甲斐宗運(かい そううん 1515 ~ 1585)とは、戦国時代の肥後阿蘇神社の大宮司である阿蘇氏に仕えた強靭!無敵!最強!なチート爺であり、生涯六十余度の合戦に不敗の伝説を持つ最強坊主。「宗運」は出家後の名乗りであり、本名(諱)は「親直」。
「信長の野望」においては、阿蘇家最強の武将どころかタイトルによっては九州でも最強クラスの能力を持っている為「阿蘇家の柱石」「阿蘇家の大黒柱」「阿蘇家の全て」と言われたり、統率・武勇・智謀・政治の4つの能力全てが阿蘇家に並ぶ者なしなところから「阿蘇家の四冠王」と呼ばれている。
右の画像は、信長の野望・革新~創造時代の顔グラ。大志では下述の壮絶な人生を反映してか、フォースの暗黒面に堕ちたような顔つきに変貌してしまっている。
阿蘇家の忠臣
元寇の際に活躍した菊地武房に繋がる甲斐氏・甲斐親宣の子に生まれ、父の死後家督を継ぐ。
主家である阿蘇家に反逆した御船房行を討ち取った功により、御船氏の居城を与えられ御船城主となる。
元々「忠義が服を着て歩いてる」様な人物であった為、大友宗麟からも「肥後支配の代官」「大友家の南の盾」と讃えられる程の実力者でありながら、阿蘇家の筆頭家老として御家存続を第一として動き、主君の命を受ければ日向国の伊東氏への内通の疑いというだけで重臣の黒仁田親定を討ち、同じく伊東氏への内通を画策したというだけで三人の息子を成敗し、北は大友家と南は隣の相良家と結んで阿蘇家を守り続けた。
顔芸に定評のある隈部親永ら肥後の国人衆連合軍との戦いでも敵軍の隙を見逃さない戦術眼と判断力を駆使して圧勝し、その無敵ぶりからは島津家より
宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ
とどこぞの上州の黄班(虎)と呼ばれたチート爺みたいな事を言わせたりしていた。
盟友・相良義陽との戦い
耳川の戦いでの敗北による大友宗麟の衰退を予見し、大友氏に見切りをつけて龍造寺氏についたが、盟友であった肥後相良氏の相良義陽が重要拠点の水俣城を島津氏に攻略され、島津義久の軍門に降った。
島津義久は肥後の国人同士を争わせて共倒れを狙ってすぐさま阿蘇攻めの先陣を命令し、誓詞を交わした盟友であった相良義陽と甲斐宗運が激突する事となったが、背水の陣を敷いた相良義陽軍に対して甲斐宗運は、兵を二手に分けて霧に乗じて挟撃を行った。
小雨が降る戦場にて相良軍は甲斐宗運の前に壊滅し、相良義陽も戦死した。
背水の陣を敷くという愚かさに
みずから死地を選んだとしか思えぬ
と、いつもの相良義陽でないことを見抜いていた甲斐宗運は、息子を人質に差し出している島津氏と、盟友である甲斐宗運の間で相良義陽が板ばさみになり、最初から死ぬつもりであった事を、相良義陽が反撃することもなく本陣にて床机に座したまま戦死した事により知り、盟友・相良義陽の首を前に涙し、合掌した。
そして・・・相良義陽を討ち取った事により、阿蘇家にとって南の防壁であった相良氏が完全に崩壊した事も理解した甲斐宗運は、島津の侵攻が起きた場合、三年以内に阿蘇家も滅ぶであろうと嘆息した。
しかし、さすがはチート爺である。盟友の死に涙し続けることも、運命に嘆くこともしなかった。
阿蘇家存続の為、龍造寺家と島津家の間で絶妙な外交手腕を発揮して主家滅亡を回避し続け、島津家との和睦に際しては、政治力に定評のある最強ひきこもりの島津義久が提示した条件を一切履行せずに、逆に旧領の返還を要求するといった1段上の外交で交渉を難航させて、自ら攻めて来ないと踏んでいた島津家に対して時間を稼ぐのに成功していた。
宗運の死と阿蘇家の転落
生涯六十余度の合戦に不敗の無敵坊主・甲斐宗運も人の子。最期の時が来た。
阿蘇惟将、阿蘇惟種と阿蘇家の当主が相次いで亡くなり、現当主が幼い阿蘇惟光であった事や、本能寺の変も過ぎて天下の趨勢も決まり出してきていた事、そして島津家が自ら攻めて来る気が無いと考えていた事から
こちらから、島津に戦を仕掛けてはなりません。
我らは守りを固め守成に徹するのです。
やがて天下を統一する者が現れます。
それまで、持ちこたえるのです。
との遺訓を残して病死した。
しかし嫡男の甲斐親英は、偉大なる父の遺訓を守らずに島津家に喧嘩をふっかける愚行を犯し島津家の逆侵攻を招いてしまう。反抗する手立ての無い阿蘇家は戦国大名の座から完全に滑り落ちたのだった。
甲斐宗運毒殺説
阿蘇家の為なら、身内・縁者であっても過酷な対処を行った忠義者・甲斐宗運ゆえに、その死については毒殺されたとする説がある。
主犯とされているのは甲斐宗運の孫娘に当たる嫡男・甲斐親英の娘とされているが、首謀者は嫡男の嫁とされている。
甲斐宗運が日向の伊東氏に通じようとした次男・甲斐親正、三男・甲斐宣成、四男・甲斐直武を誅殺しする苛烈な処断を実行した際、弟達の死により父を排除しようとした甲斐親英までをも手にかけようとした事があった。
嫡男の処断は家臣のとりなしにより回避されたものの、たださえ、甲斐親英の妻は、実父の黒仁田親定が伊東氏への内通を疑われたただけで甲斐宗運に殺され、その際に自らが暗殺されぬようにと甲斐宗運が甲斐親英の妻に対して、
父を殺されても怨みに思わず、けして復讐しないことを、祖母山大明神にかけて誓約する
との「この鬼・悪魔・ひとでなし」と言われそうな誓詞を書かされており、苦々しく思っていた所に夫まで殺されそうになっては暗殺を決意するのは自然だった。
しかし阿蘇神社に仕える阿蘇家の家臣の娘として阿蘇の山神への誓いを破ることはできない為、娘に毒を盛らせたと言う。
戦では死なない最強坊主ゆえ、毒殺を決断させたのかもしれない。
なんにせよ。甲斐宗運は、阿蘇家という弱小大名の家臣でありながら不敗を誇った名将である。
※その他「甲斐宗運」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
戦国大戦
戦国大戦にもVer1.20で参戦した。2.5コスで武力8統率9の槍足軽、そして攻城持ち。内藤昌豊涙目である。
計略は「不敗の領域」。範囲内に居る味方が多い程自身の武力によるダメージが軽減される。陣形だが強化されるのは自分だけである。ガチムチの陣。
群雄伝では、相良義陽と組んで島津に挑む史実とは違った展開がみられる。
関連動画
▼「信長の野望 革新PK」地方別武将ランキング九州編に登場。統率4位・知略1位・政治4位で総合1位獲得
※島津義弘・島津家久・立花道雪・立花宗茂・鍋島直茂はチート枠で登場。
▼「信長の野望 天下創世PK」の武将ランキングでも全国17位で登場
▼阿蘇家の大黒柱として戦うニコニコ歴史戦略ゲー「阿蘇家の受難/阿蘇家の挑戦」に登場
もはや・・・阿蘇家の存在=甲斐宗運を登場させる為の名目だとしか・・・
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける甲斐宗運(甲斐親直)の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 78 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 64 | 政治 | 70 | 野望 | 51 | ||||
天翔記 | 戦才 | 154(A) | 智才 | 158(A) | 政才 | 156(A) | 魅力 | 68 | 野望 | 53 | ||||
将星録 | 戦闘 | 76 | 智謀 | 85 | 政治 | 83 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 59 | 智謀 | 79 | 政治 | 73 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 74 | 智謀 | 83 | 政治 | 80 | 野望 | 67 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 71 | 知略 | 81 | 政治 | 80 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 72 | 知略 | 81 | 政治 | 78 | 教養 | 82 | ||||||
革新 | 統率 | 84 | 武勇 | 77 | 知略 | 90 | 政治 | 87 | ||||||
天道 | 統率 | 84 | 武勇 | 77 | 知略 | 90 | 政治 | 87 | ||||||
創造 | 統率 | 86 | 武勇 | 72 | 知略 | 89 | 政治 | 82 |
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