タニノチカラとは、1969年産の日本の競走馬・種牡馬である。
脚部不安に悩まされながら、圧倒的な力を見せつけ1970年代の最強馬候補に推す声すらある、
非常に完成された逃げ先行馬。
主な勝ち鞍
1973年:天皇賞(秋)(八大競走)、朝日チャレンジカップ、ハリウッドターフクラブ賞
1974年:有馬記念(八大競走)、京都大賞典
1975年:京都記念(春)
ゆっくり育て
父はTourbillonからHerodに遡れる希少な血の出身である*ブランブルー、母タニノチェリ、母の父*ティエポロという血統。
半兄にはスパルタン二冠馬タニノムーティエがいる血統で期待されていた。
ムーティエは血統的に晩成のステイヤー気質だったのを、スパルタ教育で無理くり早くにデビューさせていたのだが彼は割とゆったり育てられデビューしたのは9月。
兄の活躍で人気に推されたデビュー戦は3着に甘んじたが、2戦目でしっかり勝利。しかしその後条件戦で2連続2着と詰めの甘さを見せる。しかし大器には違いない!という評価だったが、ここで骨折。命の危険すらある重傷だったがなんとか一命を取り留め、骨折が治った後は復帰に向けてトレーニングを開始したのだがまた骨折して長期休養を余儀なくされてしまった。
結果として1年7ヶ月の休養を余儀なくされ、その間にクラシックも終わり、カントリー牧場開設者でオーナーの谷水信夫氏も急逝し息子の雄三氏に変わっていた。
この二代目オーナー、当時は競馬事業を続ける腹積もりではなかったようで、撤退も視野にいれていたという。
そんな中、休んでいるうちに古馬になった彼は札幌開催で復帰。破竹の三連勝を遂げ大器の片鱗を見せつけた。
その次走は4着に甘んじたが、次走格上挑戦で挑んだ朝日チャレンジカップで重賞初勝利を遂げる。次走ハリウッドターフクラブ賞でも天皇賞馬メジロムサシを負かし重賞2連勝。
これは秋の天皇賞は決まったなあ……と思わせたが目黒記念(秋)では無茶な捲りを仕掛けたら1着2着馬に挟まれ後退、3着に敗れてしまう。
気を取り直し向かった天皇賞(秋)では開花した大器ハクホオショウに次ぐ二番人気に推される。レースはハクホオショウがスタート直後に競走能力喪失級の骨折で競走中止する波乱含みの流れになったが、ハナを切って逃げたタニノチカラには関係なし、2馬身差つけて逃げ切った。3200mを逃げ切るというだけで凄いが、更に直線が長い府中を華麗に逃げ切ったという事実は、高い実力の証明以外の何物でもなかった。
という訳で有馬記念でも1番人気確実か……と思われたがハイセイコーがいたので二番人気に甘んじた。
ここで勝っていればカッコ良かったのだが、鞍上がハイセイコーを意識しすぎて自分の競馬ができず、ハイセイコーにも競り負けて4着。情けない……
ちなみにハイセイコーとタニノチカラの騎手はあまりに牽制し合いすぎたので、無気力騎乗を疑われ裁決委員に呼び出しを食らった。泣きっ面に蜂である。
目覚めし怪物
さて、翌年も現役続行となったのだが天皇賞は勝ち抜け制で出られないということもあり、目標を置くところがない状態に陥っていた。
そんなことはお構いなしにタニノ馬らしく有馬記念から休みなくオープンレースへ。初戦は勝ったがその後はオープン2着、京都記念(春)2着、大阪杯2着と勝ち切れない面を見せた。
ただ、斤量は一番背負わされていたので仕方ない側面もあった。大阪杯後はまた脚部不安発症で休養。
秋には間に合いマイル重賞のサファイヤステークスから始動し、不向きなマイルで3着と上々の滑り出しを見せ京都大賞典へ。
ここにはハイセイコーも出てきていたが、1番人気のホウシュウエイト諸共に4馬身差切って捨て圧勝。ここで完全に開花したのであろう。
有馬記念へのステップに使ったオープンを快勝し向かった有馬記念。ここで引退するタケホープと長距離じゃ買えないのが割れていたハイセイコーに挟まれた2番人気となったが、レースでは影も踏ませず2着ハイセイコー以下を5馬身差切り捨て圧勝。しかし世間様はハイセイコーとタケホープの2着争いしか見ていなかった。ひどい話だね!
翌年は京都記念(春)から始動。63キロという酷量を背負いながら後続に2秒以上の差をつけて大差逃げ切り勝ち。おかしなことやっとる。
その後オープンを快勝しマイラーズカップで前年の狂気の二冠馬キタノカチドキ・華麗なる一族出身の快速牝馬イットーと対戦。
マイルだからか前につけ損ね中団から進めるが2着イットーも捉えられず、キタノカチドキのスピードの前に敗れた。
キタノカチドキは当時の日本競馬に格の違うスピードを注入していた*テスコボーイの息子だから仕方ないかもしれない。
その後、屈腱炎を発症し引退。通算24戦13勝2着5回3着4回4着2回と掲示板を外すことはついになかった。
前につけて押し切り、ペースを握っての逃げ切りと、展開にも左右されず圧倒的な力を見せつけた。
確かに最強馬に推す声もあるのは納得である。ただ、距離は長いほうがいいとは思うが。
種牡馬入りし、大柄な好馬体の持ち主ということで期待されていたが、供用5年目の1980年に大動脈破裂で死亡。
残した産駒も大した結果は残せず*ブランブルーの血を繋ぐことは出来なかった。
エピソード集
- 谷水雄三氏は父信夫氏の急死で競走馬事業を引き継いだのだが、本業が忙しく畳んでしまおうかと考えていた。
しかしタニノチカラの大活躍で、競走馬事業続行を決めたという。彼がいなければタニノギムレットやウオッカも生まれなかったのかも……。
- 首と頭を極端に下げたフォームが特徴であった。キングヘイローとは大違いだ!
- 杉本清氏は1992年の話ではあるが、この馬が見た中で一番強かったと評している。あの京都記念見りゃそう思うわなあ。
- 天皇賞(秋)の際、フジテレビの実況をしていた盛山アナは、最期の直線でなぜかトーヨーチカラ!トーヨーチカラ!と連呼し、ついぞタニノチカラと実況することはなかった。
ちなみにこのレースにはトーヨー”アサヒ”は出走していたが7着、トーヨーチカラという競走馬も当時いたのだが、菊花賞戦線に出走していたため天皇賞には出走していない。というか当時の規定では出走できない。
車が来たやエアシェイディ逃げ切り、サンキョウセッツ取り違え並の大チョンボである。
- 初対戦となった有馬記念ではハイセイコーを警戒しすぎてスパートが遅れ4着完敗したのだが、それを鞍上の田島日出男騎手は非常に悔やんでおり、それ以降の対戦では、理想としていたハイセイコーより先に先頭に立ち押し切る競馬で圧勝した。
……長距離のハイセイコー相手なら最初からそうやってりゃ完封できたろ、なんて言ってはいけない。
血統表
*ブランブルー 1959 鹿毛 |
Klairon 1952 鹿毛 |
Clarion | Djebel |
Columba | |||
Kalmia | Kantar | ||
Sweet Lavender | |||
Sans Tares 1939 鹿毛 |
Sind | Solario | |
Mirawala | |||
Tara | Teddy | ||
Jean Gow | |||
タニノチエリ 1963 栗毛 FNo.12-g |
*ティエポロ 1955 鹿毛 |
Blue Peter | Fairway |
Fancy Free | |||
Trevisana | Niccolo Dell'Arca | ||
Tofanella | |||
*シーマン 1951 栗毛 |
Able Seaman | Admiral's Walk | |
Charmeuse | |||
Vermah | Vermeer | ||
Marheke | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Solario 4×5(9.38%)、Phalaris 5×5(6.25%)
主な産駒
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関連項目
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