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音楽の捧げものMusikalisches Opfer[1], BWV 1079 とは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが1747年に作曲した曲集である。フリードリヒ2世より提示された「王の題」に基づく。

前史

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世長男芸術に関心を持ちトラヴェルソ[2]する青年であった。の死により1740年フリードリヒ2世としてプロイセンにおける国王に即位するとその年のうちにシュレジエンを占領し、1745年にはシュレジエン領有権を承認させた。オーストリア継承戦争と呼ばれるこの戦争中、そして戦後フリードリヒ2世の心を慰めるのは芸術であり、宮廷音楽家たちに演奏させるだけでなく自らも演奏作曲を行った。戦争中から計画し1747年に完成させたサンスー殿には音楽室を設けている。

カールフィリップエマヌエル・バッハフリードリヒ2世のもとで王太子時代の1738年から盤奏者として仕え名を博し、1746年にはプロイセン王国の王室楽団員となった。活動地から「ベルリンバッハ」と呼ばれる。当時の楽器にはオルガンチェンバロクラヴィコード、そして初期のピアノがあった。

楽器製作バルトロメオクリストフォリが1700年頃に発明した楽器現在ピアノの祖となった。20世紀以降のモダンピアノと区別するため現在では当時のピアノフォルテピアノと呼ぶ。同じく楽器製作であったゴットフリートジルバーマンの仕事オルガン製作であったが、クリストフォリの楽器を模倣したフォルテピアノ製作していた。カールフィリップエマヌエル・バッハであるヨハン・ゼバスティアン・バッハ1730年代にジルバーマンのフォルテピアノ試奏し、高音域が弱いこととタッチ重いことを摘している。この摘を受けてジルバーマンが改良した楽器はその後フリードリヒ2世のために複数台製作されることとなった。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは1723年ライプツィヒトーマスカントルとして赴任し、亡くなるまでこの職についた。トーマスカントルの職務はに、トーマス教会附属学校教師ライプツィヒ音楽監督であった。また1736年にはポーランド国王ザクセン選帝侯フリードリヒアウグスト2世より宮廷作曲に任命された。長男ヴィルヘルム・フリーデマンを溺愛していたのに対し次男カールフィリップエマヌエルのことは必ずしも気に入っていなかったらしく「あれはベルリン[3]だ!あいつは色褪せる!」と評していたと伝わる。

ポツダムでの即興演奏と献呈・出版

1747年5月7日ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下「バッハ」)は次男カールフィリップエマヌエルに会うため、長男ヴィルヘルム・フリーデマンとともにポツダムの王宮[4]を訪ねた。これを知ったフリードリヒ2世バッハ部屋に呼ぶと自らジルバーマンのフォルテピアノで1つのテーマを弾き聴かせ、この題をフーガに展開してみせよと命じた。

Thema Regium
24391

バッハがこれに応え即で3フーガ演奏するとフリードリヒ2世満足し、今度は6フーガにしてみせよと命じた。しかしバッハはその場でこれに応えることができず、代わりに自ら選んだ題を即で6フーガにしてしのいだ。

ライプツィヒに戻ったバッハは「王の題」を用いたフーガカノン作曲・記譜して版印刷を急ぎ、1747年7月7日付でフリードリヒ2世に献呈した。『音楽の捧げもの』の題はこのときの献辞による。その後も作曲を続け同年9月には新たに献呈したとされ、また同9月30日新聞広告を出し一般にも販売した。

構成

初版譜は分冊形式であったため、どのような順番で演奏することを想定していたのか、あるいはそもそも全曲を通して演奏することを想定していたのかすら分かっていない。また楽器編成の定されていない楽曲も多い。

初版譜は以下の5つのまとまりに分けられている。『バッハ作品録』(BWV) 第2版 (1990) 以降での付番を丸括弧内に、BWV初版 (1950) での付番を括弧内に付す。

  1. タイトルと献辞
  2. 3のリチェルカーレ (1) [1]、王の題による無限カノン (4g) [2]
  3. トリオソナタ (3) [8]、無限カノン (4h) [9]
  4. 王の題による様々なカノン (4a-e) [3a-e]、上方5度のフーガカノニカ (4f) [4]
  5. 6のリチェルカーレ (2) [5]、2カノン (4i) [6]、4カノン (4k) [7]

7月に献呈されたのは上記A, B, Dのみであったと考えられている。

また、上述の新聞広告には以下の3つのまとまりで記述されている。

  1. 2曲のフーガ:一方は3つの、もう一方は6つのオブリガート
  2. 1曲のソナタトラヴェルソヴァイオリン、通奏低音のための
  3. 様々なカノン及び1曲のフーガカノニカ

バッハの死後カールフィリップエマヌエルらによって1754年に書かれた『故人略伝』には「プロイセンにおける国王陛下より賜った上述の題に基づく、2曲のフーガ、1曲のトリオ、および何曲かのカノン」と記述されている。

リチェルカーレ

ラテン語Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta (王の命によってカノン的技法により解決された旋および残余) と副題が掲げられている。各語の先頭を拾うと RICERCAR となっており、これはリチェルカーレ、すなわちフーガを意味する語となっている[5]

3声のリチェルカーレ

Ricercar a 3[6], BWV 1079/1

バッハが王の前で披露した即興演奏を基にしたものと考えられている。大譜表で記譜されているため、チェンバロまたはフォルテピアノでの演奏を想定しているとされる。

6声のリチェルカーレ

Ricercar a 6, BWV 1079/2

6段の総譜で記譜されている。ただし大譜表の形で書かれた自筆譜が現存しており[7]、実際チェンバロまたはフォルテピアノでの独奏も可である。王の前で応えることのできなかった命に、数ヶかけて応えたことになる。フリーゲーム光の目』のタイトル画面BGMに用いられているほか、アントン・ヴェーベルンによる管弦楽編曲も知られる。

トラヴェルソ、ヴァイオリン、通奏低音のためのトリオソナタ

SONATA sopr’il Soggetto Reale a Traversa, Violino e Continuo, BWV 1079/3

明確に楽器定されている全4楽章のトリオソナタ。緩-急-緩-急の教会ソナタ形式。初版譜にはパート譜のみ書かれている。

  1. ラルゴ Largo
  2. アレグロ Allegro
  3. アンダンテ Andante
  4. アレグロ Allegro

王の主題のカノン的労作

王の主題による様々なカノン

Canones diversi super Thema Regium, BWV 1079/4a-e
  1. 2の(カノン a 2 (cancrizans), BWV 1079/4a
  2. 2つのヴァイオリンによる同度のカノン a 2 Violini in Unisono, BWV 1079/4b
  3. 2の反行カノン a 2 per Motum contrarium, BWV 1079/4c
  4. 2の反行拡大カノン a 2 per Augmentationem, contrario Motu, BWV 1079/4d
    献呈された楽譜には Notulis crescentibus crescat Fortuna Regis (伸びゆく音が如く王の栄えんことを) と添えられている。
  5. 2の(螺旋)カノン a 2 (per Tonos), BWV 1079/4e
    献呈された楽譜には Ascendenteque Modulatione ascendat Gloria Regis (昇りゆく調が如く王の栄高まらんことを) と添えられている。

上方5度のフーガ・カノニカ

王の主題による無限カノン

Canon perpetuus super Thema Regium, BWV 1079/4g

無限カノン

Canon perpetuus, BWV 1079/4h

初版譜ではトリオソナタの各パート譜の後に書かれており、つまりトリオソナタと同じ編成である。

尋ねよ、さらば見出さん

Quaerendo invenietis, BWV 1079/4i-k

譜面上に追唱開始点を記していない謎カノンであり、奏者は自ら解法を見出さねばならない。題は新約聖書の一節(マタイ7:7、ルカ11:9)を用いてこのことを表現している。

2声のカノン
Canon a 2, BWV 1079/4i
4声のカノン
Canon a 4, BWV 1079/4k

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関連項目

脚注

  1. * (初版譜でのりは Muſicaliſches Opfer)
  2. *フルートのこと。当時は単に Flauto というとリコーダーのような縦すのが普通で、横笛のことは Flauto traverso と呼んだ。なお金属製フルートが登場するのは19世紀のことであり、それ以前は木製が流であった
  3. *1706年頃プロイセン首都ベルリンで発見された青色合成顔料で、プルシアンブルーとも呼ばれる。1724年に製法が開されると安価青色顔料として世界的に重宝された。オランダ清国を経由して日本輸入されたものはベロと呼ばれ浮世絵に多用されることとなる
  4. *具体的な場所はサンスーシ宮殿ではなく、おそらくポツダム殿だろうと考えられている。この宮殿にも1744年に音楽室が設けられている。なお、これは1769年に完成した新宮殿1917年完成1945年にポツダム会談の行われたツェツィーリエンホーフ宮殿とも異なる
  5. *Ricercarイタリア語で「探する」といった意味をもち、17世紀以前に当時のフーガ的楽曲をして用いられた。バッハの時代には既に古な語となっており、アカデミックなニュアンスを含んでいた
  6. *初版譜には単に Ricercar とのみ記されている
  7. *D-B Mus.ms. Bach P 226, Faszikel 1exit
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音楽の捧げもの

1 ななしのよっしん
2025/10/04(土) 07:09:30 ID: ++Zj+23eie
記事用
Thema Regium
タイトル:Thema Regium
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2 ななしのよっしん
2025/10/04(土) 07:21:32 ID: ++Zj+23eie
記事用(全曲は多分やらない……)

タイトル:Thema Regium

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3 ななしのよっしん
2025/10/09(木) 18:54:31 ID: ++Zj+23eie
これだけのためにピコカキコ新着を流すのもどうかとは思ったんですが、国王陛下の御尊名を誤ってったのは不敬の極みなので……(König von PreußenでなくKönig in Preußenなのは当時の称号

タイトル:Thema Regium

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