U-181とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1942年5月9日竣工。ドイツ降伏後は日本海軍に接収されて伊501となる。1946年2月16日マラッカ海峡で海没処分。
概要
IXD2型とは、前級IXC型以上に作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。
まず最初にIXD1型が建造されたが、搭載していたメルセデス製魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXD2型では、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。
甲板砲には10.5cmシフスカノーネC/32砲を採用。360度旋回可能、23kgの弾丸を最大1万5300m先まで発射出来るこの砲は操作に3名の人員を要する。戦況が不利になるにつれ、各種Uボートから甲板砲が撤去されたが、IX型のみ何故か最後まで搭載され続けていた。後甲板には強力な重対空砲である3.7cm Flak M/42単装機関砲を装備。IXD2型はVIIC型より大型なので更に2cm Flak38連装機関砲を装備、Flak38はFlak30の改良型にあたり、3倍以上の発射速度を誇る。
航洋型Uボートの完成形とも呼べるIXD2型は合計28隻生産された。
U-181は通商破壊で特に顕著な功績を残し、4回の出撃で連合軍船舶27隻(13万8779トン)を撃沈、全Uボート中19位の撃沈スコアを叩き出した。初代艦長のヴォルフガング・リュート大尉は、ドイツ海軍では2人しか受勲していない柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与され、U-181を題材にした短編ニュース映画「U-BOAT COMMANDER U-181 WOLFGANG LUTH BATTLE OF ATLANTIC」が製作、一般家庭向けに販売されている。
ドイツ降伏後は日本海軍が接収。伊501と改称するが戦闘任務を行う事なく終戦を迎えた。ちなみに伊501と伊502の魚雷搭載本数は24本であり、潜特型や巡潜丙型の20本を上回る。
諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫水5.35m、出力9000馬力、最大潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲1基、搭載魚雷本数24本。
戦歴
1940年8月15日にAGヴェーザー社ブレーメン造船所へ建造を発注。
1941年3月15日、ヤード番号1021の仮称で起工、12月30日進水するが、あまりの寒さに艦体が氷結しており、ハンマーで氷を叩き落とさなければならない一幕があった。1942年3月17日に乗り組み予定の人員を集めて建造説明会を実施。そして1942年5月9日に無事竣工を果たす。初代艦長にヴォルフガング・リュート大尉が着任。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
リュート艦長はU-13、U-9、U-138、U-43の艦長を務めてきたベテランで、部下と艦の性能を最大限に引き出す、人を鼓舞するのが巧みな戦術家だった一方、熱烈なナチス信奉者でもあった。艦を去った元部下の面倒まで見る父親のような優しさを持つが、神経質な面もあり、艦内に持ち込まれる書籍は全てリュート艦長の承認が必要な上、エロ本の持ち込みはエッチなのはダメ!死刑!!と言わんばかりに禁止された。服装、飲食、喫煙等も艦長が厳しく管理。しかしこれらの徹底した管理は乗組員の士気高揚や忠誠心に繋がったという。
5月9日から12日までブレーメンで試運転を行い、ブレーマーハーフェンとブルンスビュッテルを経由して、5月15日キールに回航、以降はバルト海方面で、訓練支援船イベリアの援護を受けながら各種試験と慣熟訓練に従事する。6月25日、26日、30日はダンツィヒで第25潜水隊群と魚雷発射訓練を、7月1日より10日までゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練を、7月11日からはダンツィヒ湾で砲撃訓練を実施する。8月29日シュテッティンでトリムの調整と推進剤の補充を行った。
慣熟訓練を終えたU-181は、ヘラ半島を経由して9月8日にキールへ入港、残工事を片付けつつ出撃準備を整える。
1回目の戦闘航海(1942年9月~1943年1月)
往路
1942年9月12日午前7時、U-610、U-620、U-212、U-253とともに曇天のキールを出港。グレートベルト海峡とスカゲラク海峡を通過し、翌13日21時15分にノルウェー南部クリスチャンサンへ入港。ここで燃料補給を受ける。9月14日午前8時40分、対空船の護衛を伴って同地を出撃、ノルウェー西岸を北上したのちシェトランド諸島方面に向かう。
シェトランド諸島西方を南西方向に抜けていた9月18日13時54分、後方約6000mの雲間から接近中の敵機を発見して急速潜航、水深55mまで潜ったところで、投下された航空爆弾が艦尾付近で炸裂、軽微な損傷を負う。20時45分、推進音と遠方より響く爆雷の爆発音約30回が聴き取れた。どうやら敵艦がU-181を探し回っているらしい。安全を確認して22時10分に浮上する。9月21日午前2時には敵駆逐艦2隻が前方に出現するも回避成功。無事イギリス軍の厳重な警戒を掻い潜って北大西洋への進出を果たす。
9月26日午前4時より午前7時まで北大西洋の気象情報をBdU(Uボート司令部)に報告。
9月28日19時33分、ビスケー湾西方の洋上にてU-116やU-569と合流、ハンモックに包まれた予備部品約60kgを受け取ろうとしたが暗闇と荒波に阻まれて移載作業を中断。敵に発見されるのを防ぐため3隻は一度解散した。翌日午前11時15分に再度2隻と合流して輸送を続行。荒波に揉まれながらも旧型冷却ポンプを新型に交換、14時までに予備部品の移載も完了する。
10月14日午前7時52分、突如艦内に小型爆弾が炸裂したかのような轟音が響く。調べてみると左舷の調整タンクと負圧タンクから液漏れが発生している事が判明。加えて負圧タンクのフラッドバルブが閉じなくなっていた。好天時にダイバーがフラッドバルブをシールで覆い、ほぼ空の負圧タンクの中に入ってバルブを修理して、何とかレギュレーターとして使用に耐える状態にする。
10月17日にU-181はアセンション島とセントヘレナ島の間を南下。赤道付近だけあって照り付ける太陽光は強烈で、裸足で歩くには熱すぎるほど甲板が熱せられ、機関室の温度は60℃にまで達した。
喜望峰沖での通商破壊
10月下旬、U-181、U-177、U-178の3隻はケープタウン沖に到着。U-181とU-178の到着はほぼ同時だったという。2週間ほど前にウルフパック「アイスベア」が暴れた影響で連合軍の対潜哨戒網が強化されていたが、U-181を止めるには至らなかった。
中立国ポルトガル領ゴアに潜伏し、連合軍船舶の動向を監視していたドイツ人スパイ2名は、得られた詳細情報をモルムガオ港のドイツ貨物船エーレンフェルスに報告、エーレンフェルスは極秘の無線送信機を使ってインド洋周辺のUボートに情報を送った。アメリカ船イースト・インディアン、エクセルロ、アルコア・パスファインダーの出港日時及び航路を知り得たU-181は狩りを始める。
11月3日午前4時頃、喜望峰南西約300海里を航行中、U-181は米自動車運送船イースト・インディアン(8159トン)を発見して潜航、午前5時48分に2本の魚雷を発射するが命中せず、9時間近い追跡の末、16時22分にジグザグ運動中のイースト・インディアンを雷撃、魚雷2本が右舷側に命中して2分以内に沈没させる。積み荷のマンガン鉱石3500トン、紅茶500トン、そして船員58名が海に呑まれた。
生存者16名は4隻の救命いかだに分乗して脱出。浮上したU-181は1隻を捕まえてパトリック・キーナン三等航海士に尋問を行い、それが終わると飲料水を与えた上でケープタウンへの航路を教えて解放した。ちなみにイースト・インディアンは浦賀船渠で建造された日本製で、日米船鉄交換船に指定されてアメリカ船籍となっていた。
11月8日20時25分、ポートエリザベス沖でパナマ商船プローディト(5060トン)の左舷機関室に魚雷1本を撃ち込んで大破させる。プローディトは爆発により海図室、救命艇、無線装置が破壊され、救難信号を打てなくなったが、無言のまましぶとく浮き続けたため、22時15分から甲板砲15発を撃ち込んで撃沈。船員38名と武装警備員11名は救命艇やイカダに乗って船を放棄した。
11月9日23時45分にノルウェー商船K.G.メルダール(3799トン)を発見して追跡開始。K.G.メルダールは大きな木箱に入った一般貨物、弾薬、航空機を甲板に載せ、第5船倉には750トンの弾薬が保管されていた。翌10日午前3時40分、二等航海士が左舷側を同航するU-181を発見、警報が鳴り響くと同時にU-181もまた急速潜航を行った。K.G.メルダールはサイモンズタウンにUボートの目撃情報を送信しつつ全速力でジグザグ運動を実施。しかしU-181からは逃げ切れず、午前8時27分、イーストロンドン南東約160海里で雷撃、右舷機関室に1本を命中させて9分以内に沈没へと追いやった。その後は救命ボートに乗った生存者を尋問して解放。
11月11日午前3時25分、連合軍が放った600メートル波長によるUボート警報をU-177が受信、方角からしてU-181の攻撃に対して出された警報と推測された。
11月13日午前3時35分に米商船エクセルロ(4969トン)を発見して水上追跡。午前7時より潜航して雷撃の機会を窺う。午前8時1分、ポート・セント・ジョン沖南方50海里でエクセルロを雷撃して撃沈。救命ボートで波間を漂う生存者に尋問を行った。同日付でリュート艦長には柏葉章の受勲が決定。
英駆逐艦インコンスタントとの戦い
順調に撃沈スコアを重ねるU-181に最初の試練が訪れる。11月15日午前3時35分ダーバン南東を浮上航行中、敵哨戒機を発見して急速潜航。敵機はU-181の頭上を旋回し続け、午前7時36分、北西7000m先に敵駆逐艦の出現を確認、急いで深く潜ると同時にデコイの発射を試みるが、外側のキャップが外れず射出不能になってしまう。水上からは英駆逐艦インコンスタントがU-181に熾烈な爆雷攻撃を仕掛ける。
最初に投下された爆雷6発は至近弾となってU-181を揺さぶり、水深140mに潜航退避、しかし次の10発は危険なほど正確に投下され、160mまで潜らなければならなかった。一応IXD2型は230mまで潜航出来るようになっているが、安全潜航深度は100mまでであり、いつ水圧で圧壊してもおかしくない状態であった。午前9時29分までは完全にインコンスタント有利の戦況で推移する。午前11時の爆雷攻撃では水深174mに押し込められ、強力な水圧により艦のあちこちが軋み、あるいは亀裂が走り、出口ハッチからは1時間あたり200~300リットルの海水が流れ込んでくる。
午後12時5分、敵の隙を突いて左転舵中にデコイ5発を発射。インコンスタントはこのデコイに引っかかって25分後にU-181を見失った。ここから徐々に戦況が好転していく。15時30分にはジャイロスコープと音響探知機を再起動、相変わらずインコンスタントのものと思われる推進音が聞こえてくるも、正確な位置を特定出来ていないのか、明後日の方向から炸裂音だけが鳴り響く。爆雷を使い切ったインコンスタントは補給のため撤収、代わりにフラワー級コルベット艦ジャスミン、ニゲラが対潜攻撃を引き継ぐ。
しかし両艦はU-181との接触に失敗。21時59分に捜索中止命令が出されて撤退した。音響探知機を作動しても音が聞こえなくなったので、23時30分浮上。美しく輝く月がU-181の生還を祝した。闇夜に紛れながら応急修理を行った後、モザンビークに向けて460km北上する。
ちなみにインコンスタントはU-181を撃沈したと報告し、艦長W・F・クラウストン中佐には勲章が授けられているが、実際は沈んでおらず、今後もU-181による被害が増大していく事となる。
モザンビーク海峡で暴れるU-181
間もなくU-181はモザンビーク海峡南端に進出。モザンビークは、北アフリカ戦線に展開する連合軍の重要な補給港であり、数えきれないほどの連合軍船舶がひっきりなしに往来する、Uボートにとって絶好の狩り場と言えた。
11月19日19時55分に敵船を捕捉、20時55分より急速潜航を開始する。21時25分、モザンビーク海峡インハカ北東約20海里にて、ノルウェー商船グンダ(2241トン)を雷撃し右舷前方に命中、3134トンの石炭を抱えて僅か2分で沈没していった。グンダを仕留めた直後の23時30分に新たな獲物を発見。翌20日午前1時24分、インハカ灯台の東方沖で、単独航行中のギリシャ商船コリンシアコス(3562トン)の右舷後部に魚雷1本を命中させて撃沈。レオニダス船長と船員10名が行方不明になった。
11月22日午前0時33分、満月が浮かぶ夜空の下、ロウレンソ・マルケス南方75海里を航行していた米商船アルコア・パスファインダー(6797トン)はU-181から雷撃を受け、左舷機関室に魚雷が命中、直後爆発が生じ、破片が60m近くまで吹き飛ばされた。アルコア・パスファインダーには20mm砲4門と30口径砲2門が搭載されていたが、U-181を発見出来なかったため1発も発砲出来ていない。大量に積まれた鉱石が重しとなって3分以内に船尾から沈没。アルコア・パスファインダーの撃沈によりエーレンフェルスが通報した敵船は全て撃沈された。
11月24日午前3時38分、ケープタウンからセント・ジョンに向かっているギリシャ商船マウント・ヘルモス(6481トン)を発見、午前7時38分に魚雷2本を発射し、うち1本を命中させて航行不能に追いやる。魚雷節約の目的でU-181は午前8時2分より水上砲撃を開始、78発中65発を命中させて40分後に撃沈させるも、砲撃中に37mm機関砲が破裂してしまい、以降の攻撃には使用できなくなる。
同日15時56分、ダーバン行きの英商船ドリントン・コート(5281トン)を発見し、19時52分潜航、20時34分にイハカ島東南東で雷撃して、左舷船尾と機関室・ボイラー間の船体にそれぞれ魚雷を命中させる。当直員4名死亡、生じた破孔から海水が流入して機関室とボイラー室が浸水、呑み込んだ海水の重さで甲板がほぼ水浸しになるも、以降は沈下する様子は無く浮き続けていた。ドリントン・コートにトドメを刺すべく、21時23分に浮上して10.5cm甲板砲90発を発射、このうち60発を命中させて撃沈へと追いやる。
11月28日22時50分、インハウス北東70海里にて、モザンビークで荷降ろしを終えた帰りのギリシャ商船エヴァンシア(3551トン)を雷撃、左舷中央部に魚雷が命中・炎上したエヴァンシアからは船員が脱出したが、沈む気配を見せなかったため、30分後に浮上、それから45分間に亘って水上砲撃を行い、107発中70発を叩き込んで撃沈する。
11月30日午前5時11分、イニャンバネ南南東約42海里にてギリシャ商船クリアンディス(4153トン)の右舷に10.5cm甲板砲の連射を浴びせる。激しい砲撃により、クリアンディスが唯一装備していた船尾の対空砲が破壊され、船橋への命中弾で船長は戦死、瞬時に無線機も破壊されて遭難信号を送れなくなった。10.5cm砲弾を使い切ると今度は20mm機関砲で左舷側から銃撃して午前6時55分に撃沈。
12月2日17時40分、雨の中を進むギリシャ商船アマリリス(4328トン)をロウレンソ・マルケス南南東140海里で雷撃し、左舷中央部へ魚雷を命中させて船体を真っ二つにへし折って撃沈。船長、船員26名、砲手2名が戦死した。浮上後、U-181は生存者6名が乗った救命ボートに近づき、リュート艦長が直々に二等航海士を尋問。アマリリスに乗っていた羊は非常食代わりに接収された。
一連の通商破壊で12隻(5万8381トン)もの敵船舶を撃沈。1回の航海で叩き出した戦果では、全Uボート中第9位となる。航洋型Uボートの戦略的価値を理解したリュート艦長はBdUに対し、「少なくとも新造艦には、より大型な潜水艦が必要である」と報告している。
復路
12月12日午前4時、BdUから「アフリカ西岸沿いを北進してケープタウンの敵船舶を攻撃せよ」と命じられ、モザンビーク海峡より撤退、アセンション方面に向かう。荒天に巻き込まれる等の原因で、航続距離の長いIXD2型と言えど、フランスに帰投出来るかどうか怪しくなってきたため、リュート艦長はBdUに燃料補給を求めたが、「補給は期待出来ない」という望まぬ返答のみが返って来た。やむなく燃料節約の目的で全てのバラストタンクを空にする。
12月19日16時、10月10日にU-172の雷撃で撃沈された英軍隊輸送船オルカデスの、完全装備の救命ボートが波に漂っているのを発見。12月24日アセンション・セントヘレナ間の海域を北上通過。この日、リュート艦長の計らいで士官食堂を解放して乗組員全員と一緒に食事を取った。
ドイツ放送サービスとの追加文書提案命令に従い、U-181は銃後の家庭向けに「南大西洋より、ご家庭の皆さまメリークリスマス。現在までに5万8000トンを撃沈しました。今は熱帯の暑さの中、水深30mでアコーディオンと手作りモミの木を使ってクリスマスパーティーを開催中」と電文を打つ。この無線メッセージは受信確認されたものの、放送時には何故か読み上げられなかったとか。
1943年1月8日16時8分にU-381が西進する敵輸送船団を発見したとの報が入る。敵航路の近くにいたU-181は攻撃に向かい、翌9日13時12分、U-181の視界内に3隻の汽船が出現、直ちに発見報告を送った。船団の左側にはVIIC型と思われる味方Uボートが追跡しているのが見える。14時14分より潜航開始。追跡を続けたが、遂に雷撃の機会は巡って来ず、21時30分、BdUはU-181に「雷撃を受けて落伍した敵船舶を捜索のち帰航せよ」と指示を出す。
1月16日ビスケー湾に進入。敵国イギリスの眼前にある立地上、湾内では常に厳しい航空哨戒が行われており、潜航しながらの移動を強いられる。そして1月18日17時ボルドーに凱旋帰投を果たして129日間の戦闘航海を終えた。甲板砲355発は全て撃ち尽くし、発射管には魚雷2本しか残っていなかったという。
リュート艦長、総統閣下と謁見
1月26日付でリュート艦長はダイヤモンド付Uボート戦闘徽章を受章。
1月31日、リュート艦長と士官たちは東プロイセンのラステンブルクにある総統大本営へ赴き、ヒトラー総統、カール・デーニッツ元帥、西部方面司令官テオドール・クランケ少将と非公式に会談を行う。ベルリンへの帰路、デーニッツはリュート艦長たちに自分が海軍最高司令官に任命された事を明かした。バレンツ海海戦の失態で前任者エーリヒ・レーダー大将が罷免されたのだ。
2回目の戦闘航海(1943年3月~10月)
往路
1943年3月23日ボルドーを出撃。ビスケー湾を南西方向に抜けて北大西洋に進出する。デーニッツ元帥は再び大規模通商破壊を行うべく、U-181を含む大型航洋Uボート7隻を南アフリカ沖に派遣、しかし7隻の遠征計画は連合軍の暗号解析班に傍受され、イギリス海軍省は当該海域の海軍部隊に警告を発していた。
3月27日、ビスケー湾西方で味方偵察機がSL-126船団を発見、U-181はU-267、U-404、U-571、U-662とともにSL-126船団の捜索を命じられるも、接触に成功したのはU-404とU-662のみだった。航行中の4月1日、リュート艦長の少佐昇進の報が届く。
英商船エンパイア・ホイムブレル(5983トン)は冷蔵肉及び缶詰め5339トンを積載してフリータウンに向かっていた。目的地まで後少しのフリータウン南西420海里の地点で、4月10日午前5時56分、回避運動むなしくU-181から放たれた魚雷2本が命中、30秒後にエンパイア・ホイムブレルは洋上停止した。船員は救難信号を放つとともに船を放棄して脱出。救命艇の1隻を捕まえて尋問した後、午前7時15分より水上砲撃を行い、28発中20発の命中弾を与えて15分後に撃沈。
しかし4ヶ月以上使用していなかったせいか、37mm対空機銃の初弾を発射した際に暴発が起き、破片で料理人のヴィルヘルム・ヴィリガー少尉が左膝を粉砕されて死亡、キューネ甲板長補佐は背中を、ウィル水兵は右肘を負傷するが、艦務に支障が出ない程度の傷で済む。ヴィリガー少尉の遺体は海葬に付された。4月12日正午、帰投中のU-516と合流して負傷者を引き取ってもらう。
リュート艦長の指示でヒトラー総統の誕生日(4月20日)を祝うパーティーを開く。総統の誕生日を祝ったUボートは全体で見ても数少ないんだとか。
5月3日頃に喜望峰を通過してインド洋西部へ進出。狩り場のモザンビーク海峡まで辿り着く。しかし連合軍の対応は早く、Uボートの接近を知るや、5月4日より南アフリカ方面でも護衛船団方式を取り入れ、高速を発揮出来る船を除いて独航船は姿を消し、ケープタウン付近の船団は大きく迂回した。
またゴアで船舶情報を送っていたエーレンフェルスがカルカッタ軽騎兵の襲撃を受けて自沈。浮上した時、エーレンフェルスからの情報が届かなかった事で、U-181は「もう二度と通信は来ないだろう」と悟ったという。エーレンフェルスの喪失は痛恨事であり、向こうしばらくはUボートの戦果が低調になってしまった。
モザンビーク海峡での通商破壊
5月11日午前2時8分、DN-37船団から分散航行していた英商船ティンハム(5232トン)をマプト北東沿岸で捕捉、2時間後に魚雷2本を発射し、被雷したティンハムは10分以内に沈没。フィリップ・ヘンリー・エイドン船長、船員24名、乗客50名が死亡、生き残った者に尋問を行ってU-181は海域を去った。
5月26日18時33分、ポンタ・サヴォラ灯台東方5海里沖で、小麦粉6241袋とフルーツジュース327トンを積載した、スウェーデン商船シチリア(1633トン)を発見。スウェーデンは中立国なので、翌7日午前6時11分、シチリアの右舷後方から前路に向けて砲弾10発を撃ち込んで威嚇射撃を実施、船首と船尾の至近距離にそれぞれ1発ずつ着弾し、恐怖を覚えた船員たちは速やかに2隻の救命ボートに分乗して脱出する。
U-181は船長と一等航海士を艦内に乗せ、尋問並びに書類審査を行う。シチリアは自由航行中立船のリストに載ってはいなかったが、船長はブエノスアイレス発スウェーデン行きと説明、リュート艦長は彼の言葉を信じ、BdUに処遇をどうするか指示を仰いだ。しかし、スウェーデン人2名が救命ボートへ戻ろうとした時、リュート艦長が書類の不備に気付き、航海日誌を見せるよう要求、二等航海士が船橋より持ってきた日誌を見てみると、去年(1942年)シチリアが連合国の南北アメリカと貿易を行っていた事が判明。
強い疑念を抱いたリュート艦長は30分以内に食糧と私物を回収するよう伝え、「積み荷も船も中立だ」と抗議するスウェーデン人に対し「大変申し訳ないのですが戦争は戦争です。実際、この航海はイギリスの代理店が手配したもの。ロウレンソ・マルケスで荷揚げされた小麦粉の一部は南アフリカへ輸送されていました」とピシャリと告げた。午前8時29分シチリアの右舷中央部に砲弾を撃ち込んで撃沈。
救命ボートに乗った生存者にリュート艦長が「何か欲しいものはあるか?」と尋ねるも、生存者たちは拒否、むしろパンとタバコを差し出してきたため、そのまま立ち去るしかなかった。
6月7日21時30分に小型蒸気船の船影を発見して追跡。23時28分、ダーバン東方200海里にて、南アフリカ商船ハリアー(193トン)にG7a魚雷を発射、20秒後船尾へ1本を命中させる。すると積み荷のガソリンが誘爆して大爆発が起こり、船員16名全員が死亡した。
シャルロッテ・シュリーマンからの補給
6月22日午前4時、U-181はダーバン南東に定められた合流地点に到着。そこには、IXD2型によるインド洋通商破壊作戦を延長させる目的で、ドイツ補給船シャルロッテ・シュリーマンが派遣・待機しており、既にU-178とU-196が横付けして燃料補給を受けている。その近くにはU-197やU-198の姿も見える。
荒れた海で複雑な作業工程をこなすには時間を要し、またシャルロッテが保有するモーターボートは気象条件の問題で使用出来ず、各々が有するゴムボートを使って細々と食糧を運び込むしかなかった。それでも何とか60日分の食糧を補給する事には成功。しかし、肉や野菜は傷みやすく燃料よりも早く尽きるという事で、シャルロッテ側が気を利かせてより多くの食糧を分けてくれたものの、それでも海の狼を満たす量にはならない。様々な問題を抱えつつも敵に見つかる事無く一先ず補給は完了した。
補給している間、U-181の乗組員はシャルロッテでシャワーを浴びる極上の一時を味わった。一方、リュート艦長は船内でU-177、U-178、U-196、U-197、U-198の艦長と経験を共有し、魚雷の不具合に関する問題について有意義な議論を行う。
翌23日、最新の海上交通情報に基づいて、各艦は割り当てられた作戦海域へ移動。マダガスカル・レユニオン間を北上しながら獲物を探す。
日独協同通商破壊
7月1日午前2時、U-181はモーリシャスのポートルイス港に停泊中の3隻を発見、狙いを付け、沖合いにて出港するのを今か今かと待ち構えていた。そして翌2日朝、2番目に出港した英旅客船ホイハウ(2798トン)を10時間に亘って追跡。ホイハウは西へ向かいながら約11ノットの速力でジグザグ運動をしている。日中は慎重に距離を保っていたが、日没が迫ると夕闇に紛れて接近、にわか雨や弱~中程度の南風に見舞われながらも良好な視界を確保し、ホイハウを狙うのに最適な雷撃位置まで辿り着く。
21時7分、モーリシャス西北西105海里で、距離1200mから2本のG7e電気魚雷を発射、1本目が船橋前方に命中して無線室を破壊、90秒後に2本目が船体中央部に命中し、ホイハウ船内に混乱をもたらした。クリスティ船長は救命艇の発進を命じるも、急速な浸水で避難が妨害され3分以内に船首から沈没。あまりの沈没の速さにクリスティ船長、船員90名、海軍砲手7名、看護師4名を含む乗客47名が死亡。生存者は4名だけだった。
ペナンを出撃した日本海軍の伊29が7月8日にアデン湾へ進出。通商破壊作戦を開始する(8月2日まで)。この時、日独の潜水艦がインド洋で同時に通商破壊を行っていた訳である。事前の日独協定によりインド洋を南北に分け、北側を日本、南側をドイツの狩り場とし、同士討ちを避けるため潜水艦への攻撃は厳禁という取り決めがなされていた。
7月15日13時47分、ダーバン発アデン行きの英蒸気商船エンパイア・レイク(2852トン)を発見。攻撃のため17時15分に潜航した。18時1分、マダガスカル島東方240海里で魚雷2本を発射して撃沈、積み荷の石炭は全て失われた。生存者7名に対して尋問を行う。続いて翌16日15時58分、レユニオン南西で、モザンビークからダーバンに塩1500トンを輸送中の英商船フォート・フランクリン(7135トン)を狙って魚雷2本発射、17分以内に撃沈せしめた。
8月4日午前4時3分、アデン発アレクサンドリア行きの石炭6821トンを積載した英蒸気船ダルフラム(4558トン)は、マダガスカル東方でU-181から魚雷3本を扇状に放たれ、そのうち1本が命中して大破、それでもまだ浮き続けていたものの、午前4時53分にトドメの一撃を喰らって1分以内に撃沈された。8月7日午前9時16分DN-54船団より分離した英商船ウンブーマ(4419トン)をポートルイス南西で雷撃して撃沈。一般貨物2000トン、砂糖2000トン、軍需品800トンは船体ごと海底に沈んだ。
8月9日これまでの大戦果によってリュート艦長には柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章の受勲が決定。海軍では初めての授与となった。授与を知らせる暗号文が届いた時、乗組員たちはビールとコニャックで祝福したとか。
8月11日正午頃、DN-55船団から分散した英貨物船クラン・マッカーサー(1万528トン)を発見、しかしクラン・マッカーサーは全速力でジグザグ運動していたため、追跡に時間を要し、発見から15時間後の翌12日午前3時32分、ファラガンファン島東方約350海里にて左舷側に魚雷2本を命中させる。被雷の影響で推進軸が吹き飛ばされ船内の電源は失われた。ポートステーションに辿り着いた船員は救命艇を海へ降ろし始める。
午前3時47分に3本目の魚雷が船橋前方で爆発。船首が海中に沈み、船尾が鋭角に持ち上がり、その状態のまま8分後に沈没していった。更に水中でクラン・マッカーサーが激しい爆発を起こしてU-181が軽微の損傷を負った他、救命ボート数隻が衝撃波で沈没。おそらく積み荷の弾薬が誘爆したのが原因と思われる。
敵に通信を解読される
エニグマの解読暗号表の有効期限が迫ってきたため、BdUはU-197から新たな暗号表を受領しつつ、フランスへの帰投に向けて最終調整を行うようU-181に指示、2隻は盛んにモールス信号で通信を交わしたが、8月18日にU-181が放った信号を連合軍に傍受・解読され、刺客の対潜哨戒機が送り込まれる。そうとは知らずに翌日U-181とU-197は合流して暗号表を受領。次はU-196との合流地点に向かう。
8月20日、U-190はU-197から「爆撃を受けて潜航不能」との無線報告を受け取った。これを受けてBdUはU-181とU-196にU-197の捜索を行わせる。2隻は洋上で合流。U-196はシャルロッテでの補給以来、敵船を1隻しか沈めていなかったので、ケントラット艦長はリュート艦長に魚雷5本の譲渡を申し出たが、リュート艦長はこれを謝絶した。その後、3日間に亘って捜索を行うもU-197を発見出来ず、間もなく帰投命令が出される。
7隻のUボートによる大規模通商破壊で連合軍商船36隻(約23万5000トン)を撃沈。このうち9隻はU-181の戦果だった。日本潜水艦の戦果と合わせると、大西洋方面のUボートが挙げた戦果を僅かながら上回った。デーニッツ元帥はこの大戦果に喜び、インド洋に戦局挽回の希望を見出すとともに、今後もIXD型を積極的に送り込むのだった。
復路
U-181、U-177、U-196はインド洋を脱して帰路に就く。3隻とも十分な燃料と物資を持っていたのでU-488による補給は行われなかった。帰投中の9月、U-181を敵艦と誤認したU-172から魚雷を撃たれそうになったが、直前でU-181が識別信号を点灯し、ぎりぎりのところで同士討ちは避けられた。
順調に進むU-181に思わぬ問題が降りかかる。それはU-197から受け取った暗号表が10月1日に失効してしまう事だった。失効後エニグマのメッセージを一切解読出来なくなるが、リュート艦長は敢えて沈黙を保ち、無線で暗号表を取り寄せるような真似はしなかった。迂闊に通信をすれば連合軍機がすっ飛んで来るからだ。彼の判断は正しかったようで、10月14日ボルドーに無事帰投。
2回目の戦闘航海では10隻(4万5331トン)を撃沈。1回目と合わせて22隻(10万3712トン)を撃沈する大戦果を挙げた。また今回の出撃で205日間の航海をこなしたが、これはUボート史上最長記録であった。ただしU-196の225日間に記録を抜かれて現在は第2位となっている。
リュート艦長は長い航海の間、乗組員の士気を維持すべく、艦内新聞の発行や競技会の開催、詩のコンテスト、反ユダヤ主義の講演、鳥類識別講座といった催しを考案・実行したり、どんなにマイナーな祝日であっても盛大なパーティーを開くなど、彼の気苦労と部下想いな一面が窺える。
ボルドー帰投後
10月25日、ヒトラー総統はリュート艦長を総統本部に招待して柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章をを授与、この時リュート艦長は機関長カール=アウグスト・ランドフェルマン大尉とヨハン・リムバッハ二等航海士を騎士鉄十字章に推薦し、ヒトラー総統とデーニッツ元帥に認められた事で、27日ランドフェルマン大尉が受勲している(リムバッハは推薦から約1年後に受勲)。英雄となったリュート艦長は、戦死による士気低下を避けるため地上勤務に回され、妻に「今後は哨戒に出ない」と無線連絡した。
11月1日、二代目艦長にクルト・フライヴァルト少佐が就任。彼はこれまでに3隻のUボート艦長やエーリヒ・レーダー前海軍司令の副官を務めてきたが、ずっと海軍司令部にいたため、第二次世界大戦が始まってからは一度も実戦に出ていない新米艦長だった。
新任の指揮官にとって長年運用されてきた部隊を引き継ぐのは容易ではなかった。確かに乗組員の練度は高かったが、訓練期間は僅か3ヶ月しか与えられず、加えてフライヴァルト艦長自身は実戦経験が無いので、引き継ぎのノウハウも持っていない。士気を鼓舞するためか、彼は司令塔にこれまでの撃沈スコアである「105812」の数字を描く(当時の記録なので現在の記録と若干食い違っている)。
フライヴァルト艦長の緊張や不安とは裏腹に、乗組員は「リュートにはあの落ち着きが無かった」「彼が海上でこんなに落ち着いていられるのなら、悪い取引はしていない」と評した。実際ジロンド河の閘門を通る際の操艦技術は見事なもので、乗組員曰く「魚雷艇のような素晴らしい操縦」だったそうな。余談だがU-181には艦長ではない大尉が乗組員として乗艦していた。これはUボートの人員配置としては非常に珍しい例らしい。
12月17日、ヴァイマルにて行われた海軍士官大会で、リュート少佐はU-181での経験を基に長期航海の問題点と潜在的解決策を海軍幹部に熱弁している。
3回目の戦闘航海(1944年3月~8月)
1944年3月16日、U-181はボルドーを出港。今回の任務は通商破壊ではなく、同盟国日本が占領するペナン基地に物資を輸送する事で、艦内に日本軍向けの回転翼機フォッケ=アケゲリスFa330とNaxosレーダー探知機を、艦底に水銀、鉛、鋼鉄、アルミニウム、未加工の光学ガラスを積載。司令塔には識別用の「盾とハーケンクロイツ」のエンブレムを新たに描いた。
連合軍に位置を特定されるのを防ぐべく道中は無線封鎖を実施。このためBdUさえもU-181の正確な位置を把握していなかった。
ある日、フライヴァルト艦長が木製のバケツを持って艦橋に現れた。中には熱い海水と洗濯物が入っており、ジャガイモの入った木箱に腰かけて、艦長自ら洗い物と仕分けを始めたのである。艦長が率先して雑用を行うのは異様な光景だった。すかさず甲板員が代わりにやろうとしたが、友好的ながら毅然とした言葉で拒絶して洗濯を続ける。彼は他の艦長には無い礼儀正しさと権威を持ち合わせていると言えるだろう。
また艦長は「任務中の臆病者」というドイツ海軍全体で見ても特異な制度を考案。これは士官用食堂で、叱責、異議申し立て、批判、不平不満を自由に述べられるもので、たとえ国内では軍法会議ものの発言をしたとしても「任務中の臆病者」では許される。この制度のおかげで裏切りは未然に防がれ、フライヴァルト艦長への信頼は強固となり、艦長からの提案は誠実かつ感謝の気持ちを以って受け取られるようになった。乗組員の結束はU-181の能力向上にも繋がり、日々の猛訓練によって水深80mの潜航に要する時間が32秒にまで短縮されている。
フランスに帰投中のU-188は、インド洋でドイツ給油船ブラーケから燃料・砲弾・魚雷・潤滑油を補給する予定であったが、英東洋艦隊の襲撃によりブラーケを撃沈され、燃料しか補給出来ていない状況だった。特に潤滑油は今すぐにでも補給しなければならないため、U-181に補給任務が命じられ、4月22日22時に中部大西洋でU-188と合流。少量の潤滑油を補給する傍らインド洋の状況について情報交換を行った。
U-188の送信機コンバーターは故障しており、自力修理を試みるも全て失敗、このため翌23日にU-181がコンバーター故障の旨を代わりに報告している。またランドフェルマン大尉がU-188に移乗して帰国の途につく。
5月1日午前4時11分、アセンション諸島西方900海里にて、単独航行中の英商船ジャナタ(5312トン)を撃沈。船員10名と砲手4名が死亡。U-181側はジャナタを別の船バナボンと誤認していたとか。救命ボート上の生存者に尋問したのち海域を立ち去る。
三度目のインド洋進出
5月9日にケープタウン沖を、5月20日に喜望峰を突破、U-181は三度インド洋に進出する。しかし、補給船のシャルロッテ・シュリーマンとブラーケがイギリス海軍に撃沈され、代役のキトとボゴタは小型すぎて洋上給油に適さず、インド洋方面の補給事情は極端に悪化。Uボート同士で補給を行わなければならなかった。
6月2日、BdUは「マダガスカル周辺の作戦海域で成果が挙がらない場合、モルディブ方面に向かえ」と指示を出す。既にU-181は二度に亘って位置情報報告を求められていたが、フライヴァルト艦長は無線封鎖を優先して沈黙を保ち続けたため、ヴルムバッハ無線長はBdUからの警告書を手渡しながら、「艦長、今すぐ報告しなければ、故郷の母に義務的な手紙が届きます」と告げた。
無線長からの説得を受けて艦長は位置情報送信を決意。二等航海士オットー・キーゼ少尉に現在位置を調べさせる。彼は戦前、北ドイツ・ロイド汽船所有の客船コロンバス号に乗船していたベテラン航海士である。6月12日深夜、U-181はモーリシャスとマダガスカルの間で位置情報を送信、早速イギリス軍が通信を傍受したようで、モーリシャスの西方と北方で敵機の出現が認められ、そのたびに潜航退避してやり過ごす。U-181の光学機器が敵哨戒機より優れていたので素早く逃げる事が出来た。
インド洋での通商破壊
6月19日19時53分、マダガスカル島北東で、ボンベイからマルグガオに向かっているオランダ商船ガロエット(7118トン)に魚雷2本を発射、2本ともガロエットの左舷側に命中し、2分以内に穏やかな波の中へと消えていった。積み荷の石炭、砂糖、ピーナッツ1000トンも海に沈んだ。あまりにも速い沈没だったため遭難信号すら打てず、連合国からも当初行方不明と思われていた。
7月15日22時13分、マンガロール北西にて一般貨物5600トンを輸送中の英商船タンダ(7174トン)に魚雷2本を発射。しかし雷撃直前に無線室から最大感度のレーダーパルスが聞こえてきた。敵機に見つかったか?フライヴァルト艦長は手早く雷撃を済ませると同時に、急速潜航を試みるも、ここら一帯は浅瀬が多いため測深を命令、その間対空機関砲に人員を配置して対空警報を発令する。
深度報告を待つ間、魚雷を喰らったタンダが沈没していく様子を観測。いよいよタンダが最期を迎えた時、U-181もタンダと同じように、沈没の危機に瀕しているのではないか、という恐怖が脳裏をよぎった。幸い測深が間に合って急速潜航。この日は一日中潜り続ける事にした。
翌16日、士官食堂で艦長、航海士3名、デュアリング中尉、下士官が浮上するかどうかの会議を行い、潜望鏡で海上の様子を確かめたのち浮上。カモメが1羽飛んでいるだけで平穏そのものだった。
しかし同日16時頃、突如として警報が鳴り響き、急速潜航の号令とともにU-181の艦体が海中へと潜り込む。直後に4回の爆発音が轟いた。あまりの轟音に、艦首付近にいた人員は「爆弾が命中した」と勘違いしたほどだった。雲間から飛び出てきた敵双発機がU-181に奇襲を仕掛けたのだ。直撃こそ免れたものの衝撃で電気系統が故障、前傾姿勢で身動きが取れなくなり、艦内では高圧管が破裂してガスが充満、電動モーターも停止した。危機的状況の中、経験豊富なベテラン乗組員はたったの数秒で原因を特定。2分間の修理でU-181は息を吹き返した。3ノットの速力で潜航を維持しながら応急修理を続行。
だが脅威はまだ去っていなかった。今度はインド海軍のスループ・サトレジと複数の航空機から約6時間に亘って爆雷攻撃を受ける。数えるのを途中で諦めるほどの数の爆雷が投下された。海上に油膜が広がっていた事でサトレジは撃沈を確信、攻撃を切り上げて去っていった。猛攻を凌いだ後は修理のためラカティブ諸島に向かう。小島や岩礁は航空機の追跡を困難にするので避難場所としては打ってつけだったのだ。
7月19日17時3分、インド西方アラビア海で護衛無しの英商船キング・オブ・フレデリック(5265トン)に魚雷1本を命中させ、船体をばらばらにしながら撃沈。生存者のリチャード船長以下28名はU-181から尋問を受けた。4隻(2万4869トン)撃沈の戦果を挙げたU-181はインド西方での通商破壊を終了。セイロン南方を通過して東南アジア方面に向かう。
ペナン近海までやってきたU-181は、哨戒中の日本軍機が容易に識別出来るよう、艦橋前面を白く塗り、甲板に白の縞模様の塗装を施す。ペナンでは機密保持のため本国と違ってヒゲを剃る必要があり、入港前に乗組員たちはヒゲを剃り落とした。
8月7日深夜、ペナン沖を浮上航行中、見張り員が正体不明の潜水艦の司令塔を発見、すると謎の潜水艦が潜航を始めたので、U-181も潜航退避を行う。正体は暗号解析で待ち伏せていた英潜水艦ストラタジェムであり、U-181目掛けて数本の魚雷を発射しているが、全て外れている。
東南アジアでの行動
8月8日、ウルリッヒ・ホルン中尉が駆る、日の丸に塗装されたアラドAr-16水上機が飛来し、U-181の頭上で数回旋回したのち、識別を示すように翼を下げた。程なくして日本の小型水先案内船が現れてU-181をペナンまで誘導する。こうして146日間に及ぶ長旅を終えてペナン基地への入港を果たした。フライヴァルト艦長は乗組員の努力と敢闘を称えて勲章を贈ったという。
8月10日にケントラット少佐のU-196がペナン入港。桟橋に立つ観衆、軍楽隊、儀仗隊に出迎えられている様子をフライヴァルト艦長が目撃しているが、当のU-196は港内の激流に翻弄、エンジンと舵を操作して接岸を試みるも押し流されてしまい、日本側の歓迎に対応する暇が全く無かった。結局指定の錨地へ停泊するのに1時間も要した。
港の北端にある埠頭1つと倉庫2~3個がドイツ海軍に割り当てられた区画であった。ペナンには大規模な整備施設が無く、熟練工も不足していたので、乗組員が工具を使って自力修理しなければならなかった。ドイツ人乗組員は日本側と交渉して状況の改善を懇願したが結局実行には移されていない。文化の違いから互いに理解出来ないような事態も多々起きたようで、U-181のある士官は「この人たちは本当に奇妙だった」と愚痴に近い印象を持ったとか。
一方、生活環境については良好だった。日本軍はドイツ人乗組員のためにホテルを接収。近くにはサッカー場やビーチがあり、庭にはドイツ人が好むジャガイモ、キャベツといったヨーロッパの定番野菜が育てられ、ジョージタウンからケーブルカーを使えば保養地ペナンヒルまで行く事が出来た。ギーゼ少尉は「ペナンには無制限の自由があり楽園にいるかのようだった」と語っている。
8月30日にペナンを発ち、マラッカ海峡を通って翌日シンガポールに回航。ここには日本海軍が運営する第101工作部があるためペナンよりかは幾ばくかマシな状況であった。第101工作部にて艦底から水銀入りの瓶数百本が取り出される。
ところが、日本軍から供給された重油がUボートに適さず(そもそもUボートの燃料は軽油)、U-181は右舷主機関と補助機関のピストン及びベアリングが損傷、更に両舷のエンジンが故障してしまう。ドイツ海軍の規格を満たす日本製潤滑油や燃料は殆ど無かったと思われ、実際に機関長ディードリッヒ・ヒレー少尉は「アジアの石油は粘度が低かった」と証言している。加えてマラヤの熱帯気候がU-181の電子機器や魚雷にダメージを与えた。フライヴァルト艦長はUボートの機能低下に伴い帰国困難と考え、いつしか戦争に負けたと思うようになり、乗組員を危険な目に遭わせたくないと消極的になっていた。
基本Uボートには外国人を乗せない決まりがあり、たとえ同盟国の人間が相手でも例外ではなかった。この対応は日本側から冷淡と受け取られたという。唯一の救いは、ドイツ人乗組員には娯楽と豪華な住まいが与えられ、マラリアや感染症がはびこる環境下においても、目立った士気低下が起こらなかった事である。
9月9日、東京に出張中のフライヴァルト艦長に代わり、ヘルワルツ少佐(U-843艦長)の臨時指揮を受けてペナンを出港、シンガポールに向かう道中で座礁してしまうが、潮の満ち引きを利用して離礁に成功。続いて9月23日シンガポールを出港、回航先のバタビアにてモリブデン20トン、錫130トン、生ゴム100トン、キニーネ、薬用アヘン、そして最新式のレーダー探知機FUMB 26を積み込む。薬用アヘンを魚雷発射管に詰め込んだ弊害で発射できる魚雷本数は2本にまで減少してしまった。ノルウェー帰投に備えてシュノーケルを搭載する予定だったが結局実行されなかった。
10月1日、第33潜水隊群へ転属。連合軍のフランス上陸で第10潜水隊群が解隊されたためである。
4回目の戦闘航海(1944年10月~1945年1月)
1944年10月9日ノルウェーを目指してバタビアを出港。定期的な潜航試験を完了させ、アデン・オーストラリア間を結ぶ敵補給線に向かう。
11月1日、中部インド洋にて、アバダンで積んだ潤滑油9万3000バレル、生ゴム、鉱石をブリスベーンに輸送中の米T-2級タンカーフォートリー(1万198トン)を発見。敵船は潜水艦を警戒して18ノットでジグザグ運動をしていた。フライヴァルト艦長は数少ない魚雷を使って雷撃を決断。弧を描くようにU-181を移動させて前路に進出しようと試みる。艦内では一等航海士ヨハン・リンバッハ少尉がフォートリーの動きを読み、極細の線で敵針を描き出し、まるで印刷されたかのような正確さで艦長に適切な情報を提供する。
戦争末期のインド洋は日本軍の脅威も少なくなり、連合軍からは「忘れ去られた戦場」と呼ばれていた。そのためかフォートリーには護衛が付けられていない様子だった。しかし、フォートリーはUボートが出現する危険海域を既に突破しており、今回の航海ではもうUボートは目撃しないだろうと思われた。
やがてフォートリーがU-181の方へと向かってきた。絶好の雷撃機会が到来。魚雷は2本しかないので無駄にはしたくない、3.7mm機関砲は10発目で必ずジャムを起こす、それなら20mm機関砲で試すか…?いや、敵船は補助巡洋艦に匹敵する武装を持つ。船首に15cm砲、船尾にも同口径の砲がある――艦長は頭の中で様々なシミュレーションを行って、最も適切と思われる攻撃手段を考え出す。
翌2日20時2分に魚雷1本を発射。フォートリーの左舷後部へ命中し、無線装置とボイラーが破壊されて洋上停止、更に被雷時の爆発で機関室にいた2名が死亡する。ジョン・ダフィー水兵曰く「突然、ものすごい爆発が起こり、船が激しく揺れた」「船尾が水面から投げ出され、天井に頭をぶつけた」との事。廊下には熱い蒸気が充満し、電力は喪失、しかもあろう事か、指揮を執るべき海軍士官が何の指示も出さなかったため、船員の脱出は困難になった。
幸運にも甲板に出られた船員は救命ボートを降ろして続々と海上に脱出。20時18分、救命ボート3号と5号を海上に降ろそうとしていたその矢先、U-181より発射された2本目の魚雷が右舷後部に命中、フォートリー船内にいた2名が死亡、救命ボート3号が粉砕されて7名中6名が死亡した他、5号も真っ二つに折れて乗船者が海に投げ出される。21時10分、フォートリーは船尾から沈没していった。浮上したU-181は4隻の救命ボートに近づき、目的地と積み荷について尋問するが彼らは何も答えなかった。フライヴァルト艦長は信号銃、照明弾、毛布、食糧、医薬品を渡してボートを解放。
11月26日、喜望峰南東で主機関が損傷した事でヨーロッパへの帰国が困難になり、バタビアに引き返さざるを得なくなる。BdUはインド洋南西でU-195と合流・給油を行うよう指示。しかし双方とも互いに発見出来なかったため失敗してしまった。その後の12月20日夕刻、ココス諸島沖で本国帰投中のU-843と合流、悪天候に悩まされながらも、12月22日から24日にかけて燃料60トンと潤滑油2トンを補給する。
バタビア帰投後
バタビア外港のタンジュンプリオクは見るも無残な廃墟と化していた。これは日本の弾薬輸送船が敵潜の雷撃を受けて大爆発を起こしたのが原因だった。何とか応急修理を行い、1月12日にペナン回航を命じられ、リンバッハ少尉が第一当直士官を務めて1月14日バタビアを出港するも、ヨーロッパ帰国に耐えられるだけの状態に無いと判断され、1月16日シンガポールへ入港、機関の修理及びシュノーケルの搭載工事に着手する。
2月1日午前10時33分から午後12時8分まで空襲警報が発令され、第20爆撃航空団所属の96機のB-29がセレター地区を狙って盲爆、入渠中の給油艦知床が浮きドックごと撃沈される被害が発生したものの、U-181に損傷は無かった。2月6日ようやくリンバッハ少尉に騎士鉄十字章が授与される。
3月29日、U-181の整備に貢献した第12潜水隊群の主任機械工フランツ・ペルシュ、上級機械工カール・カイザー、機械工ヴィルヘルム・リンカの3名にドイツ十字章金賞の授与が承認される。4月7日に授与式が挙行され、基地司令ヴィルヘルム・ドメス中佐とフライヴァルト艦長が手ずから十字章金賞を与えた。この時の十字章金賞は戦火を免れて現存している。
4月中旬まで航行能力に制限が課せられていたが不断の努力で回復。次の出港予定日を5月10日に定めた(異説では6月1日まで修理に時間が掛かるとも)。
日本海軍の接収
1945年5月初旬、第十方面艦隊司令の福留繁中将から参集の命が下り、ドイツ軍の司令官と士官がセレター軍港に集められる。福留中将は彼らに間もなく抑留される事、東南アジア残留のUボートは接収される事を伝えた。福留中将の言葉に怒りは無かった。むしろこれまでの対日協力に感謝している様子さえ垣間見えた。
5月5日、ドイツ駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将は、神戸の潜水艦基地司令ケントラット少佐を通じて東南アジアの全Uボートに暗号信号「リューベック」を送信、これはドイツが連合国とのあらゆる敵対行為を停止した事を意味する。当時シンガポールにはU-181とU-862の乗組員を含む230名以上のドイツ軍人が残っていた。すぐに各艦長が集まり、戦争継続か自沈かで協議を行い、全員一致で戦闘継続を決定。
翌6日に第10方面艦隊司令の福留繁中将が第101工作部を訪れ、U-181とU-862の乗組員に対し、ドイツが降伏した事とこれから抑留する事を告げ、乗組員がエニグマ暗号機2台を海中投棄した。同日16時にはU-181に日本の軍艦旗が掲げられる。
そして5月8日ドイツが正式に降伏。ヴェネッガー大将は「リューベック協定が発効した」旨を東南アジアのドイツ軍部隊に送信、この協定は、一方の国が降伏して残った国が戦闘を続行した場合、前者は後者に軍需品を提供するという内容である。翌日、BdUはモンスーン戦隊に「U-181以外は日本に引き渡す。無償の贈り物として受け取るか、有償で受け取るか尋ね、乗組員は退艦せよ。フライヴァルトはU-181もしくは代艦で帰投すべし」と命じる。しかし日独間の取り決めにより5月10日にU-181も日本海軍が接収。
戦えなくなったドイツ人乗組員たちは、日本軍の貨物輸送列車に乗って、ジャングルの中に作られた小さな町バトゥ・パハト南部のヨーロッパ人居住区に移送。だがジャングルの中は中国人パルチザンの巣窟であり、大きな町イポーを抜けた先の線路の脇には破壊された貨物車や機関車が散乱。先に到着していたドイツ兵曰く「ここではパルチザンが時刻表を作っている」との事。バトゥ・パハトではフライヴァルト艦長が現地司令官を務めた。彼は現地住民から好意を得るべく、故障した発電所のディーゼルエンジンを機関士に修理させ、軍医を病院に派遣して業務を手伝わせる等の便宜を図り、見事信頼を勝ち取る。日本軍との意思疎通には西川という通訳が担当した。
程なくしてドイツ側はモンスーン戦隊司令ドメス中佐、U-181艦長クルト・フライヴァルト少佐、水雷長デュアリング中尉、機関長ヒレー少尉などを立てて日本側と交渉、速やかに締結された紳士協定によって、対日協力を義務付ける代わりにチコポの休憩所が与えられた。ドイツ人乗組員の自発的な申し出を受けて日独協同でU-181の修理作業を続行。
6月から7月にかけてシンガポール沖で、リンバッハ少尉指揮の下、ドイツ人乗組員がシュノーケルを使った潜航試験を実施。
東南アジアのUボートは日本本土でも噂になっており、乗組希望者も相当数いた模様。本土決戦が秒読み段階に入る中、大本営としては一刻も早く内地に回航したい思惑があり、各潜水艦より抽出された乗組員は回航要員と何ら変わりが無かった。6月中旬頃U-181とU-862に割り当てられた乗組員が佐世保に集結、6月22日、伊351に便乗して佐世保を出港、7月11日にシンガポールへ入港して無事上陸を果たした。
艦長に佐藤清輝少佐、水雷長に幸田正仁大尉、機関長に本房義光大尉、航海長に岡嶋英李中尉、軍医長に峯英二軍医中尉が着任。第6艦隊はU-181を便宜的に1番艦と命名し入籍のための準備を始めた。
伊501
1945年7月15日付で伊501と改称して日本海軍籍に編入、呉鎮守府第1南遣艦隊に部署するとともに、乗組員に対する正式乗組も発令された。伊351で来た幹部以外の人員は東南アジア方面からかき集めたとか。早速パシールパンジャン沖の桟橋で日独協同訓練が開始。ドイツ人約30名が操艦方法を教え、日本人乗組員が運用する。
上層部も接収したUボートに期待を寄せていたようで、各艦にマレー人運転手付き乗用車を配車、艦との往復、セレター司令部への訓練状況報告、特別根拠地隊との連絡業務などに使用され、能率を大幅に上げられたという。シンガポール自体が燃料集積拠点なので燃料不足の心配も要らなかった。
8月1日、艦隊司令部の肝入りで、パシールパンジャンの丘にあるタイガーパームガーデンにて日独交歓パーティーが開かれた。その後、商港にある三菱重工ドックで、日独双方の乗員が整備及び艦底清掃を実施、セレターの第101工作部も夜通しの作業に協力してくれた。作業を通じて日独乗員は互いに親睦を深める。
シンガポール南側に水深約50mの海域があり、そこを訓練海域に定めて潜航・浮上の操作を行う。
Uボートは伊号潜水艦よりも技術が進んでいた。日本潜水艦では何本もの伝声管を使って艦内令達を行うところを、伊501はマイク1本による艦内放送だけで済み、たった一言発するだけで艦全体に命令を伝える事が可能だった。おかげで砲術科の先任下士官は役割を奪われて常に手持無沙汰だったらしい。ツリム計算なども設計段階の時点で各タンクへの出入量が極めて容易に計算出来るようになっており、日本側より計算が楽だったと伝わる。水雷長デュアリング中尉から「ドイツ海軍の襲撃戦法について説明したい」との申し出があり、佐藤艦長以下幹部数名が通訳を通して傾聴、群狼戦法のいろはを学んだ。
通訳が2人いたおかげで日独将校間の意思疎通にはさほど困らなかったものの、不慣れな作業ゆえに失敗も多く、一度だけ急速潜航中に前傾姿勢から起き上がれず、海岸に艦首部分をぶつける事故が起きたり、日本側の誤操作で37mm砲が暴発して民家を木っ端みじんにしてしまう一幕もあった。
それでも8月上旬には急速潜航にも自信が持てるほど各部操作に習熟。これに伴い訓練海域を洋上に移した。8月5日20時5分に第10方面艦隊参謀が送った電文によると「伊501の艤装作業は完了、月末までには訓練を終えて出撃準備が整う予定。各潜水艦は魚雷16本搭載する」との事。
ある日、20mm機銃の試射を行おうとした時、突如警報が鳴り響き、商港直上にP-38数機が低空で侵入、佐藤艦長とフライヴァルト元艦長がそれぞれ日本語とドイツ語で対空射撃を命じ、これを標的とした。やがて1機に命中弾を与えて薄い煙を引きながら墜落。伊501初の撃墜戦果だが司令部には報告しなかった。もし報告すれば、敗戦により「一般人」となったドイツ人が戦闘に参加した証拠となってしまうからだと推測される。
訓練は順調に進み、そろそろ日独協同訓練も終わりにしようかとの意見が出始めた8月11日午前、各級指揮官が艦隊司令部に集められ、「今後敵の攻撃に対しては反撃するが、敵を見てもこちらからは攻撃しない」方針が伝えられる。8月14日ドイツ人との協同訓練が終了。3週間後の戦力化を目指して猛訓練を行う。
伊501戦力化後は補給が途絶えて孤立しているアンダマン諸島への輸送任務に投入し、魚雷発射管を日本式に改める予定だったという。
終戦後
重巡妙高に横付け
1945年8月15日に終戦を迎える。しかしシンガポールでは終戦の報せがハッキリと伝わっておらず、朧気ながら「ポツダム宣言を受諾した」との噂が広がり、いつしかドイツ人乗組員たちも姿を見せなくなった。何やら様子がおかしいと思った佐藤艦長は、いつでも出撃出来るよう戦闘準備を行う事とし、燃料・糧食・魚雷を満載して、翌16日までに作業を完了させる。
シンガポール在中の戦力で自由に動けるのは航空部隊と潜水艦のみで、特に潜水艦は内地帰投能力を有していた事から、勝手に動くと他部隊に動揺が広がるとして、艦隊参謀からポツダム宣言受諾の説明と待機命令が下された。今さら徹底抗戦を叫んでも意味が無いので伊501乗組員は素直に命令に従った。
伊501と伊502の両艦はシンガポール残留が決定。司令部の指示でセレターに回航し、接岸係留中の重巡洋艦妙高の右舷に横付けする。9月頃シンガポールにイギリス軍が進駐。乗組員たちはバトゥ・パハトに移送された。
ドイツ人乗組員の行方
一方、姿を消したドイツ人乗組員たちは宿舎にて待機を命じられていた。
若々しいウィルソン少佐は、宿舎前で整列中のドイツ人の一団に対し「フライヴァルト艦長はどこだ?」と尋ねる。しかし返答は無い。改めて少佐が尋ねるも彼らは無言を貫く。不服従な態度に苛立った少佐が細い竹の棒を打ち鳴らすと、集団の先頭に立つ小柄なハイン・ブリーシケ兵曹が歩み寄り、「一言も分かりません。我々はここの出身ではないので」と挑発、イギリス水兵はため息をつき、ウィルソン少佐は怒りに震えた。
やがてバンガローからフライヴァルト艦長が姿を現す。騒ぎを聞いて自ら出てきたようだった。何用かと訊くと、ウィルソン少佐は「君と部下は転属する。明日の朝にだ」と答え、「どこへ送るんだ?」「チャンギ刑務所だ」「刑務所?聞き間違いか?」「君の聴力の素晴らしさを証明するのに軍の医療検査は必要ない」と皮肉たっぷりに少佐は言い、艦長の机を杖で叩いて、イギリス兵の歌のリズムを刻む。横柄な少佐の態度に艦長は「少佐、それはやめてくれないか?会話の邪魔になる」と苦言を呈した。
イギリス軍はドイツ人を徹底的に貶めようとし、黒人居住区を車両ではなく徒歩で行進させた。人種差別が激しい時代、黒人居住区を白人が歩くという事は、ウィルソン少佐の言を借りるなら「自らの足を撃つ」「面目丸つぶれ」を意味する。
10月18日午前9時、ジープに乗ったウィルソン少佐、インド兵、グルカ人、短機関銃装備のオーストラリア軍空挺部隊に囲まれながらキャンプ地を出発。行進させられるドイツ人260名はウィルソン少佐の指示では動かず、フライヴァルト艦長の指示のみで動き、少佐が歌うイギリス兵の歌を唱和せず無視するといった嫌がらせを行いつつ、せめて見栄えだけでも良くしようと、汚れ一つないカーキ色の服と白い帽子、白いストッキング、ぴかぴかに磨いた黒い靴を着用し、軍事パレードのように堂々と歩いたという。ブチ切れた少佐はチャンギ収容所への最短ルートではなく、炎天下を約2時間に亘って、イギリス植民地の街路を縦横無尽に歩かせる。随伴のオーストラリア兵やインド兵まで巻き添えを喰ったのは言うまでもない。
その後イギリス軍が伊501を接収し、イギリス軍監視の下、ドイツ人乗組員が伊501から全ての貴重品を取り外して海中に投棄。彼らは捕虜として一旦ウェールズに収容された後、ドイツに帰国するが、一部はソ連に逮捕されるのを恐れてウェールズに永住している。
伊501の最期
11月30日除籍。
ドイツのポツダムにて、アメリカ・イギリス・ソ連は拿捕したドイツ艦船の分配を目的とする三国海軍委員会を設立。ドイツ降伏時ヨーロッパにいた艦艇は戦勝国に分配されたが、東南アジアにいて分配を免れた伊501、伊502、伊505、伊506の4隻は1946年2月15日までに全て処分する事に。
1946年1月24日14時11分、イギリス海軍本部は東インド方面軍司令クレメント・ムーディ中将に電報を送り、シンガポールとジャワに停泊中のUボート4隻を2月15日までに破壊するよう促した。2月14日、伊501はタグボートアシデュアスに曳航されてシンガポールを出発、2月16日午前5時45分マラッカ海峡でフリケード艦ロック・グレンドゥの砲撃を受けて海没処分となる。
1981年、ドイツ海軍協会の傘下組織としてバート・カンベルク海軍協会が新設。初代会長を務めたのはU-181の元乗組員ヴァルター・シュミットであった。1980年代初頭には、U-181元乗員の国際同窓会が開かれ、ドイツ人だけでなく連合国の元軍人も出席した。
関連項目
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