田原成貴とは、島根県鹿足郡柿木村出身の日本の元騎手・元調教師である。
武豊が「アイドルだった」と称し、福永洋一から天才の名を引き継いだ存在だった。
田原成貴 たばら せいき |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
性別 | 男性 |
出身地 | 島根県鹿足郡柿木村 (現・吉賀町) |
生年月日 | 1959年1月15日(64歳) |
身長 | 169cm |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 | 栗東・谷八郎 (1978-1989) →栗東・フリー (1989-1998) |
初免許年 | 1978年 |
免許区分 | 平地 |
引退日 | 1998年2月28日 |
重賞勝利 | 65勝 |
GI級勝利 | 15勝 |
通算成績 | 8,649戦1,112勝 |
表彰・記録 | |
調教師情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 | 栗東T.C.(1998-2001) |
初免許年 | 1998年 |
引退日 | 2001年12月21日(剥奪) |
重賞勝利 | 1勝 |
通算成績 | 284戦35勝 |
騎手・調教師テンプレート |
競馬とは無縁の家庭に育ったが、1973年の日本ダービーにおいてアイドルホースだったハイセイコーを撃破したタケホープと嶋田功騎手に感銘を受け、中学校卒業後に馬事公苑騎手養成所に入る。
1978年3月4日、所属した谷八郎厩舎のテンシンニシキに騎乗してデビュー。これを勝利し初騎乗初勝利を挙げた。同じ年の10月にタマツバキ記念(現在は廃止となったアラブ競走)で重賞初勝利を挙げた。
デビュー2年目の翌1979年、早くも63勝で関西リーディングジョッキーとなり、全国リーディングジョッキーとなった郷原洋行騎手と1勝差の全国2位に入る活躍を収める。この年に落馬事故で引退した福永洋一の次に担う存在と期待され、次代の天才と目される。1982年にはダイゼンキングで阪神3歳ステークスを勝利し、現在のGI級競走初勝利を挙げた。1983年には「八大競走」の枠組みとしては最後の有馬記念をリードホーユーで勝利している。
1984年はダイアナソロンで桜花賞を制す。ちなみにこれがグレード制導入後GIとなった最初の競走なので田原はGI制覇した初の騎手である。続いてハッピープログレスで安田記念を制したが、2度の落馬で肩を痛めてしまった。1986年も夏に騎乗馬の故障から落馬、避けきれなかった後続馬に激突された影響もあって左腎臓と脾臓の損傷という大怪我を負った。その後秋に復帰してしばらくの間は1日1回の騎乗制限をかけていたが、1987年から通常の騎乗回数に戻し、マックスビューティで牝馬2冠を制するなど活躍した。
しかし1990年のペガサスステークス(現・アーリントンカップ)において前年の阪神3歳ステークスを制したお手馬のコガネタイフウに騎乗した際、他馬との接触から落馬し骨盤・腰椎骨折の怪我を負った。これにより引退まで騎乗制限をかけるようになった。
その中でも、1993年にはトウカイテイオーで有馬記念を優勝。トウカイテイオーは約1年ぶり363日振りのレースであり、騎乗していた田原はレース後のインタビューで感極まって涙を流した。
その後1995年のワンダーパヒューム・マヤノトップガン、1996年のファイトガリバー・フラワーパークという優駿4頭と立て続けに巡り合い、3年間でGI8勝を挙げた後、1998年2月に騎手を引退した。
騎手時代の通算成績は1112勝、重賞65勝・GI級競走15勝だった。1000勝以上を挙げて30代で引退したのは彼が初めてであった。
ちなみに騎手として現役の頃、当日の騎乗を全て終えていた時に特別ゲストとして、実況アナの隣の席でG1の解説をしていたことがあったりする他、漫画原作(あの本宮ひろ志と交流があり共作もしている)などの著述家としての活動や、歌手としてライブを開いたこともある。特に漫画原作者としては「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」に代表されるベストセラーも複数出て、原作担当の作品がドラマ化までされている。
1982年に行われたスプリングステークスにて、田原はサルノキングに騎乗していた。
このサルノキングは同レースに参加していた「黄金の馬」ことハギノカムイオーと馬主が同じであり、田原はサルノキングで断トツ最後方からの追い込み戦法を取り、4着に敗れた。カムイオーはいつも通りの逃げで1着であった。
この馬主が共通しているという点から、馬主からの指示で田原が八百長をしたのではないかという疑惑が流れたのだが、田原は当然否定。
ちなみに実際は、サルノキングは関西のレースでは追い込み、関東のレースでは掛かったため先行策に移行した。田原と中村調教師は、このままではクラシックでは戦えないと思い、このスプリングステークスで本来の戦法である追い込みに戻したとのことである。タイミングが悪かった、当時は東西のレースを同時に見ることは困難だった、そもそも田原は派手好きで、追い込み一気のほうが盛り上がるから等の要因が重なり、八百長と言われてしまっただけのようである。
そもそも田原は後述のように、「八百長しろ」なんて言われたら絶対逆をやるような反骨心の塊であり、それは競馬界では有名だったようである。
サンエイサンキューという牝馬がいた。旧3歳(現2歳)の1991年の夏にデビューし、馬主の資金難もありほぼ月1の過酷なローテで走り続け、3歳馬として初の札幌記念制覇を成し遂げたりもしたが結局1992年の有馬記念で故障発生、予後不良。馬主のエゴで予後不良になり、さらに馬主のエゴにより6度による手術で延命処置をされたがかなわず死亡している。
有馬記念で予後不良になった原因は使い詰めで負傷していたにも関わらずそのまま使ったことである、というのは火を見るよりも明らかなものである。この使い方については厩舎関係者が馬主サイドに不満を持ち、特に田原は厩舎で渦巻く批判を表立って口にするほどであった。そして、元々歯に衣着せぬ物言いだった田原は、サンケイスポーツとの間でトラブルを起こした。
要点だけ言うと、エリザベス女王杯前にサンエイサンキューの不調をテレビ局の取材に話した田原がオフレコで「こんな悪く言って勝ったら頭を丸めなきゃいけないな」と発言。サンスポ記者は田原から取材を断られるも、その発言を又聞きして「田原、2着以上なら丸坊主」と見出しで報道。この見出しだけだとまるでわざと負けるように見える田原が「八百長に見えるから勘弁してくれ」と釈明。それをサンスポは「田原謝罪」と報道した。
これに怒った田原はサンスポの取材を拒否、「又聞きで書かれて事実を歪められたらどうしようもない」と日刊スポーツに掲載したためサンスポ側が抗議、となった。
この事件の顛末として同じサンスポの記者が自社批判を行った結果解雇となり、当の記事を書いた記者はおとがめなし、親会社であるフジサンケイグループの体質批判記事が組まれるなどに発展した。田原自身も「ありゃ馬こりゃ馬」でこの一件を当事者の視点から描いている。
引退を目前にし、田原は調教師試験に合格。その時の記者会見は拒否したのだが、スポーツニッポンがその顛末を報道、田原は激怒し執筆した記者を検量室に呼び出し、鞭で殴った。その後記者に「勝手に検量室に来られたら困るよな」と言ったとされるが本人はその後の調査では否定している。田原はその記者と和解はしたものの謝罪はしなかったため、栗東トレセンでの田原の評判は地に落ちたと言われている。
当時は1000勝以上の勝ち鞍を挙げた騎手は調教師試験の一次試験が免除されるという特典があったため、これを行使した田原は1998年に二次試験から調教師試験を受け合格。同年から調教師に転身し、1年の技術研修のあと1999年に開業した。フサイチの冠名の関口房郎など複数の馬主の有力馬を預かり、2000年にフサイチゼノンの弥生賞で調教師として重賞初勝利を挙げたが、その後に馬主の同意なく同馬の皐月賞出走を回避させるなどの独断専行もあったため、馬主と関係が悪化し他厩舎へ転厩するなどの事態を招いたこともあった。
2001年にはJRAに無許可で小型の発信機を管理馬に取り付け調教したことが発覚し、50万円の過怠金を支払っている。
同じ年の10月8日、羽田空港で銃刀法違反により現行犯逮捕された。おりしも9月11日のアメリカ同時多発テロの影響により空港が厳戒態勢だった中で刃物を機内に持ち込もうとしたためである。その後警察署内での身体検査で覚醒剤の所持も発覚し、覚醒剤取締法違反で再逮捕された。
これにより調教師免許の剥奪について審議され、弁明の機会が設けられたが、田原は弁明を行わなかったため処分が決定。免許剥奪の上、15年間のJRA競馬関与禁止処分となった。
なお、1000勝による一次試験の免除は現在はなくなっている。廃止が2003年だったためこの一件が元と思われがちだが、JRAが制度の廃止を発表したのは2001年7月、田原が逮捕されたのが10月であるため、関連は無かったりする。
無くなった要因は、制度発足時に比べてレース数が増加して1000勝に達成しやすい状況が増えたことや、騎手に求められる知識・技量と調教師に求められる知識・技量が異なるという免除による問題点の指摘があったためなどと言われている。
2009年に大麻取締法違反の容疑で逮捕。起訴され、執行猶予付きの有罪判決が下される。このことによりJRAの競馬関与禁止処分が無期限に延長され、事実上の永久追放と相成った。
さらに2010年9月に傷害容疑で逮捕。再びの覚醒剤使用も判明し再逮捕となり、裁判の結果実刑判決となった。2009年判決の分も含めて服役することになり、2013年に刑期を終えた。
こうしたこともあってか、TVや雑誌などで過去の競馬を振り返る際、レース映像や写真で田原の姿が映ることはあっても、インタビュー・表彰式の映像や口取り写真等は使われなかったり、トリミングで田原の姿が映らないようにするなどの対応が行われている。この頃から競馬民の間では「名前を言ってはいけないあの人」ネタが流行りだし、「TBR」とか「タヴァラ」などの隠語で表記するようになっていった。
釈放後は音楽関係で活動をしていることが確認されていた。騎手時代から漫画の原作や音楽活動をしていたのだが、釈放後に「海保ロックンロールバンド」というバンドに関わる。更に2018年には別の音楽関連に関わっている姿が確認されている(happyjack (Instagram))。その後田原本人が後述のインタビューで語ったところによると、事業再生に関係する会社で10年間勤務していたそうだ。
2020年12月、田原は突如として東京スポーツ紙の動画取材企画「田原成貴 自らを語る」に出演し、久しぶりに表舞台に姿を現した。言語センスは相変わらずであり、近況や現役時代の振り返りの中で、マヤノトップガンでナリタブライアンに敗れた阪神大賞典について「ひと呼吸待てば勝っていた。(中略)覚醒剤より後悔している」とブラックジョークを飛ばした。
翌2021年以降、主にGI開催週の土曜日の東スポ紙面にスポット登場し、予想・評論を寄稿するようになった。2022年からは東スポのYouTubeチャンネルにおいて、展開も含めて予想した動画を公開するようにもなった(【緊急企画・第三弾】田原成貴、宝塚記念直前予想)。
2022年9月1日付で、勤務していた会社を円満退職し、東スポに正式入社したことを発表。以降はYouTubeや紙面上で、元騎手目線ならではの的確な展開予想を掲載。馬や騎手に対する熱い想いを語った怪文書が好評を博している。
田原は理論家であり、例えば武豊や岡部幸雄と言った名手を指して「この点が優れている」と説明していた。ただ一人、福永洋一だけは「説明できない何かがあった」としている。
ただ、田原本人の騎乗スタイルは感覚派であったとされ、馬の性質を細やかに察知し乗りこなすのが得意だった。マヤノトップガンの変元自在の勝利は田原だからこそ掴めたものとも一部で言われる。
トウカイテイオー奇跡の復活の時は号泣して取材に臨んだり、フラワーパークの1cm勝利など、華のある、絵になる騎手だった。半面目立ちたがり屋でもあり、その結果がデットーリの真似の投げキッスだったりするわけである。
先述のように反骨精神あふれる一方、弟分の騎手達にとっては良き先輩として振舞っていた。藤田伸二がシルクジャスティスに騎乗した有馬記念ではNHK中継の解説に出演してつい「伸二、伸二がんばれ、何とか差せ!よし」と身内応援をしてしまっている。他にもデビュー間もないころの福永祐一には、当人からの依頼を受けて騎乗技術のマンツーマン指導を行っている。
覚醒剤に手を出した理由について田原本人は「騎手時代は問題が起きても真摯に馬に乗っていれば良かったが、生き方がヘタで白黒はっきりつけないと気が済まない性格の俺は調教師になってからはそれができなかった。理想と現実がかい離していき、その虚無感を埋めるために越えてはいけない線を越えてしまった」と振り返っている。
東スポ掲載の競馬予想では、レース展開や道中のペースの予想に関しては中々の精度を誇る一方、勝ち馬の予想については微妙に外すことが多い。これに関しては「全盛期の田原本人ならこう騎乗する」という、ある意味とんでもない理想論を基に予想しているのではないか? とネタにされている。馬券についても3連単を主に購入するため、結果として赤字になることが多い。競馬ファンの間では「買い目は自分で決めることを前提にして、展開予想は大いに参考にせよ」という評価で概ね固まっている。
特にG1級の大レース展開予想記事では、控えめに評しても怪文書としか言えない強烈な内容の、しかし読ませる文章を披露している。また、レース結果の振り返り生配信ではウマ耳の被り物をして、注目していた馬を自分に憑依させてレースを振り返る奇行イタコ芸を披露している。視聴者からはおおむね好評である。
なお、田原のJRA関与禁止処分は当然ながら解除されていない。このため田原には東スポから専属の取材チームが割り当てられており、彼らが田原の指示を受けてトレセン等の取材を行っている。2024年5月にはトウカイテイオー繋がりの安田隆行・元調教師との対談動画が公開されたが、これは安田師が同年3月に調教師を引退したことで実現した企画である。
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最終更新:2024/12/05(木) 21:00
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