U-196単語

ユーイチキュウロク
1.1万文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

U-196とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2Uボートの1隻である。1942年9月11日工。通商破壊で3隻撃沈(1万7739トン)の戦果を挙げた。1944年12月1日以降スンダ峡で行方不明となる。

概要

IXD2とは、前級IXC以上に作戦範囲の拡大をした長距離航洋Uボートである。これまでのIXとは全く違う体と設計を持ち、排水量1600トン以上と、日本海軍に迫る巨を誇る。

まず最初にIXD1が建造されたが、搭載していたメルセデス魚雷艇エンジンの信頼性が低かったため、IXD2では、IXCと同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリアまで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXCより体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。

には10.5cmシフスカノーネC/32を採用。360度旋回可、23kgの弾丸を最大1万5300m先まで発射出来るこのは操作に3名の人員を要する。戦況が不利になるにつれ、各種Uボートから甲が撤去されたが、IXのみ何故か最後まで搭載され続けていた。後甲には強力な重対空砲である3.7cm Flak M/42単装機関を装備。IXD2VIICより大なので更に2cm Flak38連装機関を装備、Flak38はFlak30の改良にあたり、3倍以上の発射速度を誇る。魚雷の代わりに最大48個のTMA機雷を搭載する事も可

航洋Uボート完成形とも呼べるIXD2は合計28隻生産された。

U-196はIXD2の中で10.5cm Utof2門を前後甲にそれぞれ装備。通常のUボートであれば110150発のところ、U-196には240発の弾が搭載されていた。ケントラット艦長の言によると、対戦闘では全く役に立たなかったが、戦争末期インド洋ではIXどが甲を撤去していた背景もあり、味方のUボートからは識別用のマークとして大いに役立ったという。

またUボート史上最長の戦闘記録(225日間)をも有している。写真が不鮮明のため判別は難しいが、ウィンターガルテンを持ち、37mm単装機関と20mm連装機関2基を搭載。

諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装2門、37mm単装機関1基、20mm連装機関1基(改装後は2基に増備)。

戦歴

1940年11月4日、ヤード番号1042の仮称でAGヴェーザー社ブレーメン所に発注。大航洋Uボートの建造は急務だったので優先的に資材が割り当てられ、1941年6月10日に起工、1942年4月24日し、ディーゼル機関2基、魚雷発射管、甲などの搭載作業を行ったのち、9月11日工を果たした。初代艦長にアイテルフリードリヒケントラット少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜隊群へ編入。

ケントラット艦長はU-8とU-74の艦長を務め、7隻の撃沈戦果を挙げ、第1級十字章、騎士十字章、Uボート戦闘章の授与経験もあるいぶし銀ベテランであった。乗組員は全員ドイツ人で、外国人志願兵が乗艦した記録い。

9月14日午前11時より港内で潜航試験を実施してこれをクリアブレーメンで自訓練と残工事を片付けた後、カイザーヴィルヘルム運河とブルンスビュッテルを経由してキール軍港に回航、9月24日午前8時40分から急速潜航、急速浮上、演習魚雷の発射テストを行った。9月28日にはハイケンドルファー湾で機雷敷設訓練に従事。10月6日の時点でレーダーシステムを除く全ての試験了。

10月11日キールを出港してシュヴィーネミュンデに回航。次いでダンツィヒへ寄港し、訓練及び整備の拠点となる宿泊イベリアの右舷側に横付けして午後から内清掃を行った。10月30日からは訓練支援バースの助力を受けながら、ゴーテンハーフェンで第25潜隊群と魚雷発射訓練や急速潜航訓練を行い、それが終わるとヘラ半島陸上戦術訓練に従事、11月23日14時58分、ダンツィヒへと戻って宿泊艦ドイッチュラント拠点雷撃訓練を行う。一通りの慣熟訓練を終えたU-196は12月21日22時ブレーメンへ帰投。翌日より造所で入渠整備を受ける。

1943年2月15日出渠。試、最終調整、食糧積載を行ったのち、2月27日キールで甲射撃試験とトリムテストを実施、そして3月2日から5日にかけて造所で消磁作業を受けて出撃準備を整えた。現存する写真からこの時点で既にFuMB-1 メトックスが装備されていた様子。

1回目の戦闘航海(1943年3月~10月)

1943年3月13日午前8時キールを出撃、午前11時30分にU-664と合流し、グレートベルト峡とスカゲラ峡を通過、14日19時35分より15日午前6時までマルヴィケンで燃料補給を受け、ノルウェー西に沿って北上していく。中では訓練がてら急速潜航を繰り返した。

カール・デーニッツ提督インド洋で3回の攻勢をかけるべくU-196、U-177U-178U-181U-195U-197、U-198インド洋まで長駆するよう命を下す。IXD2には補給しで大西洋を越えられるほどの長大な航続距離があったのだ。一方、U-196は積極的な通商破壊よりも、遠隔地での偵察や耐久試験を重視するよう命じられていたようで、試験艦的役割が強かったとされる。

アイスランドフェロー諸島間に差し掛かった3月20日15時8分、浮上直後にイギリス軍のショートサンダーランド飛行艇に襲撃されて潜航退避、17時57分まで潜り続けて何とか敵機をやり過ごす。3月25日と27日、命に従って北大西洋の気情報を報告。イギリス軍の捜索網を掻い潜って北大西洋に進出したU-196は南下を続けて南アフリカす。

4月1日ボルドーに拠点を置く第12潜隊群へ転属。

4月16日赤道を南下して南大西洋へと足を踏み入れる。同日16時、ケープタウン交通を調すべく、U-196と他3隻にはそれぞれBdUが定めた航路を辿るよう命じられる。4月末までケープタウン通商破壊を試みるも、強や大波に阻まれて戦果を得られなかったためインド洋への移動を開始。しかしデーニッツ提督の命電はイギリス軍に傍受・解読され、南アフリカでも護送団方式を導入、Uボートに狙われやすい独航は一部の高速を除いて姿を消してしまった。

インド洋での通商破壊

5月11日21時30分、蒸気を発見して追跡を開始、23時40分、南アフリカ南東ポートセントジョン南方40里で魚雷を発射し、蒸気ネイルシー・メドウ(4962トン)の体中央部に命中させる。ネイルシー・メドウを洋上停止させたが沈没には至らない。翌12日午前0時2分に再度魚雷を発射するが命中せず、しかし程なくしてネイルシー・メドウは爆発を起こして沈没。モントゴメリー将軍率いるエジプトの第8軍宛ての戦車郵便物など積み荷7104トン中へとみ込まれていった。

5月24日21時47分、U-178より送られてきた敵輸送団の位置情報を受信、海岸線に沿って進みながら獲物を探しめる。

5月25日13時に商6隻と駆逐艦2隻で編成された敵団を発見。魚雷2本を発射しようとしたが、実際に発射出来たのは1本のみで、残り1本は信管起爆状態のまま発射管内に留まるという非常に危険な状態に陥ってしまう。ケントラット艦長は艦を急度で潜航させ、発射管から魚雷を滑り落とす形で除去した。しかし、今度は護衛の駆逐艦に攻撃され、13時20分に3回の爆雷炸裂音がく。それから2時間以上にってソナー音が鳴りいたがこれ以上の爆雷投下はかった。16時15分浮上。

U-196が遭遇した敵団の情報U-181にも共有され、モザンビーク峡で待ちせを行うが、どうやらダーバンへと向かったようで、一晩中待機していたにも関わらず団の出現は認められなかった。またインド西部ではを問わない航空が行われており、敵機の接近を確認するたびに潜航退避の必要があった。

6月5日には艦体の破損や損耗が徐々に蓄積している事が判明。応急修理により当面の間は耐えられると判断された。6月7日U-198の成功を受けてBdUはU-196、U-177U-178U-181の4隻に作戦域での自由通商破壊を命

この時、インド洋ではマダガスカル南方モザンビーク峡、ターバンなどでUボート7隻が通商破壊を、北部のアデン湾では日本海軍伊29通商破壊を行っており日独協同戦線がられていた。事前の協定によってドイツは南側、日本は北側を作戦範囲に定め、また同士討ちを避けるべく潜水艦への攻撃を厳禁とした。ドイツ海軍通商破壊支援するため給油シャルロッテ・シュリーマンインド洋に派遣

シャルロッテ・シュリーマンからの補給

6月22日午前4時55分、シャルロッテ・シュリーマンとの合流地点であるダーバン東方1800里で浮上。そこにはシャルロッテU-178U-181U-197の姿があり、U-181U-197が補給を受けている間、U-178とともに対及び対水上を担う。2隻の補給作業が終わると次はU-196の番で、22時30分、給油ホースを繋いで送を受ける。燃料200トンや生鮮食品の補給は翌23日午前4時30分に了。

U-196はシャルロッテの信号員の少なさ、燃料と食糧以外の供給設備を持っていない不便さ、モーターボートが1隻しかないせいで食糧輸送に遅れが生じたと問題点を挙げた一方、ミーティング自体はスムーズに進み、シャルロッテロー船長や乗組員の対応は模範的で優しさに満ちたものだったと評価している。

補給後、Uボート群は次なる獲物をめて北西方向に移動。最新の交通情報に基づき、U-178とU-196はそれぞれモザンビーク峡の東西に分かれて遊する事となり、マダガスカル東方北上していく。

7月21日午前4時36分、右舷後方より陸上航空機が迫りつつあるのを発見、対に人員を配置するが、艦尾直前で何故か踵を返し飛び去って行ったため、その隙を突いて潜航退避に成功。午前6時55分に浮上したのちMG30機関銃による射撃訓練を実施。

8月2日16時7分、左舷後方の線上より立ち昇る煙を発見。接近してみると10ノットで北上中のCB-1団8隻が姿を現した。護衛は大艦2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻のようだ。ケントラット艦長は攻撃を決断して急速潜航を命じた。団後方には更に1隻の駆逐艦が護衛に付いており、敵にとっても重要な団のようだ。

8月3日午前0時24分、タンガニーカのメンバ湾北東約100里にて、ダーバンキリンディニ行きのCB-1団を狙って魚雷3本を発射、間を置いて1本を発射したのち、方向転換して今度は艦尾発射管から更に1本を発射する。80後、1本が蒸気ティオブ・オラン(7323トン)に命中して大破状態へと追いやる。シティオブ・オランは助かる見込みがいと判断され、掃海艇マスターフルによって撃処分された。2隻の獲物を仕留めたU-196は南へと移動。

8月14日ナタール南アフリカ空軍第22飛行隊のPV-1ベンチュラに発見され、5発の爆雷投下を受けるも傷で逃走に成功。しかし、ベンチュラから通報を受けたコルベット艦ナイジェラが駆け付け、更に上にはベンチュラが旋回、翌15日には計6発の爆雷が投下された。から同時に攻撃を受けるU-196。8月16日包囲網を突破しようと6回浮上を試みるも、そのたびに連合軍機がすっ飛んできて中へと押し込められ、17日未明からは多数のベンチュラによる大規模捜索が始まるなど、苦しい戦いを強いられ続ける。

8月18日午前3時34分に浮上、間隙を突いてどうにか虎口を脱した。18時46分、U-181艦長ヴォルフガング・リュート少佐から、現在位置と合流地点を伝えるメッセージが届いて移動を開始。

U-181との合流、U-197の救難

8月20日午前11時39分にマダガスカル南西約300里でU-181と合流、新しい暗号コードを受け取った。ケントラット艦長は、大戦果を挙げて魚雷を多く消費しているU-181に、食糧と魚雷提供を申し出たが、悪下では移送は不可能としてリュート艦長に謝絶される。

17時11分、U-197からの遭難信号を受信。どうやらU-197は襲で損傷していて潜航が出来ない状態らしい。ちょうどU-181への燃料補給が了したため2隻は救難に向けて協議を行う。U-197は南に逃げたようだが、日を迎えた後に探し回るのは得策ではないとし、その晩は現在位置に留まった。

BdUは21日19時6分と22日18時38分の2回にってU-196へ捜索を示。間もなくしてU-197からの通信が途絶し、U-196、U-181は信号で示された位置に急行するも何も発見出来なかった。生存者から喪失原因を聞き出したかったBdUの思惑は失敗に終わった。この対応について、ケントラット艦長は遭難信号を受信しておきながら、U-197に対する適切な支援を怠ったとして、BdUに厳しく叱責されたが、実のところ、捜索示を出した時点でU-197は撃沈されており、どのみち助けられなかったと言えるだろう。

8月22日に帰投命を受領。8月24日17時よりU-181と帰路に就き、U-196の左舷前方約3里にU-181が占位するが、8月28日午前5時の払時にU-181はぐれて単艦フランスす羽に。

Uボート史上最長の戦闘航海記録を打ち立てる

9月9日、U-196の下に「イタリア連合に降した」との情報が届き、乗組員はイタリア人に対して軽蔑と憤りを覚えた他、ケントラット艦長は「々はもっと団結して強くならなければ」と、結束の意志を新たにしている。

があるのか時折航跡に膜が混じったり、ユンカースコンレッサークランクケース裂が走るなどの軽微な故障・損傷が見受けられたが、幸運にも連合軍に発見される事態には至らず、毎日潜航と浮上を繰り返しながら慎重に歩を進めていく。10月17日20時30分スペイン西部フィステレ灯台を確認。翌日から難所であるビスケー湾に差し掛かり、潜航しながら北東方向に進む。

そして10月23日18時26分、ドイツ占領下フランスボルドー基地に帰投、潜望に商2隻撃沈を表す2枚のナントを掲げて出迎えの観衆に戦果を誇示する。225日間に及ぶ戦闘第二次世界大戦におけるUボート最長任務記録となった。この事実IXD2が長期の独立巡航に耐えられる事の明と言えた。しかし疲れのせいか乗組員たちは〝強制収容所から出てきたばかりの〟やつれた顔をしていたという。

その後、偉大な記録を打ち立てたケントラット艦長は、第12潜隊群クラウス・ショルツや、ハンスルドルフ・レーシング西部管区ベックスビールを酌み交わした。続いてケントラット艦長は報告のためデーニッツ提督の下を訪れる。だが、あまりにも彼が疲れ切っていたので、元潜水艦乗りのデーニッツ提督は「ケントラット、まずは休暇を取りなさい。それが最も重要で、かつ緊急の事だ」と理解を示してくれた。

東南アジアへの派遣

ドイツ海軍大西洋での戦況が好転しない事を受け、同盟日本から提供された東南アジアのペナン基地を拠点に、モンスーン戦隊インド洋で通商破壊を行っていた。しかしUボート魚雷は熱帯の気に耐えられるものではなく、長期保管により深刻な損傷や故障が発生、そこで魚雷の補充も兼ねて、フランスから追加のUボート派遣する事とし、航続距離に優れるU-196もまたペナン行きを命じられた。

これを受けてU-196は造所で改修工事に着手。対水上レーダーFuMO 29 シータクトを装備するとともに、ウィンターガルテンに改装し、20mm連装機関を2基に増やして対力を向上、不要となったフォッケ・アハゲリス FA-330を揚陸する。余談だがこのFA-330は後にフランス軍の手に渡り、ル・ブルジェ航空宇宙博物館で展示されている。艦内には日本軍向けの水銀1404本、アルミニウムインゴット9158本、ガラス入り木箱105個、レーダーの設計図などを積載。

ケントラット艦長が休暇から帰還した後、過去数ヶの戦死者リストを見る機会を得た。それによるとUボートと熟練乗組員の損失が甚大であった。特に経験豊富な艦長の人手不足が深刻化している。デーニッツ提督が「どの陸上指揮官に艦を任せるか?」と尋ねると、艦長は「ありません、大提督」とキッパリ答え、引き続きU-196の艦長でいる事を望んだ。この状況下では艦を降りる事など到底出来なかったのだ。

1944年3月11日ボルドーを出港、ところがその直後、潜航試験中にGHG集音装置が故障するトラブルに見舞われ、3月13日に急遽ラ・パリスに寄港して応急修理を行う。

2回目の戦闘航海(1944年3月~8月)

同盟国日本が占領するペナンを目指して

3月16日U-181とともにラ・パリスを出撃して東南アジアのペナンす。イギリス軍機による厳しい航空を掻い潜ってビスケー湾を突破した後は大西洋を南下する。

連合軍の対潜技術は留まるところを知らず、護衛空母レーダーを駆使して、西ヨーロッパ侵攻時期を探ろうと気観測に従事するUボートを次々に撃沈、あまりの損にデーニッツ提督3月22日中部大西洋からの撤退を命。今やドイツ海軍大西洋の戦いに敗れて制権・制権ともに喪失していた。

4月9日カーボベルデ西方にて乳牛ことU-488と合流、食糧や燃料の補給を受ける。4月23日、南大西洋上にて護衛駆逐艦グスタフソンから爆雷攻撃を喰らうも損傷く逃走に成功。強化された連合軍の対潜網を避けるべく大西洋では通商破壊を行わず隠密航行を優先した。

5月9日、U-196、U-181、U-851は南アフリカ南西端ケープタウンからマダガスカル東方モーリシャスまでの域を作戦範囲に定めて通商破壊を開始。インド洋を管轄するイギリス東洋艦隊は戦力不足が原因で、全ての船舶に護衛を付けられていない状態であり、大西洋とべて対潜警が緩い傾向にあった。5月20日頃喜望峰を抜けてインド洋に進出。だが思うように獲物を発見出来ず戦果を挙げられなかった。

6月2日BdUは「攻撃の機会がい場合は、これ以上留まらずペナン方面への航行を続けよ」と命、やむなく通商破壊を切り上げてアラビアへと向かう。インド南西で蒸気に襲撃を仕掛けようとしたが、スコールに阻まれて失敗、そのしさたるや、僅か数十m先の艦首さえも見えなくなるほどで、近くにU-181がいる事さえも気付かなかったという。

7月9日インド西部ボンベイ南西約470里にて、落花生5000トンを輸送中の蒸気シャーザダ(5454トン)を雷撃で撃沈。アランスコットハミルトン船長員36名、手9名が戦死した。生存者52名は蒸気チャンゴンスウェーデンマグナにそれぞれ救助された。

U-196はペナン到着が迫っている事を線で連絡する必要があった。定された時間にメッセージを送信し、イギリス軍に見つからないよう即座に急速潜航、そして予定時刻に再度浮上するが応答はく、もう一度メッセージを送信した上で潜航、それでもペナン側からの連絡はかった。応答がければ先に進む事が出来ない。苦労の末、5回の送信でようやく返信が届いた。当然イギリス軍がこのような立つ行動を見逃すはずがなくコロンボから爆撃機が発進。近くにいたU-181ともども逃げ回る羽となった。

ペナン到着

8月5日にU-196はスマト北西まで辿り着く。的地のペナンまではの先だが、その周辺では暗号解析で得た情報を基に、潜水艦が出入港するUボートを狙っており、この線こそが旅路の最後の関門であった。集合地点にはイギリス潜水艦が待ちせしていたが、ペナンより飛来したアラドAr-196水上機を発見・退散していたため、幸いU-196は敵潜のすり抜けて難を逃れる。

8月10日、152日間の航を経てペナンに入港。桟には儀隊と軍楽隊が整列してU-196の到着を歓迎、ねぎらいの演奏が行われていたが、港内の潮流は猛で、エンジンを駆使して桟に横付けしようとしても押し流されてしまい、ケントラット艦長以下乗組員は歓待に応えられるだけの余裕がかった。ようやく儀隊の100m手前で首索をに引き寄せ、それを基地のドイツ人要員が素く固定する。

するとを肩にかけた日本兵が駆け寄ってきて、係留柱にかけた首索を外して水中に投げ捨てた。突然の出来事にケントラット艦長はを見ているかのような然とした表情を浮かべた。直後、U-196の艦体は強い潮流に流されてバランスを崩し、情にもまた桟から引き離されていく。結局定位置に投錨するまでに丸1時間も要してしまった。後に判明した事だが、U-196が最初に係留した場所は陸軍の錨地だったようで、事情を知らない日本兵が「海軍潜水艦陸軍の錨地に投錨している」と勘違いし、首索を外した訳である。

この頃になるとペナン到達率は非常に低くなっており、9隻が中で撃沈、事辿り着けたのはU-196を含めて9隻のみに留まった。

東南アジアでの活動

シンガポール基地

8月15日にペナンを出港、マラッカ峡を通って、8月17日シンガポールへと入港した。ドックで修理を受けるとともに積み荷の揚陸作業を実施、その間乗組員には1ヶ間の休養が与えられた。

ナン回航を成し遂げたケントラット艦長であったが、5ヵ間に戦闘血圧が急に低下、不眠症や盲症に悩まされ、循環器系の問題で視力にも悪を及ぼしているなど満身創痍状態と化していた。こうなってしまってはどうしようもない。ケントラット艦長は艦を降りる覚悟を決め、BdUに艦長の交代を要請した。

9月21日ケントラット艦長がU-196を退艦。神戸にある潜水艦基地のに異動となった。二代艦長にはヴェルナー・ストリーグナー少佐が着任。やむを得ないとはいえ、苦楽を共にした乗組員との別れは胸を引き裂かれるほど辛く、友と握手を交わした時、「君が艦に残ってくれたら皆帰れると分かっていたのに」とを掛けられたという。

連合軍の猛攻に耐えられなくなったモンスーン戦隊はペナンより撤退。バタビア外港のタンジュンリオクを新たな拠点とした。これに伴ってU-196も10月1日タンジュンリオクへ移動し、同日付で第33潜隊群(モンスーン戦隊)に編入される。

タンジュンプリオク

バタビア停泊中は当直士官を除く全ての乗組員が陸上で居住、機関士のみ日中は艦上で作業を行い、寝食は他の乗組員同様陸上で行った。

熱帯地帯の気バッテリーに悪を与えた。放電中及び充電中にバッテリー温度が5~10℃上昇、これにより寿命が約20%ど短くなってしまうのだ。U-196のバッテリーにも少なからず影出ていた模様。また、高い湿度はレーダーや捜索受信機の故障を招いたが、こちらは行き届いた整備によって未然に防がれている。燃料に関してもブルネイで産出された未精製油かなく劣悪と言わざるを得なかった。

加えてドイツ人乗組員は熱帯気に慣れていないためマラリア患率は25に達した。一の救いはスポーツ施設、図書館公式ダンスホールドイツ映画の鑑賞といった福利厚生が充実し、乗組員の戦意が低下しなかった事くらいである。

日本海軍ベルリン海軍武官を通じて、デーニッツ提督オーストラリア西方面での通商破壊作戦を要請、9月26日U-168、U-537U-862の運用が承認された。さっそく日本海軍は規則に従って関係各所へUボート行動予定を通達するが、これを連合軍に傍受され、まず10月6日U-168が潜水艦ワードヴィッシュの雷撃で撃沈、続いて11月9日U-537潜水艦フラウンダーの雷撃で撃沈されてしまう。11月初旬、モンスーン戦隊喪失したU-168に代わりU-196に出撃命を下す。

予定では、スンダ峡を通過してU-510U-843に物資を補給、それが終わるとオーストラリア南西で1ヶ間の通商破壊を行い、次いで神戸へ回航してバッテリーの交換を受けるはずだった。一説によると、U-196には最新の推進システムが搭載され、戦場から遠く離れたオーストラリア西で性テストを実施しようとしていたという。

最期

1944年11月30日バタビアを出撃。しかしこれ以降U-196からの連絡は途絶え、スンダ峡あるいはジャワで消息不明となる。乗組員65名全員死亡

U-510機械的な問題でペナン反転帰投したため、モンスーン戦隊はU-510への補給任務を中止、新たにインド洋で帰中のU-181に燃料補給を行うよう示を出すも、応答はく、12月15日の位置情報送信示にも応答しなかったので、12月22日東南アジア所在の全Uボートに「U-196は12月12日以降ジャワ島南方行方不明。おそらく出港直後、連合潜水艦によって撃沈された」と通達。この線は連合軍にも傍受されたが、彼らはU-196を攻撃していない事から困惑したという。

喪失については、「シュノーケルを使った試験潜航中に事故を起こして沈没」もしくは「潜水艦ポーパスが敷設した機雷により沈没」の二通りの説が原因に挙げられているが、ポーパスが敷設したのは12月9日なので、時系列的に後者の説は褄が合わない。

加えてストリーグナー少佐は艦長養成コースを修了しておらず、本来であれば艦長不適なのだが、東南アジアでは人手不足が深刻化している背景もあり、戦闘をしていないとはいえ、UIT-23の艦長経験がある彼を起用せざるを得なかったと思われる。このため事故が起きた時に適切な判断を下せず、そのまま沈没させてしまったのだろう。

U-196軍医ハインツ・ハーケ中尉の墓が、パングランゴ山の麓にあるアルカ・ドマスにある。何故彼の遺体だけ存在するのかは記録く詳細不明。

余談

映画『U-196』

りなき海底に沈むガス潜水艦――
死者数、測定不能

2006年ドイツ映画『U-196』(原題:Himmel über Australien、直訳するとオーストラリア)にてラスボス?を務める。

ドイツから日本ボツリヌス菌を輸送する途上、コーラルエッジ沈没した設定で、残骸から漏れ出したボツリヌス菌により、海洋生物が大量に変死する問題が発生。これを食い止めるためにオーストラリア海洋観測所が立ち上がる…といった内容。原題や内容を見れば分かるようにUボート戦記ものではない。U-196の出番も少しだけで、残りは男女三角関係や意見の対立などに充てられている。ちなみにボツリヌス菌1g100万人以上の人間を殺出来る世界最強

ドイツ版のパッケージは内容に忠実なパケ絵となっているが、日本版のパッケージにはU-196が大きく写し出されており、これが戦記ものと誤解させる要因になっていると思われる。なおボツリヌス菌ガスではない。

関連項目

関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

まらしぃ (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: かまど
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

U-196

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • U-196についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


ニコニコニューストピックス