ヒデハヤテ 単語

ヒデハヤテ

3.5千文字の記事

ヒデハヤテとは、1969年生まれの日本競走馬鹿毛

花の47年組」の役となるはずだった、関西大将

な勝ち
1971年阪神3歳ステークス
1972年きさらぎ賞京成杯

概要

*タマナー、ワカシラオキ*ソロナウェーという血統。
1958年フランスダービー種牡馬としては中央重賞3頭とあんまりパッとせず、ヒデハヤテが代表産駒である。
は名シラオキの5番で、自身は11戦3勝。半言わずと知れた二冠馬コダマ皐月賞シンツバメがいる。ヒデハヤテは第4
1949年2000ギニーなどの勝ちで、ダービーキーストンテイトオーなどクラシックホース5頭を送り出した60年代の名種牡馬としての産駒にはニホンピロムーテーハマノパレードがいる。
2歳上の全札幌記念を勝ったヒデカブトがいる。

1969年5月28日、2代シラオキ繁殖牝馬として繋養していた河の名門・鎌田牧場で誕生。オーナーは前述のコダマキーストン、そしてシラオキ馬主であった伊藤五郎息子で、1969年桜花賞ヒデコトブキなどを所有した伊藤夫。そもそもシラオキ鎌田牧場で繁殖入りさせたのが伊藤五郎だったそうで、鎌田牧場シラオキ牝系伊藤が手に掛けた肝いりの血統ということである。

雄大格で体重は520kgにおよび、同期ダービーロングエースを上回る、当時としては「」がつく巨であった。

※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。

秀で、疾風の如く

ヒデコトブキヒデカブトも管理した、東の伊藤厩舎に入厩。1971年10月17日京都・芝1200mの新馬戦にて吉永良人騎手上にデビューする。この新馬戦には、同じ河の名門である出口牧場が送り出した四流星手な期待タイテエムがいた。タイテエムに1番人気を譲って2番人気となったヒデハヤテだったが、あちらが出遅れて8着に撃沈したのをに、このデビュー戦を楽々と逃げ切って7馬身差で圧勝する。

続く条件特別のなでしこ賞(京都・芝1400m)では不良馬場に脚を取られたか5着に取りこぼしたが、同条件の銀杏特別では後の「三強」の一ランドプリンスを蹴散らして快勝。

そして西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスへ乗りこんだヒデハヤテは、新たに上に福永洋一を迎えた。1971年福永洋一といえば、デビュー4年にしてこのニホンピロムーテー菊花賞での伝説的騎乗で「天才」の評価を確固たるものとしたキラッキラホープである。そんな天才を背にしたヒデハヤテは、スタートからポンハナを切ると、他を全く寄せ付けず、ゴールまで一人旅。2着の男勝りシンエダケに8馬身をつけ、アローエクスプレスの3歳レコード11更新する時計での大圧勝。この勝利でヒデハヤテは、翌年のクラシック大本命、関西大将と見なされることになり、啓衆社賞最優秀3歳も受賞した。

明け4歳、1月の中オープンで始動したヒデハヤテは、続くきさらぎ賞とともにこの2戦も々と逃げ切り勝ち。圧倒的な快速クラシックへ向けて万全の態勢、あとは東上して関東勢に格の違いを見せるだけ……だったのだが
この1972年は思いがけないトラブルで、クラシックの日程がしっちゃかめっちゃかになっていた。関東の厩舎でインフルエンザの大流行が発生し、1月2月東京中山が開催できなくなってしまったのである。このクラシックおよびそれに向けた関東重賞は軒並み延期となり、皐月賞5月28日東京優駿7月9日という日程になってしまったのだ。

もちろん、普通競馬が出来ている関西勢にとっては、余裕をもったローテで挑めるこの延期は悪いことでもない。そんな関西勢の中でもヒデハヤテはいちく東上し、3月19日京成杯へと参戦した。結果は初めての中山もなんのその、関東勢を牙にも掛けず、1:35.8の好時計で楽々と逃げ切り勝ち。関東競馬ファンに「ヒデハヤテ強し」を印付け、改めてクラシック大本命の地位を確固たるものとした。当時の雑誌にはこんなに書かれている。

 ヒデハヤテは現時点ではむろん四歳ナンバー1だが、そのレースっぷり、タイム、安定度すべての点で歴代の四歳の中でも最右翼といえる。一昨年のタニノムーティエなどまだ記憶に新しく、その強さの印も強だが、現在のヒデハヤテは絶対に彼以上に強いということは断言できる。今後の予定は「オープン」を使って「スプリングステークス」「皐月賞」へと向かうそうだが、その間に関東ファンとしては、なんとかヒデハヤテの死を見つけるべく努力することになるだろう。

――「小説club1972年6月号 「ギャンブルチェック鈴木重雄

2年前の二冠馬タニノムーティエより間違いなく強いとまで言われたヒデハヤテ。
例年ならもうこの後は皐月賞。絶対的大本命として迎えることは間違いなかった。
――だが、この年は本番までまだあと2ヶもあった。
この日程の余裕が、ヒデハヤテにとってはまさかの悪夢に変わるとは、果たしてが想像したか。

皐月賞を控えた5月7日、ヒデハヤテはトライアルスプリングステークスに出走した。ここには皐月賞へ向けてタイテエムも乗りこんできていたが、もちろんここでもヒデハヤテが断然の1番人気。死なしの快速天才騎手コンビが負けるはずがないともが思っていた。――だが。
常にスタート先手をとり、そのまま々と逃げ切ってきたヒデハヤテが、ここではタイテエムの後手を踏んだ。中でハナを奪い返したものの、直線に入ってもヒデハヤテは伸びを欠き、あっさりとタイテエムにかわされた。半馬身差の2着。王座からの陥落は一のことだった。福永洋一上で泣いていたという。

……実はこのとき、ヒデハヤテの脚は既に限界を迎えていたのだ。このスプリングステークス自体が、脚部不安の中での強行出走だった。そしてこの敗戦のあと、ヒデハヤテはクラシック前にして戦線離脱。関西大将、絶対的大本命だったはずの彼の名前は、このあと繰り広げられたランドプリンスロングエースタイテエムの「関西三強」と、それを追いかけ追い越した関東の雄イシノヒカルの死闘の前に、あっさりと忘れ去られていった。
もしインフルによる延期がなく例年通りの日程であれば、少なくとも皐月賞には間に合っていたであろう。生まれた年が悪かったという以外に、はたして彼に何と言葉をかければいいのだろうか……。

その後、ほぼ丸2年にわたる休養を経て、6歳となったヒデハヤテは1974年4月阪神オープンで復帰、2着に入ったものの、結局その一戦を最後に彼はひっそりとターフを去った。通算9戦6勝。

引退後は種牡馬入りしたものの種付け数もの質にも恵まれず、地方重賞2頭を出すに留まった。1987年に用途変更、その後のヒデハヤテの消息は知れない。

福永洋一はヒデハヤテを「当時一番強かった」「その印は、最も強であった」と語っている。もし彼が健在であれば、「デカダービーを勝てない」というジンクスを打ち破るのはロングエースではなくヒデハヤテで、福永洋一ダービージョッキー称号を贈っていたのであろうか。考えても詮いことではあるが。今はただ、競馬史に数いる「ダービー」の1頭としてその名が残るのみである。

血統表

*タマナー
1955 栃栗毛
Sunny Boy
1944 鹿毛
Jock Asterus
Naic
Fille de Soleil Solario
Fille de Salut
Tresa
1946 栗毛
Bozzetto Pharos
Bunworry
Torrigiana Ortello
Turletta
ワカシラオキ
1960 鹿毛
FNo.3-l
*ソロナウェー
1946 鹿毛
Solferino Fairway
Sol Speranza
Anyway Grand Glacier
The Widow Murphy
シラオキ
1946 栗毛
*プリメロ Blandford
Athasi
第弐スターカツ *ダイオライト
スターカツ

クロスPharos=Fairway 4×4(12.50%)、Teddy 5×5(6.25%)、Gainsborough 5×5(6.25%)

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