田原成貴 単語

87件

タバラセイキ

6.9千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

田原成貴とは、島根県鹿木村出身の日本の元騎手・元調教師である。

武豊が「アイドルだった」と称し、福永洋一から天才の名を引き継いだ存在だった。

騎手時代

田原成貴
たばら せいき
基本情報
日本JPN
性別 男性
出身地 島根県鹿木村
(現・吉賀町)
生年 1959年1月15日(64歳)
身長 169cm
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 栗東八郎
(1978-1989)
栗東フリー
(1989-1998)
免許 1978年
免許区分
引退 1998年2月28日
重賞勝利 65勝
GI勝利 15勝
通算成績 8,649戦1,112
記録
関西放送記者クラブ
(1978)
中央競馬リーディン
最多勝利騎手(1983-1984)
調教師情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 栗東T.C.(1998-2001)
免許 1998年
引退 2001年12月21日(剥奪)
重賞勝利 1勝
通算成績 284戦35勝
騎手・調教師テンプレート

競馬とは縁の庭に育ったが、1973年日本ダービーにおいてアイドルホースだったハイセイコーを撃破したタケホープ嶋田功騎手に感銘を受け、中学校卒業後に騎手養成所に入る。

1978年3月4日、所属した八郎厩舎のテンシンニシキに騎乗してデビュー。これを勝利し初騎乗初勝利を挙げた。同じ年の10月タマツバキ記念(現在止となったアラブ競走)で重賞勝利を挙げた。

デビュー2年の翌1979年くも63勝で関西リーディンジョッキーとなり、全リーディンジョッキーとなった郷原洋行騎手と1勝差の全2位に入る活躍を収める。この年に落事故引退した福永洋一の次に担う存在と期待され、次代の天才される。1982年にはダイゼンキング阪神3歳ステークス勝利し、現在GI級競走初勝利を挙げた。1983年には「八大競走」の組みとしては最後の有馬記念リードホーユー勝利している。

1984年ダイアナソロン桜花賞を制す。ちなみにこれがグレード制導入後GIとなった最初の競走なので田原GI制覇した初の騎手である。続いてハッピープログレス安田記念を制したが、2度の落で肩を痛めてしまった。1986年に騎乗の故障から落、避けきれなかった後続突されたもあって左腎臓と脾臓の損傷という大怪を負った。その後に復帰してしばらくの間は1日1回の騎乗制限をかけていたが、1987年から通常の騎乗回数に戻し、マックスビューティ2冠を制するなど活躍した。

しかし1990年ペガサスステークス(現・アーリントンカップ)において前年の阪神3歳ステークスを制したお手コガネタイフウに騎乗した際、他との接触から落盤・骨折の怪を負った。これにより引退まで騎乗制限をかけるようになった。

その中でも、1993年にはトウカイテイオー有馬記念優勝トウカイテイオーは約1年ぶり363日振りのレースであり、騎乗していた田原レース後のインタビューで感極まってを流した。

その後1995年ワンダーパヒュームマヤノトップガン1996年ファイトガリバーフラワーパークという優駿4頭と立て続けに巡り合い、3年間でGI8勝を挙げた後、1998年2月騎手引退した。

騎手時代の通算成績は1112勝、重賞65勝・GI級競走15勝だった。1000勝以上を挙げて30代で引退したのは彼が初めてであった。

ちなみに騎手として現役の頃、当日の騎乗を全て終えていた時に特別ゲストとして、実況アナの隣の席でG1解説をしていたことがあったりする他、漫画原作(あの本宮ひろ志と交流があり共作もしている)などの著述としての活動や、歌手としてライブを開いたこともある。特に漫画原作者としては「競馬狂走伝ありゃこりゃ」に代表されるベストセラーも複数出て、原作担当の作品がドラマ化までされている。

田原伝説その1・サルノキング事件

1982年に行われたスプリングステークスにて、田原サルキングに騎乗していた。

このサルキングは同レースに参加していた「黄金」ことハギノカムイオー馬主が同じであり、田原サルキング断トツ最後方からの追い込み戦法を取り、4着に敗れた。カムイオーはいつも通りの逃げで1着であった。

この馬主が共通しているという点から、馬主からの示で田原八百長をしたのではないかという疑惑が流れたのだが、田原は当然否定。
ちなみに実際は、サルキング関西レースでは追い込み関東レースでは掛かったため先行策に移行した。田原中村調教師は、このままではクラシックでは戦えないと思い、このスプリングステークスで本来の戦法である追い込みに戻したとのことである。タイミングが悪かった、当時は東西のレースを同時に見ることは困難だった、そもそも田原手好きで、追い込み一気のほうが盛り上がるから等の要因が重なり、八百長と言われてしまっただけのようである。
そもそも田原は後述のように八百長なんて言われたら絶対逆をやるような反心の塊であり、それは競馬界では有名だったようである。

田原伝説その2・サンエイサンキュー事件

サンエイサンキューというがいた。旧3歳(現2歳)の1991年デビューし、馬主の資難もありほぼ1の過酷なローテで走り続け、3歳として初の札幌記念制覇を成し遂げたりもしたが結局1992年有馬記念で故障発生、予後不良馬主のエゴで予後不良になり、さらに馬主のエゴにより6度による手術で延命処置をされたがかなわず死亡している。

有馬記念予後不良になった原因は使い詰めで負傷していたにも関わらずそのまま使ったことである、というのは火を見るよりも明らかなものである。この使い方については厩舎関係者が馬主サイドに不満を持ち、特に田原は厩舎で渦巻く批判を表立って口にするほどであった。そして、元々に衣着せぬ物言いだった田原は、サンケイスポーツとの間でトラブルを起こした。

要点だけ言うと、エリザベス女王杯前にサンエイサンキューの不調をテレビ局の取材に話した田原オフレコで「こんな悪く言って勝ったら頭を丸めなきゃいけないな」と発言。サンスポ記者田原から取材を断られるも、その発言を又聞きして「田原、2着以上なら丸坊主」と見出しで報道。この見出しだけだとまるでわざと負けるように見える田原が「八百長に見えるから勘弁してくれ」と釈明。それをサンスポは「田原謝罪」と報道した。

これに怒った田原サンスポの取材を拒否、「又聞きで書かれて事実められたらどうしようもない」と日刊スポーツに掲載したためサンスポ側が抗議、となった。

この事件の末として同じサンスポ記者が自社批判を行った結果解雇となり、当の記事を書いた記者はおとがめなし、会社であるフジサンケイグループの体質批判記事が組まれるなどに発展した。田原自身も「ありゃこりゃ」でこの一件を当事者の視点から描いている。

田原伝説その3・スポーツニッポン記者殴打事件

引退前にし、田原調教師試験に合格。その時の記者会見は拒否したのだが、スポーツニッポンがその末を報道田原激怒し執筆した記者を検量室に呼び出し、で殴った。その後記者に「勝手に検量室に来られたら困るよな」と言ったとされるが本人はその後の調では否定している。田原はその記者和解はしたものの謝罪はしなかったため、栗東トレセンでの田原の評判は地に落ちたと言われている。

調教師時代

当時は1000勝以上の勝ちを挙げた騎手調教師試験の一次試験が免除されるという特典があったため、これを行使した田原1998年二次試験から調教師試験を受け合格。同年から調教師に転身し、1年の技術研修のあと1999年に開業した。フサイチの冠名関口房郎など複数の馬主の有を預かり、2000年にフサイゼノン弥生賞調教師として重賞勝利を挙げたが、その後に馬主の同意なく同皐月賞出走を回避させるなどの独断専行もあったため、馬主と関係が悪化し他厩舎へ転厩するなどの事態を招いたこともあった。

2001年にはJRA許可で小の発信機を管理に取り付け調教したことが発覚し、50万円の過怠を支払っている。

同じ年の10月8日羽田空港銃刀法違反により現行犯逮捕された。おりしも9月11日アメリカ同時多発テロにより空港が厳態勢だった中で物を機内に持ち込もうとしたためである。その後警察署内での身体検覚醒剤の所持も発覚し、覚醒剤取締法違反で再逮捕された。

これにより調教師免許の剥奪について審議され、弁明の機会が設けられたが、田原弁明を行わなかったため免許剥奪・15年間のJRA競馬関与禁止処分となった。

なお、1000勝による一次試験の免除は現在はなくなっている。止が2003年だったためこの一件が元と思われがちだが、JRAが制度の止を発表したのは2001年7月田原逮捕されたのが10月であるため、関連はかったりする。
くなった要因は、制度発足時にべてレース数が増加して1000勝に達成しやすい状況が増えたことや、騎手められる知識・技量と調教師められる知識・技量が異なるという免除による問題点の摘があったためなどと言われている。

その後

2009年大麻取締法違反の容疑で逮捕され起訴、執行猶予付きの有罪判決となった。このことによりJRA競馬関与禁止処分を期限に延長した。
2010年9月に傷容疑で逮捕、その後再びの覚醒剤の使用も判明し再逮捕となり、裁判の結果実刑判決となった。2009年執行猶予の分も含めて役することになったが、2013年に刑期を終えた。

釈放後は音楽関係で活動をしている。騎手時代から漫画原作音楽活動をしていたのだが、刑期を終えたあとは「海保ロックンロールバンド」というバンドに関わり音楽活動をしていた。現在海保ロックンロールバンドには関わっていないようだが、2018年には別の音楽関連に関わっている姿が確認されている(happyjack (Instagram)exit)。

こうしたこともあってか、TVや雑誌など過去競馬を振り返る際、レース映像写真田原の姿が映ることはあっても、インタビュー・表式の映像や口取り写真等は使われない(もしくは使われてもトリミングされて姿が映らないようにする)などの対応が見受けられる。

舞台に出てこない状況が長く続いたが、2020年12月、突如として東京スポーツの取材に応え、久しぶりに表舞台に姿を現した。現在競馬界を離れ、事業再生に関連した仕事に就いているとのことである。このとき現役時代についてもり、マヤノトップガンナリタブライアンに敗れた阪神大賞典について「ひと呼吸待てば勝っていた。(中略)覚醒剤より後悔している」と述べている。翌2021年以降からはGI開催週の土曜日面に登場し予想・評論を寄稿している。

2022年から東スポのYouTubeチャンネルexitで、展開も含めて予想した動画開するケースがあったりする。【緊急企画・第三弾】田原成貴、宝塚記念直前予想exitレース展開や中のペースは実際に予想通りになることが多く、競馬ファンからも「馬券や勝予想は参考にならない(外れるか、当たっても赤字になることが多いため)が、レース展開予想は参考になるから是非見ておけ」と評判がいい。

2022年、出所後10年勤務していた会社を円満退職し、9月1日付けで東スポに入社したことを発表。YouTube面上での元騎手線ならではの的確な展開予想と騎手に対する熱い想いをった文書が好評を博している。

人物

田原理論であり、武豊岡部はこの点が優れていると説明していた。ただ一人福永洋一だけは説明できない何かがあったとしている。

なお本人の騎乗スタイルは感覚であったとされ、の性質を細やかに察知し乗りこなすのが得意だった。

トウカイテイオー奇跡復活の時は号泣して取材に臨んだり、マヤノトップガン自在の勝利フラワーパークの1cm勝利など、のある、絵になる騎手だったが立ちたがり屋でもあり、その結果がデットーリ真似投げキッスだったりするわけである。

分の藤田伸二シルクジャスティスに騎乗していた有馬記念解説でつい「伸二、伸二がんばれ、何とか差せ!よし」と身内応援をしてしまったり(しかもNHKで)。

東スポ入社後、生配信を自分に憑依させてレースを振り返るというイタコ芸を習得しており、視聴者からはおおむね好評である。

主な騎乗馬

勝ちは本人騎乗時のみ。太字は記事のある

主な管理馬

勝ち田原厩舎所属時のみ。太字は記事のある

関連動画

関連コミュニティ

関連リンク

関連項目

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 17:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 17:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP