福永洋一とは、JRA(日本中央競馬会)に所属していた元騎手である。
「天才」と称えられ一世を風靡しながら、事故により僅か11年で引退を余儀なくされた悲運の名騎手。
1948年、高知県出身。地主だったが戦後の農地改革により極貧に陥った福永家に生まれた洋一は、父の放蕩生活に呆れた母が失踪したため姉に育てられた。その姉が高知競馬の騎手と結婚、3人の兄も騎手になったことが影響し、洋一も騎手を志望。1964年に馬事公苑15期生として騎手の道に入る。
この15期生、洋一の他に、武豊に抜かれるまでJRA最多勝利記録を保持した岡部幸雄、GⅠ級競走15勝を挙げた柴田政人、八大競走2勝の伊藤正徳が顔を揃え、後に「馬事公苑花の15期生」と称される黄金世代であった。福永はどちらかといえば天才型であったという。
3年の騎手課程と1年の浪人を経て、1968年に名門武田文吾厩舎の所属騎手としてデビュー。1年目から14勝を挙げ関西新人賞を受賞。しかし荒っぽい騎乗が目立ち、2年目には負担重量が不足したことで3ヶ月の騎乗停止を食らい、さらに師匠の武文に追加で1ヶ月の騎乗自粛を言い渡されてしまう。しかし、この間や自粛明けに学ぶことが多かったらしく、この年45勝を挙げ全国11位という大戦果をあげる事となる。
翌3年目に初のリーディング騎手となると、以降9年連続でリーディングを獲得するという快進撃。1977年には野平祐二の記録を塗り替え当時最多の126勝、さらに翌年には131勝を挙げた。この間に八大競走で6勝を挙げている。
しかし1979年3月4日、毎日杯での騎乗中に前を走っていた馬の落馬に巻き込まれて洋一も落馬。深刻な脳挫傷で重度の後遺症が残り、決死のリハビリのおかげで1984年には馬に乗れるまでに回復を果たしたものの、騎手ライセンス更新には間に合わずこの事故を最後に騎手を引退。余りにも突然にターフを去ることになってしまった。
2004年に顕彰騎手として殿堂入り。なお、この時の選考基準は「通算勝利度数がおおむね1000勝」というやけに引っかかる条件になっていた。(調教師は1000勝以上と明確だったが、後述の改定により2016年に橋口弘次郎、元・調教師が991勝で調教師として殿堂入りしている)
これは洋一が983勝とわずかに1000勝にとどかず、しかし、洋一ほどの騎手を顕彰しないのはありえないということで、特別に洋一枠が用意されたものと見られている。
※なお2015年の改定により現在の選定基準は、騎手は概ね2000勝以上、G1を10勝以上などを含んだ条件に、調教師は概ね1000勝以上、G1を5勝以上などを含んだ条件になっている。
逃げ馬で追い込んだり、追い込み馬で逃げ切ったりと常人には考えつかないような騎乗で勝利を重ねた。そのような騎乗の代表格に、差し馬のニホンピロムーテーを中間地点で先頭に立たせ押し切った1971年の菊花賞、直線で内埒沿いの恐ろしく狭いスペースを突破し他馬の騎手に「ラチの上を走ってきたのかと思った」と言わしめた1977年の皐月賞(勝利馬ハードバージ)がある。
自然で美しいフォーム、類まれな判断力、競馬にまつわる膨大な知識等、洋一の才能は多くの関係者が語り継いでいるが、総じて言われるのは「そのような言葉では説明できない何か特異な力を持っていた」ということである。
当時の競馬ファンの間でも洋一の信頼は別格で、如何に平凡な馬であろうと高率で2着、3着に入線するため、普通なら即消すような馬券でも騎手が洋一ならとりあえず買いとされるほどの影響力を持っていた。他にも、洋一が騎乗すると凡庸な馬でもたしかにその時は激走するのであるが、まるで燃え尽きるように以降まるで走らなくなるなんてことも言われており、そういった神話性が福永洋一という騎手を特別な存在足らしめている。
桜花賞(1977年インターグロリア・1978年オヤマテスコ)
天皇賞(1972年秋ヤマニンウエーブ・1976年春エリモジョージ)
上記の通り八大競走では6勝を挙げ、八大競走に準じる重賞では宝塚記念(勝利馬エリモジョージ)・エリザベス女王杯(勝利馬インターグロリア)・阪神3歳ステークス(勝利馬ヒデハヤテ)を勝利し、現在で言うG1級競走を9勝と言う戦果を挙げている。
上記の実績に東京優駿が含まれていない事からお察しの通り、洋一が最も欲していたダービーは未勝利で1978年のカンパーリでの3着がベストリザルトとなってしまった。お世辞にも長いとは言えない11年の実働期間内でダービージョッキーの称号を得るチャンスは少なくなかったものの、ヒデハヤテは脚部不安・ハードバージは騎乗を断りホリタエンジェルに騎乗・カツラノハイセイコ騎乗での挑戦も落馬による再起不能で果たせずに終わった。
しかし、その夢は約40年を経て息子の手により果たされることになる。
洋一が落馬事故に遭った時、長男の祐一は2歳。したがってリハビリをする父の姿は見ていても、騎手としての父の姿は記憶になかった。しかしその祐一は近所に住んでいた8歳年上の武豊に憧れ、「父親のような悲惨なことになって欲しくない」という母親の反対の説得や一浪の末競馬学校に入学、1996年にデビューを果たす。
父の名前も手伝いデビュー時から非常に多くの注目と期待を集め、1年目から53勝を記録。武豊がいたこともあり父ほど抜きんでた存在とはならなかったがトップジョッキーに成長し、史上初となる親子でのリーディングも達成。さらに2018年には祐一がダービーを勝利し、洋一が果たせなかった夢を叶えた。
祐一は「僕は一生洋一の息子でいい」と語っていたが、後に洋一の勝利記録を超えて1000勝に到達した際には「これで福永祐一個人として歩み出せた」とコメントしており、騎手としての父が記憶になくても、祐一が父親の背中を追いかけ続けていたことがうかがえる。
2009年には、武豊と高知競馬のトップジョッキー・赤岡修次の縁で、武の他祐一や川田将雅ら関西の騎手を高知に招いて行われたトークショー内での祐一の一言がきっかけとなり、翌2010年に高知競馬場で地方重賞「福永洋一記念」が創設。賞金等は高知競馬が出資、協賛金や副賞などは祐一が提供した。記念すべき初代覇者は、レース創設の大きなきっかけを作った赤岡を鞍上に迎えたフサイチバルドル。そして、表彰式では洋一がプレゼンターとして事故以来31年ぶりにファンの前に登場し、高知競馬場は大歓声に包まれた。第1回を終えた後、祐一は「俺の中のヒーローは親父だったんだと初めて思った」とコメント。また勝利騎手となった赤岡も「洋一さんは中学校の先輩。絶対に勝たなきゃならないという思いで、久々にプレッシャーを感じました」とコメントした。
第2回以降も徐々に賞金が増額されるなど順調に継続されており、開催に合わせて様々な企画が行われる、高知競馬場の一大イベントに拡大。洋一も毎年のようにプレゼンターとして訪れているほか、2015年の第6回競走では祐一が初めて騎手として騎乗した(4着)。高知競馬は将来的に福永洋一記念を交流重賞にすることを目指しており、福永洋一の名前はこれからも永く刻まれていくことだろう。
掲示板
16 ななしのよっしん
2023/03/04(土) 22:51:46 ID: 38knpY9350
お二人がいらっしゃったのを見て涙腺が緩んだ
洋一さん・祐美子さんが公の場にいらっしゃったのは、福永洋一記念以来になるのかな?
ご両親が元気なうちの引退で良かったと心底思う
17 ななしのよっしん
2023/03/05(日) 00:19:32 ID: GZQkaMbhJs
祐一が涙ながらに「騎手を急に始めて、長年親不孝した」と言っていたのが心に刺さったんだけど
悲願の日本ダービー制覇も達成し、勝利数も洋一さんのそれを大きく超え、尚且つ無事に騎手キャリアを終えた
どう考えても最高の親孝行したんだわ
洋一さんも裕美子さんも、祐一を本当に誇りに感じてると思う
18 ななしのよっしん
2023/03/05(日) 23:07:43 ID: IU2/XqfeIC
祐一の引退式、現場に観に行ってきたけど祐一が洋一さんに花束を渡した時洋一さんの顔が綻んだように感じて思わず目頭が熱くなったよ…
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最終更新:2023/06/08(木) 11:00
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