ヒデハヤテとは、1969年生まれの日本の競走馬。鹿毛の牡馬。
主な勝ち鞍
1971年:阪神3歳ステークス
1972年:きさらぎ賞、京成杯
父*タマナー、母ワカシラオキ、母父*ソロナウェーという血統。
父は1958年のフランスダービー馬。種牡馬としては中央重賞馬3頭とあんまりパッとせず、ヒデハヤテが代表産駒である。
母は名牝シラオキの5番仔で、自身は11戦3勝。半兄に言わずと知れた二冠馬コダマと皐月賞馬シンツバメがいる。ヒデハヤテは第4仔。
母父は1949年の愛2000ギニーなどの勝ち馬で、ダービー馬キーストン、テイトオーなどクラシックホース5頭を送り出した60年代の名種牡馬。母父としての産駒にはニホンピロムーテーやハマノパレードがいる。
2歳上の全兄に札幌記念を勝ったヒデカブトがいる。
1969年5月28日、2代母シラオキを繁殖牝馬として繋養していた浦河の名門・鎌田牧場で誕生。オーナーは前述のコダマやキーストン、そしてシラオキの馬主であった伊藤由五郎の息子で、1969年の桜花賞馬ヒデコトブキなどを所有した伊藤英夫。そもそもシラオキを鎌田牧場で繁殖入りさせたのが伊藤由五郎だったそうで、鎌田牧場のシラオキ牝系は伊藤家が手塩に掛けた肝いりの血統ということである。
雄大な馬格で馬体重は520kgにおよび、同期のダービー馬ロングエースを上回る、当時としては「超」がつく巨漢馬であった。
※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。
ヒデコトブキや兄ヒデカブトも管理した、栗東の伊藤修司厩舎に入厩。1971年10月17日、京都・芝1200mの新馬戦にて吉永良人騎手を鞍上にデビューする。この新馬戦には、同じ浦河の名門である出口牧場が送り出した四白流星の派手な期待馬・タイテエムがいた。タイテエムに1番人気を譲って2番人気となったヒデハヤテだったが、あちらが出遅れて8着に撃沈したのを尻目に、このデビュー戦を楽々と逃げ切って7馬身差で圧勝する。
続く条件特別のなでしこ賞(京都・芝1400m)では不良馬場に脚を取られたか5着に取りこぼしたが、同条件の銀杏特別では後の「三強」の一角・ランドプリンスを蹴散らして快勝。
そして西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスへ乗りこんだヒデハヤテは、新たに鞍上に福永洋一を迎えた。1971年の福永洋一といえば、デビュー4年目にしてこの秋、ニホンピロムーテーの菊花賞での伝説的騎乗で「天才」の評価を確固たるものとしたキラッキラのホープである。そんな天才を背にしたヒデハヤテは、スタートからポンとハナを切ると、他馬を全く寄せ付けず、ゴールまで悠々一人旅。2着の男勝りの牝馬シンモエダケに8馬身差をつけ、アローエクスプレスの3歳レコードを1秒1更新する猛時計での大圧勝。この勝利でヒデハヤテは、翌年のクラシックの大本命、関西総大将と見なされることになり、啓衆社賞最優秀3歳牡馬も受賞した。
明け4歳、1月の中京のオープンで始動したヒデハヤテは、続くきさらぎ賞とともにこの2戦も悠々と逃げ切り勝ち。圧倒的な快速でクラシックへ向けて万全の態勢、あとは東上して関東勢に格の違いを見せるだけ……だったのだが。
この1972年は思いがけないトラブルで、クラシックの日程がしっちゃかめっちゃかになっていた。関東の厩舎で馬インフルエンザの大流行が発生し、1月・2月の東京・中山が開催できなくなってしまったのである。この影響でクラシックおよびそれに向けた関東の重賞は軒並み延期となり、皐月賞が5月28日、東京優駿が7月9日という日程になってしまったのだ。
もちろん、普通に競馬が出来ている関西勢にとっては、余裕をもったローテで挑めるこの延期は悪いことでもない。そんな関西勢の中でもヒデハヤテはいち早く東上し、3月19日の京成杯へと参戦した。結果は初めての中山もなんのその、関東勢を歯牙にも掛けず、1:35.8の好時計で楽々と逃げ切り勝ち。関東の競馬ファンに「ヒデハヤテ強し」を印象付け、改めてクラシック大本命の地位を確固たるものとした。当時の雑誌にはこんな風に書かれている。
ヒデハヤテは現時点ではむろん四歳ナンバー1だが、そのレースっぷり、タイム、安定度すべての点で歴代の四歳馬の中でも最右翼といえる。一昨年のタニノムーティエなどまだ記憶に新しく、その強さの印象も強烈だが、現在のヒデハヤテは絶対に彼以上に強いということは断言できる。今後の予定は「オープン」を使って「スプリングステークス」「皐月賞」へと向かうそうだが、その間に関東馬ファンとしては、なんとかヒデハヤテの死角を見つけるべく努力することになるだろう。
2年前の二冠馬タニノムーティエより間違いなく強いとまで言われたヒデハヤテ。
例年ならもうこの後は皐月賞。絶対的大本命として迎えることは間違いなかった。
――だが、この年は本番までまだあと2ヶ月もあった。
この日程の余裕が、ヒデハヤテにとってはまさかの悪夢に変わるとは、果たして誰が想像したか。
皐月賞を控えた5月7日、ヒデハヤテはトライアルのスプリングステークスに出走した。ここには皐月賞へ向けてタイテエムも乗りこんできていたが、もちろんここでもヒデハヤテが断然の1番人気。死角なしの快速馬と天才騎手のコンビが負けるはずがないと誰もが思っていた。――だが。
常にスタートで先手をとり、そのまま悠々と逃げ切ってきたヒデハヤテが、ここではタイテエムの後手を踏んだ。道中でハナを奪い返したものの、直線に入ってもヒデハヤテは伸びを欠き、あっさりとタイテエムにかわされた。半馬身差の2着。王座からの陥落は一瞬のことだった。福永洋一は馬上で泣いていたという。
……実はこのとき、ヒデハヤテの脚は既に限界を迎えていたのだ。このスプリングステークス自体が、脚部不安の中での強行出走だった。そしてこの敗戦のあと、ヒデハヤテはクラシックを目前にして戦線離脱。関西総大将、絶対的大本命だったはずの彼の名前は、このあと繰り広げられたランドプリンス・ロングエース・タイテエムの「関西三強」と、それを追いかけ追い越した関東の雄イシノヒカルの死闘の前に、あっさりと忘れ去られていった。
もし馬インフルによる延期がなく例年通りの日程であれば、少なくとも皐月賞には間に合っていたであろう。生まれた年が悪かったという以外に、はたして彼に何と言葉をかければいいのだろうか……。
その後、ほぼ丸2年にわたる休養を経て、6歳となったヒデハヤテは1974年4月の阪神のオープンで復帰、2着に入ったものの、結局その一戦を最後に彼はひっそりとターフを去った。通算9戦6勝。
引退後は種牡馬入りしたものの種付け数も牝馬の質にも恵まれず、地方重賞馬2頭を出すに留まった。1987年に用途変更、その後のヒデハヤテの消息は知れない。
福永洋一はヒデハヤテを「当時一番強かった馬」「その印象は、最も強烈であった」と語っている。もし彼が健在であれば、「デカ馬はダービーを勝てない」というジンクスを打ち破るのはロングエースではなくヒデハヤテで、福永洋一にダービージョッキーの称号を贈っていたのであろうか。考えても詮無いことではあるが。今はただ、競馬史に数いる「幻のダービー馬」の1頭としてその名が残るのみである。
| *タマナー 1955 栃栗毛 |
Sunny Boy 1944 鹿毛 |
Jock | Asterus |
| Naic | |||
| Fille de Soleil | Solario | ||
| Fille de Salut | |||
| Tresa 1946 栗毛 |
Bozzetto | Pharos | |
| Bunworry | |||
| Torrigiana | Ortello | ||
| Turletta | |||
| ワカシラオキ 1960 鹿毛 FNo.3-l |
*ソロナウェー 1946 鹿毛 |
Solferino | Fairway |
| Sol Speranza | |||
| Anyway | Grand Glacier | ||
| The Widow Murphy | |||
| シラオキ 1946 栗毛 |
*プリメロ | Blandford | |
| Athasi | |||
| 第弐スターカツプ | *ダイオライト | ||
| スターカツプ |
クロス:Pharos=Fairway 4×4(12.50%)、Teddy 5×5(6.25%)、Gainsborough 5×5(6.25%)
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最終更新:2025/12/05(金) 22:00
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