名の由来はマメ科ハギ属の総称ハギから。萩という漢字は平安時代中期に日本で生まれた国字。中国にもヨモギを指す漢字として萩があるが、成り立ちが違うため「同形ながら別字(要は偶然の一致)」と解釈される。
戦前、大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに対し数の不利を覆すため、性能を重視する個艦主義を掲げて突き進んできた。しかし、大東亜戦争が勃発すると想像以上の早さで艦が失われ、特にガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで多くの艦隊型駆逐艦を喪失し、短時間での大量生産が困難な艦隊型駆逐艦より、安価で大量生産が可能な中型駆逐艦が必要だと痛感。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦計画)において、建造に時間が掛かる秋月型の建造を全て中止し、代わりに戦時急造に適した松型駆逐艦が量産される事になった。松型は起工から竣工まで半年という驚異的な早さで誕生するが、それでも国力に富むアメリカ相手では足りないと判断し、夕雲型の建造計画を全て廃止して、1944年3月より松型を更に簡略化した改丁型(橘型)の設計に着手する。
改丁型に求められたのは徹底的な工期の短縮。まず参考にしたのが既に簡略化が進んでいた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦であった。鵜来型同様シアーを廃した直線状の船体を採用、艦尾も垂直にバッサリ切り落としたかのようなトランサム型にし、船体装甲をDS鋼から入手が容易な軟鋼に変更(松型のシアーや上甲板に使われていたHT鋼さえも軟鋼に統一)、二重船底を単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略やリノリウムの使用を全面廃止、松型では部分的にしか使われていなかった電気溶接やブロック工法といった新技術を本格的に投入するなど涙ぐましい努力を重ね続け、松型の工数約8万5000から約7万に削減。建造期間は僅か3ヶ月にまで圧縮された。一方、松型の長所だった機関のシフト配置は建造の手間が増える事を承知で受け継がれ、被弾しても航行不能になりにくくしている。
船体は簡略化したが水測装備は戦訓を汲んだ本格仕様となった。何かと性能が貧弱だった九三式探信儀と九三式水中聴音機を、ドイツから持ち帰った技術が結実した高性能の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。対空能力の強化にも力を入れ、13号対空電探、22号水上電探、九七式2メートル高角測距儀を建造時より搭載、輸送任務を見越して小型発動艇2隻と6メートルカッター2隻も積載しており、対潜・対空に優れる戦況に即した能力を手にした。速力の低さが唯一の泣き所だったものの、戦時急造型にしては意外なほど高性能を発揮したという。
福井静夫元少佐の著書『写真集:日本の軍艦』には「性能良く被害に対して強靭、その兵装適切、簡易船ながら成功した艦である」と綴られている。
要目は排水量1350トン、全長100m、全幅9.35m、出力1万9000馬力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重油積載量370トン。兵装は40口径12.7cm連装砲1門、同単装砲1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機銃4門、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。
1944年度計画において丁型一等駆逐艦5517号艦の仮称で建造が決定。
1944年9月11日、横須賀海軍工廠で起工、11月5日に駆逐艦萩と命名され、11月28日に進水、次いで12月25日、艤装員長に森本嘉吉少佐が着任し、そして1945年3月1日に無事竣工を果たした。初代艦長として森本少佐が着任するとともに士官9名、特務士官2名、候補生1名、准士官6名、下士官60名、兵219名が乗艦。訓練部隊の第11水雷戦隊へ編入される。
竣工後も3月4日まで工廠内で諸搭載作業と停泊訓練を実施。実際に海軍へ引き渡されたのは3月5日の事だったようだ。
3月12日午前9時、姉妹艦の柿と一緒に横須賀を出港。目的地の瀬戸内海西部を目指す。航行中に諸訓練を行って練度を高めていたが、翌13日午前5時、仮泊地の宇佐美湾を出発した直後に柿の一号缶管1本が破裂する事故が発生、この時は応急修理でどうにか片方の缶で航行再開したものの、3月15日午前6時40分、潮岬灯台92度45海里沖で今度は二号缶が破裂し、とうとう航行不能に陥ってしまった。
萩は身動きが取れなくなった柿の曳航を開始。しかし、天候不良の影響で瀬戸内海西部への移動は困難と判断され、第11水雷戦隊は大阪の藤永田造船所に移動するよう指示。また天候が回復しない場合は近隣の港へ退避するように、とも命じた。もし米潜水艦に襲撃されればひとたまりもない状況。萩は魚雷が飛んでこない事を祈りながら大阪に向かう。曳航中も柿では応急修理が行われているが、どうも実を結ばなかったようだ。
大阪警備府の対潜援護を受けながら、3月18日、何とか大阪港外の防波堤灯台南方40mまで到着。無事柿を造船所まで送り届けた。その後、第11水雷戦隊より「曳航任務終了次第呉に回航、燃料需品搭載の上、命を待て」との指示が下り、翌19日午前6時に単身出発。ところが出港直後の午前7時20分、呉軍港空襲に呼応して土佐南方沖の第58任務部隊が大阪を空襲、柿が敵艦上機3機から銃撃を受けて負傷者6名を出したものの幸い萩に被害は無かった。3月20日午前11時に呉へと到着。そして八島泊地にて第11水雷戦隊との合流を果たした。
4月18日、椎、梨、菫、榎とともに八島泊地を出発して出動諸訓練を実施。続く4月25日の訓練には戦隊旗艦の軽巡酒匂が加わって直接指導を行っている。5月10日、八島沖で酒匂、宵月、夏月、梨、椎、榎、菫と出動諸訓練に従事。そんな中、度重なるB-29の機雷敷設により、瀬戸内海西部も徐々に危険な海域と化し、もはや訓練地として使えなくなってきたため、機雷敷設が進んでいない日本海側への脱出が検討されるようになった。
脱出準備が進む5月20日、姉妹艦梨と第31戦隊第52駆逐隊に転属。同日付で第31戦隊と軽巡北上を基幹とする海上挺進部隊が新設される。海上挺進部隊は本土決戦を見越した部隊で、山口県祝島を中心として半径180海里以内に敵艦が侵入したら出撃、回天攻撃を行った後は、敵輸送船団を狙って夜戦を仕掛ける任務が与えられていた。この転属に伴って萩は瀬戸内海側へ留まる事になる。5月29日、海上挺進部隊の司令官に小沢治三郎中将が着任。
6月中は瀬戸内海西部で訓練に従事。第52駆逐隊の各艦は、6月以降に呉工廠で回天母艦になるための改装工事を逐次受けたとされるが、正式な工事記録が残っていないため、日時や、どの艦に改装が施されたのかは判然としていない(戦後の写真を見るに10隻前後が改装された模様)。ただ萩に関しては回天母艦になった樺や梨と合同訓練を行っている事から、改装された可能性が高いと言える。
7月1日付で司令官が松本毅少将に交代。今や燃料不足は深刻化を極め、今月の燃料の割り当ては僅か850トン、松型1隻につき370トンを積載するので、所属艦16隻中2隻分の燃料しか無かった訳である。この貴重な燃料は萩と梨に与えられた。残りの艦は敵機の標的にならないよう海岸付近で偽装。乗組員は交代で萩、梨に乗って訓練を行うはずだったが、実際に乗り込んでくる事は無かったという。
7月22日より萩、椎、梨、樺の4隻は平生沖で第二特攻戦隊との合同訓練を実施。回天は駆逐艦だけでは搭載出来ないので、光基地や平生基地でクレーン船を使って積載した。
回天を発進させる時はストッパーを外してからロープで艦首方向に引っ張ってあげないと、上手く架台から滑り落ちなかったらしく、惰性の付きにくい短い発射台しか持たない駆逐艦からの発射にはとても難儀したという。加えて発進時は高速で直進する必要があったのだが、実際に発射してみると、着水時の衝撃による機器の損傷や、駆逐艦の艦尾波、プロペラ後流に翻弄されて姿勢制御が困難になるといった問題も表面化。
萩は回天の襲撃目標艦も務めた。回天搭乗員によると航行艦への襲撃は大変難しく、しばしば目標艦の前方を横切って外れてしまう事があった他、駆逐艦の乗組員から見ても「発見までに時間は掛かるが、一度潜望鏡を発見してしまえば、その後の針路を把握され、速度も思いのほか遅かった」と評価している。命中判定を得るには駆逐艦の艦底下を通過する必要があった。また訓練中は事故も多発したようで、時には射点沈没や大偏射による行方不明者も出た。
7月24日、呉方面に空襲警報が発令。米機動部隊が1450機の艦上機を放って西日本の飛行場と船舶を攻撃しに来たのである。敵機の多くは主力艦艇が停泊している呉に向かった一方、平生方面にも敵機が襲来し、萩は姉妹艦樺とともに対空射撃で応戦するが、爆撃を受けて小破し、3名の戦死者を出す。熾烈な空襲は翌日も続き、950機もの敵艦上機が再び西日本に襲来。海上挺進部隊は対空砲火で応戦して撃墜を記録した。7月26日、空襲の間隙を縫いながら平郡島畑尻鼻沖にて梨、椎、樺と訓練を行う。
7月28日朝、今度は2532機もの敵艦上機が西日本方面に襲来、瀬戸内海の船舶に集中攻撃を浴びせてきた。萩がいる柳井方面には午前7時頃から敵機が出現。梨は停泊したままでの応戦を選び、萩は西方への退避を選んだ。午前10時15分、四国沖の米機動部隊よりF6Fグラマン15機が出撃、このうち6機が萩に襲い掛かってきたものの、機銃弾やロケット弾の猛攻を何とか耐え凌いで生き延びる。一方の梨は奮戦むなしく柳井沖で撃沈された。同日深夜、梨の生存者が収容されている村の沖合いに投錨。派遣したカッターや、義勇隊の協力で生存者を収容したのち出港、翌29日椎と呉に入港し、梨の生存者を上陸させて応急修理を受ける。
7月30日、連合艦隊は呉鎮守府に対し、海上挺進部隊に搭載させるための回天25基を準備するよう指示、搭乗員には各回天基地の教官教員が充てられた。8月1日夜、伊豆大島の見張りが「アメリカ軍の輸送船団が北上中」と通報、22時41分に海上総隊が警戒を下令し、海上挺進部隊の各艦にも即時待機の命令が下されて出撃準備を開始するも、夜光虫を見間違えた事による誤報と判明。後の世に言う大島誤報事件である。
先の呉軍港空襲で主要艦艇が軒並み撃沈、または転覆させられてしまい、防空砲台が不足したため、萩、樺、椎に呉で防空任務に就くよう指示が下り、軍港内で三角陣を組んで警戒任務に従事する。この頃になると、毎朝午前8時半頃にP-38などの敵戦闘機が2機編隊で現れ、適当に目標を見繕って機銃掃射を加えていくという通り魔的な攻撃が行われていたが、反撃すると必ず執拗な反復攻撃を受けるので対空射撃は控えられていた。
8月11日午前10時頃、P-51戦闘機14機が呉軍港に来襲、付近の樺を銃撃して損傷を与えていった。
8月15日の終戦時、呉にて残存。戦闘可能だったのは萩を含む駆逐艦30隻、潜水艦54隻、軽巡酒匂、空母鳳翔だけで、海軍全体で見ても使用できる船舶は132隻(18万トン)程度しか残っていなかった。終戦に伴って軍港内の艦艇が一斉に軍艦旗を降下、ラッパを鳴らしながら総員敬礼のうちに奉焼、死にゆく帝國海軍を弔った。
10月5日除籍。
凄惨を極めた未曾有の戦争は終わった。だが外地には軍人や邦人など約630万人が広範囲に渡って取り残され、彼らの帰国が急務となっていたものの、これまでの戦闘で商船は壊滅状態であり、代わりに生き残った戦闘艦艇を使った復員輸送が提案される。航行可能状態だった萩は武装解除、居住区の拡張、厠の増設、舷側に「HAGI」と記入するなどの改装工事を受けた。乗組員は続々と復員・退艦していったが、航海科だけは運航要員として残された。そして12月1日より特別輸送艦に指定。横須賀地方復員局所轄の艦艇となる。
フィリピン、台湾、葫蘆島などを巡って多くの兵に祖国の地を踏ませた。
復員輸送任務が一段落すると今度は特別保管艦となって横須賀に係留。仮設したデッキハウス、残っていた兵装を撤去し、最低限マニラまで自力航行できるよう、船体・機関・艤装などを良好な状態に整備される。大した海軍力を持たない中華民国とソ連の強い働きかけにより、特別保管艦を米・英・中・ソの四ヵ国に抽選で振り分けた結果、萩はイギリスが獲得する事に。中ソは配分された全艦艇を最も喜んで受け入れたのに対し、既に強大な海軍力を持つイギリスにとって賠償艦など無用の長物であった。
1947年7月16日、シンガポールにて、賠償艦としてイギリスに譲渡され、そのまま解体された。
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