千明牧場とは、群馬県利根郡片品村にある競走馬の生産牧場、及び馬主である。
生産した競走馬を自ら所有し競馬の競走に出走させる、所謂オーナーブリーダー。創業者一族が社長を務める株式会社丸沼によって運営されている。現在の代表は千明孝一郎。
株式会社丸沼 千明牧場 | |
生産者情報 | |
---|---|
所在地 | 群馬県利根郡片品村 |
設立年 | 1927年 |
設立者 | 千明賢治 |
事業形態 | オーナーブリーダ― |
重賞勝利 | 44勝 |
GI級勝利 | 13勝 |
通算成績 | 1,711戦222勝 (1958年以降) |
獲得賞金 | 17億2474万円 (1978年以降) |
馬主情報 | |
活動期間 | 1927年- |
活動形態 | オーナーブリーダー |
勝負服 | 緑,黄山形一本輪,白袖 |
冠名 | シービー |
重賞勝利 | 35勝 |
GI級勝利 | 13勝 |
通算成績 | 1,603戦275勝 (1958年以降) |
獲得賞金 | 28億7162万円 (1958年以降) |
表彰・記録 | |
生産者・馬主テンプレート |
群馬県の尾瀬や白根山の近くの広大な土地を所有し、上毛電力、上毛電氣鐵道などで取締役を務めた地元の名士千明賢治氏によって1927年に設立された、戦前から続く由緒ある牧場である。千明牧場(ChigiraBokujo)のイニシャルからとられた「シービー」を冠名とする他、繁殖牝馬を中心に「メイ」が名前に含まれる所有馬が目立つ。賢治氏は他にも父千明森蔵氏の別荘を改装し温泉宿として開業したり、華厳滝近くの硬い岩盤をぶち抜いてエレベーターを建築したり、丸沼系3湖(丸沼、菅沼、大尻沼)に鱒の養殖を行うなど[1]、資産家としても活躍した。現在の馬産地である北海道からはかなり離れた場所にあるが、戦前は日本各地で馬産が行われていた時代であり、また当時の法律では牧場に所有者が在住していなければならないとされていたため、地元片品村で所有する千明家の広大な土地の一角を使って建設された。
当時の千明牧場の規模や賢治氏の競馬に関する記録の詳細は戦前ということもあってあまり詳しくはわからないものの、恐らくかなりの資金と情熱を傾けていたことは間違いなさそうである。牧場を設立して僅か9年後の1936年には地元の湖沼丸沼の名を冠したマルヌマが横浜の帝室御賞典、農林省賞典競走(どちらも天皇賞の前身競走とされる)をどちらも勝利する快挙を達成、その僅か1年後の1938年には丸沼のすぐそばにある湖菅沼の名を持つスゲヌマが第7回の日本ダービーを勝利。群馬県から史上初のダービー馬を輩出し、自身もダービーブリーダー、ダービーオーナーの称号を手に入れた。スゲヌマは翌1939年の天皇賞(春)も勝利し、古馬最高峰の競走も勝利した。
しかし躍進する千明牧場の前途は太平洋戦争の始まりで一転して危機を迎えることになった。戦局が悪化するにしたがって牧場の馬たちはおろか自分たち人間の食料にすら困るようになっていったのである。賢治氏はそんな中にあっても馬産を続けるために手を尽くしたが、御料牧場や小岩井農場のような国家規模の資金力を持つならまだしも、地方の一資産家の力では当時の状況はいかんともし難く、結局1943年には競走馬の生産を中止することになり、牧場の殆どの繁殖牝馬は他の牧場へ散り散りになった。その後馬たちがいた牧草地は全て畑になっていった。
この決断は今まで人生をかけて競走馬を生産してきた賢治氏にはかなり堪えたようで、牧場の閉鎖に関する作業を行ったのは賢治氏の息子、千明康氏であった。賢治氏はその後牧場から最後の繁殖牝馬が去った後、失意のうちに体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。こうして千明牧場の名は一度日本の競馬界から消えた。
戦後、千明家が抱えていた他の事業の立て直しや、牧場が閉鎖まで追い込まれた程の食糧難からの復興が一段落した後、康氏は父賢治氏が死の間際まで気にしていた千明牧場を自分の手で再興することにした。康氏はまずいなくなってしまった競走馬を増やす為、1954年にチルウインドという名の繁殖牝馬を購入した。次に康氏はかつて小岩井農場で競走馬の生産にかかわっていた馬産家高橋勝四郎氏を千明牧場の場長として招聘し、荒れ果てた牧場の再建を始めた。
場長に就任した高橋氏はまだ日本が戦後復興期で資源が少ない中、畑となっていた荒地を再び牧草地に戻し、調教コースを作り、果てはアブの駆除まで手掛け、千明牧場を再び競走馬の生産牧場として蘇らせた。更に康氏が購入したチルウインドから1963年の二冠馬メイズイが誕生。千明牧場から再びダービー馬を輩出し、康氏は父賢治氏との親子二代でのダービー制覇を達成した。その他コレヒサ、コレヒデの兄弟が天皇賞春秋、有馬記念を勝利。わずか3年でメイズイ、コレヒデの2頭の年度代表馬を輩出するまでになり、第2の全盛期を迎えた。
その後千明牧場は康氏から息子の千明大作氏へ受け継がれたが、折悪く大作氏が代表になったタイミングで場長として活躍してきた高橋氏も退職することになり、活躍馬がちょうど途切れた時期に重なってしまった。しかし大作氏も父康氏と同じく馬を愛し馬産に情熱を持つ人物で、パソコンもない時代に種牡馬辞典を持ち歩き、牧場の繁殖牝馬との相性を研究する研究家でもあった。大作氏は牧場に新たに若いスタッフを揃え、本土の馬産の衰退に合わせて千葉県や北海道に進出、自身の研究から当時すでに忘れられていた種牡馬を独自に見出して牧場の繁殖牝馬と交配し、重賞3勝の女傑シービークイン、「白い稲妻」の異名で人気を博した芦毛の追い込み馬シービークロスなどを生産。2頭は70年代の重賞戦線で活躍した。この頃から全体から見れば数は少ないものの、牧場以外の馬主にも生産馬を売却するようになり、売却された競走馬は地元群馬県の高崎競馬場などで活躍した。大作氏は繁殖入りしたシービークインの相手を同じ新馬戦で顔を合わせ、その後皐月賞や有馬記念を制するなど活躍したトウショウボーイに決めたが、トウショウボーイは日高の組合員でなければ種付け出来ない規則だった。群馬に本拠地を置く千明牧場は当然日高の組合員ではなかったのだが、大作氏は北海道の事情に疎かったのか、あるいは知っていた上でガン無視したのか、堂々と「千明牧場」の名前で申請を出し、シービークインを北海道へ送ってしまった。1983年にはそんな常識破りの経緯で生まれたシービークインの産駒ミスターシービーがクラシック三冠を達成。大作氏は祖父賢治氏、父康氏に続いてオーナーブリーダーとしての親子3代日本ダービー勝利という大記録を達成した。この年中央競馬の生産者リーディングは過去最高である2位につけている[2]。
千明牧場はミスターシービーを最後に中央の重賞を勝った競走馬は出ていないが、90年代末から2000年代初頭に北関東公営競馬で活躍したミッドウェルや10歳まで現役を続け重賞を7勝したフォースキックなどを生産した。牧場が大作氏から4代目の千明孝一郎氏に受け継がれた現在でも規模は縮小傾向で、最近では「シービー」の冠名も使用していないものの牧場は健在であり、2023年現在イクイノックスの新馬戦にも出走していたメンアットワークがその後勝ち上がって3勝クラスで活躍中。また今年3歳のサウザンサニーがファルコンステークスで3着になったりしている。
千明牧場は現在ミスターシービーの墓がある千葉県成田市の三里塚分場を例外として見学などには対応していないようで(というか牧場単体のホームページみたいなものも見つからなかった)、最近流行りのグッズ販売などもやっていないようだ。ただ牧場周辺には運営会社の経営する施設が点在しているため、近くを旅行した際には丸沼温泉に泊まってみたり、菅沼でキャンプしてみたり、華厳滝エレベーターに乗ってみたりすれば、その売り上げが巡り巡って千明牧場から再び名馬が誕生するきっかけになる…かもしれない。
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最終更新:2024/05/04(土) 08:00
最終更新:2024/05/04(土) 08:00
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