テイエムオペラオー
勝ち続けると、すべての馬が敵になる。
その馬は、完全に包囲された。
道は消えたはずだった。
テイエムオペラオー、お前はなぜ走れたのか。『年間全勝のレジェンド』
テイエムオペラオー(英: T.M. Opera O、中: 好歌劇)とは、1996年生まれの日本の競走馬。GI7勝。長く世界最高獲得賞金記録を保持し、「世紀末覇王」と呼ばれた。北斗の拳は関係無い。あっちは世紀末覇者だ。
主な勝ち鞍
1999年:皐月賞(GI)、毎日杯(GIII)
2000年:天皇賞(春)(GI)、宝塚記念(GI)、天皇賞(秋)(GI)、ジャパンカップ(GI)、有馬記念(GI)、京都記念(GII)、阪神大賞典(GII)、京都大賞典(GII)
2001年:天皇賞(春)(GI)、京都大賞典(GII)
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については 「テイエムオペラオー(ウマ娘)」を参照して下さい。 |
1996年3月13日生まれ。繁殖牝馬20頭足らずの小さな牧場だった杵臼牧場(浦河)で生まれる。
4歳時(当時表記)では皐月賞を制覇し、1999年JRA賞最優秀4歳牡馬(当時表記)に選ばれている。この時点ではGI1勝馬に過ぎなかったが、世紀末である2000年には中央競馬の古馬王道GI[1]を全て制覇したことで、歴史的名馬へと駆け上がる。その業績と馬名、活躍した時期から世紀末覇王と呼ばれた。
2001年には、衰えと新世代の台頭もあって年末の有馬記念で引退。GI勝利数はシンボリルドルフの最多記録に並ぶも遂に越えられなかったが、獲得賞金額では当時の世界最高額18億3518万9000円を記録した。
父オペラハウス 母ワンスウエド 母父ブラッシンググルームという血統。
父オペラハウスは英国産馬でキングジョージなどGⅠを3勝。父父は欧州の大種牡馬・サドラーズウェルズだが、当時の日本ではサドラーズウェルズ系の血統はほとんど成績が残せておらず、米国ダート王者であるサンデーサイレンスの産駒台頭もあって、オペラハウスもあまり期待されていなかった。
母は不出走で重賞2着馬を出していた程度。母父ブラッシンググルームはフランスで短距離~マイルでGI5勝を挙げた快足馬ではあった。
「ワンスウエドの96」の配合は、血統背景から母の産駒がことごとく短距離馬だったので「安くてスタミナのある牡馬をつけたい」という牧場の方針によるものだったという。
※以後、当記事では馬齢を、2000年までは旧表記、2001年以降は現表記で記述します。※
1997年の10月、ワンスウエドの96は静内で行われたセリ市に出された。当時、日本軽種馬協会の種牡馬であるオペラハウスの産駒の牡馬はセリ市に出す義務があったためだが、オペラハウスの評判はというと上述の通りで、その産駒を高く評価しろというのも無理な話であった。しかし、ここでその馬体がテイエム軍団の総帥・竹園正繼の目に止まり、スタート価格の1000万円(誰も競ってこなかった)で落札されることになった。
余談だが、竹園オーナーはオペラオーの活躍の後、「光り輝いて見えた」というこの時のオペラオーを理想の当歳の馬体として、それに近い馬を値段にかかわらず購入するという方針を定めているそうである。
後々から見ると凄まじい慧眼であるが、後に同じ基準で競り落とされたテイエムプリキュアも言ってみればオペラオーのおかげという事になる。
冠名「テイエム」・父から「オペラ」・サラブレッドの王になるようにと「オー」。テイエムオペラオーと名付けられたワンスウエドの96は、竹園オーナーの地元の幼馴染でもある岩元市三調教師(栗東)に預けられた。ちなみに担当厩務員はオペラオーの入厩直前に岩元厩舎に配属された新人・原口政也だが、彼にとってはオペラオーが初担当馬であった。
オペラオーに対する岩元師の第一印象は「普通の馬」だったというが、調教で抜群のタイムを出したことでデビュー前から早くも評判になった。併せ馬ではすでに勝ち上がっていた後の重賞馬ユーセイシュタインを1.6秒差とちぎり捨てる走りっぷりを見せる。
1998年8月15日、新馬戦(芝1600m)は1.5倍の断然一番人気。だが、オペラオーはレース中に左後肢の飛節を骨折し、6馬身差の2着に敗れる。症状は軽かったが競走馬にとって重要な飛節を故障したことで治療に専念せざるを得ず、未勝利の身分のまま2歳シーズンを棒に振ることが確定。陣営は4月の皐月賞には間に合わないと考え、「ダービー一本」の方針で皐月賞の第2回クラシック登録(3万円)を見送ってしまった。
この新馬戦においてオペラオーの手綱を取ったのは、岩元厩舎所属・デビュー三年目の「競馬学校花の十二期生」の一人・和田竜二であった。初年度から同期の福永祐一に次ぐ勝数を上げ、12期生で重賞勝利一番乗り(しかも長距離のステイヤーズステークス)を達成した若手のホープである。和田騎手は以後3年間に亘り、オペラオーの全レースを担当することになる。
年が明け、1月の未勝利戦(ダート1400m)で再始動(4着だった)。2月の未勝利戦(ダート1800m)を勝ち上がると、芝に戻ったゆきやなぎ賞(500万下)も勝利。ゆきやなぎ賞後は皮膚炎を患い腱の筋が見えなくなるほど足首が腫れ上がるアクシデントに見舞われたが、アクシデントもなんのその、重賞初挑戦となった皐月賞前の「東上最終便」毎日杯(GⅢ)も2着タガノブライアンに4馬身差で圧勝した。
まさかの急成長で皐月賞が視野に入ってきたわけだが、竹園オーナーは当初の予定通り「ダービー一本」と考えており、皐月賞出走には消極的だった。岩元師は「追加登録料を僕が立て替えてもいい」とまで言ってオーナーを説得し、追加登録料(200万円)を支払い皐月賞への参戦を決めた。
皐月賞(GⅠ)はアドマイヤベガとナリタトップロードの2強対決というのが大方の予想で、オペラオーは11.1倍の5番人気。岩元師は前々での競馬を考えており、後方待機策を取った和田騎手とオペラオーを見て敗戦を覚悟したが、和田騎手は当日の中山競馬場の馬場から外差しが決まりやすいと読んでいた。その読みは当たり、オペラオーは直線坂を上った辺りからワープするような勢いで差し切り勝ち。本当にサドラーズウェルズ系か? と疑いたくなる末脚であった。この勝利は和田騎手と杵臼牧場にとってのGI初制覇。更に騎手の皐月賞勝利最年少記録も更新し、史上初の「追加登録馬のクラシック競走制覇」という栄誉も得た。
ただ、馬の負担を気にする岩元師は和田騎手の苛烈な追込に苦言を呈した。和田騎手は新たな課題として馬に負担の少ない騎乗を模索することとなるが、暫くの間はそれが最悪の形で裏目に出てしまうこととなる。
続く日本ダービー(GI)では、皐月賞の勝利がフロック視されたのか、2強に続く3番人気であった。本番では和田騎手の若さが出たのか、前走とは異なる早仕掛けをナリタトップロードに交わされ、さらにそのナリタトップロードもアドマイヤベガに交わされ、オペラオーは3着に敗れる。テイエムの和田、ナリタの渡辺薫彦という若手二人が、天才・武豊に打ちのめされた。
秋シーズン初戦の京都大賞典(GII)では、一番人気のスペシャルウィークをマークして進むも、当のスペシャルウィークの仕上げがいまいちで後方ままに終わったため、結果的に仕掛けが遅れてツルマルツヨシの3着に敗れる。とはいえ初の古馬挑戦で勝ち馬と0.1秒差、2着メジロブライトとタイム差無しのハナ差に食い込んだのだから、悪くはない結果だといえよう。
いざ菊花賞(GI)へ! ……と出走したのだが、今度は(やはり不調で後方ままだった)アドマイヤベガをマークして仕掛けが遅れる痛恨のミスを犯し、猛追するもナリタトップロードに届かずクビ差の2着。この菊花賞は後の戦績から見ても「勝てたレース」「勝っておくべきだった」と後々まで批判され続けることになる。
同じような負け方を繰り返した和田騎手に、竹園オーナーはとうとう愛想をつかし、岩元師に騎手の交代を要請する。しかし岩元師にも、愛弟子をどうしても一人前に育てたいという願いがあった。師自身、師匠の布施正調教師に乗せ続けてもらい、遂にはバンブーアトラスと共にダービージョッキーとなった過去があったのである。岩元師は乗り代わりだけは勘弁してほしいと食い下がり、終いには「どうしても乗り替わりというなら転厩してもらうしかない」とまで宣言した。竹園オーナーは折れ、和田騎手の続投を渋々了承した。
岩元師はなんとか弟子に勝ち星をあげさせてやろうと、出走メンバーが手薄だったステイヤーズS(GII)を次戦に選択するが、抜け出して気を抜いたところを同期のペインテドブラックに交わされ、まさかの2着に敗れてしまう。
その後は竹園オーナーの希望もあり、急遽、出走予定のなかった有馬記念(GI)へ強行軍を決行。レースではグラスワンダーとスペシャルウィークと死闘を繰り広げるも、僅かに届かぬ3着だった。とはいえ、菊花賞からステイヤーズS経由という酷いローテで出走した4歳馬がグラスワンダーとスペシャルウィークにタイム差なしのクビ差まで迫ったことはものすごいことであり、ファンからはこれからの成長が大いに期待された。
この99年有馬記念、堺アナウンサーの「やっぱり最後は最強の二頭!」という印象的な実況のせいで3着オペラオーと4着ツルマルツヨシの印象がどうも薄くなっている感じがするレースである。記録映像を観る機会があれば、ぜひオペラオーとツルマルツヨシにも注目あれ。
ただ彼だけが
勝ち続ける。絶対に負けない。
それがどれほど困難なことか
ただ彼だけが知る。重圧に耐え 剣戟を潜り抜け 包囲網を打ち砕いた
その先にある未踏の地をただ彼だけが知る。
2000年1月、最優秀4歳牡馬(しれっと受賞していた)授賞式後の食事会で、竹園オーナーは「今年は1回も負けてはいかん。全勝しろ!」という大号令を下した。和田騎手のみならず、彼を乗せるよう説得した岩元調教師以下厩舎スタッフにも、ほんのわずかな油断も許されない1年が始まろうとしていた。
そして2月。鞍上の気迫がオペラオーにも伝わったか、京都記念(GⅡ)でナリタトップロード、ステイゴールドらを競り落として久々の勝利を挙げる。竹園オーナーは少し嬉しくなったのか、久しぶり(菊花賞以来)に和田騎手に声をかけたが、その内容は「今年はもう負けるなよ。全部勝てよ」という厳命&懇願であった。和田騎手は“もう負けられへん。負けたら終わりや”と覚悟を固める。
一か月後。春天の前哨戦・阪神大賞典(GⅡ)では、ラスカルスズカ&ナリタトップロードの菊花賞3着&1着馬を相手に2馬身半差で楽勝。こんなに強い馬だったか……?と競馬ファンが思う間に、本番の天皇賞(春)(GⅠ)もあっさり勝利。1~3着は前走と全く同じテイエム・スズカ・ナリタの3強で決着した。
上がりの1000m58.1秒は春天史上最速、4Fの46.1秒も最速、ラスト2ハロン目で観測された11.2秒のラップも最速と、とにかく最速だらけの春天だった。「関西といえば春天」という岩元師は大喜びだったそうだが、和田騎手は「GⅠ一つくらいじゃ乗せ続けてくれた恩返しにならない」と心から喜べなかったという。
宝塚記念(GⅠ)ではグラスワンダーとの再戦が注目されたが、グラスワンダーはレース中に骨折してしまった。和田騎手は不発となったグラスワンダーを警戒していて仕掛けが微妙に遅れてしまったが、最早、他は相手にならず、ここも着差以上の強さで僅差圧勝(2着メイショウドトウ)。なお、この時点でのメイショウドトウは重賞2勝のマル外で完全な伏兵扱いであったが、以後、GIでの激突を通してオペラオー最大のライバル兼オペラオー以外の馬にとってオペラオーと並ぶ悪夢となる。
8月には、2000年のJRAヒーロー列伝に選出。ちなみにこの年選ばれたもう1頭は、当時GⅠ未勝利だったステイゴールドだった。
王者の賛歌。
衝撃のGⅠデビュー。その後の好敵手たちとの熱い勝負。
正攻法で、しかも堂々と戦いあうことで、
風格と威厳を身に着けてきたテイエムオペラオー。
完璧な勝利を重ね、歴史が認める英雄へ――
王者を讃える歌が、力強く、声高らかに聴こえてくる。
春は全勝。馬券も常に圧倒的一番人気だった。それでも大一番のGⅠでは勝ち方に派手さがなく、負かした相手に目立った古馬が少ないこともあり、競馬ファンの中にはその実力を疑問視する人も少なからずいた。
秋初戦、京都大賞典(GⅡ)ではナリタトップロードを相手にムチすら使わず僅差圧勝。重賞5連勝である。
次戦・天皇賞(秋)(GⅠ)でもオペラオーは当然のように1番人気に支持されたが、単勝倍率は年内では最も高い2.4倍になった。16頭立の13番という東京芝2000mコースでは不利な外枠[2]を引いた上に、この時点の和田騎手は東京競馬場で一度も勝ったことがなかったのだ。
また、当時の秋天で囁かれていた「一番人気必敗のジンクス」も影響していたかもしれない。00年代以前は一番人気に推された馬の勝率がとにかく低かったのである。65年のシンザンから数えて19連敗、84年のミスターシービーが連敗を止めるが、その翌年にはかのシンボリルドルフまでもがあっと驚く敗戦を喫する。そして87年のニッポーテイオーの勝利から99年までの12年間、第二次競馬ブームを彩った当代最強格の名馬が悉く敗北していた[3]。
……が!先行して好位置をキープ、ラストで抜け出す危なげない走りで、終わってみれば「ジンクス?なにそれおいしいの?」と言わんばかりの歯牙にも掛けない快勝ぶり(2着メイショウドトウ)。オペラオーはこの勝利で史上初の中央主要4競馬場でのGI制覇を達成。ちなみにこの後、00年代以降の秋天では1番人気は馬券に絡むことの方が多くなっていく。
この辺で競馬ファンもようやくこの馬の強さを認めた。ジャパンカップ(GⅠ)でも1番人気は86年のサクラユタカオー以降14連敗していたのだが、ここでは秋天とうってかわって、ジャパンカップの単勝支持率レコードとなる50.5%の支持が集まる。
レースでは次世代の代表馬達(二冠馬エアシャカール、日本ダービー馬アグネスフライト、NHKマイルカップ馬イーグルカフェ、オークス馬シルクプリマドンナ)も相手にせず、直線だけの競馬で後の世界王者ファンタスティックライトをも蹴散らし、人気に応えてジンクスを完全粉砕(2着メイショウドトウ)した。獲得賞金額はスペシャルウィークを抜いて日本競馬史上最高の12億円に達し、JRA重賞連勝記録も7に更新する。
古馬王道GI完全制覇が掛かった有馬記念(GⅠ)では、青い帽子に7番のゼッケンが与えられた。当然圧倒的な一番人気であり、単勝は1.7倍。2番人気のメイショウドトウが6.8倍という完全な一強ムードだった。
しかし当日の朝、向かいの馬房の馬が暴れ出したのに反応したオペラオーは立ち上がり、天井で顔面を強打してしまう。オペラオーは鼻血を出し、左目も腫れあがって視界不良の状態になってしまった。
レースは逃げ宣言をしていたホットシークレットが出遅れた影響もありスローペースで進行。スタート直後からオペラオーは激しいマークを受ける。前は完全に塞がり、外に出そうにもアドマイヤボス鞍上の武豊が天才的な騎乗で左サイドをブロックしていた。あえて減速して外に出ようとしても、周囲はぴったりとペースを合わせてそれを許さない。その「包囲網」ぶりたるや、一週目のホームストレッチ前に入ってきた時点で一部の観客から怒号が飛び、1コーナー過ぎで各馬のポジションが明らかになるとスタンド全体がどよめくほどであった。記事冒頭で引用したJRA公式CMですら「完全に包囲された」とか言っちゃうほど……
中盤から和田騎手が手綱をグイグイグイグイ押して前に行くよう促すも、オペラオーはこれを無視動くに動けず、短さに定評のある中山の最終直線へ。堺アナウンサーは「テイエムはどうする!? 残り310メートルしかありません!」と絶望感たっぷりの実況を飛ばし、スタンドからは悲鳴が上がる。最後のハロン棒横でなお馬群の真っ只中のオペラオーにほとんどの者が敗北を確信した次の瞬間……
残り200を切った、テイエムは来ないのか?テイエムは来ないのか?
テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!
テイエム来た!テイエム来た! 抜け出すか!? メイショウドトウと!
テイエム!テイエムッ! テイエムかーテイエムかー僅かにテイエムかー!?
各馬がラストスパートに入り、馬群が僅かに開けた。首を必死に振りながら隙間を探していたオペラオーはそれを見逃さず、2度の切り替えで真ん中を縫うように突入。抜けきったその瞬間がゴール線。ハナ差、僅か20cm差の、奇跡の勝利(2着メイショウドトウ)だった。
他の馬が弱いのなら兎も角、レース前に負傷し、GⅠの舞台であんな絶望的なポジションから抜け出して勝った例はそうそうない。「ミスター有馬記念」こと堺アナは入線後に感極まって絶句し、謎の呻き声(ウッ)をあげた。ちなみに本競走は「社台包囲網」と揶揄されることも多いが、社台グループの馬は2頭しか出てない。馬主が結託したという陰謀論は多いが、当然根も葉もないことなので大声で唱えるのはやめよう。
和田騎手はレース後、オペラオーの脚が包囲された時に負ったであろう生傷だらけであることに気付き、涙した。最後まで勝負を諦めなかったオペラオーへの感謝と、反面オペラオーを最後まで信じられなかった自身に対しての情けなさがこみ上げてきたのだという。実は和田騎手自身、レース終盤には「もうオペラオーの背に(何もせずに)しがみつく事しかできない」と勝負を半ば諦めていた。
勝利インタビューでも、和田騎手の笑みは最後までぎこちないままであった。竹園オーナーは「馬も騎手も涙が出るほどかわいそうでした」と語っている。
この勝利でテイエムオペラオーは2000年の競馬を年間無敗(重賞8連勝・内GⅠ5勝。春秋天皇賞・2大グランプリ・JCの古馬王道路線制覇)で完走。メイヂヒカリ、テンポイント、シンボリルドルフに続く史上4頭目となる満票で年度代表馬(および最優秀4歳以上牡馬)に選ばれ、秋季GI3競走による報奨金2億円も獲得している。この年は20世紀最後の年、まさに「世紀末覇王」の名に相応しい成績であった。
年明けに「全部勝て」と言われて、本当に「全部勝った」のだから、文句の付けようのない結果である。
翌2001年の初戦となったのは産経大阪杯(GII)。しかし放牧先の福島県いわき市が豪雪に見舞われ、ろくに調整が行えなかったこともあって、抜け出したところを後ろから交わされ、トーホウドリームの4着。久方ぶりの敗戦を喫した。
2001年4月1日、テイエムオペラオー破れています……。
エイプリルフールではありません、本当に、オペラオーが負けました!
本番の天皇賞(春)では3コーナーで和田騎手が1発2発とステッキを入れると4コーナーをまくって直線半ばで先頭に立ち、後続の猛追をしのいで僅差圧勝(2着メイショウドトウ)した。天皇賞の勝ち抜け制廃止後、初の3勝(3連覇)達成である[4]。これにてシンボリルドルフに並ぶGI競走7勝のタイ記録を達成したわけだが、このレースの内容に陣営は大きな不安を感じてもいた。岩元調教師は3コーナーでのステッキ連打に「叩いて行ったのは初めてやないかなあ」と首をかしげた。和田騎手によれば3コーナーでステッキを連打したのは、まだバテてはいなかったにもかかわらず何故かゴーサインに「馬が躊躇していた」からだという。この陣営の不安は、残念ながら杞憂のままでは終わってはくれなかった。
宝塚記念(GI)では前年の有馬記念もかくやの徹底マークに合い、4コーナーで鞍上が立ち上がる程の致命的な不利を受ける。そこから猛然と追い込んだものの、先行策をとりロス無く完璧に立ち回ったメイショウドトウに、6度目の対戦にして初めて先着を許し、2着に敗れる。
受けたマークを考えればよく追い込んだとはいえ、負けは負け。優勝していたら海外遠征も検討される予定だったが、この敗戦に加えて、陣営に海外遠征のノウハウや伝手がなかったこともあり、お流れとなった[5][6]。
8月1日、竹園オーナーの記者会見が開かれ、オペラオーの年内引退と、浦河町イーストスタッドおよび門別町HBA日高軽種馬農協門別種馬場での種牡馬入りが発表された。事実上、オーナーの個人種牡馬である。
秋初戦・京都大賞典(GII)では先に抜け出したステイゴールドを捕まえきれなかったものの、ステイゴールドがナリタトップロード落馬の加害馬と判定されて失格になったので繰り上げ連覇する。この時、以前のような切れが無くなった事に気が付いた和田騎手は早め先頭の作戦を取るよう変更する。ステイゴールド鞍上の後藤浩輝は産経大阪杯と宝塚記念でオペラオーを執拗にマークし、今回は馬を制御できず突っ込んできたため、ブチ切れた竹園オーナーに検量室前で締め上げられた。
然し、それでもなお秋の天皇賞(GI)では外国産馬・アグネスデジタルに差し切られ2着に敗れる[7]。00年初頭からの1年半に亘り中央競馬の中~長距離GIで上位を半ば独占していたオペラオーとその同期たち、99年世代の落日が始まったのである。
ジャパンカップ(GI)では、ダービー馬ジャングルポケットに最後の最後で交わされて2着。
引退レースの有馬記念(GI)では如何にも疲れており、優勝した菊花賞馬・マンハッタンカフェの追走にも苦労し、メイショウドトウにも再度の先着を許す、生涯最低着順の5着に終わった。
レース後、メイショウドトウと合同で引退式が行われ、前世紀末の覇王はターフを去っていった。
「シンジケートだと一般の生産者が種付けしにくくなる」「生産者に公平に血を提供したい」との理由からシンジケートは組まれず、オペラオーは竹園オーナーの個人所有として種牡馬活動に入った。だが、社台を筆頭とする大手グループの支援がない状態では、やはり集まる牝馬の質はそれほど高いものではなかった。まぁ、個人所有である点と血統背景を考慮すると相当強気の価格設定だったので、中小生産者がおいそれと手を出せる筈もなく、そりゃそうなるとしか……。
結果、なかなか自身の能力を伝える事が出来ず苦戦続きだったが、障害競走で活躍したテイエムトッパズレ、テイエムエースを輩出している。父のオペラハウスも障害競走で活躍馬を出しており、この点だけは似通ったようだ。
繋養中、心無い見学者に石を投げられたり、たてがみを抜かれたりするという憂き目にあったため、いくつかの牧場を移動した後、関係者以外には所在地を秘匿されることになった。タイキシャトルの件といい、いつの世も悪質な人間は存在するものである。
死闘から解放された世紀末覇王は、ラクダにも例えられるようなのほほんとした風体となり、細々ながら種牡馬活動を続けていたが、2018年5月、心臓麻痺のため22歳でこの世を去った。三冠を分け合ったアドマイヤベガ、ナリタトップロードはすでに早世しており、彼らの後を追うこととなった。
先行して、切れる上に息の長い末脚を繰り出す安定感抜群のレーススタイルが持ち味。しかし皐月賞や00年有馬記念で披露した凄まじいまでの追込のように、中位からの差し戦術でも結果を残した。競り合いになったときに先頭を譲らない粘り強さも群を抜いている。
当代随一と言えるレース展開や作戦への対応力に加えて、コース(右・左・根幹・非根幹)・馬場(良~重)・距離(2000~3200)も不問。レース後の回復も早く連戦にも耐え、戦績が極端に崩れない。掲示板を外したことは全26戦中1度もなく、複勝圏外に行ってしまったのも3回だけなのだ。
ナリタトップロードを担当した沖和夫調教師は01年春天の敗戦後に「すでに別格の存在です。パーフェクトの一言」とまで言い切った。この頃のトップロード陣営は、クラシック戦線では「よきライバル」だったオペラオーが「果てしなく遠い目標」に変わってしまったことで、他の陣営以上の敗北感に苛まれていた事情を考慮する必要はあるかもしれないが。
オペラオーの強さが分からない人は、競馬をあきらめて競艇や競輪をやった方が良い。一緒に走らせたくはないけど、私はあの馬のファンですよ。非の打ち所のない名馬です。
―藤沢和雄(調教師・00年前後はマチカネキンノホシ等を担当)
勝負を知ってる馬ですね。ゴールがどこにあるか分かってる。ゴール前でちょっとでも、頭でもクビでも、スッと抜け出せるのが一番強い馬なんですよ。
―池江泰郎(調教師・00年前後はステイゴールドやトゥザヴィクトリー等を担当)
その一方、基本的にはとにかく真面目に走るのだが、勝負根性や賢さの裏返しなのか一度先頭に立つとソラを使いがち(手を抜きがち)になるため、強さのわりに着差がない勝負も多い。特に01年秋天ではアグネスデジタル陣営(白井寿昭&四位洋文)にまさにそこを突かれ、「勝負根性の強いオペラオーから離れて馬場状態の良い外ラチ側から抜く」奇策に出たデジタルを見落として失速したのが命取りとなった。
「うかつに先頭に出せず、さりとて過度の追込は避けたい」和田騎手は、最終的に「強いライバル(主にメイショウドトウ)をマークし、最後の最後でそいつを差し切る」という戦術にたどり着いた。そこから生まれたのが僅差圧勝、ハナ差圧勝という皮肉交じりの賛辞だが、無駄な消耗をしない戦術が覇道を支えていたのであろう事は想像に難くない。
負かせそうな気がするんだけど、負かせなかったね。本当に強かったあの馬は
テイエムとは二度と競馬をしたくない
ちなみにデットーリ騎手は、01年ジャパンカップに出走予定の欧州勢について評価を求められた際に「あの二頭(オペラオー&ドトウ)に勝つとなるとサキーかガリレオでもないと」とコメントしている。また、デットーリ騎手とファンタスティックライトは01年ドバイSCでステイゴールドに僅差で敗北しているのだが、これがきっかけでステイゴールドの00年戦績を見た海外競馬ファンの中には「T.M. Opera O ってのがG1総なめしてるけど何物?」とビビる人もいたとかいないとか。
競走能力への評価は別にして、現役当時のファン人気はというと、実はそれほど高くなかった。春秋グランプリのファン投票においても一位ではあったものの、前年までの一位と比較して大きく得票を減らしている。
ナリタトップロードのジョッキーといっしょに、あるイベントに出た時、ファンの人に聞いてみたことがあるんですよ。成績は自分の馬の方がいいのに、応援の声は、同じか、下手をするとナリタトップロードのほうが上の時もある。どうして僕の馬は、人気がないんでしょうって
当時の和田騎手の疑問への回答になるかはわからないが、それには以下のような理由があったと思われる。
見た目が特徴的なわけでも、因縁のある血統でもない。騎手や陣営も特に目立つわけでもない。波乱の高額配当もなく、安定して強すぎる。
かつて「葦毛の怪物」オグリキャップが人気を得た事例[9]とは対照的に、オペラオーはアイドルホースの条件をことごとく外してしまっていた。
過去の競走馬を調べる新たな競馬ファンが最初に目にするのは、現役当時のファン人気ではなく、その馬が積み立てた実績や識者からの評価である。現役時は人気の面でミスターシービーの後塵を拝していたシンボリルドルフが、今や知名度では圧倒しているように、後世の印象のカギを握るのは「記録」なのだ。
テイエム今年、8戦全勝! 素晴らしい記録を樹立しました! あのシンザン、ブライアン、ルドルフでさえねぇ、「年間の全勝」というのは出来なかったわけなんですからねぇ
堺アナが興奮して(ウッ)実況したように、兎にも角にも2000年の戦績は物凄く、この年だけで他の歴史的名馬とも張り合えると言っても過言ではない。
99年と01年こそ勝ち切れないレースも多かったが、それでも掲示板は確保し、GIも2勝している。戦績を通して2度の先着を許した相手もナリタトップロードとメイショウドトウという同世代馬2頭しかおらず、その点では覇王の面目を保ったまま引退したといえよう。
オペラオー引退から20余年が経つが、古馬王道完全制覇の達成馬はいまだに現れていない。秋古馬三冠ですらゼンノロブロイのみである。海外挑戦もあったとはいえディープインパクトですら成し得てはおらず、中~長距離のGIが6戦に増えた後のキタサンブラックでも年間GI4勝に留まった。たとえ年間無敗にこだわらなくとも、古馬王道GIを年間5勝するという目標自体が至難すぎるのである。
また、古馬王道の全勝ではなく全連対(全競走2着以上)にまで条件を緩めてみても、達成馬はタマモクロスとスペシャルウィーク、年を跨いでのメイショウドトウのみ。ドトウはもっと評価されるべき。着順すら気にせず春秋の天皇賞・2大グランプリ・ジャパンカップ全てに皆勤しただけという競走馬ですら稀少であり、2年以上皆勤した競走馬ともなると、このテイエムオペラオーとステイゴールドただ2頭しかいない(ドトウは00春天は出走せず)。出走レースを絞ることが多い昨今、その過酷なローテーションをこなして結果を出し続けたことも評価されている。
ゴール目前、
目の前に立ちふさかるライバルたちの群れ。
そのわずかな隙間を異次元の末脚で抜け出した。
ハナ差で掴み取った年間無敗という奇跡。
この伝説にたどりつく馬は、いまだ現れない。
この広告が出された年には、オジュウチョウサンがオペラオーのJRA最多重賞連勝記録を18年ぶりに更新した。更に2年後には、アーモンドアイがGⅠ「7勝」の壁を遂に破り、新たな伝説を築く。しかし年間全勝・古馬王道完全制覇という、奇跡の地は未だただ1頭オペラオーのみぞ知る。
果たして彼に並ぶヒーローは、今世紀中に登場するのであろうか?
テイエムオペラオーの生涯獲得賞金額18億3518万9000円は当時の世界最高記録だった。その後、世界的な賞金額の上積み傾向もあり、2017年に米国のアロゲート[11]に更新され、日本記録としても2017年にキタサンブラック、2020年にアーモンドアイに抜かれて史上3位となった。
なお、この総額計算は秋古馬三冠達成によるボーナス2億円(外国産馬は1億円)を含まないものなので、秋古馬三冠達成ボーナスを込みにすると史上初の20億円ホースとなり今なおオペラオーが国内一位である。この三冠ボーナス制度が導入された年がちょうど2000年だったのが、運が良かったというべきか……。
単年の獲得賞金額に関しては、三冠ボーナスを含めずとも、2位のアドマイヤムーンに2億円近く大差をつけて1位を保持している。
因みに最大のライバル、メイショウドトウも500万円の安値で買われたものの9億2千万円稼いでおり、結果的に両馬とも馬主に購入時の184倍もの賞金をもたらしたことになる。
テイエムオペラオーは日本中央競馬会における26頭目の顕彰馬である。テイエムオペラオーが投票対象になったのは2003年なのだが、顕彰馬になったのは2004年である。今でこそ抹消から1年以上20年以内の馬が投票対象とされているものの、2003年まではこの基準がなく、タケシバオーら20年以上昔の名馬たちにも票が分散したことが影響しているとみられている。当然そうした馬たちに投票する理由も相応にあるのだが、古馬王道全勝を成し遂げたテイエムオペラオーが落選したことに対しては流石にJRAへ抗議が殺到した。オペラオーに対し否定的な競馬ファンからも「オペラオー程の成績で顕彰馬となり得ないのであれば、今後一体どのような馬が顕彰馬たりうるのか」というような意見があったそうな。
そういったこともあって、2004年から抹消後の年数の基準が設けられ[12]、87.8%の圧倒的な得票[13]で顕彰馬となった。
先述した通り、競走馬は成績が向上するにつれて、より実績のある騎手を呼んで交替させていくものである。だが、岩元調教師の後押しもあって、テイエムオペラオーには和田竜二が最後まで乗り続けた。当時若干21~24歳であった和田騎手は、オペラオーの勝利後にアントニオ猪木の真似をしてスタンドを煽っていたが、先述したオペラオー人気の低さを気にしてのパフォーマンスでもあったという。2014年のインタビューでは「あの頃の自分は気を張り過ぎて、競馬以外の時間は廃人のようでした」と振り返っている。
和田騎手が乗り続けたことで、色々な批判があったことも事実である。和田騎手の元にも批判の投書が多数届き、引退レースの翌日に騎乗しに行った名古屋競馬場でも物凄い野次を浴びたという。
代表的な例としては、境勝太郎調教師が菊花賞後に「ダービーは早仕掛けで負け、菊花賞は遅すぎて負けた。オペラオーは乗り方次第では三冠馬だった」とコメントしている。シンボリルドルフを手がけた「ミスター競馬」野平祐二元調教師も「オペラオーは三冠を取れる器で、古馬の連勝ももっと伸ばせていた」と評していた。
ただし、和田騎手の騎乗が決定的な敗因となったレースは、菊花賞以降はむしろ少ない。特に2001年の秋以降は能力に陰りが見え始めたオペラオーをよく導いている。1999年後半のブロンズコレクター状態については、ちょうど歯の生え替わりが始まりオペラオーが肉体的に不安定な時期にあったことや、過酷なローテーション[14]の影響も考慮すべきであろう。
たらればの話ではあるが、自らの騎乗術を確立したベテランではなく、師の教えに沿って負担をかけない走法に徹し無理な挑戦をしなかった(できなかった)新人騎手だったからこそ、オペラオーは息の長い活躍ができたのかもしれない。あの時のオペラオーを任されたのが和田騎手でなければどうなっていたのか、というifの想像は、競馬ファンの酒のつまみの一つになっている。その中でも「武や岡部の代わりに00年の和田をディープやルドルフに載せて7冠達成できんの?=覇王最強だろ!」という関係者各位に大変失礼な極論は、最強馬論争における禁じ手としてネタにされている。
オペラオーには、僕はすごく、沢山のモノをもらったような気がします。
ただ……あの馬に、何も、返せなかったような……。僕自身(そんな気)が、するので。これから、一流の男となって、あの馬に、認められるような、騎手になりたいと思います。
オペラオーの話からは外れるが、これ以降の和田騎手は岩元師(とオペラオーから)の教えを守り、積極的に前目につけ、鞭を入れて追いまくる闘志あふれる騎乗スタイルで、コツコツと勝利を積み重ねつつ、堅実に入着を拾う仕事人として成長。2021年には歴代通算23位となる大台の1400勝を達成し、多くの馬主から頼られる、紛れもない名騎手として活躍している。
乗る馬の質もあってGⅠには中々手が届かなくなったが(そもそも並の騎手にとってはGⅠ一勝ですら一生に一度あるかないかの勲章である点は留意しておきたい)、2012年にはワンダーアキュートでJBCクラシックを制覇し、11年振りにG1(Jpn1)を制覇。そして2018年、オペラオーの死去一月後に行われた宝塚記念ではミッキーロケットでJRAのG1を17年ぶりに制覇した。この時は奇しくもメイショウドトウに敗れた01年宝塚と同じ4番出走で、かつドトウのタイムを0.1秒上回っていた。和田騎手も勝利インタビューで「オペラオーが後押ししてくれたと思います」と語り、往年のオペ&和田ファンにとっては感動の一日となった。
オペラオーと和田騎手の深い絆(何度かオペラオーには会いに行ったそうだが、嚙みつかれ追い返されたこともあったらしいけど)は競馬ファンにはとりわけ人気の高い題材であり、新たに競馬史に触れたファンからも「オペラオー調べてたら和田ファンになってた」という声がちらほら上がるほど。おかげで「テイエムオペラオー産駒ワダリュージ」だの「リュージと離れたくないから古馬王道を蹂躙した覇王」だの「ウマ娘のオペラオーは馬の擬人化ではなく和田の美少女化」だの、様々なネタでいじられ続けている。
日付 | レース名 | 格付け | 開催競馬場 | 距離 m | 天気 | 馬場 | 頭数 | 騎手 | 人気 | 着順 | |
1 | 1998/08/15 | 3歳新馬 | 京都 | 芝1600 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 2 | |
2 | 1999/01/16 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1400 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 2 | 4 | |
3 | 1999/02/06 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1800 | 晴 | 良 | 10 | 和田竜二 | 1 | 1 | |
4 | 1999/02/27 | ゆきやなぎ賞 | 500万下 | 阪神 | 芝2000 | 曇 | 稍 | 14 | 和田竜二 | 2 | 1 |
5 | 1999/03/28 | 毎日杯 | G3 | 中山 | 芝2000 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 3 | 1 |
6 | 1999/04/18 | 皐月杯 | G1 | 東京 | 芝2000 | 雨 | 良 | 17 | 和田竜二 | 5 | 1 |
7 | 1999/06/06 | 東京優駿 | G1 | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 18 | 和田竜二 | 3 | 3 |
8 | 1999/10/10 | 京都大賞典 | G2 | 京都 | 芝2400 | 晴 | 良 | 10 | 和田竜二 | 3 | 3 |
9 | 1999/11/07 | 菊花賞 | G1 | 京都 | 芝3000 | 晴 | 良 | 15 | 和田竜二 | 2 | 2 |
10 | 1999/12/04 | ステイヤーズS | G2 | 中山 | 芝3600 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 1 | 2 |
11 | 1999/12/26 | 有馬記念 | G1 | 中山 | 芝2500 | 晴 | 良 | 14 | 和田竜二 | 5 | 3 |
12 | 2000/02/20 | 京都記念 | G2 | 京都 | 芝2200 | 晴 | 良 | 11 | 和田竜二 | 1 | 1 |
13 | 2000/03/19 | 阪神大賞典 | G2 | 阪神 | 芝3000 | 雨 | 稍 | 9 | 和田竜二 | 1 | 1 |
14 | 2000/04/30 | 天皇賞(春) | G1 | 京都 | 芝3200 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
15 | 2000/06/25 | 宝塚記念 | G1 | 阪神 | 芝2200 | 雨 | 良 | 11 | 和田竜二 | 1 | 1 |
16 | 2000/10/08 | 京都大賞典 | G2 | 京都 | 芝2400 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
17 | 2000/10/29 | 天皇賞(秋) | G1 | 東京 | 芝2000 | 曇 | 重 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
18 | 2000/11/26 | ジャパンカップ | G1 | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
19 | 2000/12/24 | 有馬記念 | G1 | 中山 | 芝2500 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
20 | 2001/04/01 | 産経大阪杯 | G2 | 阪神 | 芝2000 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 1 | 4 |
21 | 2001/04/29 | 天皇賞(春) | G1 | 京都 | 芝3200 | 雨 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
22 | 2001/06/24 | 宝塚記念 | G1 | 阪神 | 芝2200 | 晴 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 2 |
23 | 2001/10/07 | 京都大賞典 | G2 | 京都 | 芝2400 | 晴 | 良 | 7 | 和田竜二 | 1 | 1 |
24 | 2001/10/28 | 天皇賞(秋) | G1 | 東京 | 芝2000 | 雨 | 重 | 13 | 和田竜二 | 1 | 2 |
25 | 2001/11/25 | ジャパンカップ | G1 | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 15 | 和田竜二 | 1 | 2 |
26 | 2001/12/23 | 有馬記念 | G1 | 東京 | 芝2500 | 晴 | 良 | 13 | 和田竜二 | 1 | 5 |
*オペラハウス 1988 鹿毛 |
Sadler's Wells 1981 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Fairy Bridge | Bold Reason | ||
Special | |||
Colorspin 1983 鹿毛 |
High Top | Derring-Do | |
Camenae | |||
Reprocolor | Jimmy Reppin | ||
Blue Queen | |||
*ワンスウエド 1984 栗毛 FNo.4-m |
Blushing Groom 1974 栗毛 |
Red God | Nasrullah |
Spring Run | |||
Runaway Bride | Wild Risk | ||
Aimee | |||
Noura 1978 黒鹿毛 |
Key to the Kingdom | Bold Ruler | |
Key Bridge | |||
River Guide | Drone | ||
Blue Canoe |
クロス:Nasrullah 4×5(9.38%)、Nearco5×5(6.25%)
JRA顕彰馬 | |
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイジヒカリ - ハクチカラ - セイユウ - コダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー - トウショウボーイ - テンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ - オグリキャップ - メジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー - テイエムオペラオー - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロア - ジェンティルドンナ - キタサンブラック |
|
競馬テンプレート |
---|
中央競馬の三冠馬 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | セントライト(1941年) | シンザン(1964年) | ミスターシービー(1983年) | シンボリルドルフ(1984年) | ナリタブライアン(1994年) | ディープインパクト(2005年) | オルフェーヴル(2011年) | コントレイル(2020年) |
---|---|---|
牝馬三冠 | 達成馬無し | |
変則三冠 | クリフジ(1943年) | |
中央競馬牝馬三冠 | メジロラモーヌ(1986年) | スティルインラブ(2003年) | アパパネ(2010年) | ジェンティルドンナ(2012年) | アーモンドアイ(2018年) | デアリングタクト(2020年) |
|
古馬三冠 | 春古馬 | 達成馬無し |
秋古馬 | テイエムオペラオー(2000年) | ゼンノロブロイ(2004年) | |
競馬テンプレート |
掲示板
1932ななしのよっしん
2023/01/25(水) 22:54:44 ID: mWxPXAZeuR
中国語の萌娘百科の好歌劇(ウマ娘)のページの史実オペラオーの記述が、場合によってはニコニコ大百科や日本語wiki以上に(異常に)詳しいのウケる
もちろん根拠が十分でないから日本語のページに載ってないという話もあるんだけどさ
他の馬もこんなに詳しく書いてあるのか?w
1933ななしのよっしん
2023/01/26(木) 01:08:13 ID: VXuMLvrrKm
>>1932
ルドルフの発音の難しさとかボリクリと名前が似てるクリエンスの記述やテイオーの血統についてとか
これも有るのかいうような事が書かれてるのは良い
しかし、ルドルフの記事に↓ググっても出てこない言葉が日本の言葉として紹介されてたり
在日本有流传着“永远的一马位”的说法(訳 日本には「永遠の一本釣り」という言葉がある)
真偽不明のスぺの種付け嫌いや、ライアンの従兄弟にバクシンオーが居るという
ソースどこ?とか競走馬における従兄弟は兄弟姉妹と同じく母系のみだとツッコミたくなる所も有った
それとホモネタが苦手な人はドットさんとボリクリの記事を見ない方がいい
1934ななしのよっしん
2023/01/26(木) 12:31:52 ID: mWxPXAZeuR
>>1933
ルドルフのそれは英訳するとone horse length forever って出るから、着差が大きくないのに絶対に詰まらない、果てしないほどの力の差があるということと、先頭に立つとソラを使うことを指すじゃないのかな。具体的にはビゼンニシキとの関係を言っているんだと思う。
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最終更新:2023/01/31(火) 09:00
最終更新:2023/01/31(火) 09:00
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