シービークロス 単語


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シービークロス

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シービークロスとは、1975年生まれの日本競走馬種牡馬である。

芦毛体と後方一気のレースぶりから「白い稲妻」の異名を取った人気

な勝ち
1979年:金杯(東)毎日王冠目黒記念(秋)

年齢は旧表記(実年齢+1歳)。

概要

~3歳

*フォルティノ、ズイショウ*パーソロンという血統。は大種牡馬Grey Sovereignの直で、G1アベイ・ド・ロンシャン賞など重賞3勝。これまた名種牡馬Caroでもある。は40戦3勝。シンボリルドルフとして名高いが、ブルーメアサイアーとしても成功しており、近い世代にカネミノブビンゴガルー、後にはシリウスシンボリメジロドーベルなどの活躍が現れている。なお両とも芦毛であり、その血を継いだシービークロスも芦毛である。

生まれた時は弱々しく、普通のように歩けるまでに10日もかかるほどだった。競走馬になれるか心配されるレベルだったというが、からにかけて一気に成長。1977年スターロツチなどを手がけた名伯楽松山三郎に預託される。

デビュー戦は中団から届かず4着(ちなみに同じレースには、後に本とは逆の大逃げで名を馳せる天皇賞プリテイキャストも出走していた)。2戦は後方からの競馬で2着。3戦は生涯ただ一度の選考抜け出しで初勝利を挙げる。返すで自己条件戦を後方一気の強競馬で快勝。このレースで後方から末脚に賭けるシービークロスのスタイル確立する。

4歳

前走のレースぶりからクラシック補にも挙がり始めたシービークロスだが、年明けからオープン特別で連敗。どうにか出走できた皐月賞では10番人気低評価ながらファンタストの5着に突っ込みダービーの優先出走権を手にする。しかしそのダービーも「ダービーポジション?なにそれ?」と言わんばかりの最後方から終始外を回らされサクラショウリの7着。「残念ダービー日本短波賞(現:ラジオNIKKEI賞)も4着と勝ちきれずにを終える。

京王杯オータムハンデ(現:京成杯オータムハンデ)から始動し3着。セントライト記念も3着に好走し菊花賞の優先出走権を得るが、折悪く美風邪が大流行。シービークロスも熱発に見舞われ、競馬会から関東関西間の遠征の自粛を要請されていたこともあり菊花賞を回避せざるを得なくなる。前週の自己条件戦(東京競馬場)にまわり、約1年ぶりの勝利を挙げる。続くダービー卿チャレンジトロフィーは惜しい2着となるが、有馬記念は緩いペース追い込みが軒並み壊滅。シービークロスも末脚不発で10着に惨敗する。

5歳

年明けは金杯(現:中山金杯)から始動。こんどは前走とは逆のハイペースがハマり、直線でメジロファントムを3/4身差で差しきり念願の重賞タイトルを手にする。目黒記念(春)中山記念は共に直線の短い中山競馬場追い込みが間に合わず3着、7着と連敗。天皇賞(春)は体調が思わしくなかったうえ、直線で進路をカットされ大外に振らされたロスも痛く3着。さらに調子を落としていた宝塚記念は追走がやっとの状態で、9着と敗れシーズンを終える

プールなどでの調教と休養に充てたシービークロス。この間に体は見違えるほど成長し、疲れやすい体質もかなり改善されていた。毎日王冠(当時は東京2000m)から始動し、有馬記念カネミノブ菊花賞プレストウコウなど並み居る人気快に差しきり2身差の圧勝。勝ち時計1分599は当時シービークインが持っていた記録をコンマ3破るコースレコードだった。続く目黒記念(1983年まではの年2回開催)は1年ぶりの1番人気に支持され、59kgのハンデも構わず1身半差の勝利。しかも2分323は東京2500mのレコードタイム。2戦連続のレコード勝ちでビッグタイトルへの期待も膨らんだ。しかし標の天皇賞(秋)して調整されていた矢先、右前脚の繋靱帯炎を発症。を全休することになってしまう。そしてこの故障が生涯シービークロスを苦しめることになる。

6歳~

6歳のに復帰し、初戦のOP特別で3着。天皇賞(春)へ向かうがこの年は阪神競馬場での代替開催。当時の阪神は小回りで直線も短く追い込みには不向きだった。案の定前年のような切れ味は見られず、1番人気を裏切る4着に敗戦。さらに繋靱帯炎が再発し、宝塚記念も回避することになった。

競馬には間に合ったものの急仕上げの状態で、OP特別は4着。天皇賞(秋)は全く見せ場なく最下位11着(勝ったのはデビュー戦で共に走ったプリテイキャスト)。さらにまたしても繋靱帯炎が悪化し、種牡馬試験に落ちたこともあって結局1年半以上の休養を余儀なくされる。

ようやくシービークロスがターフに戻ってきたのは8歳になった1982年4月。すでに往年のきは失われ、調教も騙し騙しの状態。もはや上がりのはないと思われていたが、苦しい位置から群のん中を突き抜け、大接戦を制して勝利目黒記念以来約2年半ぶりとなる奇跡勝利を挙げた。その後日経賞に登録したが、右前脚に抱え続けた繋靱帯炎をまたしても再発し出走取り消し。ついに復帰を諦め、引退となった。翌83年1月には、2歳年下で同厩のモンテプリンス合同引退式も執り行われた。八大競走現在でいうGI級競走を勝っていないとしては異例の厚遇であり、この人気物語っていると言ってよいだろう。

通算26戦7勝。テンが遅く、追い込み一辺倒の直線勝負というとにかく不器用だった。現役後半は右前脚の故障にも悩まされ、八大競走には最後まで届かなかった。しかしその不器用で一本気な戦いぶりと、ハマったときの胸のすくような末脚がファンを魅了し続けた。

引退後

人気ではあったが実績は一歩足りず、実際一度は種牡馬試験に落ちていたシービークロス。しかし産地新冠の若手生産者の熱意でどうにか種牡馬入りすることができた。しかしやはり人気は集まらず、10万円という破格の種付け料だったが、それでもシンジケートとして組まれた50さえ捌ききれず、「2でもいいから種付けしてくれ」と頼み込む有様だったという。当然集まったの質も高いものではなかった。

ところが1987年2世産駒からシノクロス重賞2勝を挙げる。そして同年暮れ、シービークロスの種牡馬入りに尽力した錦野章の生産である初年度産駒タマモクロス覚醒。翌年にGI3勝を挙げ、の名を継ぐ「白い稲妻」として一躍スーパースターとなった。これを受けてシービークロスの評価も急上昇し、内種牡馬としてはトップクラス人気を集めるまでになった。その後もホワイトストーンを輩出するなど活躍していたが、1991年に急死してしまう。解剖の結果全身が黒色腫(悪性腫瘍の一種。芦毛患率が高いとされる)に侵され、血管を破裂させたことが死因と判明。一般的に黒色腫は皮膚にも腫瘍が生じるため見たでわかるのだが、シービークロスは不運にも内臓のみに発症したため発見されず突然の死を迎えるに至った。旧17歳という若さであり、種牡馬としてもこれからが本番という時期の悲劇となった。最後の最後まで不運に見舞われたシービークロスの血脈は、タマモクロスGIを輩出できなかったこともあり事実上途切れてしまっている。

血統表

*フォルティノ
Fortino
1959 芦毛
Grey Sovereign
1948 芦毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Kong Baytown
Clang
Rabavalo
1954 鹿毛
Relic War Relic
Bridal Colors
Navarra Orsenigo
Nervesa
ズイシヨウ
1968 芦毛
FNo.1-t
*パーソロン
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
ムラ
1961 芦毛
*タークスリライアン Turkhan
Some Anxiety
ローヤルデイール His Highness
Brave Deal
競走馬の4代血統表

クロス:Nogara 5×5(6.25%)、Pharos 5×5(6.25%)、Bahram 5×5(6.25%)

主な産駒

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