概要
戦前からその名を馳せていた大政治家。自民党初代総裁でもある。ぽっぽこと、第93代内閣総理大臣 鳩山由紀夫(民主党)の祖父。
一高→東大という当時の超エリートのお決まりのコースを歩み、大正4年(1915年)に代議士に初当選。戦時中は大政翼賛会と対立し、翼賛会非推薦候補として出馬、当局の選挙干渉をはねのけて当選している。
戦後は幣原喜重郎の後任として昭和21年(1946年)に首相就任が確実視されていたが、昭和天皇からの組閣の大命降下を受けに行く直前(すでに燕尾服に着替えていた)に彼の公職追放が決定、鳩山内閣は流産した。その後、吉田茂に自由党総裁職と総理大臣職を譲り、謹慎を余儀なくされるが追放から5年経ってもなかなか公職追放が解除されない焦りが祟ってか、脳溢血で倒れてしまう。(直後に追放解除)
回復後は昭和21年に吉田に内閣を譲ったときの約束に基づき、吉田に総理の座を早く譲れと要請したが、権力の旨みを知った吉田は「病人に政権を任せられんなぁ」と言って鳩山を無視、以後二人の関係は政敵の間柄となり、そのうち自由党からも離党、重光葵や三木武夫が率いていた少数派保守政党の改進党と合同、日本民主党を結成する。昭和29年(1954年)、吉田茂内閣総辞職後を受けて内閣総理大臣に就任。吉田は貴族主義的で批判を受けたが、鳩山は鳩山ブームといわれるほど人気を集めた。まもなく総選挙を行い、彼の率いる日本民主党は第一党にはなるが、過半数は得られず、選挙前と同様、少数与党として続けていくことになる。
昭和30年(1955年)、左右に分かれていた社会党が政権交代を実現させるために合同すると、保守の側でも自由党と民主党の合併を行うべきという議論が起こり、両党は合併して自由民主党が結成される。なお、当初は旧自由党と旧民主党に埋められない溝があったために結成から半年は総裁を置かず、旧自由党から緒方竹虎、大野伴睦、旧民主党から鳩山一郎、三木武吉の4人を総裁代行委員として党を運営する形にした。翌年4月5日に正式に自民党初代総裁に就任。
首相としては、再軍備を正式に認める憲法改正やその為の小選挙区制への移行を模索していたが、党内外の反発で実現できず。一方、ソ連との国交回復に成功し、シベリアに抑留されていた日本軍の将兵を取り戻し、国連加盟を成功させた。これを花道として首相を退任する。
「友愛」
今では孫である鳩山由紀夫の代名詞となっている「友愛」であるが、その元祖は鳩山一郎である。なお、いわゆる「友愛される」とはまったく無関係なので。
エピソード
- 鳩山家は初代和夫が頭の良さで小藩の武士から日本初の法学博士(同時に5人授与されている)に成り上がった立志伝中の人であり、そのためか、鳩山家は代々優秀な頭脳の持ち主が多い。例えば、鳩山の弟・秀夫は兄よりさらに優秀な成績で東大法学部を卒業し、日本民法史に多大な足跡を遺した民法学者になり、息子の威一郎は鳩山家では相対的に目立たないが、東大法学部を首席で卒業している。孫の由紀夫はルーピー(愚者)のあだ名を持つが、一方で東大工学部、スタンフォード大大学院を経て工学博士号を取得、専修大学で教鞭をとっていた秀才でもある。(ただし、政治家としては致命的にセンスがなく、政治家になってしまったことが彼の人生における最大の汚点か。)その弟・邦夫は鳩山家伝統の「兄より優れた弟」を体現するかのごとく、東大法学部をトップクラスの成績で卒業している。
- 日本では片山哲に次ぐ2番目のクリスチャン総理。孫の由紀夫元首相がうわ言のようにしばしば口にしていた「友愛」は彼がキリスト教の概念から持ってきたと言われる。なお、クリスチャンが3代続いている吉田・麻生家とは違い、由紀夫元首相はクリスチャンではない。
- ブラックな話も多い。たとえば、大正時代に普通選挙に「日本で普通選挙はまだ早い」と反対していたり、1930年に浜口雄幸首相がテロに遭い重症を負ったにも関わらず、登院要求を執拗に行い、無理やり浜口首相を登院させて結果的に浜口首相の寿命を縮めたという説がある。また、根っからの自由主義者と言われるが、文相を務めていた1933年に滝川事件という学問の自由を弾圧する事件を起こしている。後年の公職追放処分の理由にこの滝川事件が挙げられている。また、首相在任中、改憲の為の布石として、小選挙区導入を行おうとしたが、選挙区の区割りが旧民主党に有利になるようにしていたため「ゲリマンダーならぬハトマンダーだ」と、旧自由党議員を中心に党内からも批判された。
- 自民党において彼の派閥は後に岸信介→福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博→森喜朗→町村信孝に引き継がれて今に至る。今の清和政策研究会である。結党から長い間自由党系の宏池会系、経世会系派閥が党の主流を占めていたが、小泉純一郎内閣において勢力を大幅に伸長し、最大派閥へ成長した。
- 政敵・吉田茂に負けたくない思いから、吉田のサンフランシスコ平和条約締結・日本独立に劣らない功績を求め、彼が総理在任中に行った最大の功績がソ連との国交回復である。ソ連との国交回復により、数十万人の旧日本軍将兵が帰国を果たし、日本は国連加盟にも成功した。
盟友・三木武吉
鳩山一郎を語る上で欠かせない人物が盟友の三木武吉である。
三木は香川県の出身、若い頃はうどんを食い逃げする、喧嘩に明け暮れるなどDQNフリーダムな少年時代を過ごしつつ早稲田大学を卒業、その後、政治家を志し、1917年、2度目の総選挙で初当選。そんな彼が1915年頃に早大時代の恩師である鈴木喜三郎を訪問した際、紹介されたのが鈴木の義弟であった鳩山一郎である。この二人、性格は正反対と言っても良かったが何故かウマが合い、基本的に汚れ仕事が嫌いな鳩山の代わりに自分が権謀術策の限りを尽くしたり、鳩山が公職追放されたり、脳溢血で倒れたときに「俺がお前をいつか絶対に総理にしてやる、だから今は寝てろ」と励ましたりと盟友・鳩山のために労を惜しまなかった。
当時の大物保守政治家としては珍しく、一度も閣僚経験をしないまま鳩山より一足先に没した。
この他、ユーモアや男気あふれるエピソードが数多く存在するが、ここでは語らない。詳しくはウィキペディアをチェック!
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関連項目
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