U-181とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したIXD2型Uボートの1隻である。1942年5月9日竣工。ドイツ降伏後は日本海軍に接収されて伊501に改名する。1946年2月16日にマラッカ海峡で海没処分。
概要
IXD2型は今までのIXA~C型とは全く異なる船体を持った遠距離航洋タイプのUボートである。
IXD1型に搭載していた魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に変更し、新たにMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で水上速力19ノットを発揮する。IXD型はD2(前期型)とD1(貨物艦用に改修した後期型)に分かれており、U-181は28隻生産された前者に当たる。
U-181は、通商破壊で連合軍船舶27隻(13万8779トン)を撃沈するというIXD2型の中でも特に顕著な戦果を挙げ、全Uボート中19位の撃沈スコアを記録した。また日本占領下の東南アジアを拠点に活動するモンスーン戦隊にも加わっている。ドイツ降伏後は大日本帝國海軍に接収されて伊501に改名するが、戦闘任務を行う事無く終戦を迎えた。
諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫水5.35m、出力9000馬力、最大潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm甲板砲1門、3.7cm甲板砲1門、2cm対空砲1門。
戦歴
第二次世界大戦が勃発してから1年が経とうとしていた1940年8月15日、AGヴェーザー社ブレーメン造船所に発注。
1941年3月15日にヤード番号1021の仮称で起工、12月30日に進水し、1942年5月9日に竣工を果たした。初代艦長にヴォルフガング・リュート大尉が着任するとともにシュテッティンを本拠地とする第4潜水隊群に編入されて慣熟訓練に従事。
5月9日から5月12日までブレーメンで試運転を行い、ブレーマーハーフェンとブルンスビュッテルを経由して5月15日にキールへ回航。以降はバルト海方面で各種試験と訓練を実施する。6月25日、26日、30日にダンツィヒで第25潜水隊群と魚雷発射訓練を、7月1日から10日にかけてゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練を行い、7月11日にダンツィヒ湾で砲撃訓練を実施。8月29日にシュテッティンでトリムの調整と推進剤の補充を行った。
一通り訓練を終えたU-181はヘラ半島を経由して9月8日にキールへ入港、最後の戦備と出撃準備を整える。
1回目の戦闘航海
1942年9月12日、キールを出撃して最初の戦闘航海に赴く。翌13日から9月14日までドイツ占領下ノルウェー南部のクリスチャンサンで燃料補給を受け、
1942年9月12日、キールを出撃してドイツ占領下ノルウェー南部へ向かい、翌日クリスチャンサンに寄港して燃料補給。9月14日に同地を出発、ノルウェー西岸に沿って北上したのちイギリス海軍の厳重な監視を掻い潜ってデンマーク海峡を通過し、無事北大西洋へと進出する。9月28日に洋上でU-116と会合して修理用部品を受け取り、航行中の10月1日に第10潜水隊群に転属。
しかしU-181の狩り場は北大西洋ではなかった。U-181、U-177、U-178、U-179のUボート戦隊は無補給でダーバン沖まで足を伸ばせる広大な航続距離を活かし、狩り場を喜望峰より先のインド洋西部に定めていたのである。ドイツ海軍にとってインド洋への長駆は初の試みであり、連合軍にとってはアフリカ南部における最初の脅威となった。
11月3日午前4時頃、狩り場のモザンビーク海峡へ向かっていたU-181は蒸気船を発見して潜航、静かに追跡を開始。午前5時48分に2本の魚雷を発射するも命中せず、敵船との距離がグングン開き始めたため、午前6時44分に浮上して水上航行に移る。9時間近い追走の末に彼我の距離を縮めたU-181は15時25分に急速潜航、16時22分、喜望峰南西300海里でジグザグ運動中の米自動車運送船イースト・インディアン(8159トン)を雷撃し、2本の魚雷を右舷側へ命中させて2分以内に沈没させる。積み荷だった3500トンのマンガン鉱石や500トンの紅茶は全て海に呑まれた。乗組員は4隻の救命いかだに分乗して脱出。16時38分、浮上したU-181は救命いかだの1隻を捕まえて尋問し、それが終わると飲料水を与えた上でケープタウンへの航路を教えて解放した。こうしてU-181は最初の戦果を挙げたのだった。
続いて11月8日午前4時45分、次なる獲物を発見して敵船の前方に回り込み、午前8時18分に急速潜航。38分後に2本の魚雷を発射するが命中しなかったため、午前10時40分より浮上して追いかけ、20時30分に二度目の雷撃を仕掛けたがこれも不成功に終わる。だがU-181の執念と努力は実った。20時55分、ポートエリザベス沖でパナマ商船プローディト(5060トン)の左舷機関室に1本の魚雷を命中させて遂に大破へと追いやった。プローディトは爆発により海図室、救命艇、無線装置が破壊されて救難装置が打てなくなったが、無言のまましぶとく浮き続けたため、22時15分から甲板砲15発を撃ち込んでトドメを刺して撃沈。乗組員38名と11名の武装兵は救命艇やイカダに乗って船を放棄した。
ポートエリザベス沖でプローディトを葬ってから丸一日が経過した11月9日23時45分、敵蒸気船を発見して追跡開始。翌10日午前2時3分と午前2時42分に雷撃を試みたものの命中しなかった挙句、一度は逃走を許してしまったが、執念の追跡により午前8時27分にノルウェー商船メルダール(3799トン)を雷撃して9分以内に沈没させる。救命ボートで脱出した生存者を尋問したのち解放。11月13日午前3時35分、敵船舶を発見して追跡。午前7時に潜航して攻撃する機会を窺う。午前8時1分、ポート・セント・ジョン沖南方50海里で米商船エクセルロ(4969トン)を撃沈。救命ボートに乗っている生存者に尋問を行った。11月19日19時55分に敵船を捕捉し、20時55分に急速潜航。21時25分、モザンビーク海峡インハカの北東約20海里でノルウェー商船グンダ(2241トン)を雷撃し、右舷前方に命中。3134トンの石炭を抱えて僅か2分で沈没していった。グンダを仕留めた直後の23時30分、新たな獲物が出現。翌20日午前0時46分に急速潜航を行い、午前1時24分にインハカ灯台の東方沖でギリシャ商船コリンシアコス(3562トン)を撃沈。11月21日22時6分、敵船を発見。翌22日午前0時27分に潜航し、6分後にロウレンソ・マルケス南方75海里で満月に浮かび上がった米商船アルコア・パスファインダー(6797トン)を雷撃で撃沈。3分以内に船尾から沈没していった。
11月24日午前3時38分、ケープタウンからセント・ジョンに向かっていたギリシャ商船マウント・ヘルモス(6481トン)を発見。午前6時37分に潜航し、午前7時38分に雷撃。最初の1本目は外れてしまったが、2本目を命中させて航行不能に追いやる。午前8時2分より水上砲撃を仕掛け、78発中65発を命中させて40分後に撃沈。しかし攻撃中に37mm甲板砲が破裂してしまったため、以降の攻撃には使用できなくなる。同日15時56分、ダーバンへ輸送中の英商船ドリントン・コート(5281トン)を発見し、19時52分に潜航。20時34分にイハカ島東南東で雷撃して大破させる。しぶとく浮き続けるドリントン・コートを沈めるべく、21時23分に浮上して10.5cm甲板砲90発を発射して60発が命中。力尽きたドリントン・コートは沈んでいった。11月28日20時32分、モザンビークで荷物を降ろした帰りのギリシャ商船エヴァンシア(3551トン)を発見。22時19分に潜航し、22時50分にインハハウス北東70海里の地点で雷撃。炎上したエヴァンシアからは乗組員が脱出したが、船は沈む気配が無かったため、雷撃から30分後に浮上し、45分間に渡って107発中70発を叩き込んで撃沈。11月30日午前5時11分、ギリシャ商船クリアンディス(4153トン)を4時間の追跡のすえに雷撃するが、命中せず。やむなく浮上して10.5cm砲弾を撃ち込み、撃沈。12月2日13時50分、雨の中を進むギリシャ商船アマリリス(4328トン)を発見。ダーバンへ向かっている途中だった。17時40分、ロウレンソ・マルケ南南東140海里にて雷撃し、3分以内に沈没させた。
実に12隻(5万8381トン)もの敵船舶を海底に沈め、1943年1月18日にボルドーへ凱旋帰投した。1回の航海で叩き出した戦果では、全Uボート中第9位となる。
2回目の戦闘航海
1943年3月23日にボルドーを出港し、再び通商破壊に赴いた。
4月10日23時40分、敵蒸気船を発見して狩りを始める。翌11日午前3時30分、水上から2本の魚雷を発射したが命中せず。U-181は追跡を続け、午前5時56分にフリータウン南西420海里で英商船エンパイア・ホイムブレル(5983トン)に向けて2本の魚雷を発射。30秒後、エンパイア・ホイムブレルは足を止めた。船員は救難信号を放つとともに船を放棄して脱出。救命艇の1隻を捕まえて尋問をした後、午前7時15分より水上砲撃を行い、28発中20発の命中弾を受けて15分後に仕留めた。5339トンの冷凍肉は届けられる事無く海に食べられた。5月11日午前2時8分、DN-37船団から分散航行していた英商船ティンハム(5232トン)をモザンビーク海峡で捕捉。午前4時8分、2本の魚雷を発射。被雷したティンハムは10分以内に撃沈され、脱出してきた船員に尋問したのちU-181は海域を去った。
5月26日18時33分、小麦粉6241袋とフルーツジュース327トンを積んだスウェーデン商船シチリア(1633トン)を発見。翌7日午前6時11分、シチリアに対して10発の甲板砲弾を発射して威嚇。しかしシチリアが逃走を図ったため追跡し、2本の魚雷を命中させる。スウェーデンは中立国であったが、乗員への尋問でイギリスの舎弟である南アフリカに小麦粉を運んでいた事が発覚。中立性を疑ったU-181により、午前8時29分にシチリアの右舷側へ魚雷を撃ち込まれて沈没した。6月7日21時30分、小型蒸気船の船影を発見して接近。23時28分、ダーバン東方200海里で南アフリカ商船ハリアー(193トン)を雷撃して20秒後に命中。積み荷のガソリンに引火して大爆発が起こり、乗員16名全員が死亡した。7月1日午前2時、U-181はモーリシャスのポートルイス港に停泊中の3隻の敵商船に狙いをつけ、出港するのを今か今かと待ち構えた。そして2番目に出港した英旅客船ホイハウ(2798トン)を10時間に渡って追跡し続け、翌2日21時7分にモーリシャス西北西で2本の魚雷を発射。見事撃沈した。
7月15日13時47分、英商船エンパイア・レイク(2852トン)を発見。攻撃のため17時15分に潜航した。18時1分、マダガスカル島東方240海里の地点で2本の魚雷で撃沈。積み荷の石炭は全て失われた。生存者7名に対して尋問を行い、退却。翌16日午前9時35分、モザンビークからダーバンに向かう敵船舶を発見して潜航。15時58分、レユニオン南西で英商船フォート・フランクリン(7135トン)に向けて2本の魚雷を撃ち、17分以内に撃沈。1500トンの塩は海に還った。8月4日午前2時10分、次なる獲物を捕捉。午前4時3分、マダガスカル東方で英商船ダルフラム(4558トン)に向けて3本の魚雷を扇状に放ち、1本が命中。1分以内に沈没した。8月7日午前9時16分、DN-54船団から分散した英商船ウンブーマ(4419トン)をポートルイス南西で雷撃して撃沈。8月9日、これまでの大戦果によってリュート艦長には柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章の受勲が決定。海軍では初めての授与となった。8月12日午前3時32分、DN-55船団から分散した英貨物船クラン・マッカーサー(1万528トン)を15時間の追跡のすえに撃沈。午前3時47分、クラン・マッカーサーが沈没した時に水中爆発が生じ、救命艇やU-181に損傷をもたらした。
10月14日、ボルドーに帰投。2回目の戦闘航海では10隻の商船を沈め、合計22隻の敵商船(10万3712トン)を撃沈する大戦果を挙げた。1回の戦闘航海で得た戦果の中では、全Uボート中30位。10月25日、ヒトラー総統はリュート艦長を総統本部に招待して鉄十字勲章を授与した。11月1日、クルト・フライヴァルト少佐が二代目艦長に就任。
3回目の戦闘航海
U-181は同盟国日本が占領するペナン基地への輸送が命じられ、1944年3月16日にボルドーを出港。積み荷に日本軍へ届ける回転翼機のフォッケ=アケゲリスFa330とNaxosレーダー探知機があった。今やイギリス空軍に制空権を取られ、危険な海域と化したビスケー湾を南寄りに抜け、大西洋に出る。
5月1日午前4時11分、アセンション諸島西方900海里で英商船ジャナタ(5312トン)を撃沈し、生存者を尋問して去った。一年中天候が荒れている喜望峰南方を突破し、インド洋に進出。6月19日19時53分、マダガスカル島北東でボンベイからマルグガオに向かっているオランダ商船ガロエット(7118トン)を雷撃し、2分以内に撃沈。その後、U-181は東南アジアへ向かう前にインド西方で通商破壊を行う。7月15日22時13分、英商船タンダ(7174トン)をインドのマンガロール北西で撃沈。目的地ボンベイの眼前で沈められた。7月19日17時3分、インド西方のアラビア海で英商船キング・オブ・フレデリック(5265トン)を撃沈。道中で4隻を撃沈(2万4869トン)し、撃沈スコアを重ねた。インド西方での通商破壊を切り上げ、セイロン南方を通過して東南アジアに向かった。
8月8日、無事ペナンに到着して積み荷を降ろす。8月30日にペナンを出港し、翌日シンガポールへ回航。帝國海軍の第101工作部で入渠整備を受ける。日本から供給された重油がUボートに適さず(Uボートの燃料は軽油)、U-181は右舷主機関と補助機関のピストンとベアリングが損傷、両舷のエンジンが故障してしまったため大規模な通商破壊作戦からは除外される事となった。フライヴァルト艦長はUボートの機能低下に伴って帰国困難と考え、いつしか戦争に負けたと思うようになり、乗組員を危険な目に遭わせたくないとして消極的になっていた。9月23日にシンガポールからバタビアへ回航。現地でモリブデン20トン、錫130トン、生ゴム100トン、キニーネ、薬用アヘンを積み込む。薬用アヘンを魚雷発射管に詰め込んだ事で発射できる魚雷本数は2本に減少してしまった。
4回目の戦闘航海
11月2日20時2分、アバダンで積んだ潤滑油9万3000バレルをブリスベーンに輸送中の米T-2級タンカーフォートリー(1万198トン)を中部インド洋で雷撃。1本の魚雷が無線装置とエンジンを破壊し、フォートリーの乗員は船を放棄。しかし1万トン級の船体はなかなか沈まなかったため、20時18分に2本目を発射して右舷側へ命中させる。その際に2隻の救命艇が爆発に巻き込まれて粉砕され、6名が死亡。21時10分、フォートリーは船尾より沈没していった。
11月26日、喜望峰南東で主機関を損傷した事でヨーロッパへの帰還が困難になり、バタビアへ引き返す羽目に。12月20日、道中のココス諸島沖で本国へ帰投するU-843に燃料を供給し、1945年1月5日にバタビア帰投。1月12日にペナン回航を命じられたが、シンガポールまでしか行けず、1月16日に入港。やむなく現地で修理を行い、機関の修復とシュノーケルの装備を行った。4月中旬まで航行能力に制限が課せられていたがどうにか回復。次の出港予定日は5月10日に定められたが……。
伊501
1945年5月8日、ドイツが降伏。帰る場所を失ったUボートが東南アジアに6隻取り残されていた。5月10日、U-181は日本海軍に接収される。修理中のU-181はドイツ側の自発的な申し出により協同で作業が続けられた。しかし戦えなくなったドイツ海兵の代わりが急遽必要となり、日本本土で乗組員を抽出。6月中旬に佐世保へ集められた。6月22日に要員を乗せた伊351潜が出港。非常に危険な海域を突破し、7月11日にシンガポールへ到着。無事要員を揚陸させたが、3日後にボルネオ島北部で消息を絶った。6月から7月にかけてU-181はドイツ人乗組員の手でシュノーケルを使った潜航試験をシンガポール沖で実施。
第6艦隊はU-181を便宜的に1番艦と名付け、接収のための準備を始めた。7月15日、伊501と改名し帝國海軍籍に編入。呉鎮守府第1南遣艦隊に配属された。さっそくパシールパンジャン沖の桟橋で日独協同訓練が行われた。ドイツ側が操作方法を教え、日本乗組員が運用した。8月上旬には急速潜航の訓練が始まり、着実にUボートの操艦に慣れていった。Uボートは伊号潜水艦より技術が進んでおり、艦内の意思疎通には伝声管ではなくマイク1本で行われた。20mm機銃の試射を行おうとした時、ちょうどP-38数機が低空で侵入してきたため、これを標的にした。そのうちの1機に命中弾を与え、薄い煙を引きながら墜落。しかし各々訓練に必死だったため、司令部には報告せず。その後は補給が途絶えて孤立しているアンダマン諸島への輸送任務に投入し、魚雷発射管を日本式に改める予定だった。
8月15日、終戦。しかしシンガポールにはハッキリと伝わっておらず、何やら様子がおかしいとして食糧と弾薬を積み込んで戦闘準備だけは完了させた。やがて進駐してきたイギリス軍に接収され、1946年2月16日午前5時45分にマラッカ海峡で海没処分された。
関連項目
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