パンターとは、ドイツが第二次世界大戦中期から後半にかけて使用した中戦車。独ソ戦で遭遇したソ連の中戦車T-34に対する自軍の中戦車の非力さを打開する為にドイツ軍が作り上げ、大戦中~後半のドイツ機甲部隊の中核を(質的に)担った。特殊車両番号(Sonderkraftfahrzeug)は171。 初期は書類上V号戦車とされていた物の、1944年1月に名称が変更され、愛称であったパンターが正式名称となった。尚、V号戦車の名前を持つ物の、設計の開始はVI号戦車ティーガーより後である。
概要
独ソ戦が開始された後、ドイツ軍はソビエトの中戦車T-34との戦闘を経験した。このT-34は、大口径の転輪と幅の広いキャタピラ、そしてソビエトの高い冶金技術による高性能なディーゼルエンジンに支えられた良好な走破性、長砲身の (=装甲貫徹力の高い)主砲、そして何より良く傾斜を付けた装甲による良好な防御力と、敵対する側としては正に走攻守揃った強敵であった。 事実ドイツ側の機甲戦力でこのT-34に対抗できるのは、独ソ戦初期の時点ではまだ配備数の少なかった長砲身5cm砲を搭載したIII号戦車のみで、それも”装甲の薄い側面”を”ごく近距離から”撃ち抜ける、という非常に限定された物であり、満足な対抗策が存在したとは言い難い状況であった。車外見張り能力の低いT-34の弱点を突き歩兵の肉薄攻撃等で撃破した例や、砲身或いは車体前面ハッチを打ち抜いて撃破した例も存在するものの、依然大きな脅威となる兵器である事に何ら変わりは無かった。このT-34との戦闘はドイツ軍に対して大きな恐怖を生じさせ、パンターの設計へと繋って行く。 尚、フランス/アフリカで対戦車戦闘に使用された際の実績と、何よりこのT-34にすら有効であった事から88mm対空砲はその威力を認められ、後のティーガーの主砲には戦車砲として再設計された物が使用される事となる。
前述のT-34との遭遇によるショックから、ドイツ軍内部ではハインツ・グデーリアン上級大将の命令により特別戦車委員会(通称”豹”戦車委員会。”豹戦車”ではない。)が設置され、T-34に対する対抗策を研究する事となった。この委員会に対してグデーリアンはT-34のコピーをもってT-34に対抗する事を提案するも、ディーゼルエンジンの生産に貴重なアルミを多用する事、及びドイツの鋳造技術の低さ(ドイツは鍛造による加工は得意だった物の鋳造が苦手だった)、そして一説によるとT-34の製造工場毎に生じている個体差の激しさ(及びその個体差を許容する為の遊び)がドイツ工業規格では承認できない等諸々の理由からコピーは不可能であると委員会は回答。1941年11月に、T-34の優位性を取り込んだ30~35トン級戦車の設計を進めるべきと主張し承認を受ける。これが直接的なパンター開発の開始となった。
この戦車はVK.30.02の番号が与えられ、30t級中戦車とされた。発注を受けたのはダイムラー・ベンツ社(= DB)とMaschinenfabrik Augsburg-Nürnberg AG(アウグスブルク・ニュルンベルク機械工場 = MAN)だった。この時点で主武装に長砲身75mm砲(75mm L70 - Lの後の数字は口径を表す)が決定していた。41年12月にVk.30.02の重量は32.5tと決定され、さらに翌年1月には36tまで引き上げられた。
VK.30.02(DB)案はT-34の設計に深くインスパイアされた構成であった。後のパンターに比べると小型の砲塔と低い車体を持ち、エンジンにはドイツ戦車の設計としては珍しくディーゼルエンジンを予定し、後輪駆動。その為砲塔はT-34と同じく車体の前方に寄せて配置されていた。サスペンションにはリーフスプリングを使用していた。ドイツ戦車の伝統である3人乗り砲塔(車長/装填手/砲手)搭載として設計されていた物の、70口径75mm砲が予想より大型になってしまった為に設計が改修され、最終的には2人乗り砲塔を搭載する予定になっていた。全体的にT-34をドイツ風にアレンジしたような車両であったが、唯一履帯の幅が狭い為接地圧が高かった。
対してVK.30.02(MAN)はよりドイツ戦車の系譜に沿った構成であり、DB案よりも大型の車体であった。ガソリンエンジンを搭載しており、前輪駆動。砲塔は車体中央部に配置され、予定される長砲身砲の砲身が前面に突出する量を最小化していた。T-34から影響を受けた点と言えば車体前面装甲が傾斜しているぐらいなもの であり、非常に保守的な設計と言える。しかし比較的幅の広い履帯の効果により接地圧は特に高いわけではなく、又車内に大型の燃料タンクを装備する事により良好な走行性を実現していた。
1942年から比較が開始された。5月には2社の設計案が出揃い、序盤はDB案が優勢だった。両社の案は同重量、同武装であった。これは、リーフスプリングによるメンテンナンスの容易さや、軍需大臣アルベルト・シュペーアがDB案の方が優れていると判断していた為である。しかしDB案の走行性の悪さは問題視され、またその余りにT-34に酷似したフォルムは同士打ちを多発させると陸軍設計局は主張した。加えてあまりに小型化されていた砲塔に実際に完成した長砲身75mm砲を搭載した場合には、大きな設計の変更が必要とされる事は選定に悪影響をもたらした。対照的にMAN社はサスペンションを改良するなどDB案を参考に自社案に改良を加え続けた。5月11日は陸軍戦車選定委員会によりMAN案が満場一致で採択され、V号戦車として正式採用となった。この戦車はその設計を担当した委員会より名前を取ってパンターと呼ばれた。
主砲として、パンター用に新規に発注された70口径75mm砲(7.5cm KwK 42 L/70)を搭載。これは後期型のIV号戦車の75mm砲(KwK40 L/43及びL/48)より更に長い砲身を持ち、その長砲身ゆえに、ティーガーIの88mm(8.8cm KwK 36 L/56)よりも初速に優れている。この為、13mmの口径差がありながら、2000m以下の装甲貫徹力に限れば、ティーガーIをも上回る。と言ってもあくまで装甲貫徹力に限ればの話で、榴弾を使った陣地攻撃等における破壊力は、もちろんKwK36の方が上である。実際、ティーガーはそういう火力支援戦車としての役割も期待されて開発されており、中戦車として開発されたパンターとは事情が異なる。
全体的に見ると、正面装甲が厚く側面装甲が薄い、高初速高貫通の戦車砲を装備、足は速いが小回りは効きづらい、というような性能になっているが、これは起伏が少なく障害物も少ないロシア平原での運用を前提としているからである。特に防御側に回った場合、高性能な照準器と高精度・高初速の主砲で遠距離から一方的に狙撃する事ができた。ソ連戦車からしてみると、障害物も起伏も少ない平原では側面を突こうにもパンターに丸見え、ならばと遠距離で正面から撃ち合えば頑丈な正面装甲に阻まれる、と、かなり一方的な勝負を強いられる事になる。
勿論、数に任せて近距離まで一気に突っ込んで懐に飛び込めば撃破は可能だし、そこまでせずとも122mm砲や152mm砲を搭載した戦車・自走砲・対戦車砲を引っ張り出せば遠距離からでも撃破できるが、前者は相当の損害が前提となり、後者はいつでも戦場にいる訳ではない。パンターの優位は大きかったと言える。ただし、戦争も末期になるとドイツは積極的に近接戦闘を仕掛けるようになる。末期のドイツは制空権を奪われ、また砲兵火力でも負けており、敵と入り乱れるような乱戦に持ち込んで、連合軍に航空支援や火砲支援の使用をためらわせる必要があったのである。このため、小回りの効きづらいパンターが回り込まれて薄い側面を狙われ、撃破されるという場面は格段に増えてしまった。
また、側面および後部装甲以外に、天板が薄いという弱点も持っている(全面16mm)。戦車戦している時や、味方戦闘機が頑張ってくれている間はいいのだが、ドイツが完全に制空権を喪失した末期、特に西部戦線では機銃掃射により天板を貫かれ、撃破される場合もあった。もっともこれは、どんな戦車でも大なり小なり共通して持つ弱点であるとは言える。
そんなパンターの初の実戦は、史上最大の戦車戦とも言われるクルスク戦である。だが、ここで投入されたのは初期生産型のD型、その中でも最初期に生産されたモノであり、実質増加試作機ぐらいの位置づけの車両だった。試作車両を戦場に投入すれば当然、乗員・整備員の不慣れも手伝って新型特有の初期不良が頻発する。結果、ロクに戦えておらず、また、粗方の問題点が改善されたD型後期型やA型以降も、旧来の主力中戦車であるIV号戦車と比べると幾分気難しく、性能こそ高いが信頼性に難あり、という評価を受けている。
ただし、信頼性に難ありと言っても、初期不良を解決した後のパンターまでもが、クルスク戦のように戦う前から故障で動けなくなるほどポンコツだった訳ではない。例えば1945年3月15日の報告だと、全戦線あわせての稼働率がIV号戦車62%、パンター 48%、ティーガーII59%。そこまで言うほどの差はない。信頼性の塊のように言われるIV号戦車の数値が妙に低いが、ただでさえ末期戦の時期である上、WW2期の戦車は『変速機を壊しながら走っている』とすら言える物体なので、信頼性が高いと言われている戦車でも意外と稼働率は低いのである。
と言うか、ぶっちゃけ、本当にパンターが故障ばっかりして使い物にならないポンコツならば、すぐに生産停止になっているはずである。初期不良と乗員・整備員の不慣れで配備初期に故障を頻発し、極端なイメージがついてしまったという事情はティーガーIIとよく似ている。
なお、パンターの生産が本格化してからも、IV号戦車の生産は続けられ、最後までパンターと並行生産であった。これは、III号戦車の生産ラインをパンターで置き換えたからである。ドイツの戦車生産ラインは、基本的にIII号戦車とIV号戦車の2ラインあったと思えばよい。その内、兵器としては完全に寿命だったIII号戦車のラインを置き換えたのである。一方、IV号戦車は長砲身化や駆逐戦車化でまだそれなりに戦力となっており、設備改装の事を考えても、IV号戦車のラインまで置き換えるのは現実的ではないと判断され、最後まで並行生産となったのである。
サブタイプ
大別するとパンターには開発順にD型,A型,G型の3種類が存在し、又F型と呼ばれる改良型の生産が終戦間際に開始されていた。このアルファベットの順番がA.B.Cと揃っていない理由は定かではないが、防諜の為であるとか、最初に大量の計画だけが立てられ、そのうちのD案、A案、という順に生産が決定されていった為、とも言われている。後継車両としてパンターIIという車両の計画も存在した。
D型
D型は初期生産型であり、前述の通り1943年の東部戦線における一大決戦、クルスクの戦いで初陣を飾った。だが初期生産型の更に初期生産型、実質増加試作機であり、機甲総監であるグデーリアンも投入を躊躇っていた。一方、ヒトラーはクルスク戦に新型戦車を投入して作戦の成功をより確実にする事を望んでおり、D型の生産を待つためわざわざ作戦発動を延期してまで投入する事になったのである。
だが実際のところ、この時点でのパンターは駆動系、特に燃料漏れ関連の問題を抱えていた(いわゆる傾くとエンジンが火を噴く、というモノ)。輸送用の列車から降ろすだけで出火する車両すらいたほどであり、パンターポンコツ伝説の端緒となった。結局、クルスクの戦いではほとんど戦況に影響を与えていない。
ただし、D型も途中で小改良を繰り返しており、クルスクに投入されたような初期生産型を除けば、兵器として失格レベルの不具合は解決した上で生産されており、ティーガー伝説に並ぶパンター伝説の端緒となった。特に後期生産型については、次の型であるA型と大して変わりがない。
識別する上での特徴は、主砲防盾の照準穴が二つ並列にならんでいる点と、車体前面装甲に二つのハッチが存在する点、砲塔上のキューポラが筒のような形をしている点、そして車体の後部が下に向かって張り出している点などがあるが、前述の通り小改良が繰り返されているため、必ずしもこの特徴が全て当てはまる訳ではない。例えばA型も、初期生産型は照準穴が二つついている。このように同じ型でもマイナーチェンジによって差異があるのは、他の型でも同じである。
A型
一般的にD型で発見された数々の欠点を修正したタイプと言われているが、前述の通り、D型も後期生産型では大抵の問題を解決しているため、A型になった瞬間劇的に変わったという訳ではない。 A型との識別は、正面装甲のMGマウントがボールマウント式になった事と砲塔のキューポラが新設計の物になっている点、上面に対人地雷発射口が存在する点、など。対人地雷発射口については、その穴を鉄板で塞いでいる車両もある。
G型
G型は事実上の最終生産型で、44年以降に生産が開始された。 パンター系列としては最多の生産数を誇る。試作車1両を残して中止となったパンターII計画 (後述) のフィードバックを受けており、車体側面装甲の増厚等が行なわれた結果車体側面下部のラインはD型、A型と違い直線になっている。 識別上の特徴は、車体正面装甲からクラッペが廃止された点と、車体側面下部のラインが直線になっている点。砲塔の防盾にショットトラップを防ぐ為の通称「アゴ」と呼ばれる張り出しがついている車両もあるが、これは全てのG型に搭載されたわけではない。防盾の中央部が増厚されたタイプの物を装備している車体も極少数ながら存在した。転輪に省資源使用の鋼製を使用している車両も多い。最末期には夜間暗視装置を搭載した車両も存在する。
F型
F型はG型を更に推し進めた設計で、大戦末期に生産ラインの上に車体が並ぶ所までは進んでいた。 G型との大きな違いは、その砲塔が完全に新規の物に変更される筈であった点。 この砲塔はDB社設計の物で、旧来の砲塔よりも正面投影面積が小さくなるように設計されていた。この砲塔は狭幅砲塔「シュマールトルム」と呼ばれ、砲塔側面の張り出しにはステレオ式測距儀が搭載されていた。これにより遠距離での命中精度を向上させる事が期待されていた物の、原理的にちょっとした衝撃等でも狂ってしまう為実際役に立ったかどうかは疑わしい。試作二号砲塔が現存している物の、戦後英軍が戦車砲の射撃の的にしていた為に状態は非常に悪い。車体も上面と下部の装甲が増厚され、前面機銃にはMG34に代えてMG42、或いはMP44/StG44を搭載する予定になっていた。
パンターII
パンターII計画はパンターの改良型を作る事を目指した計画である。時系列的にはパンターIと殆ど平行して開発が行なわれており、D型の設計が完了された時点でパンターIIの設計が開始されていた。本来の目的は装甲の増厚のみであった物の、その時点では本当に増厚が必要なのかが不明であった。その為開発中の新型重戦車(後のティーガーII)と部品の共用が出来る車両を設計する事と目的が修正された。転輪、エンジン、及び駆動系はティーガーIIと共通で、履帯もティーガーIIの鉄道輸送用履帯(幅が若干狭い)を使用する事とされた。この後砲塔も新規設計される運びとなり新型砲塔には狭幅砲塔「シュマールトルム」が予定されていた。このシュマールトルムはF型に搭載が予定されていた物よりも設計が古く、全くの別物であった。これはドイツ戦車設計チームが殆ど横の繋りを持っておらず、お互いに情報を共有していなかった為である。1943年に重量等の問題からパンターII計画の有効性に疑問が持たれ、パンターII計画のフィードバックをパンターIに組込むべきであると判断された為に計画は中止された。試作車体1両分が完成しており、戦後に米軍が本国に輸送し性能試験を行なった。 その後パットン戦車博物館にG型砲塔を搭載した状態で収蔵されている。
派生型
車体の生産コストと性能のバランスの良さ、及びその(ドイツ重戦車系列と比較しての)信頼性の高さにより、膨大な数のシャーシ流用派生型の計画が立案された。とはいえ信頼性の面では連合軍戦車とは比較にならない程劣悪で、戦後フランスが鹵獲したパンターで機甲師団を編成した時は故障の多さの為全く戦力化できなかった。実際に製作された派生型としては、最前線で砲撃の弾着観測等を行うV号観測戦車、駆逐戦車のヤークトパンター、及び戦車回収車であるベルゲパンターの三種類が存在する。又、アルデンヌの戦いにおいてオットー・スコルツェニーが率いた部隊には、連合軍の攪乱を目的として米駆逐戦車M10に見えるように偽装を施した、通称”M10パンター”と呼ばれる特殊な車両が配備されていた。
V号観測戦車
V号観測戦車はパンターD型の砲塔を、観測用機材を搭載した別の砲塔に載せ変えた車両である。砲の用な物が付いてはいる物の、これはシルエットを普通のパンターに近づける為の木製のダミーで実際の戦闘には使用できない。変わりにMG34一丁が砲塔ボールマウントに装備されている。全V号観測戦車は後に「観測にパンターを使うのは勿体無い」という理由から通常のパンターに再改修されている。
ヤークトパンター
ヤークトパンターはパンターをベースにした駆逐戦車で、一体化された車体シャーシにティーガーIIと共通の71口径88mm砲を搭載していた。適度に傾斜したその装甲は防御力に優れ、とかく歪な性能になりがちな駆逐戦車としては珍しく、攻防のバランスが取れた車両であった。難点は重装甲化による駆動系への負荷増大。これは駆逐戦車の砲可動範囲が狭い為、車両自体の向きを変える事で照準を定めるという運用をせざるをえない事も影響を与えている。生産の過程で細かな修正が加えられていった為、細部の異なるタイプが数種類存在する。
ベルゲパンター
ベルゲパンターはパンターベースの回収戦車。車体上面にはクレーンが搭載されており、車体後部にはウィンチを使用する時用のストッパー、そして砲塔を搭載していない分空いたスペースにウィンチ等の回収用機材を搭載している。武装として2cm砲を搭載しているタイプと、車体前面機銃のみの二種類が存在する。ティーガー系列の重駆逐戦車であるエレファントを装備していた第653重戦車駆逐大隊では、ベルゲパンターから回収機材を全て取り払い、四号戦車の砲塔を搭載した車両を装備していた。砲塔はボルトで固定されていたと言われており、全周旋回はできなかったようである。
その他
パンターの砲塔単体も、主砲の攻撃力と防御力から装甲トーチカ(戦車の砲塔のみを地面に設置。Panzertrumと呼ばれる。)としてイタリアやドイツ本土防衛戦において転用されている。特にイタリアで使用された際はその低い姿勢による被視認性の低さで、連合軍に多大な犠牲を強いた。このイタリアで使用されたトーチカの中には、地下に三人(車長/砲長、砲手、装填手)が寝泊まりできるだけの簡易的な設備を持った物も存在した。最終的にベルリン攻防戦では街の通りに設置されている。
計画のみの派生型、いわゆるペーパープランとしては膨大な数が存在し、また既存のパンターを構成する部品も着々と改良が進められていた。対空戦車としての設計だけでも2cm Flak(対空砲)4門装備型、3.7cm Flak 連装型(通称Coelian = ケーリアン)、5.5cm Flak連装型、そして88mm FlakをIV号対空戦車オストヴィント(Ostwind = 東風)の砲塔を拡大したような全周装甲で囲った砲塔に搭載する案まで存在した。このうちケーリアンは木製のモックアップ砲塔を搭載した車両が制作されたが、正式化はされていない。
又、大戦末期の簡易武装運搬用統一車両計画、一般的には”Waffentrager”として知られる計画用にも多数パンターベースの車両が設計されており、車体を短縮した工作/回収戦車型から逆に車体を延長した重Waffentragerまで大小問わず様々な計画が存在していた。
最終的にパンターの系譜は1945年のペーパープラン"Entwicklungstypen計画"(戦車の車体の部品を共通化し生産性を向上させようとする計画)におけるE-50戦車を持って終了する。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- 軽戦車:I号戦車 / II号戦車 / 35(t)戦車 / 38(t)戦車
- 中戦車:III号戦車 / IV号戦車
- 重戦車:ティーガー
- 軍事
- AFV / 戦車 / 中戦車 / 軍用車両の一覧
- ドイツ / ドイツ軍 / ナチス・ドイツ
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