前田利長 単語


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前田利長(まえだ としなが 1562~1614)とは、戦国時代江戸時代の武将・大名である。加賀百万石を築いた前田利家長男

概要

前田利家とまつ(芳院)の長男。妻は永織田信長)。
豊臣秀吉に従い、秀吉から厚遇を受けた。秀吉後は徳川家康と対立したが、関ヶ原の戦いでは家康が率いる東軍に味方した。

江戸幕府と駆け引きを行ってから受け継いだ加賀百万石を守り抜き、善政を敷いて繁栄の基礎を築いた。
石川県富山県高岡市では名君として人気が高い。

ちなみに加賀百万石の初代は正確には利長で、加賀前田の初代が利である。ややこしい。
前田の分筋だった利北陸に赴任して能登加賀の大名となり、次に利長が前田の領地に越中加賀南部を加えて百万石越えの前田が成立した。
ただし江戸時代の武祖を大いに顕したことや、知名度は現代でもの方がかに上であることから、加賀百万石といえば前田利家というイメージが強い。

       初代 二代 三代
加賀前田  利 利長 利常 ……
加賀百万石  利長 利常 高 ……
(加藩)

当時の政界の
中心人物

前田利長の略歴
織田信長 織田信長を妻に迎えて、エリートコースを歩む。
父親である前田利家の後任として越前国府中福井県)に赴任。
新婚旅行中に?本能寺の変が勃発。
豊臣秀吉 前田一家って秀吉から厚遇を受けた。
利長は九州征伐・小田原征伐等に参加して活躍し、秀吉天下統一に貢献。

加賀任(石川県)の大名、越中富山県)の大半を支配する有力大名と成った。秀吉の相談役を務めると、利長はに代わって加賀能登石川県)の支配も代行。
徳川家康 秀吉後に家康と対立したが、政争に負けて徳に従った。
関ヶ原の戦いで東軍に味方し、加賀南部を併合。130万石えの、徳に次ぐ日本2位の大大名となった。
戦後に徳から越中の割譲を要されたが、圧力を撥ねつけて領地を維持した。
徳川秀忠 は方針転換し、利長が後継者に選んだ前田利常底的に厚遇した。
しかし利長の晩年には前田に圧力を掛けて越中の割譲を要した。

晩年の前田利長は、高山右近らを起用して高岡開発事業を推進した。

織田信長の娘婿

父親前田利家織田信長の直属軍団を率いた名将であり、利息子である前田利長は将来を約束された期待のだった。
前田利長は織田信長に見込まれて信長を妻に迎えた。信長婿となった利長は、織田政権期にはが管理した越前国福井県府中の代官の一人になった。

前田利家は同僚の佐々成政や上柴田勝家と組んで越前国神社を迫した疑いがあり、激怒した信長は彼の側近に調を命じたことがあった。
織田の先祖は神社に勤務したという歴史があった。
そして前田利家佐々成政がそれぞれ能登石川県)、越中富山)に転任した後、前田利長が越前府中に送り込まれた。

府中の代官となった前田利長は、織田北陸方面軍のな戦いである加賀定戦や越後新潟県)の上杉との抗争に参加した形跡は見つかっていない。
利長の主任務は神社をはじめ織田発祥の地とも言われる現地の諸勢力との友好的な交流だったのかもしれない。

天下一統まで

賤ヶ岳の戦い

日本史教科書に載っているこの戦いに、前田利長もと共に柴田勝家に味方して参戦。
前田利長の軍勢は洗してを踏み固めることで柴田軍の進軍を助けたとされる。

前田勢は最前線天神山砦に入って羽軍を脅かし、柴田軍の奇襲部隊と連動して羽柴秀吉軍を窮地に追い込んだ。
しかし戦そのものは柴田軍の大敗となり、前田勢は敵の重囲を突破して多数の死傷者を出したものの撤退に成功した。

但しこの戦いで前田軍は逆に戦線離脱することで味方だった柴田軍を敗北させ、秀吉勝利させた疑いがある。

前田利家の動向 本能寺の変の直後、支配地の能登の政情不安を知り急いで帰。その後柴田勝家から明智光秀討伐のための出要請を受けたが、能登情勢に対応するため出を断った。
 結果、北陸方面軍全体が信長の弔い合戦を行えず、家は負目を抱えることになった。

・一ヶ後の荒山合戦では、北陸諸将からの援軍を得て反織田勢力に大勝利した。

賤ヶ岳の戦いでは柴田軍の最前線の砦を預かり、同軍が秀吉軍に対して仕掛けた奇襲作戦でも、敵の砦に近い場所を占拠して友軍の背後を守る重要な役割を担った。
前田利長の動向 北陸諸将との縁は薄く、信長の側近衆との交流の方が深かったと考えられる。
 信長の右腕的存在だった丹羽長秀は、織婿としても利長の大先輩。
 丹羽長秀が筆頭の側近衆は、賤ヶ岳の戦で秀吉と協力した。利長の友の蒲生氏、細川忠も秀吉に味方した。
 つまり先輩も同僚も友人たちも皆、秀派。

能登治安維持、越前の方が近江に近いなどの事情から、前田子が動員した軍勢は、に仕え続けた古参能登国衆よりも、利長に従った越前衆や急募した傭兵が多数を占めた可性。

戦後秀吉から一貫して厚遇を受け続けた。


柴田勝家に味方した前田利家は、戦後秀吉から加賀北部の支配を任された。

一方、前田利長は父親とは別に秀吉から加賀を与えられた。
任は、加賀北部まで支配地を広げたと、戦後加賀南部越前を支配した丹羽長秀の支配地の狭間に位置する。また丹羽は先述の通り前田利長の大先輩である。
前田利長は前田丹羽の連絡役と、利のお付け役を秀吉丹羽長秀から任されたのかもしれない。

そして利長の側近達は急速に台頭し、利に仕え続ける古参武将と肩を並べるようになった。


秀吉包囲網

秀吉包囲網」の記事を参照のこと。

連動して北陸で起きた前田利家VS佐々成政の戦いにおいて、前田利長は古参の将兵に加えて元柴田軍の将兵も率いて戦ったとされる。但しその詳細は不明である。

当初前田軍は佐々軍の猛攻を受けて防戦一方で、その状況が半年に渡り続いた。
前田利家は要地防衛に奔走する一方、佐々軍を分散させる為に前田軍の別動隊を越中佐々成政の支配地)へ侵攻させる作戦も実行した。息子の利長もこうした作戦に参加して、劣勢からの挽回に貢献したのかもしれない。

また前田利家は開戦前佐々成政の不穏な動きを秀吉に報告したが、取り上げられないどころか利秀吉から咎められた。

やがて秀吉が大軍を率いて北陸に出し、佐々成政秀吉に降
秀吉佐々成政から取り上げた支配地(越中の大半)を前田利長に任せた。大抜である。

その後、秀吉はそれまで友好的な同盟関係だった越後の上杉景勝に圧力を掛けて従させた。
そして秀吉は東諸大名に対し、前田を介した連絡網を広げて東を及ぼしていく。

織田の勢力を統一した秀吉政権において、前田は重要な役割を与えられたのだった。


九州征伐>

秀吉が行った九州征伐に前田利長も参戦。
利長は彼と同じ織田信長婿である蒲生氏郷や、信長から期待された若手仲間細川忠興と組んで活躍した。三者とも信長から期待され、秀吉からも期待されて活躍を続けている武将だった。


小田原征伐>

関東北条を討伐するために秀吉が起こしたこの戦にも、前田利長は参戦。
前田利家北陸地方信濃の軍勢(以後北陸軍とする)の総大将となり、前田利長はと共に前田軍を率いて関東へ攻め込んだ。

北陸軍は上野武蔵の各地で損を顧みない強襲を繰り返し、北条方の多数の砦を短期間で制圧。兵糧不足に悩んだ豊臣軍の勝利に大きく貢献した。
北陸軍の総大将として大功を挙げた前田利家だったが、しかし八王子攻略の最中に突然秀吉から罷免され謹慎させられた。
そして秀吉は、利の後任に前田利長を任命した。

この件は秀吉下人の思惑が絡んだ疑いがある。
前田利家は開戦初期こそ強襲で北陸軍のを確保したものの、松井などに対しては最終的に交渉で開させていて、硬軟織り交ぜた手段で諸攻略していった。
そして八王子に対しては、上杉勢など諸軍と協力して力攻めを仕掛けたもののなかなか攻め落とせず、敵方と開交渉を始めた。八王子北条軍にとっても、防戦で時間稼ぎという最低限の的は果たせたので、開に前向きだったようだ。

しかし秀吉八王子北条氏照の首に拘っていた。北条氏照自身は小田原城に籠り八王子留守にしていたが、秀吉は彼の居である八王子豊臣軍が攻め落とすことで見せしめにするつもりだった可性がある。
また事実として、前田利家更迭された後に前田利長は八王子を強襲で攻め落とし、の守備軍は壊滅した。

秀吉から信頼されたのは、秀吉友だった前田利家ではなく、前田利長だった。
二人は子であり、秀吉寧々情を注いで育てたの血の繋がった家族である。しかし子に対する秀吉の扱いは違っていた。
そしておそらくこの頃まで秀吉下人)の意図をみその意図に沿った行動を取っていたのは、利長の方だった。

華やかな一族

豊臣政権による下一統の後も、前田利長は秀吉から厚遇され続けた。年の近い前田利政も同様だった。
一方、も、小田原征伐やその前後の時期の諸侯取次で実績を挙げて秀吉から信頼を得ると、以後は相談役として重用された。

元々前田秀吉寧々織田時代から深い繋がりがあり、前田子の功績も加えたことで、豊臣下で栄を誇る名門となった。
また前田利長は秀吉の「御はなし衆」(話し相手や各分野の専門)に友人細川忠興らと共に加わった。
大名は基本的に取次を通じて秀吉と交流したが、利長たちは直に秀吉に会ってしく交流できる立場であった。

<前田秀吉寧々との>

続柄
前田利家 豊臣秀吉友。
秀吉の相談役を務めて上方勤務が長く、唐入り(文慶長の役)でも九州名護屋まで秀吉に同行した。
豊臣政権では家康に次ぐ地位を秀吉から与えられた。
まつ 寧々秀吉正妻)の友。秀吉夫人たちの諍いを仲裁した話があり、社交界で活躍。
前田利長 本人 秀吉から厚遇され、父親とは別で有力大名となった。
唐入り中に京都に長期滞在した時期があり、豊臣政権の務の一部を担った可性がある。
後は父親の地位を継ぎ、宇喜多秀家達と組んで徳川家康に対抗した。
前田利政 秀吉に見込まれ、厚遇と官位を得た。
秀吉の夫人。側室ではなく正室扱いを受けた説がある。
秀吉寧々の養女。二歳で羽の養女に迎えられて、養から大変可がられた。夫と共に地位はとても高かった。
関ヶ原戦後寧々に仕える等、生涯豊臣を大切にした。
宇喜多秀家 婿 秀吉の猶子(名を継がない養子)、豊臣政権の五大老の夫。
関ヶ原の戦いにおいて、西軍結成の導者は石田三成ではなく宇喜多夫妻という説がある。
大局 叔父
の妻
前田利家良之の妻で、浅井三姉妹。または賤ヶ岳の戦いの後で姉妹に仕えた。
秀吉夫人のの方は柴田勝家の滅亡で実家を失ったが、寧々の後ろを得て秀吉夫人となり地位を得た。そこには前田からの働きかけがあったかもしれない。


秀吉前田宇喜多、徳などを羽」に加えた巨大な疑似グループを形成し、彼らに政権の重責を担わせることで安定を図った。
前田は順満帆だった。

しかし秀吉の晩年から彼の徳に対する一層の重用が進んだことで、後の諍いの種も育ち始めていた。
世代交代が進み、秀吉は次代の重鎮として有力大名の中から、徳川秀忠毛利秀元に格別の厚遇を与えた。
一方、前田利長と永は子宝に恵まれず、後継者問題が生じた。
とはいえ同前田利政が健在だったので、この時点では大きな問題ではなかったが――。

秀吉没後の政争

前田利長は家康と仲が良かったが、秀吉後の政争ではの方針を継いで家康に対抗した。

というより家康との対立に乗り気ではなかった節もあると違い、利長はやる気だったようで、両閥の対立は後述の加賀征伐を引き起こすことになった。
豊臣政権の子である宇喜多秀家が引き続き前田と協力したことから、前田宇喜多・徳も取り込んだ羽族の導権争いでもあったかもしれない。
前田宇喜多と縁が深い寧々の当時の動向も気になるところである。

※そもそも伏見家康・利らとは別の権力者である寧々前田利家大坂に呼び、彼女が使っていた仕事場を利に譲ったことが政権分裂の始まりである。

大坂の前田利長、宇喜多秀家は利存命時からの協力者である加藤清正細川忠興らの支持を維持して伏見家康と睨み合いを続けた。
かしここで利長が急遽加賀へ帰し、前田臣の粛清を行った。
その後の展開を考えれば闊な行動だが、前田利家の存在が重石となっていた中の統制が、利の死により混乱したのかもしれない。

一方、家康は前田利長不在の好機を逃さず、急ぎ兵を呼び寄せて軍事クーデターを決行。前田利長と彼の協力者たちを分断し、加藤細川らを家康営に取り込んで前田利長を孤立させた。
窮地に追い込まれた前田利長は家康との武力対決に踏み切ろうとして、豊臣氏と諸大名に協力をめた。しかし彼らからの協力は得られなかった。
前田利長は秀吉から高い評価を受けて人望もあったが、生ける伝説だった徳川家康の名には及ばなかった。

前田利長は家康に屈し、おまつ(芳院)を江戸に送り付けて、前田が徳に従うことを世間に示した。
前田利長が家康に屈した後、中央政界では大きな変化が生じた。

人物 立場 結果 備考
寧々 豊臣
秀吉に次ぐ権力者
大坂城から離れた
政界から一応引退
大蔵卿局を復帰させようとしたりと、その後も精力的に活動
浅野長政 寧々兄弟
豊臣政権の重鎮
失脚
領へ流刑
息子浅野幸長家康の急先鋒。
大蔵卿局 の方の
務に従事
息子共々失脚 息子大野治長は後に関ヶ原合戦で東軍に参加し、戦後家康のお気に入りとなり厚遇された。
土方雄久 前田利長の従兄弟
豊臣氏に仕えた
失脚 武勇の人で、大野治長と共に家康暗殺を計画したとされるが、冤罪説がある。
関ヶ原の戦いでは前田利長を説得して東軍を支持させた説がある。
関ヶ原戦後家康から厚遇を受けた。
宇喜多秀家 五大老
西の有力大名
家康に屈 その後に起きた宇喜多騒動(御家騒動)の調停を大谷吉継榊原康政家康の重臣)に依頼
後に家康からの信用を得て留守を任されたが…。
毛利輝元 五大老
西最大の大名
家康に同調 家康に次ぐ有力大名。前田利家石田三成に回って暗躍。
家康元を信頼して上杉征伐に向かったが…
上杉景勝 五大老
の有力大名
家康に同調 後に越後のトラブルを起こし、それが家康上杉征伐の原因となった。


※前田利長は家康と対立したのではなく、家康を支持しその態度表明として加賀へ帰したという説も近年出ている。
 実際に融和策を利長が選んだとすれば、その後の展開は家康の利長に対する裏切りであり、江戸時代に入ってからも続く利長と家の暗闘の原因はそれだったのかもしれない。

関ヶ原の戦い

前田利長は関ヶ原の戦いでは、家康が率いる東軍に味方した。
北陸において2万をえる軍勢を動員できる前田軍の規模は圧倒的で、しかも隣越後と飛騨は東軍方なので背後の守りも万全だった。
ところが前田利長は、西軍に味方した大名が多い越前国に攻め込むことで東軍を助けようとはしなかった。

前田軍は加賀南部大聖寺攻略、同地域を征した後、すぐに引き揚げた。
その帰路で加賀小松の大名丹羽長重の軍勢から奇襲を受けて敗北した。(浅井畷の戦い)

前田軍は金沢へ引き揚げた後は一月近く動きを見せず、家康からの催促を受けてからようやく出した。
そして前田力軍が向かった先は、またしても越前ではなく加賀丹羽領だった。
前田の大軍が小勢の丹羽軍と対峙している間に、美濃国では東西両軍の力が突、東軍が勝利して関ヶ原の戦いは終わった。

関ヶ原の本戦には関与しなかった前田利長だったが、北陸最大の大名が東軍に味方しただけでも勝利への大きな貢献であり、戦後の論功行賞で丹羽領も含む加賀中部南部を領有。
丹羽長重は元々家康の支持者だったが、前田利長への対抗から西軍に味方し、最後は改易される羽になった。
前田利長は浅井畷でかしい戦歴に大きな傷を付けられてしまったが。

ちなみに家康前田丹羽に停戦を働きかけてこれを実現したが、その際前田利長に送った書状の中には、「戦うなら美濃まで来て戦ってよ」という内容の一文があった。
前田利長は加賀で引き起こした局地戦に専念することで日和見をしたのではないか、と家康は疑ったのだ。
利長は格下の丹羽長重に負けたのが悔しすぎて本気で丹羽を潰そうとするも丹羽軍の奮戦で最後まで勝てなかっただけかもしれないが……。

ともあれ前田は徳川本に次ぐ日本第二位の大大名となった。
しかし豊臣政権で享受した特権を失い、義宇喜多秀家は破滅した。
前田は独力で、下人となった徳の圧力に抵抗しなければならなくなった。

徳川家との暗闘

徳川家康事実上の下人となり、江戸幕府の支配が始まると、前田利長は大人しく徳に従った。
前田利常と、徳川秀忠婚姻話も進めて実現し、前田の立場を強化した。

しかし徳前田と縁を結ぶ一方で、関ヶ原の戦いの後始末が終わった頃から前田へ圧力を掛け始めた。
1602年、徳前田への糾弾を開始。そして同時期に家康越前に送り込んだ息子松平秀康が、過剰な人の登用による性急な軍勢の強化を始めたのである。
松平秀康家康秀忠と仲が良く、江戸幕府と明らかに連動していた。
による前田討伐もあり得る危機に前田利長は立ち向かうこととなった。

前田利長は関ヶ原の敗者達を登用して前田軍の戦力と領地経営を強化。併合したばかりの加賀南部の支配を確実に進めた。
また前田と農部・都市部の相互連絡相談体制の確立、職工を招き前田領に移住させて技術を根付かせる殖産、らに焼き討ちされた寺社の復等を推進。
善政を敷き、支持者を増やして領支配を盤石なものとした。

前田利長は徳からの圧力を撥ねつけ、徳との交渉に臨んだ臣達は利長の意向を受けてり強く交渉した。
下を取った徳も、遂には引き下がった。

ちなみに平家の方は、松平秀康の死後に跡を継いだ息子松平忠直が寺社との関係修復に努めるなど領支配に努めたが、秀康が方々から雇用して遺した臣団の統制に大変苦労した。
越前平家臣間の抗争には江戸幕府も手を焼き、最終的に越前平家臣団を分割することで問題を解決した。
それは前田利長の死後の出来事ではあるが、利長は徳に一矢報いたのだった。
同じ問題を前田は既に抱えていたが……。


弟の失脚>

同時期、利長は前田利政の粛清も行った。
利政の領地は、土方雄久が手に入れた。土方豊臣政権末期の政争で失脚し、その後は家康に厚遇された人物である。
利長は土方と仲が良かったが、土方家康とも仲良くなっていた。

利政の失脚にどのような事情があったかは、未だにが多い。
利長は本当に徳に負けなかったのか、それとも徳に屈してを犠牲にしたのか…。

なお近年見つかった書状から、前田利長は徳からの圧力を利用して別の前田利常)への督と権力移譲を上手く進めた可性も摘されている。
利政粛清は、徳婿となった利常の政権を有力族として将来脅かしかねない利政を排除した事件だったのかもしれない。


<晩年>

その後の前田利長は、友人であり前田の客将だった高山右近らを引き連れて越中高岡に隠居し、現地の開発金沢に残した利常の後見を行った。

高岡は利長一代の治世で大いに発展した。
前田利長は現代まで高岡の名君として敬意と賞賛を受け続けている。

晩年の前田利長は重病を患い苦しんだ。
利長が衰えると、江戸幕府は前田利長に謀反の疑いありと因縁を付けて圧力を掛け、領地の割譲を要した。

前田利長は幕府の脅しに屈しなかった。
加賀百万石は損なわれなかった。
1614年、前田利長病

加賀前田は繁栄を続けて、幕末の動乱も乗り越えて族となった。

負の遺産

と共に加賀百万石を築き、善政を敷いて繁栄の礎を築いた前田利長は、同時に災いの種も遺した。


家臣間の諍い>
一つは統制に苦労する巨大な臣団と、臣同士の対立である。
この争いは前田利長が直面した数々の危機に際して前田を脅かした疑いがある。しかも利長の死後は前田利常を悩ませた。
臣の統制は幕末に至るまで歴代当を苦しませることになった。

原因は前田利長がとは別で有力大名となり独自の臣団を形成し、後に臣団と統合したことにある。
この問題を前田子は認識していて、利前田一門を越中派遣して利長を補佐させたり遺言を残し、利長は粛清を行ったのだが…。
その後も前田は利長の取りで増々大きくなり、領地の拡大と徳から圧力を受ける度に利長は更に外部から人員を雇用して重用したため、臣間の対立は一層深刻になった。
終いには諍いの中で利長の股肱の臣だった横山長知が失脚。当時既に高山右近らは前田を離れていた。

利長は最晩年には権力を失い高山横山たちをうことができなかったとみられる。
加賀百万石の偉大な殿様の最晩年は、寂しいものだったのかもしれない。


<家族のすれ違い>

前田利長は数々の危機を乗り越えた勝利者だが、選択の度に家族とのすれ違いが生じた。

との諍い
 春院母)は関ヶ合戦、宇喜多秀家の助命に尽力した。
 彼は加賀前の江戸における窓口の役割を担った、と江戸幕府は認識して対応した。ところが……。

 後に徳川秀忠から前田利長宛てに送られた書状に拠ると、幕府は利長の隠城の件で春院に回答済だった。しかしその後この件に関して利長から幕府に対し何も返事がなく、調べてみたら城を始めてもいないので、急いで利長宛てに書状を認めた。
 春院を介さない直通回線で利長に問い合わせた、というわけだ。
 内容が事実なら、江戸の春院から加賀の利長に隠城許可の件が伝えられていなかった疑いがある。

 なおこの件について利長は大人の対応をした。
 その後利長が城に際し高岡で地鎮祭を行わせ、そのことを春院に報告すると、春院は陰陽を高岡に寄越して地鎮祭のやり直しを求してきた。
 利長はやって来た陰陽師を邪険にせず厚遇し、話し相手にして重用した母からの意地悪を上手く躱し母の手先を派に取り込んだのである。
 息子のそういう如才無いところが、春院は気に食わなかったのかもしれない。

とのすれ違い
 妹)は関ヶ合戦、高台院に仕えながら、夫不在の宇喜家を守った。
 宇喜多秀家が流刑に処された後に、金沢へ行き前家を動かして夫への援助を始めさせた。
 幼児の時に秀・寧々夫妻の養女になっ姫にとって、金沢は故郷ではなかった。夫を援助させることだけ目的だったかもしれない。

の動向
 前田利政弟)は利長に粛清された後は隠棲した。
 後に大坂ので豊臣から参戦を打診されたが断った。豊臣から見た彼は、参戦の見込みがある人物だったのだろう。

一方、前田利常)は側室の子でしかも利に認知された時期が遅く、生と芳院の諍いもあり微妙な立場だった。
だが利長のお立てで徳婿になり加賀百万石を継いだ(継がされた)
豊臣が亡びた後も金沢で人望があった芳院とに利常は大変気を遣った。後に奢な屋敷を建てて二人への贈り物にした。
また利政の息子を重臣に取り立てたり、横山長知を帰参させた。

利常は利長が引き起こした諸問題の解決に取り組み、生涯苦労したのだった。


<圧政>

これは前田利長の死後の出来事で利長に直接関係ない事ではあるが、利長によって加賀前田三代目に据えられた前田利常は、彼の晩年に高岡周辺の農部に対し圧政を開始した。
利常あるいは重臣たちがそうした理由は不明である。

圧政は利常の死後も続き、更に前田は圧政の適用範囲を拡大していった。
加賀と重臣たちの領地の繁栄とは対照的に、越中能登のそれ以外の農部は苛政に耐えかねた農民の一と、それに対する前田の容赦ない鎮圧、一導者に対する見せしめの酷刑が断続的に繰り返される修羅の国と化してしまった。

前田利長は高岡と周辺の開発高山右近を重用したが、その事と関係があるのだろうか?

なお高岡の町は前田利長の後、彼の臣団とその家族従者合わせて数千人が加賀に呼び戻されてしまったため、一時期寂れた。数千人分の需要を喪失した結果だった。
その後は参勤交代の中継地として町は繁栄を取り戻した。
前田利長の存在感を示す出来事である。

その他

  • 島津と組んで宇喜多秀家の助命運動を行い、徳に認めさせた。
  • 落した武将を客将として召し抱えたり、高山右近を徳からの追放要も撥ねつけて匿い続けるなど、父親に似て分肌な人物だった。
  • 上杉臣の浪人本多政重(本多正信の子)を五万石という破格の待遇で雇用し、人員過多の上杉から本多を頼ってきた人々も受け入れた。
  • 前田利長と因縁のある丹羽長重佐久間安政と佐久間勝之(賤ヶ岳の戦いで刑死した佐久間盛政たち)は江戸幕府将軍徳川秀忠に重用されて側近を務めた。
    江戸幕府が利長最晩年の前田に強硬な姿勢で臨んだ裏には、彼らの進言があったのかもしれない。
  • 妻は生涯で一人とされるが、高岡では現地妻がいた話が伝わっている。
    また前田のお膝元金沢にも愛人がいた伝承がある。前田利長は1602年に臣の太田長知を粛清したが、原因は太田が美男で、愛人の気持ちが太田に向くことを利長が恐れたからだという。

    ちなみに父親の利長身の美丈夫。の利常も父親似の美丈夫。利長も体格優れたイケメンだったかもしれない。
    地方出身の女性を巡りイケメン達が火を散らす、近年の大河向きのお話である。
  • 前田に元柴田臣の種三朗四朗という人物がいた。
    横山(前田利長の心)との間にトラブルが生じて前田を離れたが、その後も利長は種と交流を続けた。前田利長から種に宛てた手紙が現存している。

    前田利長は手紙で種に相談を持ち掛けたこともあった。
    中のゴタゴタもあって、身近で相談できる人が少なかったのかもしれない……。
  • 手紙の署名に「はひ(羽肥前守)」を使った。
    これは前田利長が秀吉に引き立てられて越中の大大名になった年に、同じく秀吉旋で朝廷から肥前守の官職を授けられたためである。
    利長はその後も秀吉に厚遇されて位も対応する官職もどんどん引き上げてもらったが、羽肥前守を使い続けた。
    最初に貰った官職には特別な思い入れがあったのだろう。

    関ヶ原の合戦後、徳下人となると、人々は次第に「羽」を使わなくなった。それでも利長は「はひ」を使い続けた。
    との諍いが一旦終息した後の事、家康秀忠はそれぞれ利長宛ての手紙で宛名に「越中中納言」を用いた。
    家康文字に拘る人物で、利長の越中での隠居、越中高岡での築前田越中領有に文句は言いませんよ、という意味を込めたのかもしれない。

    だが利長は「はひ」を使い続けた。

    高岡は泰徴ではなく戦闘用の縄張りで築されたことが判明している。
  • 前田利長が亡くなると、その報せを聞いた上方の人々は大騒ぎした。
    多門院日記には、「これで東西(徳豊臣)は手切れになるだろう」という噂と、民衆が戦禍を避けるために地方への疎開まで始めたことが記されている。

    豊臣氏を滅ぼすきっかけとなったとされる方広寺鐘銘事件は、利長の死から一ヶ後の出来事だった。

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