U-196単語

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U-196とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2Uボートの1隻である。1942年9月11日工。通商破壊で3隻撃沈(1万7739トン)の戦果を挙げた。1944年12月1日以降スンダ峡で行方不明となる。

概要

IXD2とは作戦範囲の拡大をした長距離航洋Uボートである。

これまでのIXとは全く違う体と設計を持ち、排水量1600トン以上と、日本海軍に迫る巨を誇る。生産性を優先し、前級IXD1に搭載したメルセデス魚雷艇エンジンが使い物にならない事が判明したため、IXCと同じM9V40/46 ターボチャージドエンジン2基へ戻し、更に低速巡航用のMWM社製RS34/5Sディーゼル2基を搭載。IXCより体を10m延伸して燃料搭載量を増大させた。これにより水上航続距離IXC/40の2万1113kmから4万3893kmにまで増加、水上航行中に補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、最大速力も18.3ノットから19.2ノットに増加するなど、全体的に性が向上している。大航洋Uボート完成形とも言えるIXD2は計28隻が量産され、南アフリカインド洋における通商破壊で戦果を挙げた。

諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装1門、37mm機関1基、20mm機関1基。加えてU-196はIXD2の中で10.5cm Utof(対潜水艦及び魚雷艇高射砲)2門を装備している。

戦歴

1940年11月4日、ヤード番号1042の仮称でAGヴェーザー社ブレーメン所に発注され、1941年6月10日に起工、1942年4月24日し、9月11日工を果たした。初代艦長にアイテルフリードリヒケントラット少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜隊群へ編入。

9月14日午前11時から港内で行われた潜航試験クリアして出港準備了、ブレーメンで自訓練と残工事を片付けた後、カイザーヴィルヘルム運河とブルンスビュッテルを経由してキールに移動、急速潜航及び急速浮上のテストを実施する。9月28日にはハイケンドルファー湾で機雷敷設訓練を行った。

10月11日キールを出港してシュヴィーネミュンデに回航。次に寄港したダンツィヒでは、ここでの訓練及び整備の拠点となる宿泊イベリアに移乗し、乗組員が内清掃を実施。10月30日より支援バースの協力を得ながらゴーテンハーフェンで魚雷発射訓練、急速潜航訓練、ヘラ半島陸上戦術訓練に従事。11月23日14時58分にダンツィヒへ戻り、宿泊艦ドイッチュラント拠点雷撃訓練を行う。一通りの戦闘訓練を終えたU-196は12月18日キールへ回航、それからブレーメンに戻って、12月22日より造所で入渠整備を受ける。

1943年2月15日出渠、2月17日からは最終調整と食糧積載を行い、ハンブルクを経由してキールに移動、そこで撃を伴うトリムテストを実施したのち、3月5日に消磁作業を受けて遂に出撃準備は整った。

1回目の戦闘航海

1943年3月13日午前8時、最初の戦闘に赴くべく護衛を伴ってキール軍港を出撃。バルトを横断したのち、マルヴィケンで燃料補給を行い、ノルウェー西に沿って北上していく。難所のアイスランドフェロー諸島間の域に差し掛かった3月20日15時8分、浮上して僅か3分後、ショートサンダーランド飛行艇に襲撃されたため急速潜航を強いられた。

それ以外は特に敵襲はく、北大西洋に進出、そのまま南下を続けて狩り場の南アフリカす。4月1日ボルドーを本拠とする第12潜隊群へ転属した。3月下旬より作戦中の各Uボートは整備補給のため一斉に退却、一時北大西洋は空白地帯となるも、4月半ばには続々と戦線復帰した事で、これまでにないほどの多数のUボート行動部は大戦果を期待していた。U-196は4月末まで南アフリカのケープタウンで活動したものの、戦果が得られなかったので思い切ってインド洋への移動を開始。インド洋には他にも6隻の長距離航洋Uボートが向かっていた。

5月11日21時30分、U-196は蒸気を発見して追跡を開始、23時40分にポートセントジョン南方40里で魚雷を発射し、エジプトのモントゴメリー将軍率いる第8軍宛ての戦車郵便物など7104トンを運んでいた、蒸気ネイルシー・メドウ(4962トン)の体中央部に命中させる。ネイルシー・メドウを洋上停止させたが沈没には至らなかった。翌12日午前0時2分にトドメの魚雷を発射したものの命中せず、しかし程なくしてネイルシー・メドウは爆発を起こして沈没していった。こうしてU-196は初戦果を得る。

5月24日U-178から敵輸送団の位置情報を受領。翌日、南アフリカの敵団に魚雷2本を発射しようとしたが、実際に発射出来たのは1本のみで、残りの1本が信管起爆状態のまま発射管内に留まるという非常に危険な状態に陥ってしまう。そこでケントラット艦長は艦を急度で潜航させ、発射管から魚雷を滑り落とす形で除去した。護衛の駆逐艦から爆雷4発が投下されたものの被害し。5月30日にU-196は敵の航空についてBdU(Uボート部)へ報告。

5月Uボートにとって災厄かつ徴的な間となった。連合軍の対潜技術向上によりUボートが38隻撃沈され、損が戦果を大きく上回ったのである。ゆえにカール・デーニッツ提督5月24日、各Uボート団航路から撤退するよう命、今や大西洋の戦いは連合軍有利に傾きつつあった。

6月1日頃に的地のインド洋南西部へ到着。この時、インド洋ではUボート7隻がマダガスカル南方モザンビーク峡、ダーバンなどで通商破壊を行い、北部のアデン湾では日本海軍伊29通商破壊を行うなど、日独共同戦線がられていた。事前の協定によって作戦範囲は南北に分けられ、同士討ちを避けるべく、潜水艦への攻撃は厳禁といった取り決めが成されている。


6月7日U-198の成功を受けてBdUはU-196、U-177U-178U-181の4隻に作戦域での自由通商破壊を命じ、また支援のため給油シャルロッテ・シュリーマンインド洋に派遣6月22日にダーバン東方1800里で他のUボートとともに燃料200トンや生鮮食品の補給を受けた。補給が終わったUボート水上艦艇や哨戒機の出現に備えて周辺域を警し、シャルロッテの補給作業を援護する。

U-196はシャルロッテの信号員の少なさ、燃料と食糧以外の供給設備を持っていない不便さ、モーターボートが1隻しかないせいで食糧輸送に遅れが生じたと問題点を挙げた一方、ミーティング自体はスムーズに進み、シャルロッテロー船長や乗組員の対応は模範的で優しさに満ちたものだったと評価している。

補給了後、Uボート群は次なる獲物をめて北西方向に移動。これがインド洋で初めて行われた水上タンカーによる給油作業だった。最新の交通情報に基づきU-178とU-196はそれぞれモザンビーク峡の東西に分かれて遊する。8月2日、1万トン級のイギリスを撃沈したと報告(該当し)。

8月3日午前0時24分、タンガニーカのメンバ湾北東約100里にて、ダーバンキリンディニ行きのCB-1団8隻を狙って魚雷3本を発射、80後に1本が蒸気ティオブ・オラン(7323トン)に命中し、巨大な爆発を咲かせながら沈没していった。2隻の獲物を仕留めたU-196は南へと移動。

8月14日ナタール南アフリカ空軍第22飛行隊のPV-1ベンチュラに発見され、直ちに5発の爆雷投下を受けたが、傷で逃走に成功。しかしこれは悪夢の序章に過ぎなかった。通報を受けたのかコルベット艦ナイジェラによる追跡が始まり、翌15日にはベンチュラから計6発の爆雷が投下され、8月16日、U-196は6回浮上するがその度に連合軍機がすっ飛んできて潜航退避を強いられた上、17日未明より多数のベンチュラがU-196の捜索を始めるなど、窮地に立たされる。

しい網を何とか掻い潜り、8月20日マダガスカル南西約300里でU-181と合流、新しい暗号コードを受け取った。ケントラット艦長はU-181リュート艦長に食糧と魚雷提供を申し出るもの悪さから謝絶される。会合中、U-197からの遭難信号が届く。どうやらU-197は襲で損傷していて潜航が出来ない状態らしい。更にBdUはU-197に対する救援命を二度に渡って発、それから1時間半後にU-197との通信が途絶し、U-196とU-181は信号で示された位置に急行するが何も発見出来なかった。その後、ケントラット艦長は遭難信号を受信しておきながら、U-197への適切な支援を怠ったとして、BdUに厳しく叱責されたという(ただし救援命を出した時点で既にU-197は撃沈されていた)。8月22日に帰投命を受領。インド洋における連合軍の対潜警が遅れていた事もあり、Uボート戦隊船舶36隻(約23万5000トン)撃沈の大戦果を挙げる。

帰路の途上で通りがかった南北大西洋の戦況はより悪化していた。連合軍の新戦法、ヘッジホッグ対潜迫撃砲といった新兵器の登場によって、9月10月だけで25隻のUボートを喪失、犠牲と引き換えに得られた戦果は商9隻のみだった。インド洋での戦果とは実に対照的である。

10月23日18時26分、ドイツ占領下フランスボルドーへ帰投。225日間に及ぶ戦闘第二次世界大戦におけるUボート最長任務記録であった。疲れによるものか彼は〝強制収容所から出てきたばかりの〟やつれた顔をしていたという。その後、偉大な記録を打ち立てたケントラット艦長は、第12潜隊群クラウス・ショルツハンスルドルフ・レーシング西部管区ベックスビールを酌み交わした。

ドイツ海軍大西洋での戦況が好転しない事を受け、同盟日本から提供された東南アジアのペナン基地を拠点に、インド洋で通商破壊を行っていた。しかしUボート魚雷は熱帯の気に耐えられるものではなく、長期保管により深刻な損傷や故障が発生していたため、魚雷の補充も兼ねて、フランスから追加のUボート派遣する事とし、航続距離に優れるU-196もまたペナン行きを命じられるのだった。

2回目の戦闘航海

1944年3月11日ボルドーを出港。だがその直後、潜航試験中にGHG集音装置が故障してしまいラ・パリスへと緊急寄港。応急修理を行ったのち、3月16日、ラ・パリスを出撃して第二次戦闘を開始。艦内にはペナン向けの水銀1404本、アルミニウムインゴット9158本、ガラス入り木箱105個などが積載されていた。

デーニッツ提督作戦中のUボートに「ヨーロッパ沿から1300km離れた大西洋上に移動し、分散して単独で団に攻撃を仕掛けよ」と命。何とかして連合軍の柔らかい横を食いちぎろうと試みたが、相次ぐ損を受け、3月22日中部大西洋からの撤退を命じた。今やドイツ海軍大西洋の戦いに敗れ、制権・制権ともに喪失、対する連合軍は護衛空母レーダーを駆使して、の双方から厳重な対潜網を敷き、西ヨーロッパ侵攻時期を探ろうと気観測に従事するUボート狩り続けている。

4月9日U-488と合流して食糧と燃料の補給を受ける。それから間もない4月23日、南大西洋上にて護衛空母ソロモンズを基幹としたハンターキラーグループ、その一員たる護衛駆逐艦グスタフソンに捕捉され爆雷攻撃を喰らうが、大した被害なく脱出に成功。

5月9日、U-196、U-181、U-851は南アフリカ南西端ケープタウンからマダガスカル東方モーリシャスにかけての域を作戦範囲とし通商破壊を開始。5月20日頃に喜望峰を抜けてインド洋へと入った。ところが思うように戦果を挙げられず、6月2日BdUより「攻撃の機会がい場合はこれ以上留まらずペナン方面への航行を続けよ」と命じられた。6月12日、要請に応じてBdUへ現在位置を伝達。アラビアへと向かう。

7月9日インド西部ボンベイ南西約470里の地点で、落花生5000トンを輸送中のシャーザダ(5454トン)を雷撃により撃沈。アランスコットハミルトン船長員36名、手9名が戦死した。

8月5日にU-196はスマト北西まで辿り着く。的地のペナンまではの先だが、その周辺には暗号解析で得た情報を基に、連合軍の潜水艦が出入港するUボートを狙って遊しており、群れる敵潜水艦こそがペナン行き最後の難関であった。幸いU-196はその索敵網に引っかかる事はかった。

8月10日、152日間の航を経てペナンに到着。この頃になるとペナン到着率は非常に低くなっており、U-177U-198U-490、U-851、U-852、U-859、U-860、U-863、U-1059が中で撃沈、事辿り着けたのはU-196を含めて9隻のみに留まる。

東南アジアでの活動

東南アジア所在Uボートは全てベルリン海軍部から直接線で示を受けていた。このため日本側の揮下に入った事は一度もい。日本の港に入る時は、特定の時刻に入港するようUボートと現地部に通達され、現地部が日本海軍連絡将校に航行情報を伝え、連絡将校が航路上で遭遇する可性がある日本軍部隊Uボートの存在を伝えて同士討ちを防ぐ仕組みである。日本側が全て知っているという想定でUボートは入港時は識別信号を出さなかった。

8月15日にペナンを出港し、17日にシンガポールへ回航。修理を受けるとともに、荷下ろしを行い、乗組員には1ヶの休養が与えられた。9月21日ケントラット艦長が退艦。連合軍の猛攻に曝され続けるペナン拠点にするのは最困難と判断され、10月1日、バタビアの外港タンジュンリオクに設けられた新拠点へ移動、現地で二代艦長ヴェルナー・シュトリーグラー少佐が着任する。彼はこれまでにUIT-23とUIT-25の艦長を務めていた。

U-196がバタビアに到着した時には、既にシャルロッテ・シュリーマンブラーケ沈没し、排水量1000トン程度のボゴタとキトが補給を務めていた上、ブルネイで産出される未精製しか燃料がい有り様で、魚雷不足に加えて、深刻な燃料不足も作戦行動に大きな足かせとなる。更にドイツ人は熱帯の気に慣れていないため乗組員のマラリア患率は25に達した。一の救いはスポーツ施設、図書館公式ダンスホールドイツ映画の鑑賞といった福利厚生が充実し、乗組員に不満を抱かせなかった事くらいである。

バタビア停泊中は当直士官を除く全ての乗組員が陸上で居住、機関士のみ日中は艦上で作業し、寝食は他の乗組員同様陸上で行った。燃料補給は黄色塗装された艀を使って実施。港内北西の監視所には常に50~60名の日本兵が駐留、3、4名程度の小グループ銃剣を携えて巡回したり、時折将校が視察に訪れたりしていたとか。

熱帯地方の気バッテリーにも悪を与えた。放電中及び充電中にバッテリー温度が5~10℃上昇、これにより寿命が約20%ど短くなってしまうのだ。U-196のバッテリーも少なからず影出ていた模様。また、高い湿度はレーダーや捜索受信機の故障を招く恐れがあったが、こちらは行き届いた整備によって未然に防がれている。

日本ベルリン海軍武官を通じて、ドイツ海軍カール・デーニッツ提督オーストラリア西方面での通商破壊を要請、9月26日U-168、U-537U-862の運用が承認された。しかし、Uボート行動予定を関係各所へ通達した際、連合軍に暗号解析され、潜水艦ワードフィッシュの雷撃でU-168(10月6日)が、潜水艦ラウダーの雷撃でU-537(11月10日)が撃沈されてしまう。U-168の代わりにU-196の出撃が決まった。

一説によると、U-196には最新の推進システムが搭載していたとされ、戦場から遠く離れたオーストラリア西で性テストを実施しようとしていたようである。別の説ではU-510とU-843の帰に必要な物資を補給した後、神戸に回航し、バッテリーの交換を行う予定だったとか。

最期とその後

1944年11月30日にバタビアを出撃したのを最後に、スンダ峡あるいはジャワで消息不明となる。乗組員65名全員死亡12月初旬、ドイツ海軍はU-196にインド洋で帰するU-181に燃料補給を実施するよう示を出すが、応答はく、位置情報送信示にも応答しなかったので、12月12日以降ジャワ島南方行方不明記録された。ちなみに出港後に行方不明となったUボートは他にもU-163、U-326、U-398などがいる。

連合軍側に撃沈の記録い事から、「シュノーケルを使った試験潜航の際に事故を起こして沈没説」が濃厚となりつつある。対抗として「潜水艦ポーパスが敷設した機雷に触れた説」が挙げられるが、ポーパスが敷設したのは12月9日のため、時系列的に褄が合わなかったりする。

一残った軍医ハインツ・ハーケ中尉遺体は、パングランゴ山の麓にあるアルカ・ドマスにて、第一次世界大戦時のドイツ東アジア艦隊の隊員とともに埋葬、記念碑には一応の命日として1944年11月30日と記された。エマというお婆さん墓守を務め、1980年代ドイツ大使館が直接管理するようになるまで、半年ごとに管理料400万ルピアが支払われていた。まった場所にあるからか地元住民の多くは墓の存在を知らないらしい。何故ハーケ中尉遺体だけが現存するのかは記録く詳細不明。

残骸は未だ発見されていない。1990年代オーストラリア南東部でU-196らしき残骸をダイバーが発見、そのダイバーによると「艦首が40度の度で吹き飛ばされている」らしく、触雷した際に見られる特徴と一致しているものの、位置がバタビアから離れすぎているため、この残骸をU-196と見る専は少ない。また1981年ニュージーランドオークランド半島北部で漁師の底引き網に何かの残骸が引っかかり、2006年の潜調に埋もれた潜水艦だと判明したが、正体までは分からなかった。

2008年11月6日ニュージーランド水中遺産グループノエル・ヒリア会長が、カイパラ西でU-196と思しき残骸を発見したと発表。彼く残骸には甲が装備され、艦首部分は気密状態にある模様。更にU-196を自沈させたとする者の子孫と連絡を取っているとの事。未だに説・新説が飛び出してくる辺りU-196のは深いと言えるだろう。

不可思議な最期を迎えたからか戦後U-196には根拠のい噂話や憶測が付きまとった。例えば「ビスケー湾で乗艦のUボートを撃沈され、漂流中のナチス高官3名と子供13名をU-196が救助した」「チェコスロバキアで採掘されたウラン日本に輸送しようとしていた」「現地のドイツ兵と乗組員が共謀し、日本軍の金塊を奪ってバタビアから逃げた」「消息不明になったのは新地をめてメキシコ南部アパス州に向かったため(実際にチリメキシコの沿撃したとも)」「拿捕されてイギリス領の研究施設に収容」「ナチスが略奪した財宝と金塊が積まれていた」といったものがある。

映画『U-196』

りなき海底に沈むガス潜水艦――
死者数、測定不能

2006年ドイツ映画『U-196』(原題:Himmel über Australien、直訳するとオーストラリア)にてラスボス?を務める。

ドイツから日本ボツリヌス菌を輸送する途上、コーラルエッジ沈没した設定で、残骸から漏れ出したボツリヌス菌により、海洋生物が大量に変死する問題が発生、これを食い止めるためにオーストラリア海洋観測所が立ち上がる…といった内容。原題や内容を見れば分かるようにUボート戦記ものではない。U-196の出番も少しだけで、残りは男女三角関係や意見の対立などに充てられている。ちなみにボツリヌス菌1g100万人以上の人間を殺出来る世界最強

ドイツ版のパッケージは内容に忠実なパケ絵となっているが、日本版のパッケージにはU-196が大きく写し出されており、これが戦記ものと誤解させる要因になっていると思われる。なおボツリヌス菌ガスではない。

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