概要
収録放送とは、番組を前もって録音・録画・編集すること。
なお生放送を同時に収録することを同録といい、聴取者・視聴者が放送を録音・録画することをエアチェックという。
歴史
ラジオ
円盤録音機
1920年代にアメリカや日本でラジオ放送が始まった頃、録音装置は開発されていなかった。そのため番組は生放送が中心であった。当時の番組はほぼ残っていないと考えられる。
1925年、Victorが電気録音による円盤録音機を開発した。
当時の録音機はレコードに直接溝を掘っていく『ダイレクト・カッティング』という方法で、当然やり直しはできず、また重ね録りも困難であり、録音時間はわずか3~5分という短さであり、音質も悪かった。長時間録音には2台を交互に切り替える方法が取られた。
テープレコーダー
1935年ドイツのAEGがテープレコーダー『マグネトフォン』を開発した。テープは同じドイツのBASFが開発。
マグネトフォンは1939年までにドイツの大半の放送局に導入されたほか、改良を続け、1942年には交流バイアス方式に改良され音質が飛躍的に向上した。同じ年にはステレオ録音の実験も行われたという。
マグネトフォンは長時間録音が可能であり、音質も生放送と遜色が無かった。主にプロパガンダに使用され、アドルフ・ヒトラーの演説の録音などに使用された。
戦後、連合国がマグネトフォンの新型・旧型を問わず持ち帰り、各国で研究が進められた。そのうちの1台にリチャード・レンジャーによってニューヨークに持ち帰ったものがあった。
彼は1947年、テープレコーダーをニューヨークで日曜のラジオ番組をやっていたレス・ポールとジュディー・ガーランドの元に売り込みに行ったが、レス・ポールは西海岸に住んでおり、毎週19時間もかけてアメリカの東と西を往復していた。
レス・ポールはレンジャーをビング・クロスビーに紹介し、ビングは即50台欲しいと言った。しかしレンジャーは年に1台しか作れないと断った。この時の試作機は旧型マグネトフォンのコピーだったが音質は良くなかったという。
一方、1946年にドイツのフランクフルト放送局から2台のマグネトフォンを手に入れたジャック・マリンは本国にこれを持ち帰った。そしてパートナーのビル・パーマーと共に西海岸の放送局に売り込んだ。
この話に興味を持ったIRE(現在のIEEE)はマリンを1946年5月16日のIREの分科会に招いた。場所はサンフランシスコのKFRC局である。このデモ会場にいたのが、当時Ampex(アンペックス)の得意先にいたハロルド・リンゼイだった。当時できたばかりのベンチャー企業だったアンペックスはプロ・オーディオ
の世界に進出したいと思っていたのである。しかし資金が無かった。
そんな時に、ビング・クロスビーから声がかかった。彼は1946年5月までNBCラジオで「クラフト・ミュージック・ホール」という音楽バラエティー番組を生放送でやっていたビングは、週に一回の生放送に疲れ、ABCに移ったばかりだった。ABCは録音することを許したからである、しかし当時の録音に使われていたのは初期のトーキー映画の為に開発されたトランスクリプションだったのである。これは録音したのをそのまま再生するだけであれば放送には十分な品質だったが、ダビングとなるとディスクからディスクへのダビングとなり一気に品質が悪化してしまったのである。NBCはこれを嫌って生放送にこだわったのだが、ABCではそれをやってしまった結果、苦情が殺到してスポンサーが降りる寸前だったのである。
1947年の7月、ビング・クロスビーの元にデモに行ったマリンは、その年の8月から、その後26回分の放送の録音と編集をひとりでこなすことになる。まだAmpexのテープレコーダーはできていなかったから、テープレコーダーは2台のマグネトフォンだけであった。最初の放送は47年10月1日のことだった。
ビングはAmpexに開発資金がないことを知り、Ampexが開発資金として5万ドル必要だ、とビングに言ったところ、ビングはあっさり小切手を切って渡したという。こうしてビングはアンペックスのスポンサーとなったのである。
Ampex初のテープレコーダー #200 は47年10月に発表されたが、実際の出荷はその半年後。シリアル・ナンバー1番と2番は48年4月にビングに納品され、続いて12台の #200 がABCに納品されることになります。
高価だったが112台が売れたという。
ところでマリンが持ち帰ったのはテープレコーダーだけではなく、50本のBASF製磁気テープも一緒だった。しかし戦中ゆえか完成度は低かった。それでも貴重な50本のテープをやりくりして使っていたのである。
一方、実は磁気テープはすでにアメリカでは作られていた。
戦時中Brushが海軍からの依頼でテープレコーダーの開発を進めており、そのためのテープをミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチャリング、すなわち3Mに発注していたのである。海軍では、Uボートの無線の傍受記録に使うつもりだったが、開発が終わる前に戦争が終わり、海軍からのオファーはキャンセルされてしまった。そこでBrushはSound Mirror BK-401としてテープレコーダーの市販に踏み切り、これに合わせて3Mでは1947年に紙ベースのScotch #100を売り出していた。ただ、#100 はBK-401しか念頭になかったため、マグネトフォンやAmpex の試作品にはうまく合わなかったという。だいたい、3Mの研究室にすらテープレコーダーはなかったから、他のテープレコーダーとの相性など分かるはずもなかったのでる。そこで改良が続けられ、1948年、アセテート・ベースのScotch 111が出現した。これでようやくテープ編集者の苦労も軽減されることになったが、テープの生産量は充分とは言えず、どこの放送局でもテープは使い回しで、当時の番組で内容がちゃんと残っているものは残念ながらごく僅かである。
日本
1932年11月22日午後4時20分からの、NHK東京放送局における「国際聯盟会議の経過」と題する佐藤尚武の演説放送が収録放送の嚆矢である。これはジュネーブ発の国際放送を写真化学研究所で受信しながらセルロース盤に記録し、それを放送局へ運んで再生する、という段取りであったが、「成績が余り芳しくなかった」という。
その後収録によるラジオ放送が本格化したことが公式に確認できる最初の例は1936年10月29日の特別番組「海軍特別大演習観艦式御模様」で、2つの中継現場のうち、神戸港沿岸からの様子を録音で放送した。
1938年には、NHK全体の1年の放送時間総計の152,400時間59分のうち、10時間17分で録音放送を行うに至っている。
東京放送局では、1940年には、安立電気から改良された鋼線式磁気録音機がNHKの中央放送局に配備されたが、編集が不便であり、また鋼線の断線事故などもあって、あまり利用されなかった。またトーキー映画で用いられる光学録音の導入を目指していたが、実現に至らなかった。日本では第二次世界大戦後の1950年頃、音声用磁気テープの実用化および放送現場への普及に至った。
NHKが最初に使用したプロ用のテープ録音機は米国マグネコード社 PT-6型である。
この PT-6型は、1949年にハワイの日系放送局により、当時、日本でラジオの人気番組であった「のど自慢素人音楽会」を録音するため、スコッチ 111 番テープと一緒にNHKに持ち込まれ
ている。
そして同年8月、ロスアンゼルスで行われた全米水泳選手権の中継録音に使われたマグネコーダ
ーPT-6型数台がNHKの星吉兵衛 録音課長らによって持ち帰られ、本格的なテープ録音機による運
用が始まった。その後、1951年12月開局のラジオ東京(現:TBSラジオ)にも PT6
型6台が設置された。
テレビ
機械式テレビから始まり、電子式テレビへと変わったテレビは、初期のころは録画装置は開発されていなかった。しかし、フィルムをビデオ映像に変換するテレシネ装置は機械式テレビの時代にすでに開発されていたため、戦前の番組もフィルムが残っていれば映像が現存している例もある。
テレビカメラの映像を録画する実験は初期のころから行われており、フォノビジョンがその最初であるが、これは実験だけで終わった。その後もいくつかの試みは行われたが、実用化は戦後に登場したキネコからである。その後VTRが登場したことで本格的な収録放送が始まった。
現在はXDCAMなどテープレスの媒体が使われている。
機械式テレビ
フォノビジョン
テレビカメラによる映像を録画する最初の技術は、ジョン・ロジー・ベアードによって開発された『フォノビジョン』という装置によるものである。(ただし実用化はされず、実験だけで終わった。)
これは、機械式テレビの映像を周波数変調をせずに直接レコードに記録するものである。
当時の機械式テレビは走査線30本ほどであり、存在する最高周波数は聞こえるほど低かったので、音声と同じようにレコードに記録することができたのである。
フォノビジョンは数分間しか録画することができなかったが、この試みは非常に画期的であり、こんにちのビデオディスクの元祖とみることもできる。
フォノビジョンは画期的な技術であったが、実用化する前に機械式テレビが電子式テレビに取って代わったため日の目をみることはなかった。
現存する最古のフォノビジョンによる録画映像は、ベアードが1927年9月10日に録画した映像であり、これが世界最古のテレビ録画映像と考えることもできるであろう。
また、1933年4月に愛好家が『シルバトーネ』という家庭用レコード録音装置を改造した装置を使って録画した機械式時代のBBCテレビの映像も現存する。これは視聴者による初期のテレビエアチェックの例といえる。
電子式テレビ
1925年に高柳健次郎がブラウン管による電子式テレビを開発し、1933年にはウラジミール・ツヴォルキンがアイコノスコープ撮像管を開発したことで電子式テレビの研究が本格的に始まった。
電子式テレビは機械式テレビと比較して遥かに高精細な映像を映すことができたため、やがて機械式テレビは淘汰され電子式テレビが取って代わった。
中間フィルム方式
電子式テレビを直接録画する技術は当時は存在しなかった。しかし、後にイギリスとドイツではフィルムカメラとテレシネ装置を組み合わせた『中間フィルム方式』が開発される。これはフィルムカメラで撮影後、すぐに現像してテレシネするというもので、撮像管カメラが使用されるまでの一時期に使われていた。光学録音により音声も同時収録できた。
これはフィルムという形で映像が残り、また後のキネコと比較して画質が良いというメリットがあったが、使用された期間は短かった。
イギリスでは35mmフィルムを半分にカットした17.5mmフィルムが使用されたが、現存していないとされる。
ドイツでは35mmフィルムが使用され、Paul Nipkowの放送を含む80巻のフィルムが残っている。世界初のオリンピックテレビ放送が行われた1936年のベルリンオリンピックでは撮像管式と中間フィルム式のカメラが併用され、中間フィルム式のカメラによる映像は現存している。
キネコ
ブラウン管をフィルムカメラで撮影し録画する技術の開発は戦前期から行われていた。しかしそのままブラウン管を撮影すると走査線が映り込んでしまうという問題があった。これをシャッターのないカメラを使いフィルムを送る瞬間だけブラウン管を電気的に消すことで実現したのがキネコ(キネスコープレコーダー/キネレコ)である。音声は光学録音で同時収録できた。
イーストマンコダックとRCAが1947年に共同開発した。
キネコの開発理由は他都市の系列局に映像を配信するためであり、そこで映像を記録する必要が生じたのである。
アメリカでは1951年9月に東海岸と西海岸を結ぶ同軸ケーブルとマイクロ波の中継回線が完成した。
CBSとNBCは1952年に『ホットキネコ』というプロセスを開始し、ニューヨークの放送を西に送信し、35mmネガフィルムと16mmリバーサルフィルム(バックアップ用)の2台のキネコ装置で録画した。
そのフィルムは急いで現像され、3時間後にテレシネ(フィルム映像をビデオ信号に変換すること)によりロサンゼルスから放送されたのである。
フィルムは現像後の乾燥機から取り出され、まだ暖かかったためホットキネコと呼ばれたのである。
このようにキネコは時差放送にも使われたが、放送が間に合わないこともしばしばあったという。現像の手間に加えて一度しか使うことができず、テレシネ作業が必要であり、ブラウン管を直接撮影するため画質も悪く、光学録音のため音質も良くなかった。
ビデオテープレコーダ
1950年代当時、テープレコーダーによる録音技術は既に存在していた。音声を電気信号(オーディオ信号)に変えて磁気記録するテープレコーダーの技術は、同じく電気信号(ビデオ信号)を使うテレビにも応用できるであろうというのは技術者であれば誰もが思いつくものであり、これが実現すればキネコの欠点を克服できるため、各国で研究が進んでいた。
しかし情報量の多いビデオ信号をそのままテープに記録するのは不可能であった。そこで、固定ヘッドを複数使い、テープを高速で走行させる方式が開発され、その方式は『ロンギチュディカル方式』と呼ばれた。
1951年11月11日に歌手のビング・クロスビーの会社であるビング・クロスビー・エンタープライズは、この方式による世界初のビデオテープ録画の実験を行った。これには改造されたAmpex200と1/4インチオーディオテープが使われたが画質が悪く、テープが高速なため実用には至らなかった。
ヘッドを回転させて精密な記録をする回転ヘッドの技術は、1949年にマーヴィンカムラスがビデオ信号を記録するための磁気テープの開発に取り組み始め、回転ヘッドの模型を作成した時である。
彼はそのアイデアが非現実的であると判断したが、これを視察したAmpexは感銘を受け、実現可能だと判断した。ビング・クロスビーはビデオテープ録画技術を開発するためにAmpexに5万ドル投資した。
Ampexは1951年に予算1万5千ドルをこのプロジェクトに使い、1952年11月19日にMarkⅠという試作機を用いて録画実験を行った。これは振幅変調(AM)方式で回転ヘッドを3つ使っていて弓形にスキャンした。しかし性能はよくなく、Ampexは1954年までに弓形スキャンを放棄した。
1953年、RCAは固定ヘッド方式で世界で初めてのカラー録画を成功させた。
1954年頃、AmpexはMarkⅡという試作機を作った。これには周波数変調とテープに対しヘッドが縦にスキャンする『トランスバース方式』が使用された。周波数変調(FM)方式が使用され、画質は大幅に改善されたがノイズが多くなった。回転3ヘッド方式だったという。
1955年、Ampexは信号処理と>サーボエレクトロニクスを改善し、回転4ヘッド方式とした試作機MarkⅢを作った。これは大成功だった。
そしてAmpexはMarkⅢをベースに製品の試作型となるMarkⅣを作り、1956年4月14日のシカゴでの全米ラジオ・テレビジョン放送業者大会において実用的な世界初のビデオテープレコーダ(VTR)として発表したのである。CBSのWilliam Lodgeがスピーチを終えた後、マークIVは彼のイメージと言葉をほぼ即座に再生し、出席者は驚き大歓声を送ったのである。こうして世界初の実用的VTR、2インチVTRは誕生した。
なおMarkⅣはその後VRX-1000に改称され、VRX-1000を量産化してVR-1000が誕生したそうである。
Ampexはこの発表の少し前に発表で使用するためのビデオテープの製造を3Mに依頼していた。3M側にはVTRはなく、テストなしのぶっつけ本番となった。これが世界初の2インチVTR用テープの誕生の瞬間である。現在の基準で言えば粗雑なテープだったが、無事に成功した。
ただし、3Mの関係者はこの発表会を見ることはなかった。
一方で、固定ヘッド方式のVTRは回転ヘッドの実用化で衰退していった。
1952年からVERAという固定ヘッド方式VTRを開発していたBBCは1958年にようやくこれを完成させたが、その時点で2インチVTRが登場しており、15分ほどしか録画できなかったこともありすぐに放棄された。
1956年11月30日、CBS『withtheNews』がAmpex VRX-1000を使用して遅延放送を行った。世界初のVTR放送である。
なお、現存最古となるテープは1957年10月13日に放送されたCBS『エド・サリヴァン・ショー』のテープで、同番組で初めてVTRを使用した回であった。これはおそらく世界最古のビデオテープである。
一方で当時既にアメリカではカラーテレビ放送が始まっていたが、VTRはカラーに対応していなかった。
1957年、RCAはTRT-1AというAmpex互換機を導入した、これはAmpexがRCAを支援して実現した。『ビデオテープ』は当時Ampexの商標だったため、RCAはこれを『テレビテープレコーダ』と呼んでいた。
これはカラー録画を実現するためにAmpexがRCAを支援した見返りによるもので、同年RCAによりカラー録画が可能になり、NBCで実用化された。
1959年にAmpexはRCAとは異なるカラー方式を開発した。その後両社でAmpex側に方式統一することで合意した。そのためRCA独自方式で録画されたテープは後の方式では再生できない。
現存する世界最古のカラーテープは『Dedication Day NBC Washington May 22,1958』である。
これはWRC-TVで1958年5月22日に新社屋の開所式典で当時のアメリカの大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが来賓として祝辞を述べた生放送を録画したもの。アイゼンハワーはビデオテープレコーダにカラーで記録された最初の大統領になった。
このテープは1988年に復元とダビングが行われたが、RCA独自方式のカラー方式で録画されていたため、予備の基盤を改造してこの方式を再現し、それを現存していた2インチVTRに取り付けてダビングされたという。
なお2インチVTR時代は世界的にテープを使い回していたためにマスターテープが残っている番組は少ない。
1インチVTRの登場以降番組保存が広まり、現在は保存するのが基本である。
日本
日本では1939年にテレビ実験放送が始まり、第二次世界大戦による中断をはさみ1953年2月1日にテレビ本放送が始まっても、録画装置はなかった。そのため実験放送時代から本放送開始直後の番組はほぼ残っていないと考えられる。
NHKアーカイブスに現存する最古のテレビ番組は1952年12月13日放送のテレビドラマ『枯草物語』の4分ほどのワンシーンである。これは音声はなく、スタジオの生放送時に挿入されたものが残ったと考えられている。
フィルム撮りでない日本初のテレビ収録放送は、キネコ(キネレコ)により1954年10月16日に東京・歌舞伎座の舞台を録画し、4日後に放送したのが最初である。
民放では1957年に日本テレビがキネコを導入したという資料がある。
1958年4月28日に大阪テレビ放送(後に朝日放送に吸収合併され同社テレビ部門となり、分社化により現在は朝日放送テレビ)がAmpex VR-1000を大阪本社と東京支社に1台ずつ導入した。日本はアメリカに続いて世界で二番目にVTRを持った国となった。
同じ年、5月29日にラジオ東京(現:TBSテレビ)が在京局で初めて導入し、NHK技研も導入した。NHKはAmpexがVTRを開発して1年後の1957年に独自方式のVTRを開発していたというが、Ampexの方が高性能だったことからこれを採用して試作のみで終わった。
1959年頃にはNHKと民放主要局はVTRを持つ局が多くなり、東海テレビやフジテレビなど最初からVTRを設備して開局した局もあった。
1959年12月には日本テレビにRCA製のカラーVTRが導入され、日本初のカラーVTRとなった。
カラーキネコは1966年にNHK、1968年にTBSとフジテレビに導入され、1970年代まで使われた。
現存する日本最古のVTR番組はラジオ東京の1958年10月31日に放送された『私は貝になりたい』と考えられている。
現在
現在は1950年代から2000年代まで長く続いたVTRの時代は終わり、テープレスのXDCAMなどが使われている。
関連項目
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