伊33とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊15型/巡潜乙型潜水艦14番艦である。1942年6月10日竣工。帝國海軍で唯一二度の沈没を経験した不吉な艦歴が異彩を放つ。
概要
ロンドン海軍軍縮条約脱退以降、帝國海軍は旗艦用の巡潜甲型と、量産用の巡潜乙型の二本柱を以って、乏しい潜水艦戦力の拡充を図ろうとした。設計自体は巡潜甲型をベースにしているが、不必要な旗艦設備を撤去し、艦体を小型化して量産性を向上させた。しかし燃料搭載量の減少を招いて航続距離が1万4000海里に減じた。また、小型化したと言っても排水量は2000トン以上もあり、更に水上偵察機の運用能力も有するため、潜水艦の中では非常に巨体、下手な駆逐艦よりもずっと大きいのである。
設備をギチギチに詰め込んだ弊害で通路は兵員2名がギリギリ通れる程度の幅しかなく、よく突起物に頭をぶつけて屈強な乗組員が涙をポロポロ流すのは日常茶飯事。食糧庫が無いので糧食は隙間という隙間に詰め込まれ、通路に敷き詰めてその上に板を置くなど、徹底的に空間を活用している他、主計長がどこに何の食べ物があるのかを把握していないと献立が成り立たなくなってしまう。
要目は排水量2198トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、搭載重油量774トン、乗員96名、安全潜航深度100m。武装は40口径14cm単装砲1門、25mm連装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管6門、魚雷17本。零式小型水上偵察機1機の運用能力を持つ。
冥府に魅入られた群青の潜水艦
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)において、乙型一等潜水艦第146号艦の仮称で建造が決定。
1940年2月21日に三菱重工神戸造船所で起工、1941年3月25日に伊41と命名されて5月1日に進水、開戦直前の11月1日に伊33に改名し、1942年6月10日に竣工を果たした。初代艦長に小川綱嘉中佐が着任するとともに呉鎮守府に編入され第6艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊の旗艦となる。伊33は瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事。予定ではインド洋方面の通商破壊作戦に投入されるはずだった。
1942年8月7日早朝、アメリカ軍がソロモン諸島ガダルカナル島、ツラギ島、フロリダ島、カブツ島、タナンボコ島に来襲し、想定より早い反攻作戦が始まった。これを受けて連合艦隊と大本営は協議を行い、ソロモン戦線に潜水艦を集中投入すると決定。内地にて整備を行っていた第1潜水戦隊にも急速出撃準備が下った。
8月15日、伊33を含む第1潜水戦隊所属の潜水艦7隻は一斉に呉を出港。サンクリストバル島南方で東から伊26、伊19、伊17、伊15、伊31、伊33、伊9の順に並んでA散開線を形成する。8月24日午前11時5分、伊33は敵空母エンタープライズ所属のドーントレス急降下爆撃機から襲撃を受けるも、急速潜航を行って逃走に成功した。16時50分、敵機動部隊発見の報に伴い、「A散開線から100海里南方へ移動せよ」との命令が下り、新たにE散開線を形成。8月26日、サンクリストバル島の南と東に展開してガ島に向かうアメリカ軍の補給と増援を阻止するよう命じられる。
8月28日21時、伊15が敵機動部隊を発見するも敵駆逐艦から対潜制圧を受けて見失ってしまう。司令部は伊15、伊17、伊33の3隻に積極的な前進を命じて索敵に当たらせたが、結局発見には至らなかった。8月30日午後12時20分、ガ島方面に展開中の潜水艦に極力泊地内の敵艦船を攻撃するよう指示が下る。同日中、伊33は敵機動部隊を発見するが雷撃位置に付けなかったため、位置情報のみを通報した。8月31日にH散開線を形成。
9月8日午前0時、サンタクルス諸島とサンクリストバル島の間に、東から伊24、伊21、伊26、伊19、伊15、伊17、伊33、伊31の順にI散開線を形成。9月13日16時32分、索敵中の二式飛行艇がツラギ南南東345海里で敵機動部隊を発見したとの報が入り、今度はK散開線へ移動するが、それから間もない9月15日午前9時10分に敵輸送船団が発見されたため、伊33、伊17、伊15はインディスペンサブル水道南口に急行。
9月20日にトラックへの帰投命令を受領。伊33は9月25日に入港した。
事故(一回目)
1942年9月26日早朝、リーフに衝突して艦首の六番魚雷発射管維持針装置が損傷した伊33は、修理のため夏島の埠頭に係留し、右舷側に特設工作艦浦上丸が横付けしていた。小川艦長と先任将校は打ち合わせの目的で浦上丸に移乗し、入れ替わる形で伊33には浦上丸の工員と技術者が移乗する。乗組員の半数は上陸して休暇を楽しんでいた。
海面にはうねりがあり、艦首に波がかぶって作業が難航した事から、技術者はアップトリムにして艦首を持ち上げるよう依頼。掌水雷長は後部メインタンクに注水して艦首を0.3m持ち上げる。ところがこの行動は将校に無断で行ったものだった。午前9時23分、後ろに自重をかけすぎたせいで艦尾を埠頭に固定していた舫い索が切断、開きっぱなしだった後部兵員室のハッチ5つから瞬く間に海水が流入し、僅か2分で艦尾側から水深36mの水底へ沈んでしまう。同日中に第15潜水隊から除かれる。
直ちに乗組員の救助が試みられ、潜水したダイバーが海底に沈む伊33を確認。乗組員の一部がまだ生存していると報告する。しかし引き揚げるために必要な設備がトラック基地には無く、第6艦隊は9月27日に救助を断念、艦内に取り残されていた工員と乗組員33名全員が溺死してしまう。不幸中の幸いだったのは半舷上陸中だったため乗員全滅が避けられた事だった。9月30日、事態を知った海軍省は引き揚げを命じ、10月2日に乗組員の死亡を認定するとともに救難作業の主導を連合艦隊から現地の第4艦隊に移管。11月10日に第四予備艦へと変更される。沈没した伊33を引き揚げるため横須賀工廠より救難隊を派遣。
12月19日午前4時30分、浦上丸と補助母船立山丸が前部の排水作業を行い、15時頃には前部が水面に出てきたものの艦橋ハッチカバーが吹き飛び、再び沈没してしまう。12月25日からは救難船みえ丸とタンカー日本丸が空気排水作業を開始。
四苦八苦の末、1943年1月29日17時にようやく引き揚げ成功。内地で本格的な修理を受けるべく、3月2日、日豊丸に曳航されてトラックを出港。護衛には特設砲艦と平城丸が付き、3月9日からは駆逐艦夕凪が参加、水雷艇鳩と第46号哨戒艇も合流した。3月18日に呉工廠へ入渠して修理を行う。
1944年4月1日に呉防備戦隊へと編入。修理と並行して22号水上電探とE-27電波探知機の搭載工事を行い、5月初旬まで作業が続いた。5月4日に二代目艦長である和田睦雄少佐が着任。そして5月31日に修理完了。6月1日から第6艦隊第11潜水戦隊に所属して伊予灘で慣熟訓練を行い、これまでの遅れを取り戻すかのように乗員の錬度をメキメキと上げていった。
事故(二回目)
1944年6月13日午前7時に愛媛県郡中沖を抜錨。午前8時40分より由利島南方で和田艦長が急速潜航を命じるが、右舷機械室吸気筒から突如浸水が始まり、制御室後方全てが満水となって水深61mの海底に沈んでしまった。伊33の全長は103mなので艦首のみ水上に出ていた。
発令所には和田艦長を含む10名の士官が、前部乗組員室には13名の乗組員が閉じ込められる。すぐにハッチを閉めた事で司令塔と発令所は物理的に隔絶された。乗組員による決死の応急修理も艤装不良で手の施しようがない。発令所には際限なく海水が流れ込んできており、浸水被害を食い止められそうにないと悟った和田艦長は司令塔を通って総員退艦するよう命令。自身は艦内に留まって自ら溺死の道を選んだ。前部乗組員室の13名は下部ハッチが開かなかったため脱出に失敗して12名が窒息死、最後に残った1名は希望を見いだせずに自殺した。発令所の15名は決死の覚悟でハッチを開けて艦外に脱出、海面に出た生存者は2つのグループに分かれ、それぞれ由利島と青島に向かったが殆どが過労による溺死の末路を辿り、助かったのは偶然通りがかった漁船に救われた3名だけだった。このうち1人はすぐに息を引き取ってしまっている。
漁船は生存者を三戸浜まで連れて行き、1名が松山海軍航空隊に通報。呉鎮守府に取り次いだ事で沈没が明らかになり潜水母艦長鯨と伊361が救難に出動。翌14日早朝、捜索機が海面に広がる油膜を発見して長鯨を誘導。6月15日にダイバーが乗組員2名の遺体を発見して引き揚げた。浸水の原因は、呉での修理中に直径5.1cmの木製の足場が吸気筒に詰まった事だった。6月16日に呉からクレーンを装備した起重機船が到着。しかし同日夕刻、接近してきた台風に作業を阻まれて救難作業を断念。調査に関わった将校がすぐにサイパンへ送られたため原因究明の調査も中止された。この事故で乗組員102名が死亡。
1944年8月10日、除籍。伊33は事故で二度の沈没を経験した唯一の日本潜水艦となった。伊33の不吉な末路のせいか、帝國海軍の潜水艦乗りは「3」とその倍数を忌み嫌った他、戦時中は悪い噂が流れていたという。
戦後
沈没から8年が経過した1952年に残骸が売却。1953年6月28日より報道陣が見守る中、北星船舶が引き揚げ作業を開始する。前部魚雷発射管に空気が残っていた影響で引き揚げ作業が難航するも7月23日に艦体が水上に姿を現した。
魚雷発射管のハッチから中に進入するとホルマリン臭のガスが猛烈に噴き出した。中には窒息死した乗組員の遺体が倒れ伏していたが、不思議な事に遺体の状態は非常に綺麗で、まるで生きているかのようだった。後部の電動機室からは27名分の遺書も発見。後に引き揚げられる事を想定してか遺書は2つの水嚢に入れられてテープでぐるぐる巻きにされていたという。13名の遺体を収容した後、艦体は興居島に接岸。後に興居島の御手洗海岸には伊33の慰霊碑が建立された。
8月9日に尾道の日立造船因島工場へ回航。8月12日、元海軍技術大佐1名と元少佐2名が調査のため艦内に進入した。この時、1ヶ月間しっかり換気されていたにも関わらず3名ともガス中毒で死亡している。8月18日より解体作業が始まり伊33は姿を消した。
関連項目
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