シンボリルドルフ(Symboli Rudolf)は日本の元競走馬・元種牡馬。日本競馬史上4頭目のクラシック三冠馬であり、また初めて無敗でクラシック三冠を達成した。「皇帝」、または「七冠馬」と称される。1987年顕彰馬に選出された。
父であるパーソロンは1971・1976年にリーディングサイアーを獲得し、父子3代天皇賞制覇の偉業を成し遂げたメジロマックイーンの父である天皇賞馬メジロアサマ・牡馬クラシック2冠馬サクラスターオーの父である日本ダービー馬サクラショウリ等、数々の名馬を輩出した名種牡馬である。
母の父スピードシンボリは有馬記念2連覇・天皇賞(春)・宝塚記念を制し、海外遠征も積極的に行い、近代競馬の礎を築いた1頭でもある。また、1990年には顕彰馬にも選出されている。
馬主はシンボリ軍団総帥の和田共弘氏、調教師はデビュー前からシンボリルドルフの素質を見抜き、シンボリルドルフの母父であるスピードシンボリの主戦騎手でもあった「ミスター競馬」こと野平祐二調教師。そして主戦騎手は「名手」岡部幸雄騎手という豪華な布陣で、シンボリルドルフは新潟の芝1000m新馬戦にてデビューした。
この1000mで岡部幸雄騎手は1600mの競馬を覚えさせ、次走の芝1600mいちょう特別では2400mの競馬をし、シンボリルドルフに将来戦うことになる牡馬クラシック戦線を見据えた教育を施している。
3走目は当時の3歳GIである朝日杯3歳ステークスではなく11月27日のオープン競走が使われている。これは馬主の和田共弘氏の「ジャパンカップに来場した海外の競馬関係者にシンボリルドルフという素晴らしいサラブレッドを見せたい」という意向に基づいてのことである。
4歳緒戦は弥生賞(GⅢ)から始動。前走共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)を含む4戦4勝のビゼンニシキに1番人気を譲ってしまったが、結果は1馬身3/4差での勝利。続く皐月賞もビゼンニシキとの一騎打ちとなり、ぶつかり合い斜行してしまったが、1馬身1/4離して皐月賞制覇。そして表彰式で岡部幸雄騎手が行ったのが、後の武豊騎手とディープインパクトへと繋がる1冠目を示す1本指を掲げるパフォーマンスである。
シンボリルドルフと激戦を繰り広げたビゼンニシキはマイラー血統であり、更には日本ダービーまでの過酷なローテーションから、シンボリルドルフは単勝1.3倍の圧倒的な支持を受けていた。
岡部幸雄騎手はこれまで好位差しの競馬をさせてきたにも関わらず、先頭を行くスズマッハら先行勢に並ぼうと指示を出したが、シンボリルドルフはその指示に全く答えず、第4コーナー過ぎ辺りで自ら進出を開始。先行勢を差し切り、無敗での牡馬クラシック2冠制覇を達成した。
岡部騎手は表彰式で2冠目を示す2本指を掲げ、「シンボリルドルフに競馬を教えてもらった」と語った。
秋はセントライト記念(GⅢ)から始動。このレースを4馬身差のコースレコードで圧勝。余談ではあるが、このセントライト記念で2着に入り、皐月賞でも3着の実力を持つオンワードカメルンは菊花賞を回避。この事からもシンボリルドルフの圧倒的な実力が窺い知れる。
本番の菊花賞では外から強襲したゴールドウェイを3/4馬身離し勝利。アナウンサー杉本清氏による「大歓声だ京都競馬場!赤い大輪が薄曇りの京都競馬場に大きく咲いた!!」の名実況に彩られて、シンボリルドルフは史上初の無敗での牡馬クラシック3冠制覇を達成。そして表彰式では、岡部幸雄騎手による3冠目を示す3本指が掲げられた。
シンボリルドルフの次なる目標は、なんとジャパンカップだった。菊花賞から中1週のローテーションにも関わらず、シンボリルドルフはジャパンカップへ出走。前走の天皇賞(秋)を制した前年度牡馬クラシック3冠馬ミスターシービーとの史上初となる3冠馬同士の対決になった。
ミスターシービーは1番人気。シンボリルドルフは中1週のローテーションに加え、下痢を発症していることから生涯最低の4番人気であった。だがレースを制したのは3冠馬でも外国馬でもなく、逃げを得意とする宝塚記念覇者のカツラギエースだった。シンボリルドルフは英国のベッドタイムも差し切れず3着。こうしてシンボリルドルフの連勝記録は8連勝でストップ。初の敗戦を刻むことになってしまった。
次走の有馬記念では、逃げるカツラギエースを徹底マーク。第3、4コーナーで一気に差を詰め、直線で先頭に立つとそのまま2馬身突き放してゴールイン。カツラギエースにきっちりお返しをしてみせた。
表彰式では岡部幸雄騎手が4本指を掲げ、シンボリルドルフは史上初の4歳4冠を達成。7選6勝3着1回の成績で最優秀4歳牡馬、そして年度代表馬に選ばれることになった。
シンボリルドルフの5歳緒戦である日経賞(GⅡ)は今でも語り継がれている圧勝レースの1つである。シンボリルドルフ、終始馬なり。岡部幸雄騎手、終始持ったまま。その結果が4馬身差の圧勝である。もはや皇帝に敵はいなかった。
だが、それでも皇帝に立ち向かっていった馬がミスターシービーであった。3度目の対決となる天皇賞(春)では、皇帝に勝利するためにこれまでの戦法を捨てた。向こう正面からマクリ始め先頭に立ち、自身の菊花賞の再現を図ったのである。だがシンボリルドルフは3冠馬の奇襲にも全く動じず、いつもと同じく好位から直線で他馬を差し切り、シンザンと並ぶ5冠制覇を難なく成し遂げた。
表彰式で岡部幸雄騎手は5本の指を掲げ、ミスターシービーはこの後脚部不安により休養。そして夏に骨膜炎を発症し引退となり、3度あった3冠馬の対決は3度ともシンボリルドルフの先着という結果に終わった。
次走の宝塚記念は直前に左肩跛行を発症し出走取り消し。秋のGI戦線に向けて休養に入った。
シンボリルドルフの次の目標は勝利すれば春秋連覇となる天皇賞(秋)だったが、調整の遅れからステップレースを使えず、天皇賞(春)から約半年振りのぶっつけ本番だった。それに加えて府中2000mでは絶対不利の大外枠17番。このシンボリルドルフ打倒の絶好条件にマイルの皇帝ニホンピロウイナーや前走毎日王冠を制したゴールドウェイ、同競走2着の古馬ウインザーノットらが名乗りを上げた。
だがレースはシンボリルドルフが好位から他馬を引き離し、天皇賞春秋連覇かと思われたが、外から1頭の馬が皇帝を強襲。皇帝に対してまさかの差し切り勝ちという快挙を成し遂げたのは、当時準オープン馬のギャロップダイナだった。
今でこそ天皇賞(秋)を制し、翌年には安田記念制覇後に海外遠征も経験し、引退レースの有馬記念ではダイナガリバーの2着に入るという名馬として知られているが、当時のギャロップダイナは33戦7勝で、芝のレースで勝ったのは新馬戦のみ。単勝8820円の数字が示す通り、「あっと驚くギャロップダイナ」であった。(シンボリルドルフを差し切って勝ったのはギャロップダイナだけであり、ビゼンニシキ・ミスターシービー・後述のミホシンザンが遂に成し得なかった事である。)
休み明けの緒戦であったとはいえ、まさかの敗北を喫してしまったシンボリルドルフだったが、次走のジャパンカップでは地方競馬代表のロッキータイガーとのワンツーフィニッシュとなる6冠制覇。ギャロップダイナは7着に敗れ、カツラギエースと同じくお返しをしてみせた。
表彰式では手綱から手を離し、5冠を掲げる手に指を1本置いて6冠目を指し示した。
ジャパンカップを勝利したシンボリルドルフの次の相手は、5冠馬シンザンの最高傑作と言われている1歳下の牡馬クラシック2冠馬ミホシンザンであった。
シンボリルドルフは有馬記念でミホシンザンと対決し、4馬身差の圧勝。アナウンサーである盛山毅氏の名実況「世界のルドルフ、やはり強い!3馬身、4馬身、日本のミホシンザンを離す!」という言葉を背に、シンボリルドルフは海外遠征を行うことになる。母父であるスピードシンボリに次いで史上2頭目となる有馬記念2連覇となり、5戦4勝2着1回の成績で最優秀5歳以上牡馬、そして満票で年度代表馬に選出された(満票での年度代表馬は1977年のテンポイントに次ぐ史上2頭目となる)。
表彰式で岡部幸雄騎手は7冠制覇の指を掲げなかった。この7冠制覇のパフォーマンスは、後年にディープインパクトに騎乗した武豊騎手とオーナーの金子真人氏により成されることになる。
シンボリルドルフは海外遠征を行うことになったが、馬主の和田共弘氏と野平祐二調教師の間で計画の意見が対立。和田共弘氏が海外遠征を強行し、シンボリルドルフは米国のサンルイレイステークス(GⅠ)に出走。米国特有である芝コースの中を横切るダートコースで左前脚繋靭帯炎を発症。Daharの6着に敗れた。帰国後、再度海外遠征が計画されるも、引退が決定。12月7日に引退式が行われた。
たらればの話になってしまうが、もしシンボリルドルフが無事に凱旋門賞へ行っていたら、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制覇したダンシングブレーヴとの対決になっていた。勝つにしろ負けるにしろ、是非とも実現して欲しかったレースではないだろうか。
6歳時の遠征は大変残念な結果で終わってしまったが、シンボリルドルフには自身の血を未来へと伝える役目があった。そしてその血は帝王・トウカイテイオーへと受け継がれ、無敗の3冠馬の歴史は英雄・ディープインパクトへと受け継がれることになった。
皐月賞・日本ダービーの牡馬クラシック2冠を無敗で勝利し、またジャパンカップや中363日で有馬記念を制した奇跡の帝王トウカイテイオー
ステイヤーズステークスを2連覇し、宝塚記念2着・天皇賞(秋)3着と中距離でも活躍を見せたアイルトンシンボリ
朝日チャレンジカップ・京都大賞典と2連勝し、超豪華メンバーである1999年の有馬記念でグラスワンダー・スペシャルウィーク・テイエムオペラオーに次ぐ4着に入ったツルマルツヨシ
等がいる。
※主な産駒と言っていいのかは分からないが、新馬戦で出遅れたにも関わらず直線で14頭を差し切ったヤマトダマシイという産駒がいる。
ビワハヤヒデ・ナリタタイシン・ウイニングチケットのBNW3強に割って入る存在かとまで言われたが、次走の4歳500万下で故障を発症し無念の予後不良となってしまった。もし彼が無事でGIを1つでも勝っていたら、シンボリルドルフの種牡馬としての評価は上がり、良い繁殖牝馬も回ってきたことだろう。
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最終更新:2024/05/29(水) 12:00
最終更新:2024/05/29(水) 12:00
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