伊21とは、大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜乙型潜水艦4番艦である。1941年7月15日竣工。通商破壊で連合軍船舶9隻(5万3538トン)を撃沈し、3隻(2万3816トン)を撃破。撃沈スコア第4位の戦果を誇る。他にも輸送任務や陸上砲撃、航空偵察に従事するなど八面六臂の活躍をした。1943年11月29日、タラワ近海の中部太平洋で戦没。
概要
9隻の連合軍船舶を海の藻屑にした蒼海の狩人
1937年に策定された海軍補充計画(通称マル三)にて、乙型一等潜水艦第40号艦の仮称で建造が決定。
1939年1月7日に川崎重工神戸造船所で起工し、1940年4月24日に進水、1941年2月3日に艤装員事務所を開設、そして開戦直前の7月15日に竣工した。初代艦長に入江達中佐が着任するとともに横須賀鎮守府に編入され、姉妹艦伊22と第6艦隊第1潜水戦隊第3潜水隊を新編する。10月31日、二代目艦長に第6艦隊の首席参謀である松村寛治中佐が着任した。
11月10日、第6艦隊旗艦こと練習巡洋艦香取で行われた作戦会議に松村艦長が出席し、開戦前より極秘裏に進められていたハワイ作戦(真珠湾攻撃)への参加が決まる。南雲機動部隊の前路哨戒に伊19、伊21、伊23の3隻が充てられた。機動部隊は荒れ狂う北太平洋を突破する関係上、予定された洋上給油が失敗する可能性がある。失敗した場合、航続距離に不安を抱える水雷戦隊は護衛から脱落せざるを得なくなり、その時は水雷戦隊の代役を務めるのが潜水艦群の役割であった。仮に敵艦隊が出現した場合は前面に進出して食い止め、不時着水した味方の搭乗員がいれば救助する任も帯びていた。機密を優先した影響で伝達が遅れ、正式に命令が下ったのが11月15日。このため伊21と伊19の出港も遅れて11月20日になってようやく横須賀を出発。11月23日13時30分、機動部隊の集結地となっている単冠湾に到着した。
11月26日朝、旗艦赤城率いる機動部隊とともに出撃し、未曽有の大作戦に臨む。伊21は予定通り機動部隊の前路哨戒を担当した。波こそ高かったものの天候に恵まれており、思いのほか航海は順調、懸念材料だった洋上給油も事故無く行われた。12月1日、目的地ハワイまで約半分のところまで到達。翌2日20時、連合艦隊より「ニイタカヤマノボレ」の暗号を受信。これは水面下で粘り強く続けていた日米交渉がついに決裂し、対米戦争が不可避となった事を意味していた。12月4日午前4時に南雲機動艦隊は針路を南東へ変更。12月7日、第1補給隊による最後の洋上給油が無事成功した事で水雷戦隊の脱落は無くなった。
艦歴
1941年
1941年12月8日、伊21は南雲機動部隊と別れ、オアフ島北方の配備点につく。午前3時19分、空母6隻から飛び立った第一次攻撃隊183機がハワイ攻撃を開始。近海に配備されている潜水艦には港内から慌てて逃げだしてくるであろう敵艦船攻撃が命じられた。
攻撃後は搭載機による戦果確認を行う予定だったが、12月9日に伊6がオアフ島沖で東北東に向かうレキシントン級空母と巡洋艦2隻を発見したため、クェゼリンの第6艦隊は伊21、伊9、伊15、伊17、伊19、伊23、伊25に急遽敵空母追撃命令を下す。12月11日、敵空母エンタープライズを発見して追跡するが、ディーゼルエンジンの電気的故障とSBDドーントレス急降下爆撃機数機の襲撃を受けて断念しなければならなくなる。浮上してもなお敵機の襲撃と追跡が続き、業を煮やした松村艦長は「日本の潜水艦は飛行機さえ見れば潜るものと敵は舐めておる。今度敵機が来たら撃ち落としてやる。全員、その覚悟でおれ」と乗組員に訓示した。そして12月13日13時、1機のドーントレスが出現。伊21は距離4000mから対空機銃を撃ちまくり、驚いた敵機は一度雲間に隠れた。しかしその10分後、先ほどの敵機が艦後方より出現し、高度1000mから急降下爆撃を仕掛けてきた。回避運動により爆弾は左舷至近に着水。幸い不発弾であったが、艦橋にいた者は海水をかぶり、これに懲りたのか松村艦長は対空戦闘を避けるようになったという。
12月14日、敵空母の発見報告が途絶えた事から第6艦隊は追跡を断念。代わりにアメリカ西海岸沖への進出を命じ、伊21はカリフォルニア州ポイント・アルゲッロ沖の配備が決まった。
12月23日午前1時32分、サンフランシスコ南方のエステロ湾沖でバンクーバーに向かっていた米油槽船モンテベロ(8272トン)を捕捉。既にモンテベロは伊21を発見し、ジグザグ運動しながら日本潜水艦の出現をアメリカ海軍に通報していた。伊21は距離2000mから2本の魚雷を発射し、このうち1本が左舷に炸裂。油を積んでいなかったため誘爆は避けられたが爆発で前部マストが倒壊。甲板室と無線室が破壊された。船員38名は4隻の救命艇に分乗して船を放棄。しかしモンテベロは沈む様子が無かったため、8~9発の甲板砲を撃ち込み、うち1発が船首を吹き飛ばして沈没速度を速めて1時間後に沈没。午後、近隣で米油槽船アイダホに命中弾を与えて撃破した。
12月24日午前8時頃、潜航中の伊21は対潜攻撃を受ける。2回の爆雷攻撃は伊21へ的確にダメージを与え、垂直舵損傷と艦内の電力喪失を招いた。松村艦長は敵を哨戒艇と認識し、浮上して砲撃戦を命じたが、直前に非常灯が復旧。わずかな明かりで垂直舵の修復に成功したため難を逃れた。哨戒艇からの攻撃と思われていたが、実際はカタリナ飛行艇による攻撃だった。予定では12月25日に伊号潜水艦9隻による一斉砲撃が計画されていたが、クリスマスに死傷者を出せば敵国民の戦意を煽りかねないとして中止された。やがて燃料が乏しくなり、帰路に就く。
1942年
1942年1月11日、クェゼリンに帰投。燃料補給を受けたのち1月23日に出港、2月1日に横須賀へ入港した。3月10日、第8潜水戦隊に編入。瀬戸内海西部で訓練に従事する。
4月15日、第8潜水戦隊所属艦11隻の訓練が完了。翌16日、伊22、伊24、伊27、伊28、伊29とともに呉を出港。ところが4月18日にドーリットル空襲が発生。連合艦隊は伊21や他の潜水艦に追撃命令を下したが、結局発見できず元の航路へ戻った。4月25日にトラック諸島へ入港。4月27日にトラックを出撃し、MO作戦支援のためヌーメア方面に向かった。5月2日、道中の珊瑚海を水上航行中に敵空母ヨークタウンから発進した偵察のドーントレスに発見される。敵機は無線封鎖をしながら母艦へ戻り通信筒で報告、ヨークタウンよりMk17爆雷2発を装備したデバステーター雷撃機3機が出撃していった。伊21の見張り員が接近するデバステーターを発見し、急速潜航。海中へ没した後に攻撃を受けた。約1時間後、安全を確認して浮上してみると後甲板に多数の爆弾の破片が残されていた。
5月5日夜、ニューカレドニアのヌーメア沖でドラム缶に詰めたガソリン2000トンを輸送中の米リバティ船ジョン・アダムス(7176トン)を発見。2時間の追跡の末、九五式酸素魚雷2本を発射。2本とも魚雷は命中し、ジョン・アダムスは沈没した。同船は大東亜戦争で最初に喪失したリバティ船となった。5月7日午前6時30分、ヌーメアの西方20海里付近で潜航中に聴音手が推進軸を探知して追跡を開始する。ギリシャ貨物船クロエ(4641トン)に対して2本の魚雷を発射するが、どちらも早爆してしまう。伊21は浮上し、70発の甲板砲を撃ち込んでクロエを撃沈。生存者が乗る救命艇に横付けして食糧を与え、ヌーメアの方角を教えて去った。5月8日、伊21は敵の大船団を発見。雷撃を行うも命中せず、やむなく水上砲撃に持ち込もうとしたが、敵哨戒機から6発の爆雷を投下されたため潜航退避を余儀なくされた。5月14日、ヌーメア方面を出発して帰路に就くが、翌日九七式飛行艇がソロモン諸島沖で敵空母エンタープライズとホーネットを発見。第6艦隊司令部より連合軍が新たな基地を築いたとされるフィジー諸島スヴァの偵察を命じられた。
5月19日早朝、伊21から発進した零式水上小型偵察機がスヴァを航空偵察し、グラスゴー級軽巡洋艦1隻と潜水艦7隻の停泊を確認。5月24日黎明、次はオークランドの飛行場を航空偵察すべく艦載機を発進させたが、突如として激しいスコールに見舞われてしまい、港内の船舶を発見できなかった。ニュージーランド軍は零式水上小型偵察機を味方と誤認したようで、飛行場の着陸灯が点灯したという。その後、甲標的によるシドニー港攻撃の支援を行うべく、シドニー沖へ移動。5月29日未明、シドニー北東35海里から艦載機を発進。コカトゥー島上空で3条のサーチライトに照射されるも振り切り、港内を航空偵察する。午前4時20分、停泊中の重巡シカゴを戦艦と判断した。またシカゴ側も航法灯を点けた水上機が港の上空を2周しているのを目撃している。当初はアメリカの航空機と誤認されていたが、日本軍機と確認されるとオーストラリア軍は戦闘機を派遣。幸い見つかる事は無かった。零式水上小型偵察機は無事伊21のもとへ帰還したが、荒波によって転覆してしまい喪失。搭乗員のみ救助した後、艦載機を処分。5月31日に伊22、伊24、伊27による甲標的攻撃が行われ、伊21は6月3日まで甲標的の帰還を待ち続けたが、ついに現れなかったため通商破壊を開始。
6月8日午前2時15分、9km沖合からニューカッスル造船所を艦尾の甲板砲を使って砲撃。攻撃目標は市内のBHP製鉄所であった。照明弾8発と砲弾26発を撃ち込んだが、着弾が広範囲に散ってしまい最小限の被害しか与えられなかった。午前2時28分、スクラッチリー基地の陸上砲台から反撃の4発が撃たれたが、松村艦長は潜水艦の位置特定には時間が掛かると判断して砲撃下において3分間砲撃を続行。午前2時31分に退避した。ニューカッスルには対潜攻撃可能な艦艇が存在しなかったため追撃は受けなかった。午後遅く、伊21はメルボルンに向かう敵船団を発見したが、攻撃に失敗した。6月11日にはついに伊21も危害が迫った。レーダーを装備した敵駆逐艦に追い回されたのである。かろうじて敵艦を振り切った事で難を逃れた。翌12日午前1時14分、浮上していた伊21はシドニー沖40海里で8隻の輸送船からなる敵船団を発見。浮上したまま4本の魚雷を発射、4200トンのコークスを輸送していたパナマ貨物船グアテマラ(5527トン)に命中させ、1時間後に沈没へと追いやった。6月25日、クェゼリンに帰投。本格的な修理のためクェゼリンを発ち、7月12日に横須賀へ入港した。
8月23日に横須賀を出港。アメリカ軍が来襲したソロモン諸島方面に急行する。8月31日午前8時、エスピリトゥサント島北西沖で哨戒中に西方からの37回の爆雷攻撃音を探知。これは敵空母サラトガを撃破した伊26が米駆逐艦マクドノーとフェルプスから爆雷攻撃を受けている音だった。9月13日早朝、横浜海軍航空隊所属の二式飛行艇がガダルカナル島沖345海里を偵察中、空母1隻、戦艦2隻、駆逐艦2隻からなる敵艦隊が北上するのを発見。伊21は伊9、伊15、伊17、伊24、伊26、伊31とともに散開線を編制し、敵艦隊の捕捉に努める。しかし発見には至らなかった。10月2日未明、エスピリトゥサント島の航空偵察を実施。この偵察任務を以ってトラックへの帰路に就いた。10月7日、トラック近海を水上航行中に距離4000mから米潜水艦アルバコアより雷撃を受ける。魚雷を回避した後、伊21の見張り員が潜望鏡を発見。反撃するべく艦首をアルバコアに向けたところで潜望鏡を見失ってしまった。翌8日、トラック入港。
トラックを出撃した伊21は10月27日午前6時38分、インディスペンサブル礁南方150海里でコロラド級戦艦を発見。松村艦長は2秒間隔で6本の魚雷を発射。しかし魚雷は全て外れ、うち1本は戦艦ワシントン後方の航跡で起爆した。間もなく護衛の駆逐艦が対潜制圧を開始し、伊21は水深70mまで沈降。2ノットの速力で脱出を試みる。ところが直上で爆雷が炸裂した際に艦が大きく揺さぶられ、機械室から「機械室大浸水」という絶望的な報告が上がった。だが松村艦長は冷静沈着に「落ち着いて処置せよ」と命令。艦長の落ち着いた態度がパニックを防ぎ、パイプの舷外に通じる弁を閉めて浸水は止められた。何とか助かったものの魚雷発射管3本を損傷してしまい、装填されていた魚雷は艦内に収容された。その後、敵艦隊はヌーメア方面に向かうと推測して追跡を行ったが、捕捉できなかった。11月9日17時47分、ヌーメア近海で米リバティ船エドガー・アレン・ポー(7176トン)を捕捉。接近しながら魚雷1本を発射して見事命中させる。エドガー・アレン・ポーは放棄されたかに見えたが、砲手が残っていて砲撃を受けたため急速潜航。同リバティ船はヌーメアまで曳航されたが、損傷激しく全損と判断された。この戦果を以って伊21はトラックへ帰投する。
第三次ソロモン海戦に敗れて以降、輸送船による強行補給は困難になりつつあった。11月16日、連合艦隊司令部は潜水艦に輸送協力をするよう命令。ガダルカナル島にいる2万以上の将兵を支えるには駆逐艦の輸送だけでは足りず、ついに潜水艦も輸送任務に駆り出された訳である。12月15日、第3潜水隊の解隊に伴って第1潜水隊に編入。翌16日、トラック環礁内でガダルカナル島の陸軍第17軍に補給のための防水ゴム袋の浮遊テストに協力。
12月21日、ガ島とブナへの作戦輸送のためトラックを出撃。前進拠点のショートランドで魚雷を2本残して陸揚げし、輸送用潜水艦に改装。12月24日、便乗者20名と糧食入り防水ゴム袋を満載して出港する。12月26日夜、ガ島西端のカミンボに到着。輸送物資と便乗者を揚陸した後、傷病兵44名を収容して出発。無事ラバウルまで連れ帰った。伊21は輸送任務から外され、オーストラリア東岸での通商破壊に従事すべく降ろした魚雷を再度搭載した。
1943年
1943年1月7日、ラバウルを出港して伊10とともにオーストラリア東岸方面に向かう。1月15日にシドニー沖の配備点に到着。1月18日、タスマン海にてシドニーからニュージーランドのニュープリマスに向かって単独航行している豪貨物船カリンゴ(2047トン)を捕捉。2本の魚雷を命中させてカリンゴを大破炎上に追いやり、船員は船を放棄。伊21はトドメを刺すべく浮上し、船員の退避が済んでから3本目の魚雷を撃ち込んで撃沈した。同日21時50分、護衛を受けて航行中の米大型商船モービルーブに2本の魚雷を発射し、うち1本が機関室に命中して撃破。船員3名が死亡するとともにモービルーブは航行不能に陥った。手負いのモービルーブにトドメを刺すため浮上する伊21だったが、小型の護衛艦艇がすっ飛んできたため潜航を強いられる。その後、6発の爆雷が投下されたが伊21に傷を負わせる事は出来なかった。モービルーブは曳航されて近くの港に到着するも、機関室の損傷が激しく全損判定を受け、以降は非曳航式燃料タンクとして使用された。
1月22日、シドニー北方680kmで伊21はニューカッスルより出港してきた米リバティ船ピーターH・バーネットに向けて水深18mから2本の魚雷を発射。98秒後、1本の魚雷が命中して炸裂した。同船はコルベット艦ミルデューラの手でシドニーまで曳航されて修理を受けた。1月25日、艦載機を飛ばしてシドニー港を航空偵察。重巡の停泊と、港の入り口付近に10隻の小型船舶を認めた。1月27日、駆逐艦に護衛された3隻の輸送船を発見するも、攻撃は出来なかった。1月30日、英貨物船ザン・アンを雷撃するが、魚雷が早爆してしまった。2月4日にも駆逐艦に護衛された4隻の敵船を発見しているが、攻撃できず。いまいち戦果が振るわない日々が続く。2月8日夜、モンタギュー島沖15海里で10隻からなるOC-68船団を発見。伊21は闇夜に紛れながら魚雷を発射し、バザースト級コルベット艦タウンズビルの艦底を通過して船団の右舷列先頭を走っていた英貨物船アイアンナイト(4812トン)の船橋下に命中。わずか2分で積み荷の鉄鉱石ごと沈没させた。乗組員の大半が甲板の下にいたため殆ど脱出する事が出来ず、船長を含む36名が溺死。生存者は14名だけだった。コルベット艦ミルドゥーラが数日間伊21を捜索したものの発見されなかった。鉄鉱石運搬船は積み荷が積み荷だけに沈没が早く、救命艇を降ろす前に船員ごと沈んでしまう事も珍しくなかった。このため連合軍の船員は鉄鉱石運搬船を「死の船」と呼んでいた。また船主のBHP製鉄所は船が沈没した瞬間から船員への給与支払いを停止しており、二重の意味で船員は災難だった。
2月9日、シドニーからニューカレドニアへ7000トンの陸軍物資を運ぶ米リバティ船スターキング(7176トン)を発見して追跡開始。翌10日、マッコリーア港沖で4本の魚雷を放ち、うち2本がスターキングに命中して撃沈。2月19日、ニューサウスウェールズ州の海岸線を撮影しながら艦載機による航空偵察を行う。零式水上小型偵察機は敵のレーダー捕捉されるも、攻撃は受けなかった。2月23日、トラックに帰投。伊21と伊10の通商破壊により6隻の連合軍船舶が撃沈された。これはオーストラリア近海での通商破壊で最も多い戦果だった。3月3日に横須賀へ帰投して整備を受けた。3月16日、三代目艦長に稲田洋中佐が着任。
5月6日、横須賀を出港。南東方面に向かっていたが、5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸を受けて伊21、伊168、伊171、伊175とともに第5艦隊へ転属。5月19日に帰投を命じられて横須賀に到着。5月21日に再出発して北東方面の拠点である幌筵島片岡湾に移動する。5月26日、孤立したキスカ島から将兵を撤退させるべく幌筵を出撃。霧に支配された流氷の海域を進む伊21。視界を真っ白に染めるほどの濃霧は隠れ蓑には打ってつけだったが、敵は霧の中からでも正確に位置を特定できるレーダーを持っており、決して安全な航海とは言えなかった。敵艦艇が目を光らせる中、5月30日にキスカ湾へ到着。25トンの物資を揚陸して60名を収容、幌筵に連れ帰った。6月2日、給油船帝洋丸から燃料補給を受ける。6月11日に再度キスカ湾に到着し、物資13トンを揚陸して60名を収容。幌筵に帰投した。一連の輸送任務で伊24、伊9が失われた。
6月18日、横須賀に帰投。ソナーと逆探装置を装備する工事を行い、再びアリューシャン方面で輸送任務に従事。7月5日に伊7が撃沈された事を受け、暗号書の奪取を憂慮して7月15日に一時輸送中止。各潜水艦にその場で留まるよう命令が下った。7月16日、伊21と伊169はアムチトカ島にある敵飛行場砲撃を命じられたが、9時間後に中止命令が下った。8月9日、横須賀に帰投。
9月11日、横須賀を出発してトラックに進出。9月25日にトラックを出撃してフィジー諸島方面に向かう。10月8日夜、スヴァを航空偵察するため零式水上小型偵察機を発進させた。10月16日、ニューヘブリディーズ諸島方面で敵輸送船を発見するも命中せず。10月19日、ハワイ方面で活動中の伊36が通報した6隻の艦隊給油船団を迎撃するよう命じられて移動。11月11日、フィジー諸島沖でオーストラリアのタウンズビルに向かっている敵船団を捕捉。雷撃により米貨物船ケープ・サン・ファン(6711トン)を撃沈した。同船はアメリカ兵1348名を輸送しており、被雷の爆発で16名が死亡。沈没時に114名が溺死する人的被害が生じる。稲田艦長が撃沈報告を行うとトラックへの帰投が命じられた。
しかし帰路に就いていた11月19日、アメリカ軍の大部隊がマーシャル諸島のマキン島とタラワ島に襲来。連合艦隊は丙作戦第三法警戒を発令し、伊21と伊19、伊35、伊39、伊40、伊169、伊174、伊175、呂38に迎撃命令を下す。11月21日早朝、マキンとタラワの両島にアメリカ軍が上陸。これを受けて丙作戦第三法発動を下令し、伊21、伊19、伊35を攻撃の集中が予想されるタラワ方面に緊急配備する。タラワ近海には敵の大部隊が活動中であり、11月23日にまず伊35が撃沈された。伊21はタラワ近海の戦況を逐次報告し続け、第6艦隊に判断材料を与えた。
11月27日、タラワ南西で発した敵艦隊発見の報を最後に伊21は消息を絶った。
最期
1943年11月29日21時57分、タラワの攻略作戦を支援していた第53.6任務部隊の米護衛空母チェナンゴのアベンジャーが潜水艦を撃沈した。その潜水艦こそ伊21だった。乗組員101名全員死亡。11月30日、第6艦隊は伊21と伊35にタラワ方面の戦況を報告するよう求めたが、返答は無かった。12月2日19時20分にも「トラックに帰投せよ、燃料不足の場合はクェゼリンに寄港補給すべし」と命令を送っているが、やはり返答は無かった。参加した潜水艦9隻のうち伊21を含む6隻が未帰還となり、かろうじて生還できたのは伊169、伊174、伊175の3隻だけだった。スコアは撃沈9隻(5万3538トン)と撃破3隻(2万3816トン)で、帝國海軍潜水艦の中では第4位の戦績を誇る。
余談だが、南太平洋海戦で米駆逐艦ポーターを撃沈したのは伊21だと長らく信じられていた。だが実際は撃墜されたエンタープライズのアベンジャーから発射された魚雷により沈んだのが真相であった。また漫画『ジパング』にも登場しており、トラック諸島から横須賀に回航されるイージス艦みらいの伴走者を務めたが、みらいの実力を図るためワスプ航空隊に襲わせて自身は潜航退避した。
関連項目
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